巻之7  〔5〕前人寓意の聯(れん、連ねるの意)

 前人一時寓意(ある物事を他の物事によって暗示的に表現すること)の聯があった。
 
   醜石と雑花を与え、此れは是我が家の大弓宝玉と為す。
  
   素弦又清管、或は以て老子之醇酒婦人と謂う。
 
  これは蕉軒の集外の文なので記録した。

巻之7  〔4〕林蕉軒に問う

 林蕉軒に常に志す従事する所を問う者があった。
 
答えて「文武、和漢、古今、雅俗。この今と俗と云うところを深く咀嚼しておくれ」と言う。

また娯楽する所を問えば、答えて云う。「風月、山水、詩歌、管弦」。

 巻之42  〔17〕長谷川主馬の歌物語

 巻之3に長谷川主馬の風流を林子は記録した。

 この頃また前人の話に、主馬がある日人と寄り合って歌物語して、照射(ともし)の歌に好い詠はないものだと人々が云うと、「さらば一首よみましょう。必ず師家の褒め言葉を得られるように」とよみ出した。
 
      五月やみともしの鹿は中々月を待(まち)てや身をかくすらむ
 
 京へ(歌を)上らせると、果たして冷泉家より褒め言葉を加えられと。この人の老いて死したときの時世の歌。
  
      おき明す霜夜の鐘に心すむ浮世の夢のあけ方の空

 とよんで気息奄々(えんえん、息も絶え絶えである)であったので、側にいる者は、念仏されてはと勧めた。

 が念仏は唱えず、唯有難い、有難いとばかり繰り返して云った〔有難いは君の恩の忝(かたじけな)さを云う心であると〕。

 夜着を首まで打ちかけさせ、「何時までは開かぬように。(指定した)時になれば、夜着を取って見よ」と、ゆだねた。

 看病の者は云われた通りにした。

 その時に夜着を取れば、いつか息絶えていたという。

 巻之61  〔14〕川辺の新荘の御成りにて

 近い川辺の新荘に御成りがあると、昨冬より取沙汰された。来る25日に決まったと聞こえて来た。わしの菩提寺の天祥寺を、御場所係の人が借りに来て、それより水戸侯の役人もしばしば来た。
 
 中山備州は先の備州より懇意であり、使いを遣わし、かの寺は祖先開基以来の規律も有るので、「何とぞ魚肉、酒肴等を門内に入れることは禁じて下さい」と云われた。答えに、「尤ものことであるけれども、みな官の沙汰で、備州のやり方はできない」とのことであった。

  これは水戸侯の小梅の別業に御成があって、それからかの新荘に移られるので、御成の間は水藩の人は悉皆(しっかい)寺院等に退くとのこと。わしの寺にも限らず、外の寺院もこの如きだと。

  それなのに23日の夜より雪が降り出し、銀界となったが、翌24日の朝、所の名主より天祥寺に御莚引と告げて来た。水侯出没の面々はみな引き取った。また当日は先祖公の忌日なので、広徳寺に詣でるまま、帰途かの荘の前を過ぎると、門内に幕貼りの竹じきり等を設けて、小梅橋に向かう柵構に御成御門と思われる処が出来ているのが見えた。柵の左右に高く田町交の幕を張って、門外には二重に松板の仮塀があった。
 
  水侯の別業も、遠望すると、常は板塀の処に新しい門の体を設け、高幕外の仮囲も同じであった。また新荘、新門の右には小さな楼の如きものを高く構えていた。如何なる処だろうか。またその石は巻之45に記録した向井将監屋鋪の碇の松と接していた。

  また23日、暮れ前、水侯賄方の由にて、両人は袴羽織を着て天祥寺に来たが、今晩より諸物を持ちこむと告げて、直に留まり一宿した。それより六半頃より五半頃まで両度に持って来るは、黒塗に朱の葵御紋の大長棹4つ、釣台2荷〔これは料理道具椀具等積んでいた〕、また炭薪を多く持ち込んだ〔これはしめ切り迄船で運んでおいて、24日迄に持入れるといっていたが、全くそうではなかった〕。

  上を葵御紋つけた高挑灯をまじえ、挑灯数張りにて運び入れ、持夫は退いた。

  24日に五過ぎより連々持ち込んだのは、

  前日の如く、同じく大長棹3つ、釣台3荷ばかり〔昨の釣台と混じり、椀具その余の諸品という〕、また唐銅の大鍋中小入子、別に中小の鍋を俵に入れ、おおむね7,80もあると。また木具膳50ばかり、黒塗宗和膳椀、朱塗無足膳椀、くり盂膳等200人分余もあったと。また野菜の類も荷籠に入れ、夥しく持ってきた〔この中魚物は見かけなかったと云う〕。
これは出入りの仕出し屋がうけたものと思われ、町人体の者16,7人も朝より連々来てい
た。昨夜より宿した賄方役人の外に、帯刀以上の者総て7、8人も今日は来た。
 
 この人数いて膳椀等その外追々組み立て、手当して、明くる日御成御莚引の由、水邸より伝えると、これを承った。またまた諸品を仕廻い、蓮々持ち出して、繋ぎ置いた船に積み戻し、八半過ぎ迄に残りなく引き払い、賄人も上役人もみな退いたとぞ〔この方出没の者も七つ時頃に引き取った〕。その朝までは寺僧の食物も寺にて執行したが、昼よりは為方なき体なので、水邸の賄役の取計いで、寺中にいる僧俗へ食物を出し、終わって役人は退いたと。その食膳の次第は、僧中には宗和膳具、飯汁平椀香の物、僕輩には無足の朱膳具で、飯汁香の物と云う。総て料理した食味も麤抹(そまつ)ではない物であったとぞ。すると新荘の費用も思い測られる。
 
  

続篇  巻之28  〔26〕吉田侯祖先の記録焼失

 吉田侯〔今松平伊豆守信順。寺社奉行〕の家に、祖先信綱執政の時の御機密の日記が数冊ある。子孫と雖も見ることは協(かな)わない。代々直封にてこの侯家に収めてある。
 
 侯家にも格別大切なものなので、火災を慮り、箱崎の別邸は河辺にて火を遠ざけている処ならばと、これを蔵める小庫を建てて籠めて置いた。がこの3月21日の災に、この庫も火が入ってその旧記は烏有(うゆう、まったく無いこと)となってしまったと。慎むべき甚だしきことになってしまったことよ。
  
   また聞いた。この庫には守吏があったが、火災のとき己の私財を庫中に納めようと   
   て焼失したと云う。これと云っても物は数あって、尽きる期になるとそうなるのだろう。
   
 又聞いた。豆州の家臣某歎息して云うには、この秘冊は家の襲宝といえども、子々孫々がみることも協わなければ、焼失し
て社(こそ)時である。惜しむべき物でもないと。信(まこと)にこのようなことになってしまうか。

 また土浦侯〔土屋氏〕の家にも、かの祖先盛代執政のときの諸記録、都(すべ)て大挙の御用係を勤められた旧記録等があったのを小川町の上邸は火の患はかり難く、土浦の封邑につかわされた。その便が土浦に着いた7日目にかの城内は失火し、来着の古記録悉く消失したと。これもまた天数(天寿)と云えるだろう〔土浦侯の用人富田小右衛門が朝川鼎に語った〕。また『武功雑記』〔天祥公(平戸松浦氏26代当主)の撰〕に載る所は、

一、松平伊豆守殿死去前三日、子息達へ申されたことは、某は大猷院(家光公)幕下の厚恩を蒙る事たとえる物なし。御意安く思し召され、御自筆にて御用の事仰せ下された、侯の御書数多である。これを残し置けば子孫の末々迄も珍宝とも謂うであろう。しかれども思慮をめぐらすと、若し後世に到り他所へ散乱して、御書の趣に是非をつけ難し事もあれば、これは某の残しておくゆえより起きて、誠に大きな不忠、冥加につきる事なので、御書を火中に入れて焼いて灰として、袋に入れて某の死骸の頭にかけて埋めよと遺言であった。これに依り豆州死後、甲州公弟達一所にあってかの御書を薬鑵に入れて火で焼き、各一目も見えぬように、頭を振り敬て灰となし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の頸(くび)にかけさせ葬られた由。

 これは前に記した吉田侯の古冊に中でも、また秘密の物になった。


 

三篇  巻之16  〔3〕世に名高き権僧

 人が云う。
 
 世に名高い権僧〔権は普く人の知る所。僧とは真僧ではなく、隠居の人である〕(林子曰く。権僧と云う事、後には分らぬことになるだろう。はじめに出侯所の上幀(幕、とばり)へ、権僧とは権僧正、権僧都などの類ではない。世の権を専らにする、僧形の人であると記し置いたものと思う)。
 
 ある日、花川戸は山の宿辺であって、游行して通った。当時災の後、吉原仮宅の游女屋の引手、かの僧の衣を牽いて放さなかった。そして竟(つい)に仮宅に引き揚げた。僧も為(せん)方なく座敷に居(すわ)って、思案顔で狐坐した。

 家内の人がよくよく見ると、凡人(タダビト)ならぬ体ゆえ、その従僕に質(ただ)すと姓名を委しく云った。家内は大いに驚き、「すると早く還し申さなくては」と、即ちそのことを伸べた。すると僧ははじめの戸口より出られなかった。裡(うら)口より「直ちに川舟に乗ってくれ」と答える。ならば裡口より出そうとすると、仮宅ゆえ裡口はない。

 因ってこの隣の壁を穿つこと3,4家にして裡口を得た。すなわちここから還り出て、舟に乗ることが出来たと。それより仮宅の主も殊更に心配して、かの僧の荘は勿論、隣家4,5軒、名主、町方など、思わぬ付け届けをして、大物入りに及んだと。その事実は天に在って、我も人も知らず。
   
   珍しき奇聞を承った。飛耳長目とは隠侯の事かと申した。拙等蓙(ござ)中に在って曾(かつ)て知らぬ所である。
   呵々(かか)六ノ十六 
 

続篇  巻之30  〔10〕『待賢門合戦絵詞』画軸

 わしは先日『待賢門合戦絵詞』と云う画軸を得た。模写のものである。

 原(もと)東叡王府の物と云う。けれど王府の物もかた模本である。そのもとは何の所蔵であるかわからない。

 画家の住吉氏も1本持つ。また模本である。内記〔住吉氏広尚〕が云う。画はかの祖住吉法眼慶恩、詞書きは家隆卿の筆と云う。

 この画軸1つに止まらない。〇一は信西の巻〔伊勢の御師、福嶋大夫蔵〕、〇一は六波羅行幸の巻〔今は雲州松江侯の蔵〕、〇一は焼討の巻〔本多家蔵、但し本多某なる未詳〕、この余、〇七騎落、〇静都落等の巻は、何れの所蔵なるか内記も知らずと云っている。恨めしい。

 異日求索の為、または自他考勘の為、姑(しばら)くしるす。

続篇  巻之77  〔5〕晒し者の図とその背景

 4月の末、日本橋畔を過ぎると橋前の広地に人が囲んで人堵(ひとがき)になっていた。わしは従者に「これは何ごとか」と問うた。「晒し者ですね」と(従者は)答えた。次の日、人を遣わして視に行かせた。帰ってこう云う。「人を殺した者を晒していました」。
罰簡の文に、

 奥州伊達郡飯田村百姓市三郎下男、沢太郎辰19
この者義、同国瀬成田村新左衛門躮(せがれ)専蔵相寄りとて、主人市三郎娘やすえ密通の手引きをいたし、剰(あまつさ)え同人承知致さずは、市三郎罷在であったので、殺害に及ぶ間、手伝ってくれれば、追って而田畑等分け遺すべしの旨、専蔵申すに任せ、利欲にまよい同意いたし、市三郎の市商い罷越したことをも、専蔵へ相知る為、市三郎のともをいたし立ち帰った節に、山野村地内において帯した脇差を抜き、専蔵へ相渡した故、同人右脇差を以て市三郎を殺害に及び、殊に上は盗賊の仕業共相見する様、懐中の金子を専蔵は盗取るにも同意致し、その上同人やす密通の上、殺害に及ぶ様、専蔵と申し口を合わせ始末し、不届き至極に付き、二日晒し、一日引き廻し、鋸挽の上、浅草に於いて磔に行うものである。
辰四月 
 
 また晒しの時の状は上の如し。この図は詳しく描けなかったが、この冊に編入してはいけないものに思える。けれど貴方はこのようなことを観ることはなく、自ずから下民不良の情を理解できないと思う。因って懲悪の為ここに画いた。
 
 『刑罪秘録』と云う書に、諸刑大小のことを載せている。その中に、穴晒しと云って、その罪人の体は土中に埋める。その仕方は、地を掘って大きな箱を埋め、箱内に杭をうって、罪人を縛り置く。主殺は大逆不動の至りと雖も、この様な刑に遭うこと何か天罰だろうか。また図に、竹鋸に赤いものを塗ってあると云うのは、『刑罪禄』に、囚人の首筋を突っ切り、血を取り鋸へぬったと見える。すると罪人の生血であろう。

 また『規矩元禄』に載るは、「主殺を二日晒し、一日引き廻し、鋸引きの上磔」と見える。また前説と異なる。

 また『五車韻瑞』に、『瑣(サ、細かい)言』を引いて曰く。「孫揆李克用の為に執へ所る、これを解きれども行わず。揆が曰く。人を解きるは須らく板に夾む須べし。是に由て板を施して而鋸びきす」と。

  この板夾みは、図に見る首枷にして、これを施して鋸びきをするか。先年評定所の吏万年某に聞いたのは、律はこう定まれども、ただその体を為すだけであるとぞ。
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 巻之49  〔31〕天守御櫓のはなし

 この頃大城御天守の図とて示す者があった。御天守は今は無いが、図に由て見ると、その壮観は覚えておきたい。

 わしはある人に「これは一城郭であるが、この中に水があれば尚堅固であろうな」と問うた。
 
 その人は「大阪の御天守も、以前天火の為に燃えて今はありません。つまりこの御天守の中に井戸がありました。黄金水と申しました。常にこれを汲むことを禁じて、夏土用の中三日のみ免(ゆる)しておりました。それで御城代の家臣、その余、奴僕に至るまでこれを汲むと、その清潔な氷の如く名水でありました。また井戸の深いこと数仭(じん)、俗に伝わるのは、井中のかわ金を以て造ると。因って水性の美をなし、且つ黄金水と呼ぶそうですよ。豊公の勢いを以てすれば、この様なこともあるでしょう。また天守の内にはこうした水のあることは尤もなることです。然し地の利は人の和に及びませんけれど」と云った。格言である。
 
 追記する。

 ある人曰く。この天守中の井戸は、既に石山城本願寺の二世顕如上人の時、上人が堀ったものであるとぞ。この上人も猛勢なることは人の知る所ゆえ、太閤が堀ったことにも劣らない。

 また曰く。江城の御天守にも御井戸がある。且つ清泉であるとぞ。今に御天守番の人で時々汲んで還る者があると云う。
 
 また天守を以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭っていたとぞ。ところが上杉謙信は天主の称を悪(にく)み、これを改めて天守とし、須弥の天守は毘沙門であるとて、この神を祭ることで、今はみな天守と書くと。

巻之94  〔4〕承応元年以来の御切米、御借米年代記

 林子の文通に一摺(ひとすり)の紙をおくってきた。「これは卑劣なものであるが、また歴代の転移を観るに足りる」と曰く。

 すなわちここに模写した。
 
 (一摺の紙の)上紙の板面にこのように書いてあった
〚 承応元年(1652年)以来御切米並御借米
 御張紙直段米金割合年代記〛

 
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巻之8  〔13〕川流句、川流のはなし

 
 川流(せんりゅう)句は毎に感じ入るが、ある人がまたこれを云った。
  
   湯屋の喧嘩の片手あつかひ
 
 わしはつらつら吟じて且つ考えてみると、この句は恐らく川流ではない。条理をなさずしてまた短句ならば、思うに世の俗調なる俳句を、誤って川流としたのだろう。条理をなさずと云うわけは、この片手と謂うは、入湯の者は裸体人前を憚れば、各片手で陰処を掩(おお)う。
 
 つまり口論より憤闘に及んでも、ただ空手を以て打擲(ちょうちゃく、ぶつこと、なぐること)に至り、片手なお放さずと云うのだ。わしは「こうして憤闘に及ぶ族(やか)ら、ここぞのこの時に陰処を掩う底の容であろう」と云った。

 ならば固より忿怒(ふんぬ)ではない。故にわしは取らなかったが、後ある日湯屋の戸前を過ぎると、屋内憤闘の体であった。興中よりこれを見るに視えず。すなわち人を使って視せにいかせると、果たしてわしの説の如しであった。すると素より人事自然の妙句ではない。これを取らざる所以である。人よ、能くこれを惟(おも)え。因って云う。川句の採るべき者は、
  
    角(ツノ)大師湯番を叱る御姿

  これは、大師の下「は」字を加え、湯番の上「凡俗湯入者の(凡俗湯に入る者の)」六字を冠(かぶ)せて解すべし。角大師とは元三大師の降魔せられたときの姿であり、上野よりその御影が出て、専ら世に布(し)く。その下は入湯の者はかの戸の湯番を叱る状態、かの角大師の体に類する。裸体の怒る形さも比すべし。如々(いかん)、何何(いかん)。

巻之48  〔26〕高木侯の別荘の奇異

 画家住吉内記は、牧野半右衛門〔寄合6000石〕とは年来の懇意であった。先年半右衛門の不調法のことがあって、麻布の屋鋪を渋谷羽子沢(はねざわ)に替わられた。この地は人の居る所から遠くにあって、野郊の小路など伝い行く所もある。

 ある日その屋鋪に来客があって、内記は取りもちに往った。夜更けて還ろうと出ると、時は既に丑の刻(午前1~3時頃)に及んでいた。6月初旬のことで、梅の熟す侯で雨が降っていた。またこの道には高木侯の別荘があった〔麻布こうがい橋の奥である〕。土地の広い荘で、林木のみで家屋も少なく、荘中を人が抜けて往来する路があった。内記がここに行きかかると、木を伐る音が丁丁(ちょうちょう、物を続けて打つ音)鳴っていた。僕が1人従っていたが疑って、「この深夜雨の降る中に、木を伐る音は何でしょうね」と云った。内記は顧みて、「何くてもよし。鎮まっていくだろう。必ず騒がぬ様に」と云いながら行く。
 
 やがてどうと大きな音がして、木を斬り倒した響きがした。僕はいよいよ不審に思い恐れたが、内記はようよう連れて行き、その夜は家に帰ったとぞ。かの高木の下屋鋪には、山神の祠と云うものがあって、この神は、時々この様な奇異のことをなすということだった〔今年甲申、文政7年1824年か〕。

三篇  巻之1  〔7〕文政戊寅祝融の患に遭う

  文化丙寅(文化3年、1806年)の冬にわしは骸骨を乞うて、ためらう月日を送ること10有年。文政戊寅(文化1年、1818年)に至って、図らず祝融(火の神)の患に遭った(火事に遭った)。時に故友棕堂〔阿部備中守〕は既に閣老に登って大城の下に邸を構えていた。わしは災の後浅草の上邸に仮居していた。3,4日を経て問う事があると招かれた。すなわち往った。その途中にてまた失火に出会った。因って空しく浅草に還った。

  後1,2日を過ぎて(再び)出かけ、対話した。棕堂はすなわち災難の事を問われた。わしはその困苦の状を告げた。また先に退隠の後、仄かに品海の外海の異船の事を聞いた。わしは「この身世にありと雖も、今は無きと同じ」と秘かに思った。
 それなのに若し外洋の賊が内港に入り、人屋を侵すことがあるかと聞けば、「どうして居ながらこれに忍び入るか。むしろ法印公(松浦鎮信公、平戸松浦26代当主、1549~1614)に倣ってって、秘かに兵器を備えた。このとき邸中の池辺林樹の間に小丘を築き、これに石窟を設け、内に銃薬を貯えること100貫目に及ぶ。故に常に火気を恐れ、その丁等は吸煙、日夕にかの辺りに近づくのを禁じていた。 

  棕堂はかねてこのことを知っていた。そして災後の面会のとき、棕堂は「その火災のとき大銃の響きが聞こえたと世は専ら伝えているが、某が河辺の下邸に居る者も同じことを云っている」と突然言った。「君これの為に哨窟の下に焼け死ぬかも知れないよ」とも言った。

  わしは即ち「御言(こと)の様にわしはかの硝窟の辺りに在って、火の及ぶことを懼(おそ)れ、殊に指揮してその事故を起さないように気を付けている。時に居室に火があるとき、大きな銃声を近くで聞いている。われは今ちゃんと君の目の前にいるではないか。だから焼け死ぬの説は奈(いか)ん」言った。棕堂は手を叩いて笑った。これより相共に寛いで談話し、終日して還った。
上の大銃が響くと云うのは、その前朝鮮伝〔かの国の武将崔申明が伝えた所である〕の火矢を、わしの臣江口という者〔弥市右衛門〕に命じて造らせ、櫃に蔵(おさめ)ること一荷、この中にかの伝の合硝を納(い)れること何貫目か今は憶えていない。これに火が及んで大銃の響きを為すのというのか。

  また伍卒(アシガル)の持つ鳥銃は大抵4,50挺、その火薬も器に貯まるもの3壺、各1貫目左右である。火が鎮まってこれを検すると、2壺は砕けその形を見ない。蓋しこの硝は大炮の音を為しているかと。1壺は火の後、池水に浮かんでいた。人は怪しんでその壺を取って見てみると空の器であった。人はいよいよ怪しんだ。

  後からこれを詳らかにすると、火屋に及ぶに至り、人はみな慌てふためき、為す所を知らなかった。けれど火薬の様なその噴烈を想定して、これを遠処馬場の中に置いた。そして狼狽の際2器は壺の口を上に向けた。因って火移りさせて激発してみなを砕いた。1壺は誰かこれを知って口を地に押し当てた。けれど散硝壺は辺りのあって引火して内に及び、硝薬 はこのために発昇して、壺も伴って跳ね上がり池に落ちた。故に虚器になったということ。 

巻之70  〔33〕祝儀における品のはなし

 林曰く。

 当地諸祝儀に貴賤とも用いる昆布、鯣(するめ)はみだりやたらに大きいものを好み、その品を載せる素木台も、目立つなかり大きくなるのを人々は立派な事と思う。

 昆布は継ぎたてて白い粉をぬり、鯣も足などを継ぎ合わせ作るのが珍しくない。いつの頃からかわからないが、こう成ってしまった。両種とも美観ばかりを気にして、喫することのできぬ粗悪品である。
 
 今年京師の女御が再入内の祝いの品の鯣に、昆布を人より贈るのを見て、如何にも殊勝なることとしみじみ思われた。
 流俗に拘らない者は、こうした法こそ学ぶべきことよと。その形容を写し示した。
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 巻之42  〔20〕三十六間の本堂の棟の料となった背景に

 林曰く。

 この11月15日、京の東本願寺から火が出て焼けてしまった。近頃かの地より来た人の話を聞くと、宗旨の穢多200人余り集まって消防したが、火の勢いが盛んで防ぎようがなく。その辺りの往来も出来なくなったと。半ばの人数は門外へ逃げ出し、残る100人計りは本堂とともに焼けて失ってしまった。

 その後に生き残った穢多、またその間に合流した者等はこぞって悔やんだ。本堂とともに焼死した者は真に成仏して、来世は穢多を離れて生まれ変わる様にとみな羨んだという。

 また曰く。その火は夜半に起こり、明け方にやんだが、京の市中のその宗旨の者、半夜の内に集まって各金銀を持ち寄って、夜の明ける頃2000金になったので、先ず当用の料として、門跡へ持ちだして納めたという。こう人心の傾くのは、この宗門に限られている様で不思議な気もするが。

 また曰く。この事に就いて山井藤九郎の話〔この人は京怜家より出た者で、府に来て林氏に仮住まいをして、後家頼(家来)に加わった。近頃姫路侯より所望され、林氏の家を出てかの藩士となった。篳篥(ひちりき)の名人である〕に、天明中(1781~1789年)、京大火の時、東本願寺が焼け、また風がかわって西本願寺も危うくなったとき、穢多が大勢集まって、各所持の獣皮を出して、屋根の破風、庇窓など、凡そ火の入る処々を包み防留したという。

 またその火の後に、東本願寺より普請があって、本堂の棟は三十六間通りの大材になるので容易くはなく、何とか木曾山に1本あったので、伐り出すことを謀った。その辺りに神社があって、昔より神木と呼んで伐ることのならぬ木である由と聞いた。宗旨の1婦が身を棄ててこの材を本堂の料にしようと、その木の枝より縄を下げ、縊って死したという。その為に汚れたとして、もはや神木にはならずと云うことに成って、三十六間の棟の料になったという。

 林曰く。
 この11月15日、京の東本願寺から火が出て焼けてしまった。近頃かの地より来た人の話を聞くと、宗旨の穢多200人余り集まって消防したが、火の勢いが盛んで防ぎようがなく。その辺りの往来も出来なくなったと。半ばの人数は門外へ逃げ出し、残る100人計りは本堂とともに焼けて失ってしまった。
 その後に生き残った穢多、またその間に合流した者等はこぞって悔やんだ。本堂とともに焼死した者は真に成仏して、来世は穢多を離れて生まれ変わる様にとみな羨んだという。
 また曰く。その火は夜半に起こり、明け方にやんだが、京の市中のその宗旨の者、半夜の内に集まって各金銀を持ち寄って、夜の明ける頃2000金になったので、先ず当用の料として、門跡へ持ちだして納めたという。こう人心の傾くのは、この宗門に限られている様で不思議なきもするが。
 また曰く。この事に就いて山井藤九郎の話〔この人は京怜家より出た者で、府に来て林氏に仮住まいをして、後家頼(家来)に加わった。近頃姫路侯より所望され、林氏の家を出てかの藩士となった。篳篥(ひちりき)の名人である〕に、天明中(1781~1789年)、京大火の時、東本願寺が焼け、また風がかわって西本願寺も危うくなったとき、穢多が大勢集まって、各所持の獣皮を出して、屋根の破風、庇窓など、凡そ火の入る処々を包み防留したという。
 またその火の後に、東本願寺より普請があって、本堂の棟は三十六間通りの大材になるので容易くはなく、何とか木曾山に1本あったので、伐り出すことを謀った。その辺りに神社があって、昔より神木と呼んで伐ることのならぬ木である由と聞いた。宗旨の1婦が身を棄ててこの材を本堂の料にしようと、その木の枝より縄を下げ、縊って死したという。その為に汚れたとして、もはや神木にはならずと云うことに成って、三十六間の棟の料になったという。

 巻之24  〔10〕甲州伝目つぶしの法

  (また)会談に小幡勘兵衛景憲より伝えた目つぶしの法と聞いた。
  
     蛍火  山蔭の田にし  青とかげ   蜈蚣(むかで)
     馬の眼〔馬の目をほりとる〕    各当分〔卵の中に皮を入れる〕

 これは大いに験がある。投げて胸枝に中(あた)れば、そこが忽ちしびれて、手は揺れる事が出来ず、胸は気塞ぎ身動きが出来ぬ。若しくは鼻口の辺りに中れば即ち絶倒すると。

 また「これが甲州伝ならば、その本は信玄より出たのでしょう。信玄が毒矢を用いる事はこれの類ですね。またこれに遭う者に回復する薬もありますよ」と聞いた。

    塩   ひき茶

 この二物をといて、中ったところに塗れば、忽ちその毒気を散じ、揺動を生じる。また絶倒した者には、湯に加え服すれば乃(すなわ)ち活きると云う。

※ここに書いてあることは、決して行われませんように。飽くまでも書物の記録を読んでいるところでございます。

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