巻之ニ十三 〈2〉 武将の和歌三連

文禄三年、豊臣秀吉公母堂三回忌で高野に登嶺した。
公卿雲客武家はつき従った。

          秀吉
 なき人の形見の髪を手にふれて
       つつむに余る涙かなしも

秀吉は亡くなった。六十三だった。辞世の歌。

 露と落(おち)露ときえぬる我身かな   
        難波のことも夢の世の中

頼朝は泰衡征伐として鎌倉を出発して、白河の関に着いた。
諸将を顧みて能因(法師、永延2.988〜康平年.1058)が「古風な事を思い出さないだろうか」と言って、皆答えなかった。
梶原景季は馬をひかえて、矢立の筆をとって、

 秋風に草木の露をはらは(わ)せて
         君がこゆれば関守もなし

頼朝は感激して、五百余町の田を賜ったという。

紀州高野山に熊谷寺がある。
この寺に蓮照法師(直実 永治元年.1141〜建永2.1207)自作の木像とともに自詠の歌がある。

 いにしへ(え)の鎧にまさる紙衣
      風のいる矢もとほ(お)ざりけり

以上『市井雑談集』に見られる〈『校書余録』〉。
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コメント

No title

このような句の理解には少し時間がかかりますね。それぞれに意味を理解しないと背景が読めません。
1)最初の秀吉の辞世の句は結構有名なのだけれど、ここ二出てくる句は最後の表現が違いますね。一般には「夢のまた夢」。本当に辞世の句を詠んだのかどうか?
2)次の白河の関の歌は、能因法師は既に亡くなっているので、ここでは白河の関で昔詠んだ歌「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」を踏まえて理解しないといけないようです。奥州藤原氏を攻めるときに白河関を越えるときの頼朝の思いを理解しなければならないのでしょう。秋風ぞ吹くでは気勢が上らないのでしょう。
3)最後の蓮照法師の歌ですが、高野山熊谷寺は「熊谷直実」が出家して蓮照と名を改め、平敦盛の霊を弔ったといわれる寺です。直実は最初は平家の側でしたが、途中から義経と共に源氏側として戦っていました。鵯越を逆落としでは、若き平家の武将(平敦盛)を泣く泣く首をはねるシーンは敦盛と直実の友情物語りとして歌舞伎などでも有名です。この敦盛の霊を弔ったのがこの寺です。また歌の「紙衣(かみこ)」は昔から風を通さない防寒衣としてもよく使われていたようです。そのため、この歌も鎧から紙の衣になった弓の名手と言われた熊谷直実のことを知らなければ理解できないようです。
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