巻之18 〔19〕 林子、僧家の欺きを話す

昌平、祭酒のときわしに語った。
僧家ほど人を欺くものは無いと。
帰依の輩、みなその欺を受けて察することがなく、笑える。
隠元禅師が日本へ来て、新たに黄蘖(おうばく、キハダの皮から作った粉薬、染料)の一派を開いたが、仏学よりは世事功者の漢(中国本土古来の民族、男子)にて一世の人を誑(たぶらか)したという。

鉄牛も稲葉美濃守〔執政である〕の帰依にて、長興山と云う大寺を刱建〔そうけん、この時稲葉氏、小田原の城主だった〕した。
これも同じ趣の由。

禅宗の盤珪禅師は善知識にて、唐僧に逢って論議しようと云うが、若し逢うときは中々唐僧が叶うまじと、信仰の輩は密かに盤珪を酖殺(たんさつ)したと云う説がある。
そのこと実否はわからない。
何にしても唐僧はみな拵(こしらえ)た話である。
護持院などを人々はあしざまに云えど、詰まる所は沢庵も同じことである。

少し時代も遠くなれば、その醜態は自然と消え失せて知る者は稀になるより、遂にはよきように伝わるものなのだ。
一休なども益々時世の遠ければよき部類に入れど、実のよき僧とは思われず。

それよりまた古き所にては、日蓮も親鸞も同じことである。
その筈のことは、元来その立つ教えと云うもの、己を抂(まげ)て世に合わせて行おうと為る意より起こるならば、本源は既に違うので、流れの末はなさるべきことである。

六朝の頃老荘の盛んに行われるならば、禅と云うものを創(はじ)め、元明理学を貴(とうと)めば、窮理の名を仮りて、利瑪竇(りめとう、マテオ・リッチ、イタリア人イエズス会・カトリック教会の司祭、1552〜1610)が中華に入るのを観ても知るべきであると。

流水居士曰く、「この僧の論は、信不信の間」。
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巻之18 〔18〕 万治中、長崎にて鋳銭のこと

 万治二年(1658年)七月、長崎にて異国互市の為に鋳銭のことを土地の人が請い出たのを、奉行より建白されたが、「古銭の文に鋳て渡すべし。寛永号の銭は渡すべからず」と命が下りたことを、この頃外事検点(点検)の序(ついで)に見出した。

 因って思い出したのは、辛未年(文化8年、1811年か)、肥前呼子浦阻風停泊の時、その地にて家頼どもが銭を買ったので、「古銭が多く交わっている」と云うので、わしは取り寄せて見た。
するとそれはみな宋元紀元の銭であった。

唐山に近づける土地なので、自ら昔より渡って来るのも多く伝わっていたかと思い過ごしているが、今に至って考えれば左(さ)にはあらず。
万治中(1658〜1661年)、長崎にて新鋳の物と見られる〔林子語る〕。

巻之12 〔9〕 家康公を観た人相見

 徳廟(家康公)が葛西の辺りで御放鷹のとき、ある農家に立ち寄った。
その家の農はかねて人相をよく観るとて近郷に称された者であった。

徳廟はそのとき御鷹場にて御足は泥にまみれ汚れ給いしゆえ、洗われたくなって、従い奉る者が、
「そこの人や、水を参らせてくれ」と云えば、
農は即ち出て来て御傍により、御足に水を濯ぎながら、仰いで御顔を見奉り、
「おまえは扨々上なき御人相だな」と云った。

大いに笑わせ玉い、「かれは上手な人相見だな。
褒めてやれ」と云って出て行かれた。

 左右へ褒めてやれと上意あったので、乃ち御賞美の物を下さる事になったと云う。

巻之12 〔10〕 徳廟御放鷹のとき叱る老農に、褒美を授く

また御鷹場先にて、すべて御手軽い御事となる。
これも何方へか御放鷹の時、附き従う人両三人にて、ある農家に庭に至らせると、米が四五俵積んであった。
そこに腰を掛けて御休憩あらせられた。
するとその家の勝手より老農が出て、目をいからし大声にて、「公方様へ御年貢に上がる米俵に尻を掛けるは掛けるは何者ぞ。勿体なきことよ」と大いに罵り、速やかに立ち去らせた。

その跡から供奉の人々が大勢来て、「もし(公方様が)この辺りに在せらるるや」と尋ね奉る様子を見て、老農ははじめて驚き、「今罵りし御方は公方様よ」と思いより、真に恐れ入った。

二三日経て御代官伊奈半左衛門より老農は呼び出された。
「これはこの程の事にて、いかなる罪にか陥るだろう」と案事を悩(わずら)いせん方なく、家内に暇乞いして泣く泣く出ていった。

伊奈氏が申し渡すには、「御年貢米の事大切に心得て、奇特の至りである。因って御褒美下さる」とて、白銀若干賜ったということ。
誠に隅より隅まで御行届の御政とて人々は感じ入ったという。
これは公鑑もの語である。

清(御自分)これを記すに及んで涕(なみだ)がつたい止まらぬ。

巻之96 〔16〕 松王、梅王、桜丸

 浄瑠璃謡に『天神記』と云うものがある。
これに菅丞相の童に松王、梅王、桜丸とて兄弟の者を謂う。

 この頃『遠碧軒記』〔黒川道祐〕を読んで、云う。

 北野社五百石は松梅院一人して進退した。
今より三四代以前までは清僧であったが、途絶えて今は梅津と梅宮との間の竹の一村ある所の真言宗より、松梅院をもする事も有ったと見える。
この寺に松梅院よりの入用の帳など残って有ったいう。
妙蔵院はこれよりふるい。
徳松院は松梅院一代の隠居である。

 さて村上天皇のときに十河吉道と云う者が別当になった。
この者に子が四人あった。
召し連れて参内していた。
この者ども三方に笹の葉をしき末広を下被り、この四人の末は今の宮司にて能瑞常〔或紹と有る〕敬と云って四姓の通字の者、家の紋は笹の葉に末広をのせた物である。

 扨(さて)文子と云うもの、天神がのりうつらせ給うて程無く死んだ。
即ち天神にいわいて今の文子天神とて、西京の御供所のある西の側町の並んだ所に松木二三本ある内に小社がある。
今某所ではないが、神楽をすすむる神子を代々文子と云って来たのだ。

 扨西京の主典松王とて菅神の車副(そえ)の舎人の子孫がある。
白装束に髪をからわに結っている。
今にその末両人あって、末社の散木散銭をとる事であった。
文子社は狩野縫殿助殿の裏町の西側、今意山と云う医者の屋敷前である。
宮司は延宝九(1681年)のころは八十人余あった。

 これに云う所の松王より浄瑠璃の作者が取った。
かの所作の中に、時平大臣の車を、この三人の童が輓(ひ)き争う体あるが、松王は時平方、梅桜二人は菅氏方である。
これは狂言の仕なしである。
またこのときの出立は三人とも白丁、烏帽子着て総角(あげまき)の体である。
かたがた前記の云う所と符す。

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