巻之七十四 〈8〉 地震占

昨年屋代(弘賢、国学者。1758~1841)が手に得たと、行智の1枚の紙を見せてくれた。
地震の占いだとあう。つまり、

 日 風 疾 雨 日 風 疾 雨 日 風
 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 子
 疾 雨
 丑 寅

卯以下は日夜の刻である。
日は日和り、風は風吹くである。
疾は湿になるし、天気は曇る。
雨は字の如し。
これに依れば、世俗に
九はやまひ五七の雨に四つ日でり
      六つ八つなれば風と知るべし
というものがここに出ているにちがいない。

続篇 巻之99 〈10〉 世の中の理、理外

世には理外かと思うことがある。
ある時聞いたのは1人の婦人のこと。

誤って縫い針を足の裏に踏みたてると、深く入り半分は折れてついに出てこなかった。
痛みは甚だしくあるが、為ん方なくそのままに打ち過ぎた。
その後は総身の内を所々痛みが廻ること数年になる。

ある時、肩の上に腫れ物が出来て疼き、悩んでいた。
依って医者を頼り、膏薬を貼って膿んで、次いで口があいた。
膿汁が出る中に一物があった。見ると、先年足の裏にたてた折れ針だった。

人々は驚き、当人はますます不思議を為したと。
これは足から体の中を廻り、終いには肩の上から出る。如何なる道理だろうか。

またわしが世話している角力取りの弟子に、幼年の時に銭を口に入れて遂に呑み込み腹の中に入った。
そして年長けるに随てその腕を見るとかつて呑んだ銭が腕の皮底にうっすらと見えた。

これを撫でると、本当にその銭だと。
口より入った物が腕の肉の中に移るものか、不審なものではないか。

また長崎の人が語った。先年のこと。
かの地の老夫の肩に瘤が出来た。

日が経つにつれて大きくなり、後は難儀になったので、外科に見せた。
瘤を切り毒を出したら治るだろうと云った。

瘤を切ると、瘤の中から種々の魚の骨がおびただしく出た。
人がその由を聞くとこの老人は、若年の頃より魚物を食うことを嗜み、毎(つね)に骨を遺さなかった。
人はみな奇(メズラシ)と云った。

つまりこの積骨は体中にあって、遂にこの疾を発したかと。

この理奈(いか)ん。

巻之62 〈19〉 老職、得体の言

林曰く。
ある人の談話に、故豆州〈松平信明閣老 1763~1817〉、臨終前の疾病は、腫気によって不通になった時に、1人の医師が腹案して小水を通じる秘術を為す者がいると聞いた。
その者を呼んで、腹案せしむれば、果たして通利があった。
その翌日に医師が来てまた案ずると、豆州が云った。

「今度わしの疾病は不治と見た。もはや案ずるに及ぶまい。
併せてこの法は平素未だ知られざる奇術である。
諸人を救うべき大切な術なので、秘せずしてその伝を広げるように」
と、諄々と暁諭(ぎょうゆ、言い聞かせる)されたとぞ。

真に老職の得体の言と言うべきだろう。折に触れ何かの事どもを思い出しては、痛惜(非常に惜しい)に堪えざる人である。

巻之62 〈4〉 酔いの妙薬

(※ここにある民間療法は行わないで下さい。昔の史料紹介の意図のもとやっております。)

船駕の酔い止めの妙薬と、松平楽翁が語るものを息子肥州に伝えた。
その法。
桜の皮。茄子のへた。
両種を黒焼きにして等分を合わせ白湯でのむ。
尤も功験ありと聞く。
未だ試しておらぬが。

※ここにある民間療法は行わないで下さい。あくまでも当時の史料紹介の意図でやっております。

巻之62 〈5〉 火傷の法

(※ここにある民間療法は行わないで下さい。昔の史料紹介の意図のもとやっております。)

湯の火傷には、鮑の貝がらにぬるま湯をいれ、火打石で、繰り返し貝を磨けば、米の研ぎ汁の様な白水になる。
これを患部に塗れば即時にいえる。
上は大奥の婦女にこの患があった時に、施して功験あったと某は語った。
わしの医仕謙斎もこの法を知って、すこぶる効果ありと云う。

※ここにある民間療法は行わないで下さい。昔の史料紹介の意図のもとやっております。

三篇 巻之38 〈3〉 早岐の大念仏、疫病を失する

先年林子と会晤(かいご、会う、晤にはうちとけるの意味を含む)したとき、林は咲いながら語るには、川句に
  先祖の武功他人より聞く
あきらかな事である。
実に勤行して知を致すようにと。

また何にも然るは、この頃永昌寺へ詣したときに、今の和尚はわしの領邑生まれで、城地の北大嶋の人だった。
また領分佐嘉堺は、城下より13里を隔てて早岐(はいき)と云う。
和尚は如何にして聞いたのか、定めし西来の人が話したのだろう。

そのことは、界領早岐で、常年に大念仏と号して、村男農夫輩大勢集まり、鉦鼓を鳴らし、衆人同音に念仏して、禾(いね)生及び田里の安穏を祈る。

然るに当歳(今年)は、夏の後疾病大いに流行して、多くの人命が失われた。
だから里人は相謀り、かの大念仏を興行してこの疫を祓った。

その様は、常に会同する1隊の衆に増して、三隊と成し、鉦は径(わた)り2尺も越ゆるにちがいないものを隣領より借りて来て、撥(バチ)も巨木で造り、これに小鉦1尺内外なるものを数多加えて、鼓も巨大なものを用い、小はまた更に尚多い。

その人民の聚合(集合)は、以て推し量るよう。
また大衆(だいしゅう)同音に叫喚し、念仏を唱えるとその響きは村落にみちて、すこぶる風音を遮った。

このように天空にや通じたのだろう。地の果てにや応(こた)えたのだろう。
疫病はあきらかに絶って、人は安きに居ると。

この仏力にもせよ、偏(ひとえ、一途にの意味)に人の勢いにしかるべきものか。

(注)
永昌寺:台東区東上野にある浄土宗の寺院、永禄元年(1558)創建。
肥前平戸藩松浦家の菩提寺。
境内には、講道館柔道発祥之地碑がある。
(嘉納治五郎が、明治15年(1882)2月 永昌寺の座敷で柔道の稽古を始め、講道館の名で道場を開いたという。)

続篇 巻之22 〈12〉 怪談  その1

1日外に出ずにいたら、路上で売り歩く者がいた。
「云々」と呼びかけた。
使者に命じて、売りものの紙片を買い取って視ると、曰く。
常陸国谷田辺(現 谷田部)村の奇病轆轤首(ろくろくび)。
ここ常陸国戸根川つづきの浜づたいに谷田辺村という所に、百姓作兵衛の妻、喜久と云うものをが近頃ふと煩い床についた。
日増しにやせ衰え、甚だしく大病となり、色々な医薬を用い、加持祈祷などつくしたが、その験もなく、次第に重くなっていった。
今は頼み少なく見える処にこの村に年久しく来る商人がこの体(てい)を見て申よう。
「ヶ様の病には、白犬の肝を取って呑めば、たちまち治るから」と話すと、この作兵衛の所に畜(かい)置く白犬がいた。
かの商人の噺を聞いたが、かの人が帰る時に、門に臥(ふ)している犬に大いに睨まれたので、商人は身の毛だち、またいい直して「犬よりは雉の肝が格別きく」と云い捨て帰った。
主は幸いに「この犬を殺そうか」と尋ねた処、その日よりこの犬の姿がしばらく見られなかったが、5、6日を経たある夕方、何処からか雉1羽をくわえて帰ってきた。
主は夜陰に白犬を目当てに、それとも心づかず棒で打ち殺し、この肝を妻に与えると、たちまち病は治った。
日を追い健やかになったが、2、3年を経て娘が生まれた。
蝶よ花よと慈しんだ。
生長するに従い類なき美婦となり、近頃の評判者となった所に、いつの頃からか誰いうとなく、「作兵衛の娘は轆轤首だ。この程毎夜現れて、誰某の寺の墓場で見たよ。誰は川下の渡り場で見た」など風説がなされた。
だが二親は更に心もつかずにいる処に、この10月中旬のある夜かの首が抜け出て、井の辺を遊び廻る所を何処ともなく白犬が1匹寄って来て、この喉にかみつき、遂に嚙殺したという。
不思議だ。
思うにこれは先年妻の為に飼い犬を殺したが、犬は妻の命を救おうと雉を取って来たのを、作兵衛は故なく殺したから、その恨みを子にむくい、ヶ様の奇病となり、剰への畜類の牙にかかり、愛する子を失った。
報いの程こそ恐ろしい」。
この怪説は取るに足らないけれども、少しは形代があることなのだろう。
これに就いて思い出す事がある。10余年前に紀州の徳本行者が、江都に出て念仏の教化があって、諸人に帰依させたことがあった。
武州か常陸か、今その処は忘れてしまった。
徳本は、郷民に念仏を勧め、説法して人みな集まり聴いたが、ある時一匹の犬があって俄に徳本な吠えかかり、噛みついた。
徳本は驚いて逃げたが、犬は遂に齧(か)み殺したら、大きな古狸の正体を現したと云う。
その頃、片紙に記したものを坊間に売り行きたが、その摺板を失ってしまった。

続く

続篇 巻之22 〈12〉 怪談  その2

また『四神地名録』に曰く。
武州多摩郡国分寺村の名主儀兵衛の宅に、狸が書いた筆跡があると聞いて、立ち寄って見た。
三社の託宣で、てん字、真字、行字とり交え、文章も取りちがえた所もあって、如何にも狸などの書いたものだろうと見える。
狸が出家に化してこの家に泊宿したのは、儀兵衛の父の代であった。
京都紫野大徳寺勧化の僧で、無言の行者と称して、用事は書を以て通ずる。
辺鄙の名主ゆえに有り難い僧の様に思って、馳走をして泊めたとの事であった。
その後に聞くと、北武蔵のうちで、犬に見とがめられ、くい殺され、狸のかたちをあらわしたとの事だった。
むかしよりも、狐狸の年をふった者は書をなすものだと聞いたが、信じ難く思って居たら、この度狸の書を初めて見て、謬説(びゅうせつ 間違った説)ではない事を知った。
儀兵衛の父もかの僧(狸)も犬にくい殺されたと聞き、滞留の初終を勘(かんが)え見ると、怪しき思う事も2、3度もあると、今の儀兵衛が物語ったとの言い伝えあり。
世には怪しき事もなきにあらず。

続く

続篇 巻之22 〈12〉 怪談  その3

また武州多摩郡中野村の名主 卯右衛門なといって、かしこい者が夜語りしたが、前文に記した狸坊主は卯右衛門宅でも一夜泊める口実にして、その物語りを聞きに、食事をする時には人を除いて食らったと云う。
寝るにも屏風を引き廻し、夜具でからだを包廻し伏せる体なので、怪しい出家とは思わないが、狸の化けとはさらに心づかないので、その後犬にとられた様子を聞いて、怪しく思った。
狸が化けた僧ではないかと、再びおそれ驚いた事と物語った。この様な話には虚説が多いものだから、この狸の出家化けは、実説に聞こえない。
すると、この辺りには狸が化けは1度ではない。
また犬の為に命が終わるのも、過去の因縁、前世の宿敵なのか。またこれに就いておかしい事があるのは、わしの領邑平戸の中の安満岳〈西禅寺〉の里坊に妙顕寺がある〈真言宗〉。
片田舎で幽寂無人の堺である。
ある夜総角の美童が1人来た。
住僧は心から悦び、芋を茹で、黍(キビ)を炊いて食わしめ、泊めて宿させた。
僧は衾(ふすま)を同じうして甚だ楽しみ、貯置きし朱塗りの印籠を与えた。
童もまた喜んだが半夜を過ぎていで去った。僧は眠らず待ったが暁になっても帰らなかった。
僧が起きて尋ねると、堂の後ろの篁(竹やぶ)中に童が倒れ伏して、前夜に与えた印籠を腰に下げていた。
よく視ると古狸だった。
僧は大いに驚いて、その倒れた状態を詳しく見ると、龍陽(男色)傷破したとのこと。

霖(リン)子曰く。
「嗚呼、住僧はこの様なる者の後身(生まれ変わり)なのか」。

巻之49 〈44〉 徳廟の御威光

これもまた市岡老人の物語りと同日の話である。
徳廟(家康公)が本庄へ御成のとき、在郷の川辺に行きかかられる折りに、その筋からこの処は、御通行御無き様のよし申し上げられた。

徳廟は「如何なるゆえにや」とお尋ねあった。
御答えに「今少し前にこの処で水死の者が有りました」と言上した。
上意に「それは何処であるか」とお尋ねになった。
その所を申し上げると、直にその所に往かれ、親しく死人を視させられると、固(もと)より水死なので、その体も腹がふくれていた。

それをご覧になって、「この辺りに鵙(もず)があるだろう」と仰せなので、左右の人々その余まで馳せ廻り鵙を1羽取って来た。
そのとき上意に、「この物を主として某々の品と合わせてみよ」との御言ゆえ、御薬掛かりの者は早々に調べてかの死人に服用させた。

やや有って、蘇生したとのこと。
その日、市岡はこの事を取り扱ったゆえ、その御法下された事、今に市岡の家伝としている、と。

また丹後守が云うには、この御法は水死に甚だ功あり、と。
しかし時が過ぎた者は蘇らない、と。
但し、徳廟の御時のは、余程時過ぎての措置であるが、要するに御威光ゆえか不思議にも蘇生したという。

巻之61 〈1〉 春のはしめの口占

当年〈乙酉〉の春のはしめの口占に、

春毎にかしらの雪はそれながら
    君のめぐみぞ猶つもりける

この後林氏の文通に、御先手頭役を勤める春日八十郎と云う人は、今年生年80に満つる〈官年は80有余だという〉。
この正月元日妾腹に女子を得て、年頭御札◯、退出の後に、参政衆へ届書を呈した。

己の名を八十(やそ)と云い、齢も80となれば、その女子に名付けて八十(やそ)と云うと南(なん)。

いかちも矍鑠(かくしゃく)たる老人で珍しいことだと。
因みに林子がわしにいうは、「御老侯にも50余より60余にかけて多くの榴房(りゅうぼう、榴はざくろ)福がございました。定めて80に成られる頃までは螽斯(しゅうし、螽はイナゴ、キリギリス等)振々たるものですね」。

春日はこのことを冊首に記され、他年の證とし給えとの言なれば、げにも春のはじめは芽出度祝うことと、その事を注記して、この筆端とする
〈今年も妾2人妊した。1人は富田某、1人は森某〉。

巻之46  〈11〉 日暮の墓場いましめ

平戸の老医師が人に語った。

まる癆(ロウ、衰え痩せる)症で死んだ者の墓場辺りには、日暮れ過ぎたらば、児どもなどやらぬこと。

陰気になれば、不図かの気を受けるものであると戒めと云う。

心得ておいた方がよいか。

続篇 巻之29 〔15〕 御灸

 御医某が弟子に咄したと聞く。
上の御灸のときは、鍼医師は経路を申して、御医は御点をさす。

 たとえば穴所が御肩だとその所、御背部ならば御衣の御後ろ、御章門ならば御衣の脇の所を、はじめからほころばして、その御灸穴に当たるところを開き、御灸をあげるという(患部の衣の所をほどいておく)。
珍しい(話を)聞いたので記した。

続篇 巻之46 〔10〕  今大路道三の養生訓

 林氏が話した。

 猶廟(家光公)の御時名人と呼ぶ今大路道三に養生の訳を御尋ねになられた。
即坐に一首の狂哥を吟じた。

    養生は無欲正直火湯(ヒユ)だらり
          心のままに御屁(オンへ)めされよ

 いかさま飲食男女の慾を始め、人身を傷(そこな)うものみなわが慾から起こることが多い。
意を正直にすれば心労はさらにない。

 詐欺謀計さまざまなことから自身の思慮を悩ます。
火は当たること、湯は澡浴のことで強い火に当たらぬように。
熱い湯に浴(イル)べからずと云うこと。

だらりはその時の俗言であったのだろう。
人々がよくこの歌を守るならば、養生の術は足りぬことはないかと。

巻之30 〔35〕  お灸

 かつて田沼氏の執政のとき、その家老井上伊織は殊更にときめいていた。
その1つを挙げると阪大学と云う輪王寺宮の家司が、貨幣融通のことで伊織の宅に行き、謁見を請うた。
が取り次ぎが云うには「主人は出勤前で灸治療をしています。
だから今朝は会うのは難しいです」と答えた。

 大学は「急ぎの用でございます。
如何ようでも会っていただけませんか。
推して目通りを仕りとうございます」と云った。

 「さらば通られよ」と云うので入ると、伊織は出勤前なので継上下を着けて、物に腰をかけ足三里に灸をしていた。

 灸をする人を見ると、御船手頭向井将監だった。
また羽織を持って灸の灰を払っている人を見れば、御勘定奉行松本伊豆守である。

 大学はとても驚きその場を去った。
これは後に大学から直に聞いたことである。
この頃の世態は、聞いても驚くばかりである。

巻之10 〔16〕 凶兆

 慶長(日本の元号、1596~1615)中に、大風雨で春日の神木ことごとく仆(たお)れ、社殿も吹き倒れた。
神官が告げて来たが凶兆だと云う。

 そのことが神祖(家康公)の耳に入り、神祖は咲(わら)われて、「社宇はや修繕の期が至ったのだろう。吹き倒れた神木を用いて速やかに造営するように」と御再興がたちまち成った。

 而(しか)も後変異は無かったとのこと。

巻之59 〔6〕

 『平家物語』の橋合戦の条に、「浄砂坊はほうほうの体で還り、平等院の門の前の芝の上に物の具えお脱ぎ捨て、鎧に立っている矢目を数えたら63。
裡(うち)かく矢は5か所。

 去れども痛手にならぬなら、所々に灸治療し、頭(かしらはからげて、浄衣着、弓切り折り、杖をつき、平あしだ(歯の低い足駄)をはぎ、阿弥陀仏を申して、南部の方へと往った」と見える。

 ある日豊川勾当が琵琶を弾いて、この条をかたるとき、傍に那須玄盅〔げんちゅう、官医〕が居て、切り瘡は即坐に火で煬(あぶ)るように。
すると血は忽ち止まる。
膏薬、ひき薬等は瘡口がうむことがあるが、煬れば曽(かつ)うんだことはない。
漢方はこの方法が見えるのはほとんど見当たらず、全くの和方と思えると語った。
未だ治験は為していないが、浄砂坊は灸したという。

 *この手当は、当方では全く推奨しておりません。
医学には全くの素人だからです。
これは当時の史料として出しているものであります。

続篇 巻之84 〔11〕  世に解せないことも多いが、基本わしは世に疎いから

世に解せないことも多いが、基本わしは世に疎いから

 「今年10月11月の間、天行の邪気が甚だしくて、老いも若きもみなそれに患に罹って回復する者なし。
但々病の軽重は人々によって違う。
多くは咳となって小児の感じやすいものは衂血(はなぢ)を発せることもある。
わしは医にその説はあるが、また解せない所あるがと問うた。
林子曰く。官家でも出仕の面々が長髪を免され、供人は減少、または長髪等苦しきなき由を令(ふれ)られた。

 途中で行列(葬列)を立って往来するのを見ると、徒士から始まった駕脇手廻り等までみな長髪で、喪家の人の往来歟(か)と訝しくなどと、人々は笑っている。
またその後、殿中廻りが済むと〔これは、正午に老中は席々を巡行すること〕、病を押して詰め合う者は、勝手次第退出するようにと令られた。
珍しい程のことである」。

 わしはこれにつき思うに、10余年にも及ぶ。
猫の疫が流行して、野猫、畜猫、みなこれに罹った。
あるいは故無くて忽ち潰し、または屋上にいるものが俄かに墜落して死す。
これは全くその邪に遭ったものである。
この時人は疾病は無い。

 ある人曰く。
1年鼬(いたち)の疾病があって、これも猫と同じかと。
天地間の気は計られぬものである。
林曰く。
牛馬疫のことは諸書でも見た。
小白曰く。
この度ほか邪の流行につき御令等のことは、先年わしが勤めていたときも、これと同じこと両度まであった。
林子も覚えているはずである。
するとこれを珍しいとも云い難い。

三篇 巻之71 〔17〕  大御所さま、御不例につき

 旧冬(辛丑)から、大御所公は久々に御不例(貴人の御病気)に坐されたが、御掛念申し上げる御容体でもない。
つまり、この正月15日に、昌成(連哥師)のもとに文音の返辞に、

 大御所様御不快につき、御祈祷の御連歌仰せにつきたりなどと、云い御答えになった。

 「ならばこのような御祈祷の連歌と云うことは、吾輩には不審である。如何なる訳か」。

続篇 巻之61 〔6〕  夢の裏を語る

 ある人が語ったことは、
 近頃ある官毉の何院と称する者が、酒を甚だしく飲み家に帰り休んで居たときに、「御不例(貴人の病の呼び方)につき出るように」と召された。
それで早速出仕して御脉(お脈)を診て、大した御容体でもないので、やや御薬を改めた。
そして家に帰り、その部屋に入るなり、安心の為か忽ち酔いを発して、前後不覚になって床に臥した。

 それから後大奥に入られたが、女員の中から、「その院は、昨夜は御前で不束(ふつつか)なことになったとの由。御容体の窺いは大切な御ことなので、以来の御戒(おいましめ)もあるべきでしょう」と申し上げた。
御諚(おおせ)には、「なるほど、昨夜の某は脉診があったが、それほどの体とも心付かなかった。その上このような戒などは表向きのこと。内向きに言い扱うことではないとの上意である」。

 聞く者はみな感歎して、徳廟の御遺風だと賞したという。これは夢裏に夢を語るの談のみのこと。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR