巻之28 〔20〕両院の御製俳句、於夏と清十郎

 明和(1764~1772年)の初め、白露と云う人の著(あら)した俳論の中、両院の御製を挙げて、
    首夏の頃ほひ時鳥の一声を聞(きこ)し召て
                      後水尾院
  清十郎きけ夏が来てなく時鳥
                      後西院
  笠がよう似たみじか夜の月

  このように本院新院ともに翫(もてあそ)ばれると、月卿雲客も盛んに云々と記す。
またこの頃柳亭と云う者が云うには、播州姫路但馬屋の娘於夏が、手代清十郎と私情を通じた。
親九左衛門はこれをさける為に、清十郎に盗賊の名を負わせ退けようとしたことが公に聞こえた。

 遂に清十郎は無実の罪に問われ、於夏は狂気となって、則ち但馬屋も身上はこれよりおとろえへていったと。

 於夏は老年になって僅かに茶店をかまえていたところ、『乱萩三本鎗』という冊子に見えた。『玉滴隠見』15の巻に寛文2年(1661年)のこととあった。『五人女』に4月18日とある。この2本をあわせて見ると、清十郎が罪を着せられたのは寛文2年4月18日であろう。
  
 清十郎きけお夏来てなく時鳥
 御製というのは誤りであろうか。『江山子筆記』に江戸徳元の句とあった。『江山子筆記』に寛文10年(1670年)の奥書があって、清十郎は罪を着せられて後わずかに9年、徳元は現在の人なので疑うことなきよう。しかし俳論の言も廃すべきでない。

  且つ御製の誤りなのはその證(あかし)はない。また後西院の崩御は貞享2年(じょうきょう、1685年)なので、寛文2年の後24年である。
するとこの卑事は勿論知らし召されたから、若しくは徳元の句にその次を製し給われたか。

  またこの御句の出所は、俗間の道行と称(いえ)る謡いもので、
侍地山ゆえこえくれば庵崎や、
向ふとほるは清十郎じやないか、
笠がよう似た菅笠が
〔この謡、もとは義太夫浄瑠璃であろう〕と云うふこと有るなり。
 
  また因に後水尾院の御製をしるす。
        昆布柿  野老
 蓬萊の山はこぶかきところかな
 ふたつどりいづれ鶯ほととぎす
 おもしろさたまらぬ春の小雪哉
   戊申正月東南に白気の立ければ
 あまのはら雲の帯する子もち月
 馬合羽雪打払ふ袖もなし
 白炭や焼ぬむかしの雪の枝
〔ふたつどりは、俗に両端決し難きを即断する辞(こと)ば。
あまは、俗に女子を称する辞ば。はらは腹〕
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巻之28 〔23〕増上寺法問の図


 増上寺の本堂にして年々法問(仏法について問答)ということがあった。
 世に所謂檀林(栴檀林の略。寺院の尊称であり、僧が集まり学問をする場所のこと)に執り行われるかの宗徒の学文試業である。

 ある年、寺主典海僧正の招きに因って往って観た。甚だ盛んであった。
 けれども後ある禅僧にこのことを云うと知らないと答えた。江都の広さを察する。

 この法問は鎮西のはじまりより有ると聞くが、

  檀林に於いてその如く今ここに繁昌なる

は、偏に神祖(家康公)浄宗興隆の基に依ると云う。緑山の内、役者海竜に請けてその図をしるす。
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 図に高坐とある所は僧正の座である。
 ここにて上って衆僧の言を裁定する。
 また僧正が本堂に入るには、途中の行装がある。
 出るときは見物の男女が郡居して、一同に十念を受ける。その応声が夥しい。 

巻之100 〔5〕狐珠牛珠

 林子の文通に、先に云った、3年ばかり前、営中にて寺社奉行本遠州が、狐珠であるとて、旋毛の物を持ってきて人に見せた。
 わしもその中にいたので、喜色満顔になって、人みな戯れて必ず吉兆が起こると、とりどり云い合った。 
 幾程もなく遠州が参政に進んだ。
 笑うべし。
 
 またこの〔丁亥〕6月10日、我が身内の赤名孝馬と云う者が、金毘羅参詣とて土橋を行き、路上に狐珠を獲た。
 これは純白毛であった。
 就(つい)ては狐珠の話を人々が言うのを聞くに、この正月上野にて、これも我が身内の門倉伴助の親類の医師が拾い得たという。
 
 また同所にて5月の事、御用部屋坊主本間伊覚の次男も拾ったという。
 この頃寄合の肝煎(人の世話をすること)、大久保四郎左衛門の話に、某家来の親類が、これも5月上野にて得たという。

 また同月、中奥御番設楽市左衛門〔林の婿〕が、下谷の途中にて骨董店にあったのを買い得た。
 これ等近い所でこの類の話が多いのも不審である。
 知らぬ所に幾ばく有るというのか。

 ある人は曰う。
 「天晴風和する日には、牛は毛珠を吐くことがあるものです。白牛は白、黒牛は黒です。世に狐珠と云うものとこれと少しも違うことは無いのでは。尚まだ何かあれば博物家に尋ねて下さい」。

巻之62 〔23〕三田(さんだ)侯 

 この月に三田侯〔九鬼長州隆国〕がわが隠荘を訪われ、物語る中に、かの臣に福嶋正則徐国の後来て仕えている者が4,5家あるという。

 その家は何れも村正の刀を所持しているという。その刀はみな正則より賜ったと云う。

 何かなる故にやと語り始めた。

 またかの家には以前より貝吹と云う者がいて、代々その業を勤めとして、諸所を吹いて廻る。

 四辻に致れば、必ず歩みを止めて長く吹くことにて、偶々領主の通行にあっても拝伏しない。

 立ちながら吹くのだという。

 また同家に、旗奉行の人は世職にて、その下の旗下の旗指どもみな旗の指ようの修練、今ここに怠らずとぞ。

 因ってその習法を問うと、

「これは秘して人に知らせないのですが、それを手短に云うと、城のり、或は林樹のしげみ等ある所を行くとき、または城内へ乗り込む時の法などがございます。その中、塀下についたときは、旗指の左右の者が、指手の両傍に添って立てば、指手は直に両傍の者を蹈み肩の上に立ちます。それより左右の者が云々すれば、次第に塀へ昇っていき、して塀を越えるのです」

などと話したが、事繁くして忘れてしまった。
 
 また樹下の指ようはこう、城内にては旗をこう揮(ふる)うと云っていたが、これも初めに同じ。

 何にも昔の事をよく伝存する家であることよ。

巻之77 〔14〕老境に入る者に非ざれば

 1官儒がある日わしに会釈して、私語をした。

 聞くと川柳の句であった。曰く。
  

     目は眼鏡歯は入歯でもことたれど
 
 わしは「悟道だね」と云った。

 これは老境に入る者に非ざれば知ることは難しいだろう。

 少壮の輩、奈之何(これいかん)。

三篇 巻之23 〔8〕鼓調糸のこと、御預鼓のこと

 わしは小鼓の新九郎に問うた。

 「鼓の調糸、紫は免食、紅は常体である。浅黄しらべは、歌舞伎などに用いるのを見るが、本当にそうか」。

「浅黄は上(カミ)の御用にして能楽(ノウヤクシャ)の輩が用いることは出来ません」と答える。

 それでわしは思う。「すると下賤にして浅黄をかけることは、全く最下の者の為すもので、類外の事であろうか」と。

 新九また曰く、「某の祖〔曾祖父である〕休翁〔引退の名〕などの頃までは、上(カミ)の御鼓御預けとて、家に持ち還って蔵におきました。その上(ウエ)にて緒侯の所で能のあるとき、招くことがあれば、御預けの鼓を持って往き打つこと勝手次第なのです」。
 
 わしは「時の次第は如何に」と問うた。

 曰く「やはり浅黄調糸のまま打ちます。また囃子方は、橋掛かりの幕の片脇より出入りすることは常ですが、この御鼓を持ちだすときは幕を揚げ、鼓は装几と持ち添え出ること常ですが、この時は御鼓は台に乗せて、両手にて捧げて出ます。装几は介添えの者が別に携え従います」。

 それより能を始める間は、台に乗せたまま己の前に置いて、はじまってからは常の如しだと。

 また諸氏の宅に到って、通門のときは、御鼓と云うのを以て、扉を開いて出入りするとぞ。

 まことに御威光赫々たることである。

三篇 巻之23 〔9〕色々と耳に入ってくる邪説

 『札』の檀弓には、子夏喪明の語が見られる。

 また人の口の閉じ難しは奈(いか)んなるか。 
 ある僧が目撃して言うには、「文廟(孔子をまつった廟)に拝礼されるとき、正しく尊位に向かわずして、別の方向を拝する人が居てが気になります」と。

 衆僧みなそれを視たとのこと。

  また全く嘲り言(ゴト)だけれど、はじめ宗家を継がせようと謀はれたとき、後宮は強いてこれを定めた。

 時にやや御疑いあって、明不明を分けようと関係者を召して物色を問われた。

 がそれは一々亮然としているので、議決あったと。
 
 そのときはかの人の後に某の妃があって、命あるに従い、後ろより潜にその名を含めて、答えがあったと。
 
 またこのはっきりしないことが再び明に復したのは、全く堀内の祖師の祈願の霊験であると。

 これよりして感応寺の新建も創っていると云う。

 思うに邪説耳(のみ)。

続篇 巻之56 〔16〕印宗和尚の旅のはなし

 その2
 印宗また曰く。

 熊野新宮に詣て、これより高野へと思い立ったが、行道は海辺より40里と聞けば、いかが為るかと思って居ると、高野越えとて行径あって、18里になると聞き、ここより赴くと、近きとは云うが、最も大難路にて、あるいは高山の頂かと思えば、または深渓の底に到り、上下すること数回やる。

 この間かつて人家はなく、在っても2,3里を隔てた纔(わずか)に2,3家あるのみ。
 
 この如く人跡絶し境にして、路難幽行、言に述べる事が出来ない。

 それなのにこの邃(おくぶかい)谷の畔(あぜ)を行く物があった。

 その姿は真っ黒である。印宗は「熊であろう」と訝った。

 近づくにつれて見れば、裸体の男子が2人であった。

 その膚は墨の如く、眼は白くして光射があった。

 印は疑って決せず。それからやや行くと、路傍に小茶店があった。

 印はすなわちその主に問えば、「これは全くの怪物ではありませんよ。山中にして墨製の油烟を取ることを業として、その松脂の煙にて全身は灼り、終いに皮の色となり、洗っても剥げないのですよ。この業をなして、17日を務めれば、その賃財を得ること金子1両になるそうです。少しの日でこう高金を得れば、匹夫は利潤を懐に出来るし、その身の汚れは嫌わないかと。遂に廃軀となったそうですよ」と答えた。

 また曰く。

 カンナ川と云う所の村中に、吉田権之助と云う者はあった。

 後醍醐帝に従い奉る人の末にして、今は郷士となって、ここに居住している。

 外にも家柄の者が住んでいて、樫尾崎村の辺りまで、全て十津郷である。
 
 昔は十津千本鎗と云って、右の家柄の者は今も所々に住居している。

 今は門構えして家居、この党の人というぞ。
 
 印また、カンナ川にて三浦源蔵なる者の家に投宿したと。
 
 源蔵の話に、この大和国の中、横7里縦13里の間、総名十津川と云う。

 56村あって、この村々の農は、苗字帯刀御免にして、官領である。

 御代官支配して、年々歳尾、年頭、八朔には、庄屋へ百姓総代1人宛て出て、御代官と献酬の事があった。

 このとき提刀にて出入りした。御代官の接対は頗る丁寧であったと。
 
 またこの家筋の農は、年々御扶持米を賜わり、若しくは軍旅のときには、御味方として加わるベきの起請文を、かねて指上置のことであったとぞ。

 終り

巻之35 〔24〕日に向て弓を引かぬ事

 古人は日に向ては弓を引かない。

 今は狩りなどに出て獲物をみては東西に構わず、畏敬なきの至りであると。
 
 『保元物語』に、下野守義朝は白河殿に寄せようと、二条を東へ向かい出発した。

 安芸守清盛も同じく続けて寄ろうとして、明ければ11日東塞がりになるうえ、朝日に向かって弓を引こうとする恐れがあったので、三条へ打ち下り、河原を駆けて渡った。そうして東の堤に北へ向けて歩まれた。

 また『盛衰記』に、那須与一が屋島の軍に扇を射しようとする時に、扇の紙には日を出した恐れがあったそうだ。

 要めの程と志して兵だが放った。

 思う矢所は違うことはなかったという〔『余禄』〕。

巻之35  〔27〕律詩、塡詞(てんし、中国における韻文形式の一つ)


 一斎が語ったと伝い聞く。
 
 詩は律詩にいたってはじめて平仄(ひょうそく、順序やつじつまを合わせる)がある。
 
 塡詞に至ってはじめて四声がある。

 塡詞は一字一音に尽(つ)き絲竹に諧(かな)えて甚だつつしむ。

 三字句あり、数字句あり。

 平韻、仄韻並び用いて厳かである。

 律詩の中李青蓮の清平調、第二首、第三首、共に起句、落句の第四字韻を押す。

 艶燕国北これこそである。やや塡詞の如し。また第一首の起句、裳容韻に於いて通じる。

 これ等の体は、もと教坊に清平調があれば、それに協えて作り出せる者にこそ、塡詞の鼻祖(元祖)とも云える。

 また云う。

 今人は書を写すに、多く省文を用いる。

 言家、台家の僧がその書を写のを見ると、略字を用いる。菩薩を省して()と書する類はこれである。

 漢土には肖立半字を以て『国』『策』をうつせることは劉向の文に見える。

 肖は逍の半字である。立は斉の半字である。古今人事異ならぬ、この如く。

巻之28  〔15〕享和子年浅草川の三股の煙火戯(はなび)

 
 享和子年(甲子、享和4年、1804年)に浅草川の下三股の辺りで、一橋一位亜相卿は煙火戯を観られた。

 その頃知る方より番付とて贈られたものを書写してあったので、見出したままを今ここにしるす。

 定めて壮観にてあったろう。

  花火順 
1番 流星   柳火           2番 打出し 群光星
3番 流星   武蔵野         4番 打出し 蜂巣立         
5番 綱火移し 金傘          6番 流星  銀河屋
7番 打出し  粟散星         8番     子持乱虫
9番 流星   村雨星         10番 打出し 乱火
11番 流星   庭月          12番 打揚  光雷鳴
13番 流星   赤熊          14番 打出し 星下り
15番 流星   千筋          16番     数玉火
17番 流星   柳火          18番 打出し 孔雀尾
19番 流星   星狂          20番 からくり 十二燈明替桃灯
21番 流星   三光          22番 からくり 打出し赤熊
23番 流星   玉簾          24番 打出し 花獅子
25番 流星   武蔵野         26番 打出し 群光星
27番 流星   星替り          28番 打出し 乱虫
29番      数虎之尾         30番 流星 柳火
31番 打出し  連竜火         32番 流星 千筋
33番 打出し  熊蜂          34番 流星 友別
35番 打出し  群光星         36番 流星 赤熊
37番 からくり 三国一         38番 打揚二段発 初雷後/晴天星
39番 流星   星狂          40番 打出し 星下り
41番 流星   武蔵野        42番 打出し 粟散星
43番 流星   七曜          44番 打出し 乱火
45番 流星   玉簾          46番 打出し 蜂巣立
47番 流星   村雨星        48番 打出し 赤熊
49番 流星   銀河星        50番 打出し 星下り
51番 流星   柳火          52番 打揚 光雷鳴
53番 からくり 白幣          54番 流星 武蔵野
55番      子持乱虫        56番 流星 村雨星
57番 流星   柳火          58番    綾虎
59番 流星   早替り         60番 流星 武蔵野
61番 打出し 群光星          62番 流星 千筋
63番 流星 銀河星          64番    孫持乱虫
65番 打揚 群光星          66番 打出し 玉簾星
67番    綾玉             68番 打出し 昇降竜
69番 水中からくり 飛乱虫     70番 数流星 大柳
以上

巻之4 〔24〕槍の鞘のはじまりは

  鎗は古代はみなぬき身である。

  今用いる鞘のはじまりは詳しくはわからない。
 
  ある人が曰く。そのはじめは油紙にて包んだことからはじまったのではないか。
 
  今、井伊氏の黄革の鞘、本多中書の油革の鞘など中結をした製、すなわち油紙にて包んだ時の形かと。

  なるほど御開創の旧家なれば当然である。

巻之90  〔12〕武役の柔弱さよと嘆く

 蕉堂曰く。

  11月朔日、若君様の御髪置の御祝式があった。

 その5日御祝の申楽を催され、諸有司に饗を賜われた。

 翌6日奉謝として老臣の邸を人々は廻拝した。

 某もその中にあれば、同じく廻動すると、大番頭の中の1人が書院番頭の中の1人が途中にて行きき合った。

 互いに乗輿の戸を引いて会釈した。

 よく見ると手炉に蒲団を掛けたものに、手を入れていたが、俄かに出して会釈している。
 
 両人はそれぞれ中年の人である。この冬は節季がおくれ、今も暖気にて寒を覚えない。

 殊にその時は未(午後2時頃)を下り薄曇りにて風もなく、春陰の光景の様な日であった。
 
 それなのにこの様な形容は如何なることであろうか。

 況や武役専一の人達のこの様な振舞は余りと興が醒めたこよとあきれ果ててしまった。
 
 近ごろは何かなることにて人々はこうも柔弱に成り果ててしまったと嘆かわしく思った。

 某は今年殆ど60であるが、未だ衣を緩く着ることをせず、火燵に当たることはない。湯にて手を洗う事はなく、駕籠の廉を下ろすことはない。
 
 また駕中に火器を入れたことはなく、家に在って障子を閉めることはない。某は固より寒を好むでもない。

 常に火器を使わないのは、必要でないと思う故にこそ。

 さても世には不甲斐性なる人もあると、しみじみ独り嘆いたと。

  蕉堂は儒官、わしは武家。

 且つわしの齢は既に蕉に倍すること78。

 つまり今隠老の身となっても、蕉氏との交流の為に劣えることなく元気でいられる。

 だから蕉氏の歎き尤も千万であるかと。
 

続篇  巻之4  〔5〕箱根七湯、木賀、底倉の二湯には

 箱根七湯の中、木賀、底倉の二湯には秀吉太閤の朱印がある。

 また神祖(家康公)の御朱印もある。

 木賀の亀屋新太郎と云う者の居宅の上の山に薬師堂がある。

 堂前の石に穴がある。

 これは太閤の入湯されたとき、この穴を鑿(ほ)り材木を指し入れ小舎(こや)をしつらえた痕と云う。

 この時の奉行は片桐氏にて、その名にて亀屋の先祖に朱印を与えられる。

 神祖もここに御入湯あって下された御朱印は先年箱根大地獄と云う地震があって、この居屋も山水に押しながされて御朱印を紛失してしまった。

 けれどこの故にて、木賀の温泉は今に両御丸に樽詰めにして献納した。

 これも以前は亀屋より直に納めた所、近来は小田原侯より献上されていると云う(鼎、目撃の話)。
 

三篇  巻之8  〔12〕 御本丸御月見のとき用いられた御島台

 
 1日(9月)一斎に話すことが有って物語る中に、上野の宮の御許に参じたとき、御本丸御月見のときに用いられた御島台とて、宮の御傍に在したものを見せていただいたが、その台見就(みつ)き一間にも過ぎるので、裏に人物あって凡そ50余りとも云うベく、居室草木みな具わっている。
 
 人形の長(た)け1寸5分ばかり、家屋もそれに協う。

 而して屋中にある器の大略、文台の大きさは1寸ばかりになり、文房の具はみなギヤマンである。

 その小さなるものを知っておきたい。

  また時計があって、高さ1寸3,4分、自ら鳴ることはないが、その体は本物と異ならない。

 他の器も推して知っておきたい。松の樹の根末は囲いで2尺許(ばかり)、蟠窟から垂れた枝は居室を覆っている。
 
 能く視ると、朶々(えだえだ)みな鼈甲(べっこう)の女櫛を比(なら)べ重ねて、梢葉の状をなしている。
 
 宮の仰せには、僧のこの様な物を用いる所はないと。

 実にただ翫覧に提供する耳(のみ)である。

 王維(中国盛唐の詩人画家)の画賦に、丈山尺樹寸馬豆人と云える、想いは合わさった。

 巻之80  〔4〕沼田領の奇植

 林子が云う。
 
 近ごろ〔丙戌5月、文政9年、1826年か〕沼田領〔土岐山州〕に奇植があった。すなわちその藩士より我が社中に示す紙片とて転送する。
 
 上州山田郡梅田之里、左羽清右衛門と申す者の庭に、野篠よりは長け高く、朱色にて少々節がある。
 
 花は石榴の様で白く一本に五りんほどある。このものは二根が生じている。

 また同処粟田清蔵と申す者の椽下に、女の髪の毛の如きもの二間ばかりの内に生じております。これは女の毛髪を植えた様に本末もなく、細く長け一尺五寸ばかりある。この二物 は如何なるものかわからない。吉凶悔吝如何、博物君子に問うことを希う。
                       同所奉行 相馬武助
                       同町支配 藤居久八

 愚考には、前の朱色なるは天麻だろう。

 先年この隠邸の外園にもふと一根を生じたことが有った。

 翌年には生じなかった。
 
 後のものは、先年三河の人の随筆に、かの辺の寺に蔵めた七難のそそ毛と称するもの、また往昔の霊婦の陰毛と云うものこの類だろう。

 その書今は失ってしまった。

三篇  巻之70  〔18〕金森氏宅焼失と左右の者と言論す


 世に久しく謂う、陥話(おとしばなし)と云う如く、真実もまたある。

 近頃のことにて、わしの東近の野宅に、旗下の小普請衆が住んでいたが〔金森氏〕、ある日、晡時(申の刻、午後4時頃)の前に、火を出してその家屋は焼失した。

 わしの左右に侍(はべ)る者達は驚き騒ぎ、種々の言論に及んだ。

 1人曰く。「この頃付け火の災いが所々にあります。甚だしい災難です」。

 また1人曰く。「この度の災いは、自火なれば憂えるに足らずでしょう」。

これを聞いて、わし曰く。「自火付け火と比すれば、尚悪しだ」。

続篇  巻之3  〔4〕真鍮銅壺

 わしの荘の近辺吉田町と云うのは、商売婦を抱え置く者の住所である。

 この売婦を買う者が時々煙管を忘れたり、道に落としたりしていた。

 売婦がそれらを拾って帰れば、その主人の某は受け取って、女には駄賃を与え、集めた。集めた物が山をなしたとき、鎔かして大銅壺を形成して、己の厨房で用いた。

 これより某を目して真鍮銅壺と呼ばれるようになったと。

三篇  巻之11  〔9〕浅草寺静御前の薙刀の誤った伝と浅草寺の鐘の後の通行を停めること

 『江戸志』浅草寺の条、貞雄の補いに、静御前の薙刀が観音堂の内の後ろ本尊の前、かもいの上に、昔より掛けてある。来歴しれず。また誰人の納めたと云うことも伝わらない。

 わしは因みに思った。希なる物で、就いて能く視たほしいと。先ず梅塢(荻野梅塢、1781~1843年、江戸時代後期の武士)は、かの寺内には僧の門人が多いので、塢(土手の意)に託して問うと、寺僧は嘗てこうは云わない。
 
 また本山東叡の仰せつけと云っても、猶更(なおさら)ない。その本は、何者か堂守坊主どもが、檀家の上り薙刀などを、夜盗の用心にかしこにかけ置いたものであるのではと。わしは再び遺念(思いを後に残す)が絶えない。人を遣わして観るに、なるほど今世は女子の婚礼長刀(ナギナタ)と称する体の、柄の長く刃の短しは、殊に後世の制である。且つ甚だ塵汚鏽垢の状で見るべくもないと。
 
 すると傍々、静に名を託して云うよりも、こうして誤りを伝えるのもまた久しい。これ等冠山老侯の、苦心して編述した、『浅草寺誌』にも遺漏(手落ち、手抜かり)なので、これは亡き友の追善と記した(御草案敬覧仕候所、条々おもしろく、殊に浅草之古考など別にして御出来と存じあげる。却って御文体よろしくあるので、先年之如く塗りつけも仕ったと申す)。

  また一事は、浅草寺の本堂前仁王門は、昏暮〔六ッ時、午後6時頃〕の鐘を撞くと、閉じて通行を停める。わしも近頃童相撲御覧のとき、夜陰に往って正しく視た。毎夜禁行の後は、この門前に幣束三本を竪て賽銭箱を置いてある。

  これを聞くと、近く寛政(1789~1801年)のはじめ、かの寺の執事代妙智院と云う者の意作であって、何か観音を深遠にしようと、このように為た。今は訳あり顔に設けて置き、浮説までを増やして、観世音は忝(かたじけな)くも、天照御神の本地なのでなどと云うと。これも冠山老侯は記しもらしたと聞く。

  この天照御神の本地を観音と云うことも、禁裡(宮中)にある二間の観世音と申すのは、十一面にして、天照御神を本地とすること、東寺長者の口訣(くけつ、口で言い伝える秘伝)にして、18日二間観音供とて、いたく秘することが、『東寺長者補任』等に見えると。

  また『禁秘御鈔』には、二間とは、温明殿〔内侍所〕の神鏡の坐(ましま)す所に隣にあるので、このように唱える。ここにその観音安置座すゆえとのこと。これ等附会の本であると、また梅塢曰く。

巻之69  〔3〕水戸侯の大曲伝授

 去々年〔癸未、文政6年、1823年か〕の秋ごろ、水戸殿は笙の大曲伝授を得られ、蘇合香一具を催されたが、箏の人の腕前が相当に素晴らしいので、林氏〔蕉軒〕をその日招こうと、予め人を通して林氏にそのことを申し入れた。

 且つその日は装束の心得なので、用意するようにと内々に知らされた。

 水邸は従来林氏の御懇意なので、兔口(とこう)なく承諾の御請け申した。また申すには、「御遊宴のことなので、冠袍を具するとも存じられません。その余装束となれば大紋になるのでしょうが、これもどのような規模になるのでしょうね。相公は何を着られますか」と問うた。

 (話を持ってきた)人は、「直衣のよし。その余の人々は狩衣でございます」と云った。

 因って林は又「武家の五位は禁裏附、仙洞附など、京にては狩衣を着すると聞くが、関東にてはこの服は四品人躰の服となれば、それを用いるのは僭越に邇(ちか)いのでは。且つ着用のものもありません。すると有り合わせの鎧直垂を着て、揉(もみ)烏帽子を抹額(まっこう)にて結いあげて、白太刀佩(は)いて、御席に侍りましょうか」と申した。

 某は再び来て、「鎧直垂は無用になさってください。ただ常服になさって下さい」と云えば、催の日はその如くして赴いた。勝手の間に通され、近侍の人をして、「この日は抂(まげ)て狩衣を着ておられた。

 既に用意したとて、藻かつみ紋〔かつみは古紋であるが、林氏は殊にこの紋を好み、諸器にこれを出しておられたので、態(わざ)とこう為されたと見える〕を織りだした香色の狩衣に浅黄平絹の指貫どもを新調して持ち出されたので、表向きのことにも非ればともかくとも、狩衣を着て箏を弾いたと云う。宰相殿は直衣にて、指貫の外括を解き引かれた。

 その余相手の輩、伶人等みな狩衣であったという。

 こうして公は雅尚深く、古風を好まれ、動(やや)もすれば搢(しん、差し挟むの意)紳家の様なことが多いとぞ。

 故に公鑑が殊更に鎧直垂と云ったのは、激敖(ごう、奢り、やかましいの意)ばかりでなく、頗る諷意(ふうい、当てこすりの意)があってのことだろう。

 面白いではないか。
  

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