巻之四十五 ニ六 はしか(病)と禁忌

去年、西国よりはしかがはやり、この春は東都に及んだ。

官医中川常春は、はしかを治す書を記し、人々に印刷してひろめた。

特に禁忌の事を述べている。

さて、利倉某というおかしな男の事を話したい。

その男、年は50になるが、熱が出てとこに伏せた。

12日は起き上がれなかった。

ある者が見ると、はしかだと。

それで、お前さんははしかだから、薬を渡そう、よく養生をするがよい、というと、その男は、はしかではありません、はやくもよくなりましたよ、といった。

それでそのままにして置いた。

その男が仲間に云った事によると、50になってはしかとは人聞きが悪いとのこと。

それからその翌日は、いつも月代(さかやき)を手入れしているかのように、髪を結って出掛けた。

かつ酒気もあるので、どうして早く回復したのかと聞くと、もう全快したので風呂に行った後、まぐろの刺し身に酒を呑んで来たと。

聞いた者は呆れて、それからはその者の事は捨て置いた。

後日、その者が外出する時、日々駕籠に乗っているが、別にどうと云う事もないという。

 

また、ある人の話によると、吉原町か、どこかある名妓がこのはしかにかかるが軽いので、しばし引き篭もって養生をしたらやがて回復した。

よって(店の)頭もこの様に軽くすむのなら、障りなしとすぐに客を迎えた。

その後朝(きぬぎぬ)より芸妓は再発して遂に死んでしまった。

これで、頭は驚き、この病にかかった他の芸妓には禁忌を守らせたのだという。

命を落した芸妓は鶴屋の大淀という。

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続編 巻之25 〔8〕 阿片たばこ、随軍茶

清の商用で渡来する者が船中で阿片たばこなるものをのむらしい。
これは阿片をねって、煙管の火皿につめて、火をつけて煙をのむ。
阿片はしみる性質をもつので、眠気を催すことはない。
だから洋上で、安針役が眠気を起こさないためにつかうという。
けれどもこの煙を吸う分量が決まっていて、分を越せば、病に倒れ、害を及ぼす。
また安針役は三、四年の内に死ぬ者が多い。
みな阿片毒により別の病を引き起こすのだ。
「本草啓蒙」曰く。阿片。芥子のやに、芥子の実、或いはつぼみを刺してその汁を採り、あつめかためるもの。
林子曰く。そうではなく、けしの実の房になる時、その房を刺して、液が出るのを採りあつめる。
又萩の漢名を胡枝子と云う。
「本草」には見られないが「救荒本草」にはこう書いてある。
胡枝子、俗にまたの名、随軍茶という。若葉を採り、蒸して茶として飲むのも可能であると。
先年、何かの書に随軍茶は、従軍の者、夜警の者が飲むと目が冴えて眠くならない。
だから、戌卒(じゅそつ、国境を警護する兵士。
城砦を守備する兵卒)などが用いる物だから、この名があるというが、今、出所を忘れた。

続編 巻之16 〔3〕 家康公の薬

家康公は引起と云うお薬をお持ちだった。
この御方、大阪御夏の陣のとき、緒陣に下されたと云う。
水あるいは白湯にてこれを飲むと、元気をひきおこす、よく効いたとのこと。

※薬が六種書いてありますが、薬事法があると思いますので、ここに書くことは控えております(原田)

巻之十 ニ六 山伏の祈祷

わしの領内の村々にか里みこと(郷医者、原文は巫の上に医と殳の字、意味は医者)を置いている。
この者が田夫野婦(でんぷやふ、教養がなく、がさつな様)の療治をするという。
田舎風はとかく疾病には祈祷をして癒ゆる事が多々あった。
だから、山伏に頼み祈ってもらう。
一日、村の病人の家に郷みことと山伏が顔を合わせて、この病人は某が祈って験ありと云い、みことは薬治で功を得たと云う。
後は互いに口論するがやまない。
その時、みことが云うには、その様に祈りで験ありと云うならば、まず我を祈りで殺してくれないか。
すると満座の人はその手際に伏くするだろうよ、と。
わしもまた汝に毒薬一服与えよう。
この場で飲んでくれ。
その様子を見ようと云うと、流石に山伏はこれに辟易してその場を逃げ去ったということ。

巻之四十八 ニ五 入れ眼

入れ歯は耳にするが、入れ眼があるという。
先年ある歌鼓がそのことを語った。
それを尋ねたら、ある家の奥方が病を得て、片目を失った。
婦人なので深く悩み、眼科に治療を頼んだが、医者から見ても回復はならぬと云った。
奥方はますますもだえ苦しみ、強いて手術を乞うた。
医者は、ならば入れ眼をすることにして、それは出来た。
やり方は、まぶたの間に仏工の用いる玉眼を入れるという。
傍の者さへ真の眼と思った。
かの奥方は大変悦んで、それが玉眼であることは黙っていたので、知る人はいなかった。
ある日その家で宴があって客が多く座っているとき、蜂が屋内に飛んできた。
みなは逃げたのだが、蜂は奥方の眼の辺りを飛んだ。にも関わらず、眼の瞬きがなかった。
この時、人はみなそれが入れ眼なのを知ったのだと。
笑うべき話である。

巻之三十七 七 ブトの痒みへの効能

ブト(関東ではブヨ)に刺されると、血が出てたまらなく痒い。
大きく腫れて悩む者が出てくる。
これを治すには何はともあれ生薬三種の葉をもんでその汁を塗ると即効く。
閣老故松平豆州が伝えるところ。
わしも度々試みるが、常に効き目を感じる。
また骨鮫痛(鮫料理の骨を喉に引っ掛けて)には、その魚の骨を頂上(頭)に置けば、苦を脱することが妙である。
これはわしが少年の頃、ある人が伝える法である。
後試しにその肉を置くと同じ効き目があった。
また他の魚の肉を置くのもまた効き目がある。
ある日、わしは茶を飲んで、茶がらを喉にひっかけて苦しくなった事がある。こ
の時も茶がらを頂きに置いたところ、即痛みが止んだ。
また一人の婦人が、蕎麦切りを食べてその竹の器のトゲを喉にひっかけた。
これも前のやり方を習い、蕎麦を頂きに置くと、トゲは脱して痛みが止んだ。
これは同理だけれども、前の条とは異なるものである。

巻之七十 〈ニ三〉 狐のうらない。火事の後に寺地を変える

溜池のれいなん坂は、今は品川東禅寺があった所である。
その寺の開山を嶺南和尚という。
明暦の大火(1657年3月2日〜3月5日)の後、品川に寺地を下されたが、その名残りで坂を嶺南と呼ぶ。
また嶺南和尚は火災後、寺地を移すとき、この寺開基の檀那伊東候〈日向飫肥五万余石〉と共に海浜を連れ立って行くと、一匹の狐がいた。嶺南のころもをくわえて引くのだ。
嶺南は即その地に寺を建てた。
今の東禅寺の由縁である。
外門の額海上禅林と面している。
また云うには。
この寺の住持を遷化しようとする時は必ず狐がいて出てくると。
吉凶、いかなる兆か〈林氏云う。
火事の後に寺地を変えることは、昔の定例でおびただしいことであった。
皆、官家の命に出て、私的に地を交換することではなかった〉。

巻之六 〈二五〉 医治の心得:乞食非人といえども、求むる者がいる時は薬を与え候

享保年鑑、御医師望月三英が河原者の市川団十郎が重病になったのを治療した。
ききめがあったと人々が沙汰するのを、橘収仙院が御脈を診(み)奉る者があるまじき事となじった。
三英が申すには、「医治の事においては、乞食非人といえども、求むる者がいる時は薬を与え候心得のよし」。
後で、御聴きに入り、「もっとものよし」との仰せがあったとのこと。
近頃は、官医は貴人の治療のみするように心得る者が多い。
これらの事を知る人も稀になってしまった。

続編 巻之七十 〈一一〉 狐つき

わしの身内に茶道をする老婆がいる。
年七十余りで気持ちの安定が常でない。
狐つきらしいと思われ、よく未来を云い、過去を説いては違わない。
動(やや)もすれば、ここに居れば害に遭うと云っている。
人がその側を離れれば、逃げ出そうとする。
家内では憂えている。
それで祈祷者に占わせた。
ガマの目の法を施せば、この妖魔は去ると云う。
わしは仄かにこれを聞いた。
「どうしてガマの目の法を行うと去るのか。早く邸中の年少の者に、かの家に就て指矢を射させるのだ。そうしたら、妖狐は即去るだろう」。
未だかつてこんなことはなかったが、老婆が云う。
「日を置かず、ガマの目の法を行って下さい。そうすれば、速やかに去るでしょう。やらないと死んでしまいます」。
これで老婆は正常に回復した。奇跡だ。
この老婆は、もともと聾だったとここで聞いた。
狐つきの間はよく人の私語を聞き、また話を細かく弁じていた。
狐は去り元の聾に戻った。これもまた奇跡である。

巻之十二 〈ニ五〉 狐つき

ある者に狐がついた。
医薬は勿論、僧巫(そうふ)の祈祷でも離れなかった。
為ん方なくある博徒がいて、狐を落とそうではないかと云う。
それで、頼んだ。
博徒は、鮪の肉をすり身にして当の者の総身に塗り、屋柱に縛り付けた。
畜犬を連れて来ると、犬は喜んで満身を舐めた。
その者は大いに恐怖を感じ震え叫んだ。
やがて狐も落ちたとのこと。

巻之十 〈ニ六〉 里医と山伏

わしの領内の村々に里医を置いている。この者は農夫の者達を治療する。
多くは祈祷をして癒える様だ。それで山伏に頼んで祷らせる。
一日、病人の家に里医と山伏が来合わせた。山伏の某は「この病人は祈りで験(効果)がある」と云い、医は「薬治で功を得た」と云う。
それから互いに口論してお終いにならない。
その時、医が云った。「その様に祈りで験があると云うならば、お前さん、まずわしを祈り殺すがよかろう。しからば、ここに坐している皆さんがその手際にひれ伏すだろう。わしもまたお前さんに毒薬一服を差し上げよう。さ、この場で飲みたまえ。その気配を待とうではないか」と云うと、流石に山伏は辟易してその坐を抜け出したという。

続篇 巻之七 〈一五〉 耶蘇継承の者

十月の初め、ある人と相会したときの話に、昨年か今年か、大阪に耶蘇の法を修むる者があり、遂に縛に就いたと。
わしは云った。耶蘇の法と云うものを如何にして知ったのか。
曰く。その女子が久しいこと病床にいる。医薬は功なく、祈祷は験(しるし)なし。殆ど死に及ぼうとしていた。父母は娘を深く愛していた。
時に町家に一人いた。
咒(まじない)法をよくすると。
これに就いていゆることが出来た。
この町人は、耶蘇継承の者で、病家に伝えて、信崇の徒を少しずつ倍にしたという。
わしは云った。秘承とはいかに。
答えるには。そのはじめを尋ねるのに、大阪落城の残徒が町家に隠れていてずっと伝えるところだと云う。
またその徒は少しずつ倍に増えていると云う
何者がかかるのかと聞くと、曰く。
大抵二三十人を超えただろう。その中男子は三四で余りはみな女子であると。
わしは云った。大禁を犯せば、定めて厳刑に処されるだろう。
答える。もちろん磔罪になるだろう。わしはまた云った。この徒磔罪に処するより固(もと)より、願う所にして、その宗の旨である。
答える。いかにもそうです。
某に語る者が云うには、吟味のときに奉行が云われる。
早々に改宗するように。
この非法は、御国禁を犯す罪は恐ろしいことだと叱ると、かの女子の答えに、それより死をもって神に仕える。
なんの非法刑罪をもって法を改めようとしても、なかなか畏怖の色がないという。
わしはまた問うた。奉ずる所の神はいかなる者か。
答える。全く異様の者ではなかった。
一つは世にいう於福(オカメ、三平二満)と云う娼婦の仮面に何か衣類を着せて、一つは老体の偶人(にんぎょう)であると。
吟味の人疑いはかの遇人の体を破りその中を視たが、内にも怪しい物はなかったと。
何をか主として念ずるのか。この外にも語ることはあるが、忘れた。
この話のもとはかの地の町奉行、この都に来た者が語ったと云う。
それならば虚妄のことにはあらじ。

続篇 巻之十六 〈四〉 菜っ葉医の術

江戸の近在に一医者がいた。切り傷を療するのに、疵の浅い深いに拘わらず、きめ細かな粉薬を疵口にふりかけ、菜の葉を上に貼る。よく癒えるのが奇である。方を秘密にして人に伝えない。俗な呼び方で菜っ葉医者と称する。
わしはある時医臣の才能の立つ者に問うた。上の様に、疵口を洗わず縫わないやり方はあるのか。答えるには。某の家伝に、軍中における刀傷を療するに、粉末薬をつけ、疵口に生草の葉を貼る方がある。全く菜の葉のみではない。これは疵口の熱や乾きを止めるのみである。
後、かの菜っ葉医者の薬一貼を買って、見てみると家伝粉末の色を彷彿としていた。すなわちこのやり方を制しようとしたが、在勤の邸中はこの薬を採用することが都合がよいと。
あくる年の夏に平戸に帰り、家のやり方をきいてみると、薬の色は甚だ似ており、効果があるのも同じである。ならば菜っ葉医者と同じやり方ではないか。
しかし切り傷を治すには、後々傷痕が残らないようにして欲しいものだ。
件の粉末薬は、ただ速やかに治るのみで、疵痕には無頓着である。
だから、貴人や婦人には用いるのはよくない。軍中の様な所は、一手(一人の医者)で数人を治療し、ただ速に癒えることが求められる。ゆえにいつもは秘して(このやり方で)施すことはない。
菜っ葉医の術は速功を旨としているから、疵痕にはこだわらない者なのかな。

続篇 巻之ハ十六 〈二〉 軍中は病は、気鬱から生じる

朝鮮攻めの渡海のうえ、軍人は水土になれないためか、多く病を受けた。
従軍の医師は、正気散を用いたけれども治らなかった。
時に清正の医師が、香蘇散を用いるとその陣はみな験を得た。
それで、他陣もこれを聞いて、その法を用いて、癒るを得た。
医師にそのわけを問うと、軍中は病は、気鬱から生じると。
それで、これを用いるのだと。
人はみなその意に服従したと云う。

巻之一 28 奥御医師

前にね、大屋木伝庵という奥御医師の知り合いがいたの。
丈けは低く、肥満のね、豪気な男だった。
その頃、ある侯が病を得てね、老職が「侯の病はどんなだね。どんな治し方をするね?」と跡目願書を書いたんだわ。
けど、この人にはいかがわしい噂もあってね。
「病のこといよいよ間違ってはおらぬか」と問われた伝庵は色をなして答えたんだよ。
「奥御医師を勤め候わば、これより間違いは申さず。御尋ねの方々こそ、却っていかがであり候わか?」と申せば、老職いずれも黙ってしまわれたと。

巻之ニ十一 〈7〉 アブラヲケソワカ(呪誦)

長崎の人が云った。
この地に老婆が一人妙ある祈祷を病や事故に悩む人々に行っていた。
皆その験(効き目)に助けられていた。

ある人が呪誦を聞くと「アブラヲケソワカ」とのみ曰て、他に何も唱えない。
ある人は「その真言は何れより伝えられたか」と問うと、「先年ある御僧より授かりました」と答えた。

ある人曰く。「それは聞き間違いである。定めてアビラウンケンであるから、この様に唱えるように」と教えた。

婆も心得て、その後は教えの通り唱えた。
が、これより一向に祈祷に験が現れなくなってしまったという。

これを専一に信じて用いたが、後に二念になって疑いを含んだ心持ちの致すところになってしまった。

巻之ニ十ニ 〈19〉 浮田秀家女についた妖狐

『雑談集』にある話。

浮田中納言秀家は備前一ヶ国の大主である。
ゆえあってひとり娘に妖狐がついた。
種々の術を尽くせど出ていかない。

それで秀家も心気鬱になり、出仕もやめざるを得なかった。
秀吉はこれを聞き召され、かの娘を城へ召して、狐に速やかに退散する様命じた。

狐は退くという時にこの様に云った。

「私はくるまざきのの罪に逢うとも退くものかと思いました。が秀吉さまの命に伐くならば、諸大名に令して、西国及び四国の狐までを狩り平らげよとの御心中を察しましたので、今退きます。私の為に多くの狐の命を亡くす事は、如何ともしがたい。だから涙泣きをしつつ立ち去ります」。

翌日、秀家は謝礼として登城して、その始末を言った。
秀吉は頷いて微笑んだという事(『余録』)。

巻之九十六 〈17〉 浮田秀家女についた妖狐談続き

巻之ニ十ニに浮田秀家の娘に狐がついて離れ去らないのを秀吉公の命でたちまち去った話があった。
また同じ冊の後ろの段に、芸州宮嶋には狐の害がないと云っている。

この頃、太閤の令と云うものを行智に聞いた。
先年、それを見て暗記したと云うのだ。すると浮田の事はこれであろうかと思った。

『その方が支配する野干(やかん、野獣)は、秀吉の召使いの女房に取り付いた為に悩ませておる。
何のつもりがあってその仇をなすのか。
その子細は無きものとして、早々に(取り付いた者の体から)引き取られたし。
もし引く時期が延びるとすれば、日本国中に狐狩りを申し付ける。
猶(なお)、委細は吉田神社に(ことごとく)口状申し含む。  
       
              秀吉          
月  日
      稲荷大明神殿え』。

※ 江戸時代の人々は動物や霊体動物、妖怪等に対して人間と近い存在という概念を持っていたのだろうかと甲子夜話を読みながら思うのです。

巻之五十一 〈5〉 わしの臣医 修徳曰く。

わしの臣医 修徳曰く。
某(それがし)はかつて平戸にいた時、相神浦(あいのこうら、現 佐世保市相浦町)の農婦に女児が産まれた事に接した。
女児には肛門がなく大便は陰戸より出ると。
その児は身体に異常もない。
ただ肛門の在るべき所が少く凹なるだけ。父母はこれを憂え、外科に請いその所を刺し破る手術をした。
大便はその穴より出ず、なお陰戸より通じた。
日を経ずして死亡した。

また近頃『解体新書』、『医範提綱』を読んで初めて惑が解けた。
大便道の大腸は胃腑の下に連なり、胃は飲食を受け、これを醸して腸に輪(まわ)れば、腸は受けてまた調熟し、水穀を分かち精液を血とする。
いわゆる白色乳汁なるものである。

その槽粕は下って肛門に到る。
また小便は腸胃醸熱の精液で、腸より上部の動血脉(みゃく)に輪れば、やや血となり、百骸(多数の骨)を廻養する。
その血中の渣(カス)を腎臓で分かち、尿道膀胱に輪って小便となる。

すると大便は腸より直ちに通じ、小便は腸より上部を廻り関所を越えて尿戸に出る。
よって二道懸隔する。

すると肛門なき者があっても、糞尿ともに出る理はない。
また腸間を塞げば、直に逆流するのを吐糞病とする。

だからかの小児の様な事は、身体であれば生命を落すのも理であるのだろうか。

巻之ニ十一 〈6〉 水天の呪術

平戸の下方に快行院と云う修験があった。
子どもは十三、四を長として七つ八つまで多くいた。

快行院では時々その長子を従えて湯立ての祈祷をした。
湯が沸騰するのを待って湯加減を見る、または物を注ぐのに火傷をしなかった。
この時専ら「ヲンバロダヤソワカ」と云う真言を誦する。

するとこの子ども達は聞き覚えた。

ある日快行院で他行するのに、田舎なのでいろりに鍋をかけてある辺りに家の子どもも隣家の子どもも多く集まり、炉辺を取り囲んでいた。
湯立てをする為に、薪を焚べていたが、湯が湧くと同時に真言を数編唱えたら、湯は何と、次第に水になったのだ。
子ども達は笑って何処かに行ってしまった。

それから快行院の夫婦が帰って来て、火を焚きつけようとするが、如何にしても湯が沸かない。
不審に思って立ち回る内に隣の婦人がやって来た。
夫婦は「どうしたものか湯が沸かない」と云うと、婦人は子ども達の戯れを話した。
夫婦はこれを聞いて心底驚いた。
快行院は湯に還る真言を誦した。
やがて水は湧き上がって飯を炊く事が出来たと云う。

かの真言は水天の呪術だと云う。
子ども達の戯れは誠一だから感応して湯は水に戻ったのだろうな。

※ 真言で天部の神の一人の水天を「oṃ varuṇāya svāhā」(サンスクリット語)というという。竜を支配するとされるという。

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