巻之八十一 〈三〉 雲伯両州のはなし

蒲生亮が京に住んでいた時、雲伯両州に行ったと云うので、両州の話をあれこれと聞いた。
伯州の大山は上り七里。
山の勢いは陵遅(丘陵が緩やかになること)で上り易い。
四里を上がれば、それよりいまだ三里を余らせても、盛夏でなければ、登ることを許されない。
亮がかの所へ行った時、四里程を上がりここで宿したが、その辺は全て牧地で馬を産することが最多い。
また山林も深いので、夜陰に狼の声がよく聞こえる。
とすれば、狼も多いに違いない。その声は如何にかと聞けば、牛が吼える様だという。
またかの地にて狼の子を捕えたが、形は猫よりやや大きく愛らしい。
それで雲州松江城下に連れていく者がいて見世物にしたりする。
その時見物の中、里犬を引っぱってきて、狼の子を見せようとした。大きな犬だったが、中ほど三間もない距離で足が進まなくなった
鞭を打っても何分にも先に出ない、踵を返したという。
狼の子はまだ小さくて意識していないが、その威風が自ら備わる姿に人々は驚いた。
また松江は都会繁盛の地である。家数も千はあろうか。
松江の名を得たのは、湖の縦六里余り横ニ三里。
湖の中には鱸(スズキ)魚を産する。
大きく美味である。官の献上に充(あ)つ。㊟〈🔜〈あつ〉を〈まつ・え〉の言葉遊びらしい〉
これから何人(なにびと)か地名に為したのだろう。
また狼は昼は横になり、温柔である。夜になると、奮起して鳴いて走る。
その毛は天を打つと。また陰獣(夜行性)とすべき。

続篇 巻之七 〈ニ一〉 小笠原島

前編第五巻に、伊豆付小笠原島のことにふれた。
この島を見出した小笠原三九郎は今は尾藩の士であるが、この年〈丁亥〉冬、候の名代として出府した。
その子は市橋候の娘を娶ったので、わしも遠縁になり、行智を介してわしに相見を請うた。
わしも対面しようとしたが、そのうち御暇を蒙り、そく夜に出立した。この人は名を長盈。
今回語った訳は。
小笠原島は小島数十ある。
その内、大きいものが六ある。広い三十里ばかりになるは大島である。
次には二十里ばかりになるのもある。
その六島の名を父島、母島、兄島、弟島、姉島、妹島と名づけたと。
前編に云ってたことと違う。

続篇 巻之七 〈ニ二〉 伊豆の沖の無人島

ある人が云った。
このごろ伊豆の沖の無人島に漂流して数年経つ人が帰った後に語ったことを親しく聞けたと云う話の中に、かの無人島は東五六十里ばかりもないという。
その辺りを乗り出して見廻ると、一の島を見つけた。
人も住めるさまで、遥かに臨む見ると日本の人物なので、舟で近づいて見ると、島人も指で招く。
陸に上がって問うと、「この島の名をメッポウ島のと云うが、近頃この島に移り住んだが、日本へ年貢を納めることもなく、稲は年々良く実るので食に乏しくなく、畠も出来る。木綿麻も種から育て衣服に事欠くこともなく、魚鳥はもちろん、草木おおければ、住まいも心任せに処々に造って妻子を養っている」。
「何れの年に、いつの頃から此処に住んでいるのか」と聞いたが、「最近の頃で常州銚子の辺りの某の村から、一夜の間に一村の者と示し合わせて舟を出して来た」と答えたよし。
島の主という訳ではないが、銚子の辺りの某の村に行って、その地の者に知らせようとだけ云った。
さて帰ってその事を語るに、近頃〈ニ十年ばかりも前に起こったとその村の者は云った〉。
銚子海辺の民家、一村の男女一夜の内に行方知らずになったことがあった。
それに違いないて云った者があった〈その処、村名も深く尋ねるほどの知人もなく、それ以上を問わなかった。
メッポウ島というもその輩が名づけ呼んだ名だろうと聞こえてくる〉。

続篇 巻之八十ニ 〈三〉 草津温泉

上州草津には温泉があって、人も行くと聞いたが、さぞ寂しい片田舎だろうと思った。壬辰の夏に端的和尚は養病のため赴いた。
帰後の話を聞くと、隠れ里さながらであり、中々繁盛していたという。
場所は浅間嶽の北方にあり、人家千件を超えていた。里は高山を四方に囲み、山陥すり鉢の状態で、すまいを建てていた。
されど極寒大雪の地なので、十月を過ぎると人はすまいを去っていく。ただ、一家だけが留守する家があったそうだ。
この様な有り様だが、夏時分は時々雨が降り、一日の中で再々降る。降り方は、ざあざあとひとしきり降って、たちまち晴れる。だから一年にして雨が多いと伝わると、来客は著しく減る。
それですまう者は、日和まつりを執り行う。すると雨は必ず止み、晴れ色を呈する。晴れ祭りは、修験と覚しき者が一人、法螺を吹いて先に立ち、何が誦文を唱える。それから戸毎に老若小児を選ばす、一人ずつ裸体にして雨に打たれる。みな同じく誦文を和して、先達に付いて里中の薬師堂に至る。
こうして数件の戸別だと、後には人が増えていき、数十人になり、誦文の声が山間に震える。
わしは思うのだが、ここはこの様な山の底なので、山の気の為に雨を降らすと、人の勢いが増す。山の気は人陽に押されて、陰雨がたちまち晴れてくるのだ。
これは林氏が西へ旅した際、厳島の高山が人が立ち入るのを禁ずる境に上がり、山の気を侵すので、晴れた空模様が変わり大雨を降らすこと表裏である。
林氏は前にも厳島のことを取り上げたが、段的にまた云った。
かの土人が食物を売りに来るのに、みな予め煎って持ってくるのだと。だから直に食用にするとよい。六七月の蕨もある。また豆腐芋等を売る者は、その名をよびながら、「オ芋サマ、豆腐サマ」と叫んでいる。尊称にて咲う。
かの地に於いて、その場の図を彫刻を施しておいた。ここに模付た。

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続篇 巻之三 〈一六〉 城不見(しろみず)の地名由来

箱根の関のこなたにしろみず坂と云う坂が、ある。
小田原城が見える所を城不見(しろみず)と云うわけは、豊臣太閤の北条攻めのときに、ここまで来て城を見ずに止まり給われた。
近くの侍は、「何故城を見給わぬ」と不審がった。
「いやいや、城を見たら大砲がある恐れがあって、見ぬのだ」と申されたという。
このため、その地の字となったとか。

巻之一 〈九〉 干菜山十連寺の謂れ

神祖(家康公)が武州川越辺へ御放鷹の時に、小庵に立ち寄られた。

住僧が出て迎え奉った。

野僧の質朴さ、御意に叶い、御話の御相手となってすこぶる御喜びの色である。

ややあって僧が申し上げるには、庵が貧しくもとより名もないと。

願わくは寺号山号を賜りたしと言上すると、神祖はその辺りを見渡したまいた。

軒に干菜を縄に貫いてその数は十かけているをよく御覧になって、「干菜山十連寺」と称せよ、と仰せになった。

寺領の御朱印をさえ賜れた。

それで今に至りて、この寺は相続され、その号を崇称する。

まことにかしこくもその御気性の快活なこと、欽仰し奉る。

 

巻之十ニ 〈4〉 八女津媛(ヤトメツヒメ) その1

ある人が語った。
三十五六年前に柳川侯(筑後の領主)の公族大夫に立花某と云う人がいた。
その領を矢部と云う。
この地は古くは八女県と云った。
『日本紀』には八女国とある。
その山は侯の居城の後ろまで、はびこっていて高山と云う。

ある日、大夫の臣某が山狩に鳥銃(てっぽう)を持って、払暁に行ったら、いつもの行き慣れた路が殊の外、異香が薫るので怪しく思いながら向かって行くと。
人も居ない処で、茅な原が左右に道分かれ、何か推し分けて山を下る様なので、片方に寄ってこれを避けた。
人は居なくて八九尺ばかり地から離れて、瑞巌微妙に絵の様な天女が袖をふき返しながら麓をさして来ている。
それで驚いて鳥銃をたおしひれ伏して行った。

やがて一町ばかり過ぎたと思った頃に人心地ついて山に入り、狩りをしたけれど、一物も獲られず、また元の路に回った。
麓の方からまた茅が左右にふしていて、今朝の様であり、路傍に片寄り避けたら、かの天女は奥山さして返っていた。
人々は奇異を感じた。

またかの藩の臼井省吾は、博覧の士だが、これ(天女の話)を聞いてそれは『日本紀』に見られる筑紫後国(チクシノミチノシリノクニ)の八女県の山中に在すと云う八女津媛であろうから、今に至ってはその神霊があるにちがいない。

続く

巻之十ニ 〈4〉 八女津媛(ヤトメツヒメ) その2

『景行紀に云う。
十八年の秋七月辛卯一日甲午(四日)に筑紫後国(ツクシ丿ミチノシリノ)国御木に到り、高田行宮(タカタノカリノミヤ)に居られる。
丁酉〈七日〉に八女の県に到る。
すなわち前山を越して、粟の岬を南にのぞみたまい、詔して言われるには、その山の峰々は重なり合い、その美麗は何ものにも例えようがない。
山には神が居られるのであろう。

時に水沼の県主猿大海が奏して言うには、八女津媛と言う名の女神がおられる。
常に山中に居られる。
故に八女国(ヤメ丿クニ)の名がここに起こったのだ。
これをあかす(言偏に登)つもりだ。

巻之十ニ 〈4〉 八女津媛(ヤトメツヒメ) その3

また八 九十年も過ぎた、わしの領内に大館逸平という豪気の士があった。
殺生を好む男である。
神崎という(平戸の地名)山渓に行き、にた(水気の多い処)待ちと云って鹿猿が潤泉に群れて飲むのを鳥銃(てっぽう)で打とうとしていた。
この技はいつも深夜でやっていて、八月十五日のことであった。
折しも風は静まり月は晴れて、天色清潔になったが、夜半も過ぎた頃、遥かに歌う声が聞こえてくる。
かかる山奥かつ深夜怪しいと思っていると、声が少し近づいてきたので、空を仰ぎ見ると、天女に違いない端麗な婦人が空中を歩いて来る。
その歌は「吹けや 松風おろせや」簾と聞こえる。
逸平すぐさま鳥銃で打とうと思うが、流石の剛強者も畏れの心が生じこれをたおしていると、天女は空中で「良き了見、良き了見」と云って行き過ぎたという。

これもかの八女津媛が肥の国までも遊行さるものなのか。
また前の逸平の知り合いの猟師も、平戸島の志々伎神社の近地の野径を深夜に行き来したら、折から月光も薄く、時は丑の刻計りだった。衣装は鮮明で容貌正しい婦人に逢った。
猟師はこれを斬ろうと思ったが畏れ心が生じ、刀を抜くことが出来なかった。
これより深夜に山谷を行くではないぞと語り伝えている。またかの神遊行の類だろうか。

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※写真は平戸市志々伎神社。近くを天女が遊行したという。

巻之八 〈6〉 暴れ大川(隅田川)

先年、竜巻が起こった暴風雨があった時のこと。
諸船が多くこの災難に遭った。

ある老侯は家根舟(やねぶね)で大川に遊居していたが、白鬚祠の辺りでこの風に遭った。
川水は凄まじく巻き上がり、その舟を一丈(約3.03㍍)余り空中にまき揚げたと云う。

その時舟の中には侯の妾もいたが、心かしこい女性で自分の腰巻きを解いた。
そして侯を舟の柱に結わえた。
やがて舟は下がり川中に墜ちたが、侯は無事だった。
髪の元結は切れてしまったが。
同じ舟に乗っていた中に溺れた者もあると聞いた。

※ 江戸の治水は川の水を溢れさせるというやり方だった様です。
北西から流れてくる隅田川(ここに出てくる大川は隅田川の事)の左岸で溢れさせ、その川の西の右岸に開けた江戸市街を守って来られたそうです  (PHPオンライン衆知より)

巻之三十 〈6〉 銚子浦のはなし

世にいう銚子浦は、その地勢が酒器の銚子に似ている故である。

浦の向こうは常陸で、こちらは下総である。
浦の入口の海底はことごとく大石がそば立ちしている。

この地方の方言ガンバラネとはどんな意味だろう。
海底の巌石が水面から見えなければ、船の行き来はかなり神経をつかう。
だから(ここの地理が)不案内だと通行できない。

土地の人の導きで浦を出入りする。
浦の入口の航路は石間わずか廿間ばかりあって、この辺りは厳しさが際立つ。
だから口狭く中が広いから銚子という名になった。

またこの浦底の方は利根川の落口で広さは一里にも及ばない。
この川下の港に人家ニ側に建っていて、やや繁盛の地である。
常州の方はみな農・漁業で、総州の方は諸物の問屋である。
村妓などもあると云うのはここである。

またガンバラネに、先年東海で漂う唐船が乗り掛かり、進退ができなくなってしまった。
それでそこより牽舟を多く出して引いた。
唐船はそこは出たのだが、海底の巌に引っ掛かり舵が利かなくなり横に倒れてしまった。 
荷物はみな沈みかかり、水練者によってなんとか取り上げた。

その船は解体して、唐商人達は我が邦の舟に移して長崎に還されたというのだ。

またこの海には牡蠣が特に多い。
大きさ七、八寸も超えるだろうか。
ここで海中に物が落ちると、一夜の内にこれに牡蠣が着くという。
だから破船等の船具はみな患を蒙る。


※牡蠣が多くいる海に荷物を落とすと、牡蠣が着いて『患』を蒙るとは、現代の感覚とは違っていて面白いです。

巻之八十一 〈7〉 薄香の浦

平戸の城西に薄香浦と云うところがある。

漁の生業の家が多い。

家の婦人は、魚介を市に売りに行くのに、桶や籠に盛って頭の上に置いて通う。
山坂の上り下りにも落とす事はない。

清の徐葆光が『中山伝言録』にも、曰く。
市に入るに物を肩に担う者はおらず、大小の色々な物を重ねて首に(頭に)戴く。
すなわち大甕や薪の束も皆然り。
坂を上り嶺を下るも、首矯し袖を引いて行く。
傾いて落ちる事はないと。
かの国の状態も同じ事を知られよ〈『余録』〉。

追記する。
京都の八瀬大原もこれと同じである。
林叟曰く。
某が先年京都に滞在した時に目撃したが、その地の婦人は、桶、籠、薪の束の他に、作事に用いる柱剤を首に戴いていた。
いかにもそのつり合いがよく長けた者であったと。

また薄香と云う名はー。
この浦の辺りに梅崎と云う所がある。
この地には松浦鉄馬の別荘がある。
祖先の公達がひざひざここに遊ばれた。

今に至って、その茶亭の跡がある〈鉄馬の家はもと松浦の一族、志佐氏である。天祥公の側室は志佐氏の娘である。然れば祖先公は天祥公となる〉。

また梅崎と云う名は、何れの代にあったのか、西土江南の梅を取り寄せられて植え給いしよりこの名があると。

これよりまた薄香の名の由来と伝わる。

定めるなら、両の地の古名なのだろう。
今左右に訪ねてみるが識る者なし。
なお他日に訪ねて聞いてみたいもの。

巻之九十八 〈4〉 小南部領船が漂流して見たもの

印宗和尚からこの初夏、鎌倉にて聞いた話ー。

奥州小南部領の江都廻りの乗組員十四人、昨年戌の十月頃、穀物と大豆を積んで小南部を出帆した。
が、難しい風に遭い、何方とも知らぬ大洋に吹き出されてしまい、四方一向に土地が目に入らなかった。

この様にして数日間、風浪のために帆柱が折れ舵を損傷した。
海上を漂流して、当三月迄経た。

ある日波浪の中、遥かに山を見出し、旋風もまた順を得て漂転して行きながら、相州浦賀の沖に至ったという。

それで同所御番所から質問があって、どうしてこの様な定まらぬ向きの流れに及んだのか、と。

この漂流の間、月余り山地がある所も見ずに、巨大な石柱が海面より天に向かって直立したものを観たと云う。
その辺りに凡そ七日ほど漂在したと。

この大石柱のことは、浦賀御番所旧来の漂船口書の留めにもないとのこと。
思うに漂海は東洋を漂ったのではないか。

東洋に石柱があることを未だ聞いたことがない。
蓋(けだ)し、また海上の気象がそうさせるもの、か。

巻之二十一 〈18〉 伽ばなしの行方

清正の臣森本義太夫の子を宇右衛門という。
義太夫の浪人の後、宇右衛門は我が天祥公の時しばしば伽に出てはなし等を聞かれる事になった。

この人、かつて明国に渡り、それより天竺に住み、流沙河を渡る時鰕(エビ)を見たがことに大きく数尺であったと云う。
それから檀特山(だんとくせん)に登り、祇園精舎をも覧て、この伽藍のさまは自ら図にして持ち帰った
〈今その子孫はわしの内にいる。正しくこれをを伝えている。たが今は模写である〉。

また跋渉(ばっしょう、方々を歩き廻る)の中、小人国に着くとーちょうど小人が一石を運んで橋にしようと架けていたのを、宇右衛門は見て、石を水にわたして橋を完成させた。

小人等は大いに喜び、報酬として多くの果物を与えた。

これも今に伝えているが、年を経た為か、今の話では梅干しの様なものになっている〈初めは沢山だったが、人にも与えて僅かニ三と今はなっている〉。

近頃、ある人の曰く。
これ等が行き着いた処は、まことの天竺ではなく、他邦だと。
流沙河もその本処は砂漠で水がない。
だから我が邦で常に聞くに従って、これを流沙河と名付けたものである。

また山舎の様なものもみな違う所だろう。
かの国にこの類はなお多くある。

また小人国南北の処々にあって、この小人は何方のものだろうか。

如何にも外域、遥か遠く過ぎる地に到るのは疑うものはないが、その頃は世界四代洲の説も未だ開けぬので、もやもやしている。

※ 流沙河(りゅうさが)は「西遊記」で沙悟浄(さごじょう)が住んでいたといわれる河。

巻之70 〈21〉 ワトウとヲヲキ

『中山伝信録』〈清の康煕冊使徐(草冠に保)光の作〉琉球語を挙げた所の器用の中に、刀を和着(ワトウ)と対音している。

その末に倭扇を抂其(ヲヲキ)と音する。

これは琉国の扇は元わが国の制なので、文字も語も同じ。

されば刀も片刃で、わが国鍛錬万国に勝れたものを倭刀と云うのを、聞くままに音訓したと見える。

巻之62 〈6〉 デヨの三途川の婆子

行弁(梵字学者、修験行智 1778~1841の父)行脚のとき親しく見たと語るのは、越後国蒲原郡デヨと云う所に、13間4面の広堂があった。

その中の物はなくて、中央に大像があった〈長(た)け人が立っている様な〉。

三途河の婆子で独坐である。

またこの堂の在る辺りは、古木陰鬱幽邃(スイ、奥深い)で、云うばかりの程はない。

またこの像は甚だしく霊応がある。

時として、これの怒りに逢った者か、一夜の中に人の衣服を剥いで、堂辺りの樹杪(こずえ)にかけてあることが往々にしてあるという。

またかの国デヨの地は温泉の出る所だという。

するとデヨは出湯(デユ)の訛りだろう。

三篇 巻之11 〈4〉 『ヤハタ』の森について

聞いた話である。
上総下総の国境の道傍に小森がある。
『ヤハタの森』と呼ぶ。
その裏を看ると向こうへ見通すほどの狭い林である。
以前より、この裏に入る者は1人としてまた出ることはなかった。
人は怪場として、やはた知らずと云った。
その旨は、人は未だこの林の中を知る者はいないと云う意味である。

また聞いた。
かつて水戸光圀卿がこの辺を(お付きの者に)行き過ぎようと、この林の中に入ろうとの給う。
左右の者は堅く拒んだ。
卿は「何ごとかあるのか」と1人入り、出給わるまでに良(やや)久しいことであった。
従行の人はみな色を失った。
然るに、卿はやや有ってい出た。
その顔容はいつもと違う。かつ曰く。
「実に怪しき処であった」と他に言いはなかった。
こうして、後久しくしての給うには、

「かつて『ヤハタ』に入ったときは、その中に白(白交、本文)髪の狐の翁が居たが、曰く。『何たる故にこの処に来ます。昔よりここに到る者は生きて帰ることはありませぬ』。また辺りを見せられたが、枯れ骨が累積しておった。(狐は)指して曰く。『君も還ることはよしとしないが、賢明さを世に聞こゆ。今留まらぬよう。速く出給われよ。復再び来給うな』と云って別れたものよ。この余りに畏怖があってな、(このことは)人に語るには及ばず」と人にの給われた。

ある人また曰く。
「この処は八幡殿義家の陣跡と云い伝わっている」と。
これは『ヤハタ』と称する説だろうか。また果たして真なのか。

巻之7 〈23〉 佞有りか

南部、津軽の両氏は、年久しく義絶の家である。
この頃聞いた話である。

両家の吉凶に当たると、津軽氏から必ず告げて必ず賀す。

しかし南部では、拒んで受けず。
使者が有ると言を収めずに返すと云う。

真実か否か。
もし真実ならば、津軽氏の所為は佞(ネイ 心がねじけている)有りか。

巻之46 〈18〉 宝珠のはなし

『日本書紀』足仲彦天皇〈仲哀〉紀に11年云々、秋7月辛亥朔乙卯に、皇后〈神功〉が豊浦の津に泊す。
この日、皇后は如意珠を海中にて得たもう。『通証』に注とある。

この地は長門国豊浦郡と。
また諸書を引いて、この珠は太古より宝とするもので、竜宮等に所持して、仏経にもこのことが見られて、珠の宝徳を云う。

つまり文政の初めか、わしの領内平戸島の西南志自岐の浦で、かの明神の社層、法印盛尚と云うものがこれを獲た。
その所は、志自岐に、地の宮と云うより沖の宮と云う間は潮に干潮があって、この干潟になったときに、この所の沙石のあいだに在ったと云う。

但し拾得する以前は、時々その海浜に光気たつのを不審に思っていた。
果たしてこのものを得てと、盛尚は殊に喜び、匠に命じて厨子を造り、納めた。

今かの山の護摩堂に安置して、深く秘して他の見聞を停(とど)むという。
肥州(静山公のご子息)は、その頃「ひと目見たい」と云った。
因みにわしはその状態を訪ねたが、大きさ3寸には足らず、高さもこれに協(かな)う。

されど瞥(ベツ、チラと見る)見には詳らかにせずとのこと。
かつ云う。
その体は沙石のかたまった様に見えて、半ばより上に横画の様なものがあり、その上は尖っているように有ったと語った。

乃ち下に伝聞を図した。
また仏氏に伝わる宝珠の印と云われる。
総じて印相は指を以て結ぶものならば、徒々その状態を象(かたど)るのみ。
けれども堅横平立の如きは違うものではない。

よって宝珠の印相を見るに、下に円く、上が尖っている。
ならば古より伝えた宝珠形とこの物は同じである。かたがた徴すべきである。

また画人が描く宝珠もその形はよく似ている。
すると元(も)と拠る所は有って、徒(いたず)らに画き成すものではないということだ。

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続篇 巻之31 〔10〕  水死堂 

 わしの荘の北東近くに一庵がある。
俗には水死堂と呼ぶ。
けれど堂ではない。
棟3、4間ばかりの茅葺の家である。
この片端に仏壇が設けてある。
頗(すこぶ)る飾ってある。
その余は住居と見える。
構えには叢(くさむら)竹垣をなし、家の庭前に大きな石段があって、上に水死塔と銘ざれた墓石が竪つ。
堂と呼ぶ。
故に近所の俗にて水死堂と称される。

 さてこの庵には道心者の僧尼夫婦が居る。
この初めは御倉札指の持つ舟の船頭だが、善根をんだ。
水上で溺死流屍(新死と見える(仏さまが)縁の者が尋ねて来るのを待ちながら、時が過ぎる内に肉体が壊れながら泛着する)を見ては、必ず水上に曳き寄せて、今戸の辺りの洲を穿ち、埋めて去る。
多年このようにしている。

 然るにある日、海上に出ると、水死の腐骸が浮かび流れていた。
引き上げると首に袋を掛けている。
中を見ると、金100両が入っている。
かの人これを見て、忽ち発心し、髪を剃り、僧形となって、件の金で地を買い、屋を建て、多年救っている水屍の亡き魂を弔っている。

 かの水死塔とはこの故の墓だからと。
この5、6年前にその家は建てられた。
またこの道心の居る辺りは、藪間の小道で、まぎれ路がある処である。

 つまりこの道心は処々に石傍示を竪て、その道へ何町、某へ往くには何方へと標して、行く人を導く。この道心の善根を為す、類である。
わしの近辺だけれども、道心の名も知らない。
その人も見たことはない。庵の名も聞いたことはない。

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