続篇  巻之3  〔7〕世のうわさ

  伝わる話に、京伏見街道五条を下ると、問屋柏屋と云う大家がある。

  江戸にても本町筋に店が有って、京四条より下にては富豪である。

  この主は40許りで、本妻は三井の娘である。

  それなのにこの6月初旬妾腹に子どもが生まれた。

  顔は人の如くであるが、下は三陵(三角)で、脊には鱗が生じ、髪は白いとか。

  生まれながらに口が達者であった。

 それで生かしておくのは申し分けないと、隠婆(とりあげ婆)はこれを殺そうとしたがどうにもならなかった。

 剰(あまつさ)え「若し我を見せ物にして、または命をとったら、この家は忽ち野原に化してしまうよ」と云った。
 
 これを聞いたらば丈夫な箱に入れて、鉄網を戸に張り、もとより乳はのまないので、焼飯2つ宛(ずつ)食わせ、庫の内に入れて置いた。

 昼夜とも2人ずつ番をしていた。

 これは主人が高台寺の萩見物に往って、かの処にて白蛇を見つけたが、酒興の上で殺したと。

 また土御門の考え方に依ると、山神の祟りにより子どもがこの如く生まれたのでは、と。

 この柏屋は豪家にして、白木屋の一族である。

 柏を分けて白木となる。

 このような風聞にては(家の性の)勢いがくじけ、これより下り坂になるのではないかなどと、みな人のうわさである。 
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三篇  巻之4  〔3〕安陪長得院の故宅に棲む狐の子


 近隣の梅居士が語った。

 安陪長得院〔この屋鋪もわしの荘の近所である〕の故宅は度々主人が替わり、今は織田氏とやらが住んでいる。
 
 この屋鋪にこの頃狐の子が生じている。その体は1尺ばかりである。

 尾もまた同じ。甚だ愛すべきものである。

 それなのに純白の色をしている。

 聞くに児狐ゆえに人に能く馴れ、ある日なんか主である女隠居に抱かれていた。

 外にも庭守にも抱かれていたと。
 
 わしは思う。

 白狐は数歳を歴たるものは毛の色が変わると。

 つまりこれは児狐なのだ。奈(いか)ん。

 因みにわしは顔狐と名付けた。その意は『史記』に云う。回年29、髪は尽白(クシ)。蚤死(クス、蚤はノミは)。

 けれどもその狐はその性は(あちこち動き回るかのような)回の様で賢く、且つ寿は任者(仁の道に達し、道徳的に完全な人)と同じのようである。

巻之90  〔13〕 古人の短冊 

 この頃京都にて、古人の詩歌俳句等の短冊を集めた小冊を梓行(しこう、刊行)した。

 その中に北村再昌院法印の発句の短冊があった。
 
 福嶋にて   ささにそへてお中ぞふくら雀鮨  
                                季吟

 今の季文の元祖である。俳句珍しとする。
 
また関ヶ原の後、石田等と共に斬られた安国寺の短冊を載せた。
    
 朝鮮に入る船は釜山の裏に浮くこれを賦(詩にする) 恵瓊
 船は朝鮮に泛(う)かび夜は終わらず、    清き波は起興らず尤濃く、
 盃を挙げて道は莫(な)く憂いを忘れ去り、  月は西山に落ち日東を思う。
 
 安国朝鮮の大役に赴き、かの地の賦もまた奇とする。
 
 またその冊の輯(集)撰は浦井某と云う人であったが、この人を世に短冊天狗と呼んで、不思議に古筆の短冊を取り獲て、既に数10余りをを越えた。

 その中先年夢窓国師の短冊を慥(たしか)な所より買い得て蔵(おさ)めた。

 この国師の返歌であるが、近頃またそのかけ歌の花室尼寺の短冊を得て前後備わったとぞ。

 この如く500年間分離した者が再び合わせるは、その求むる所の至るよりして天の助けがあるのだろうと、人を以て嘆賞したとある人が云った。
   
      花室尼寺長老       白短冊
      わが見解によそへてよみたてまつる
   をちこちのうみと雲とはへだつれど
        おなじそらなる月をこそみれ
      
      花室返納         白短冊
   ところがらかはるけしきのある物を
        おなじ空なる月とみるなよ    疎石



続篇 巻之26 〔3〕喜多六平太

その2
 これより三代将軍様猷廟の御時召し出され〔家伝。神祖よりして台廟(台徳院、秀忠公の霊廟)の御ことを云わざる者は、六平太が江戸に赴くのは元和2年(1616年)にして、この年より猷廟の御世を継がせられるは、7年の後元和9年(1623年)であった。

 よく寛永に至っては、台廟すでに大御所と称され、9年の後薨逝である。

 すると猷廟御世継の後召し出されたことであるならば、台廟の御耳に入ったかは知べれば、神祖を云って台廟を云わざることを察しておきたい〕、その後仰せあったのは、「汝、観世の上坐にいて、両氏相並び猿楽の輩を支配すべきや、または別に一家となって四座の下に従い、一坐を以て為さんか」と問わせ給う。「古時の風とて縦(ほしい)ままに四坐の下にいて芸術を専らにいたします」と答え申すと、四坐の列にも入らず、神事にも往かず、江都に常住して御用を勤める家となった。

 またかの家の位牌を聞くと、法号華台院長誉春巌英林居士、承応2年(1652年、癸巳)正月7日没、行年72歳。

 これに拠って逆算すると天正10年(1582年)の生まれである。

 適切なときは、神祖の7歳のとき能を為たのを御覚えあったと仰せあったのを考えると、天正16年(1588年)である。

 この年は〔『豊臣譜』〕、4月に秀吉は後陽成帝にその第(てい、邸の意)にて聚楽の行幸を請い、主上御滞留あって伶楽等種々の御遊びがあった。

 猿楽(ノウ)のことは見えないが、思うにこの月の前後に猿楽があったことは察したい。思うにここに依り。

 左京が猷廟に召し出されたのを考えると、御世継の時は元和9年(1623年)である。

 この年左京は42。これより台廟が薨ずる時〔寛永9年、1632年〕左京51。巌廟(4代将軍家綱公)御世継の年〔慶安3年、1650年〕69。

 明くる年猷廟は薨じ給い、その明くる年承応(1652年)と改元し、2年(1653年)に左京は没した。

 以上のことを思うに、元祖六平太の御当家に出たのは元和9年(1623年)の頃で、年は40余りである。

 これも考えると、前に記した『松君子(ショウクンシ)』と云う小謡の文句は心得ぬと思われる。

 その故は、「松は君子の徳ありて雨露霜雪もおかさず」とは、全く神祖を申し奉らぬ。

 「十かへりの花をふくむや若みどり」とは、返ると云う言葉、回復と云わぬが如し。

 「猶万歳の春の空」とは、未だ時至らぬと聞こえないか。

 「君の御影もつく羽根の」とは、つくは尽と聞こえる。面白からぬ言葉かと。

 「このもかのもに立よりて」とは、姑(しば)らく時変をまつと云うが如し。

 「老を忘るる詠して」とは、しばらく忘れる望と云うが如し。

 「春も栄行」は、栄(サカ)は寓詞にて逆(サカ)と通じる。逆行である。内に含めるものが有るが如し。

 「山路」とは陟(のぼ)ること。再び興ることか。

 するとこの輩の内心は、なお太閤の恩顧を忘れずに、まげて時世に随う者だろうか。

 それなのに子孫に及んでは、終に御当家の御恩沢に化して、この謡の原意は知らずなのか。

 これもまた目出多喜(めでたき)御代の事である。

終り



続篇  巻之26  〔3〕喜多六平太

 その1
 能大夫喜多六平太の家伝を聞くに〔寿山曰く〕、祖先は伊賀の人にて、同国に北村と云う者があった。

 因って北を氏とした。後喜多と改めたと云う(観世大夫は服部氏。伊賀国服部村の出であると。

 不可院左近は、御暇を願って伊賀に往き、古跡をただすよう四郎が話した。

 すると喜多氏と同国の人であるか)。この人は六平太と称し、後左近とあらためた。

 はじめは豊太閤の近習であった。

 豊公逝去の後〔こう云えども大坂落城の後であろうが〕去って九州に到り、黒田如水の家老某〔その名を忘れた〕のもとに身を寄せた。

 御統一の後、神祖(家康公)と如水が御物語る中、左京の能芸のことに及び、「今は如何になっているか」と仰せがあった。如水は「その者は今我が臣某に身を寄せています」と答えた。

 すると神祖は「さては惜しき者であることよ。我は彼が7歳のときはじめて能を為したのを今も憶えている〔7歳にしてうまい能をするが故に、時の人は七太夫と呼んだので、今かの家は七太夫と称される〕。(我が前に)召すべし」と有った。

 如水はすなわち西国より呼んだ。

 それなのに中途にして神祖の江府に薨じ給うを聞いた。

 それで江府の勤めはなくなった〔神祖の薨は駿府であった。すると家伝の誤りである。またこの年元和2年(1616年)であることを覚えておきたい〕。

 また浪人となって、黒田氏の溜池の第(てい、邸の意)に身を寄せた。
 
続く
 

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