「耶蘇」の検索結果 10件中 1 - 10件表示
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巻之81 〔5〕 当時の絵板(踏絵)とは
西辺の吾が領邑のあたりは吉利支丹の宗法厳禁て、鄙賤の人に於ける絵板と呼ぶ物がある。これを踏んでかの宗法には帰依しないと顕かにする。因って今に及び自ら賤者の一格式となって、踏絵以上、以下を以て等級を分かつに至った(絵板は人々が踏むものなので、俗これを踏絵と云う)。 さてこの絵板と云うのは、崎尹(長や
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巻之73 〔4〕 嶋原一揆の矢文
薩州の文が、佐土原侯(嶋津筑後守)の臣某が持ち伝えていた。寛永中耶蘇一揆のとき、原の城中から寄り手に射った矢文で、伝写のものを見た。本書は今なおかの臣の家にあると。その文は憎むべきものだった。賊徒たるゆえん。一つ 矢文(本紙仮字なし。今見やすくするためにこれを加えた。句もまた同じ) 当城の土民、宗
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続篇 巻之51 〔4〕 異国への渡海あれこれ
縣が話すには。某が先年京を通過すたとき、祇園の絵馬堂に、昔角倉が唐に渡った商舶の図を画いた額があると云うので、わしは京師の用達に命じて、祇園のついてその額をを写させた。その答えに、祇園ではなく、清水の額であると、京師に梓行(書物の出版)して、『扁額軌範』という書を贈った。その中に図があった。ここに移
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三篇 巻之14 〔9〕 長崎で通詞を勤る人々
今長崎に住んで阿蘭陀人通詞(通訳)を勤める本木、横山、志筑、石橋、猪股5氏等は、みなそのもとはわしの臣であり、平戸に住んでいた者である。如何にして今かの地に在るかというと寛永中(1624~1645)に来船した蘭人を長崎に遷されたとき、かの地には通弁の者がいなかったので、官令で移されたと云う。とりわ
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三篇 巻之23『平戸考』重出 〔1〕 諏訪の神祭 その2
○『耶蘇天誅記』に云う。慶長18年(癸丑)(1613年)、有馬左衛門佐直純の領内の肥前高来郡の村々で、吉利支丹宗門の制止が、日々間断なく穿鑿ありといえども、とかく旧染改まり難い。ややもすれば違反の奴原(奴腹の意か。憎たらしい奴の意味)があって、静謐にならない間、直純はこの旨を公聞に相違した。関東か
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巻之70 〔3〕 耶蘇天誅記より
『耶蘇天誅記』〔30巻〕を読む中に,心に留まる条23をうつす。 1云。按ずるに、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長の年間、凡そ70有余年の暦数、西国より畿内に至る諸国では、押しなべて耶蘇宗が流行ったと云う。就中(なかんづく)天正の末年より慶長の初年に甚だしく繁盛したと思われる。 その頃西国
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続篇 巻之73 〈17〉 JNRI
この蛮文は、上野国の多湖羊太夫の碑の傍より先年石柩を掘り出した。その内に古銅券があった。その表題の字がこんな物だった。その後、ある人が、蛮書き『コルネーキ』を閲覧して、耶蘇が刑に就く図がある処の像の上に横架を描き、またこの4字を題していた。因みに蛮学通達の人に憑てかの邦の語を糺すと、その義は更に審に
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巻之ニ十三 〈4〉 安芸の寺のディウスの画像
寛政己酉(元年、1789年)にわしが東勤めをしていた時、安芸の怒田本郷駅に宿をとった。ここは寂静という親鸞宗の寺があった。わしの医師はここに宿をとった。その住僧が語ってくれた。『寛永(14年、1637年)に肥前天草一起騒乱(本文ママ)の時に一僧がいましてね。いづくとも無くここに来て説法講談をしました
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続篇 巻之八十ニ 〈一二〉 『武家事紀』『耶蘇天誅記』
『武家事紀』に、志津ヶ嶽合戦〈秀吉、勝家との戦いである〉のときに、坂口上の要害に高山右近、海山の要害に中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえ
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続篇 巻之七 〈一五〉 耶蘇継承の者
十月の初め、ある人と相会したときの話に、昨年か今年か、大阪に耶蘇の法を修むる者があり、遂に縛に就いたと。わしは云った。耶蘇の法と云うものを如何にして知ったのか。曰く。その女子が久しいこと病床にいる。医薬は功なく、祈祷は験(しるし)なし。殆ど死に及ぼうとしていた。父母は娘を深く愛していた。時に町家に一
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