巻之61 〔25〕 川越の名の由来

川越の名は何が由来なのか。

その土地の人に聞いたら、上方から奥羽に下る者は、中山道を経て、熊谷駅から右に入り、松山を過ぎて、入間川を渡る、と。

川の地だからこそ、そう云うのだど。

今の川越のお城下は川を隔てること一里半である。


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巻之十五 七 琉球使の王子が大和風の歌

先年、琉球使が来られたとき、王子が大和風に歌をよまれたものを書き留めた。

さしたるものではないが、大和という異なる地での一端が見られるので、記録したものである。

扶桑の大樹公が代替りをされたので、慶賀の使として、明和元年の秋にむさしの国に向う途中、肥前国の松浦に至り、追風がなくて十日あまり舟を止めて待っているところでよんだ。

             読谷山王子朝恒

(以下原文ママ)

遂にふく風の便りをまつらがた

     いく夜うきねの数つもるらん

  伏見の里にて月を見て

いつもかくかなしきものか草まくら

     ひとり伏見の夜半の月影

 富士山を見て

人とはばいかが語らん言の葉を

     及ばぬ不二の雪の明ぼの

  霜月初(はじめ)つかたむさしの国にいたりかの所にて月を見て

  たび衣はるばるきてもふる里に

    かはらぬものはむかう月かや

  帰路、浮嶋が原にて

ふじの根の雪吹おろす風みえて

  一むらくもるうき嶋がはら

  深草にて

ふる里にうづらの床もうづもれて

  冬ぞあはれはふか草の里

続編 巻之16 〔5〕 銚子沖での異国船の鯨捕り

ある人が北総常陸の辺りに来て、河口、銚子の浦に泊まって沿岸の住民に聞いた話。

5年ほど前、異邦人が三里ほど沖に舟が出入りし、舟の印である小旗を皆巻いて、はだか船の如く碇を下ろして目立たぬ様にして鯨を捕り、その肉を魚膏(膏はあぶらのこと。

魚のあぶら)にしぼる。それを煮煎する燃料に鯨の骨、皮筋を用いた。

魚膏は、田舎から肥し船と名付けて都に来る船の様に、作る中に畜えて置く。

かの国を5月に出て、かせいで8月に帰国するとのこと。

この異国船、初年に来たころは、官の申令は厳しく浦から浦に伝わり、魚長より小舟の漁師まで驚いて領主の耳に入れて、最寄りのお代官に申し通ずる心得となっていた。

ところが、異船から通訳らしい者が、我々は全くの魚膏を得る為に来ているだけで、他に怪しいところはありませんからと漁師たちに(お上に伝えるのは控えてと)云っている。

この為にこちらの方も利益があればと、漁師達は追々内密にして、今では異人は年を経るに連れ沖に益々やって来ては、鯨捕りで稼ぐ事が絶えない。

世の諺、油断大敵と云うべきである。

されどこの位はどうと云うこともなし、その政(まつりごと)に諜報なしと云うことになるのだろうか。

巻之八 一一 国々の暑い寒いの話

大洲(伊予の)侯にお会いした時に、国々の暑い寒いの話になり、我が平戸の気候を語り、予州も海が近かければ夏も涼しいでしょうと云った。

侯の臣 堀尾四郎次がその場にいて云う。

そうでもありませぬ。

暑さが来るとたまりません。

暑さが盛りになると、ゆっくり行くにも暑い気が(かたまる様になっていて)黄白色の様に見え、空中にその暑さは留まった様になり、人目をさえぎり、10歩前を行く人さえほとんど見分けがつかない。

その蒸し暑さは耐えられない。

この様になると、ゆっくり行く者は青傘(藍色の紙を貼った日傘、紙は青土佐を使用)を用いれば、凌ぎやすくなる。

だから、暑さの中、青傘をさすことを止められたら、暑い中での往来は最も難儀になると語っている。

国、国によって、暑気の厚い薄いもある中に、予州はこと更に著しく異なることだった。

巻之八十 一 山神のたたり

ある壱岐の男、久しく対馬に居て隠れ家に住み、某の召使をしていた。

その男が話してくれたこと。

対馬の南方の海辺にけわしい山がある。

高さ1里、廻り3里と云う。

山の土砂は皆、金色だと。

きっと金を出せる山だと。

(対馬の)国人は牛頭天王の山と云う。

しかし、山中にその祠もなく、呼称のみだが、時として忽然と宮祠が現れることがあると。

これを見る人には必ず禍があると云う。

またこの山内は貴人といえども騎乗することはない。

もししたら、忽ち害がある、と。

先年、巡見上使(将軍の代替わりの時に大名領を視察する為に派遣された役人)の時に、その人が騎乗して通行したら落馬した、と。

これは山神の悪する処である、と。

またこの山下に観音院という寺のがある。

この蔵に夫婦貝という一大法螺貝がある。

毎年虫干しの時に、来る人みな見ていく。

の貝は、男法螺貝で、女法螺貝は海底にあると云う。

そのため男法螺貝を吹くことを厳禁にしている。

もし吹くことがあれば、海波が忽ち起こり、大船を覆してしまうと。

だからこれまで、この法螺貝を吹く者はいない。

国人が云う。

あるいは異賊が来る時に吹くと、怒涛巨浪が起こるだろう。

それならば、蒙古襲来を防ぐべきではないか。

果して、そうなのか、否か。

巻之七十三 七 西国との貿易

西国の商人が物語る。

琉球に商いに行く船は薩州より切手を受けて出発する。

この国に着いても渡口の浦に清国の番所があって、上陸することが出来ない。

またその渡口のもう一方に浦がある。

ここは薩候の番所があるので、ここで、切手を出すと上陸を許される。

この辺の民家には若い婦人がいて、こちらとの商いが成約になると歓待を受ける。

殿方よりご婦人方の裁量によってこの国と貿易をしているのである。

我が国(西国)との貿易は禁止事項で、本来清国に対して憚る事になるのだが。

(商売人は)この様な新手のやり方を考え出すものだ。

琉球の民は誠に正直で篤実である。このご婦人方の様な信じられない事(本来出来ない西国との貿易)を重ねて仕事にしている。

「中山伝信録〜ちゅうざんでんしんろく、清の除(草冠に保)光がしるした琉球の地誌」を閲覧すると、

但曰く。久米は那覇にある

たの名を大門村。ピン人30の姓を洪武中に賜った。

他の徒はそうではない。

ゆえ、唐営の名は営中と称する。

のち唐栄とあらためる。

この文によれば、これらは清国番所と云うものか。

(どちらにしろ)那覇は清国の渡口である。

巻之一 三六 松阪踊り


わしが幼い頃、祖母の元へ大奥の人という、体躯のいい長身の白髪の婦人が来た。

いかなる縁によるのか、何勤め(なにづとめ、大奥の中の)幼くてよく分からなかった。名はおこなとか云った。

この人に祖母君のあれこれを聞かされ、色々世間話をしている内に、有徳院様(八代将軍吉宗)の時の御踊りをお孫さまにご披露されてはと云うと、心得ておりますとも、と云って、(祖母君は)立上り舞った。

手を右左に上げ下げして、またその掌を打ち、輪の様に行き回るばかりである。

歌は自ら唄い、そこで松阪こへしと云われた。

幼い心に面白くない踊りと思ったが、松阪踊りというものだったということ。

今思えば、古風なことだったと追慕しているところである。


松阪踊り〜伊勢節の盆踊り。伊勢の古市で享保(17161736)ころから行われた。

巻之百 二 温泉

文政十年の春、上州伊香保の温泉郷で火が出て一帯焼けてしまった。
次の日から温泉は冷水になったが、十日過ぎて元にもどった。
また文政三年のころか、富士山が山あれした。
箱根の温泉が冷たくなったと云う。
地底の火脈が発出するという話。

巻之九十一 六 船橋明神の巨大な鏡

船橋明神(下総国船橋在)の祠の中に、いにしえの昔、海の中から得たという巨大な鏡が二面があった。
神代の物と云い伝えがある。
一つは径八尺(2.424㍍)。
裏に縁があり、厚さニ寸(3.03㌢)になる。
もう一つは、径四尺を計れる。
この鑑の地金はもう一つの大きい方に劣る。
だから、強く敲(たた)くと、その響きはよくない。
ニ鏡ともに車に乗せて移すのでなければ、動かしてはならぬ大器であると。
また黒鉄の御柱と称して(黒鉄は鉄ではない)、長(た)け九尺余り、廻り三尺ほどになる。
これを中央に置き、大鏡は左右にある。共に三神と崇む。
昔よりこれをご神体として、世の人には見せない。
だから、遷宮の時には幕を設けて屏をなして、夜影にご神体を移すと云う。
この話は橋本町稲荷の祝いの某、かの宮の遷座(ご神体を他に移すこと)の時にあってこれを知ったことであった(菊庵話)。

続編 巻之25 〔11〕 カツオ釣りの船

平戸藩の村人から聞いた。
近年城下の半里ほど西に行った薄香浦に、天草からカツオ釣りの船に乗り来ている。
初夏に来て秋頃に帰る。
その船は十反帆ばかりで形は天当船の様に、帆柱が三本ある。
だから、逆風が吹いても直行するのだと。
またカツオ釣りには鰯の生き餌がいる。
これをいけすに蓄え、天気を見て、薄香浦西三里ほどの生月島沖ニ三十里ほど出かける。
出かけるのは夕八ツ半(午後3時頃)頃で、夜を通し朝の光の出る頃にカツオの群れに逢う。
釣るのは二時(4時間)ばかりで終わる。
漁獲高が過ぎると、あまりの積載量が元で船は沈んでしまう。
だから、船長は杖を持ち立って、漁師が魚を獲った量を計り、ほどほどのところで止めさせ帰る。
これを守らなければ、船事故に遭う者が出てくるだろうから。
船にはニ十八九人ほどいる。
またこのカツオ釣りは五島領からもやって来るが、やはり漁師の船着き場(釣りの出発地)と釣り場は先に書いたのと同じ。
カツオを釣り、帰港すると納屋で鰹節を作る。
また鰯さえよく獲っている。
漁師の体は田舎じみていて柿で染めた筒袖の半天の姿で、言葉は天草の方言なので、聞いてもわからぬ事が多い。
カツオ釣りをする人は見ないが、そのやり方を見ると、なるほど見事なことよ。
このカツオ釣り、前に記した房総の海釣りとやり方は違えど、趣は同じだろう。

続 巻之16 〔13〕 奥州白河郡小名浜の辺りの異国船と鯨漁

前に総州銚子の海で異国船が、漁業で稼ぐことを聞いた。
またある人が云う。
奥州白河郡でも小名浜の辺りにも何方か異国人が来て鯨漁をしたり、油をとり、平た船の様な船に鯨の皮、肉をおさめている、と。
定めるには、元船(母船)が海洋中にあるにちがいない。
八月になると必ず帰るという。
総州の船と同じものか?

続編 巻之29 〔2〕 周防国の連理の松

菊庵旅中より伝えることは。
周防国に連理の松がある。
文政九(丙戌)その図を施板した。
今これをたてまつると。
周防国吉備郡割小松山中連理松の図
曰く。この松去年、文政十一年、大風のとき、連理のところから三四尺ほどずつ吹き折れたとのこと。
けれどもその故枝をそれぞれにしていたら、状態は計り知れないが、再び見るとこの絵図のようになった。
また曰く。これまで連理というものを見ると、大抵は一方の枝が一方の木にささって連なっている。
今見ているものは、両樹の枝が相互に連交している。
珍しいことよ。

巻之五十ニ 一一 蝦夷地

去年だったか、ある人が曲玉を贈った。(大きさは3㌢程)。
写真の形で質は琥珀の様。
これは西蝦夷地「カムイコタン」で掘り出されたのだという。
頃は文化の始めで、今御勘定を勤める増田金五郎が、かの地に在住を願い出て妻子と共に箱館にいた時に得たものである。
その後もカラフト島で齋瓶(イハヒベ)、曲玉を得たのだと。
これは支配勘定向井勘助が得た物。 
曲玉の事は、古を好む者はよく知るところだろうが、この様に蝦夷地にあるのは疑問に思う。
齋瓶の様な物もまた同じ。
ここを思えば、蝦夷地は、上古は日本の地で、後世に至って次第に蝦夷地域となってきたか。
「カムイコタン」の地を、わしは詳しく知らない。
林子平が「蝦夷図」を載せない。ならば知る人に聞こう。
またカラフトは蝦夷から西北、最奥の処で、海を渡って三十五里。
中華、満洲の地と繋がる処である。
だからこの地に及んで、我が国の上古の物がある。ますます奇な事である。

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「日本紀」斉明天皇の五年三月、阿部の臣をやって、百八十艘の船を率いて蝦夷国を討たせた。
中略 問菟の蝦夷を謄鹿嶋(キカシマ)と菟穂名(ウホナ)の二人が進みて曰く。
「最終的には後方羊蹄(シベリス)をもって政所となす事が可しとする事がよいでしょう」。
謄鹿嶋(キカシマ)等が云う事についに従って、郡領を置いて帰った。
越の国の司と道奥の司に二階の位をそれぞれ与え授ける。
郡領と主政に一階をそれぞれ授ける」。下略。
後方羊蹄(シベリシ)は、「通證」に書いてある。
何であろうかと見ると、これは今の蝦夷の嶋志利辺知(シシリベチ)である。
山がある。尻別嶽という。
「蝦夷地」を見ると、この山蝦夷に入るのは遠くない地である。
記して云う。尻別山、または尻辺之(シリベシ)とも云う。
蝦夷で一番高い山で箱館より見えるそうだ。
箱館は松前渡口の大湊である。
これを知るべし。そうであれば、かの地に我が古にかかる器があるのも然りである。
また図を見ると、尻別嶽の西の麓海辺にシコタンと云う処がある。
これは、または前に云ったカムイコタンの地なのか。

巻之五 〈一四〉 小笠原島

修験の某に聞いた。
八丈島の南方百里ばかりに無人島があると。
一名(本文ママ)を小笠原島と云う。大小八十余島ある。
その内、二島は大きさ四国ほどもあるに違いない。
島には山が多く、平地はほとんどない。
ヤシ、ビンロウ、蘇芳(スオウ)の類、その他良材を産する。
島は音呼(インコ)を始め、異禽が多くいる。
この島を小笠原と云うのは、今尾張候の家臣城代を勤める小笠原三九郎と云う者の先祖民部大輔頼□(一字不詳)と云うが、神祖より賜われた土地だとのこと。
三九郎所蔵の記録がある。
その中に祖先が島に建てた碑文を載せる。曰く、
大日本国、天照皇大神宮地、征夷大将軍源家康公幕下、小笠原民部大輔頼□領分。
この碑、二箇所に建つと云う。
思うに大島二つの中にあるのだろう。
この三九郎はかの修験の檀家だと云う。
定めて、事実であろう。尚、折を見て、よく調べたし。

続編 巻之一 〈三〉 人の至誠

林子曰く。人の至誠と云うものは何にも通徹するものである。
佐渡の地の役に、田中従太郎と云うわしの門人である。
質実な資質で、その道を崇のこころとして限りなく深い。
佐州に聖廟を建てたいと年久しく願っていたが、時を得て、今の奉行泉本正助に就て政府に達した。
今、ここにそれを落成した。
いささかも官費を煩わさなかった。
国民従太郎やな心服して、富める者は金銀木石を出し、貧しき者は力役を供出した。
その国にはこえるほどの経営が成れた。佐州があって以来なき盛り挙がり、人の誠
はかくまで 洞徹するものかと感じいった。
図は下部写真。佐州教諭所図。
ちなみに奉行も広恵倉を建て、その利金を以て、永く聖廟に学舎修繕費用、かつ書冊を購入して師儒を招くまでの費用を用意する法を設け、政府に達して久しくその事を廃止させない。
不思議になるほどの事である。
こんな小吏さへコレほどの功業を成した。
今の世は堂々とした侯国で、文武教場さえ整わない所があるのは何たることか。

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巻之六十五 〈五〉 領内の村 あぼと云う地

領内の村、平戸城の西北一里余り、神崎と云う山の北に海に面していて、人里離れた所に、あぼと云う地がある。
ここにどうこくと云う処がある。
思うに人名で、今その廃宅の跡がある。
宅の辺りは石垣が残っている。
その谷あいに小竹がうっそうと茂り、人が窺える隙間はない。
近頃聞いた。
この地は、氏家内膳正、関ヶ原の戦に利がなかったので、後西国に下り、この処に潜居し、名を変え棲んでいた。
また大坂の陣が起きた時は、この地を去って跡なし。
定めて大阪に趣き与(くみ)せたものであろう。
この後、廃宅のとなってしまったか。
考えると、『武事紀戦略考』に、九月十五日の晩、長束太蔵大輔正家、関ヶ原に落ちて、大島に在ったのを聞いた。
道阿弥手勢三百計りで大島に押し寄せ、多いに戦った。
長束敗軍して逐電する〈大島は長嶋よりニ十余町南北〉。
十六日蓮、山岡また、桑名に押し寄せる。
氏家内膳正行広、和をこいて城をわたし〈桑名は長嶋よりニ十四五町南〉。
それより山岡また神戸城に赴く。
同書にあるが。
氏家常陸介入道卜全〈濃州大垣城主〉、美濃斎藤家三人衆の一人である。
後に信長公に従って、度々の戦功があった。
『武功雑記』にある。
元亀三年、信玄は遠江へ出張の条に信長公より権現様へ加勢として、一番手平手中書、ニ番佐久間由衣上門尉、三番大垣の氏家常陸入道卜全。
卜全は行広の父である。

三篇 巻之ニ十三 〈一一〉 平戸考

平戸考
わしの城地は島中にあって、世に平戸と呼ぶ。けれどもその地名の由来を知らない。ましてやその地にいる者さえわからないので、人が知らないのも然りである。だから、これを云うには、城地は島の北の方にあって、その地を平戸とするなら、島の総名は知る者はないだろう。
また上古に平戸と名ざすことはなかった。ならば、古に如何にと云うならば、単に平とのみこの島の名だった。
この平と云う古は『和名抄』に載るところ、肥前国十一群の中、松浦郡に、庇羅(ヒラ)、大沼(オオヌ)、値加(チカ)、生佐(イキサ)、久利(クリ)と云うのを上げる。即これぞ平である。庇羅と云うも平と云うもみな仮名にして同じ。
『三代実録』に貞観十八年の三月、参議太宰の権帥在原行平はニ事をうけた。その一事は〈中略〉、そのニ事は、肥前国松浦郡、庇羅値嘉〈値嘉も、今わしの領村。その説を下に記す〉の両郷に更にニ郡を建てて、上近下近に値嘉島を置くよう。今件のニ郷ははるかに遠いが、戸口は豊かでにぎやかである。また土産の出所は、奇異で物が多い。これに加えて地は海中にあり、境は異俗に隣する。
大唐新羅から来る者、本朝に入る唐の使い等は、この島を経て入らないわけではない。
また去年ある人民等が申して云うには。唐人等は必ず件の島に先に至り、多くの香薬を採ってそれを貨物に加える。その物を見せこの間、人民に令せず(ここ今一つ不明)。

これ等を以て見よ。古は庇羅の郷も、辺鄙な一所であると聞こえる。また宣長が『古事記伝』には、『三代実録』を引いて云うには。庇羅値嘉。『和名抄』にはなお松浦郡の郷名に載っている。定めてこの島は、今の五島平戸などの島々の総称である。そのゆえは、この島は歴史にも見えて、『三代実録』の趣きが大きくある島と聞こえる。在所もよく叶い、『風土記』に数大くあるのもよく叶ったりである。
五島平戸は、肥前国の西北方の海から西方へ遥かに連なる多くの島々がある。今も松浦郡につく。
(細注)後に平戸と云うのは、かの庇羅郷(ヒラノゴウ)より出た名に違いない。『三代実録』の文によると、庇羅はこの島にある郷である。
この値嘉を五島と云うのはよく心得た〈わしは、この弁を後で云おう〉。けれどもみな平戸とだけ云って、〈ト〉と云う弁は少しもない。また庇羅はこの島にある郷だと云っても『実録』の文は庇羅値嘉は、松浦郡の両郷とあって、郷の名である。だからこの様に云うなら、庇羅の郷の中に、また庇羅の郷があると云うも、宣長に似合わぬ陳腐なことである。
○この〈ト〉と云うのは、今は濁音に呼ぶが、これは平と云うので、度〈ド〉と濁るが、その正しきは渡〈ト〉と清〈スン〉で称すべきだろう。
如何にとなると、庇羅の島は肥前の陸地と接しているのは勿論だけど、わしの居城の辺りはますます近く、その南北は次第に闊距(大きな距離)で相離れ、唯城下の地勢相迫るを以て、朝暮来去の潮の流れは甚だ急で、ほとんど激流に勢いである。〈里俗はこの潮の勢いを名付けて四十八潮と云う。ただし潮行は一定でないが、変流は定まっていない。これはわしの居城の後ろの険しさに頼む所以である。詳しくは後の地図を見ておくれ〉。所謂この間は迫門(セド)なるものである。ゆえに平は庇羅にして、戸は庇羅島と肥前の陸地との門(ト)である。これはわしが城地の処ではなく、この様に呼ぶべき地である。

他その証を云うならば、世に名高い阿波国の鳴門。歌に
世の中のを渡りくらべて今ぞしる
  あはのなる^と^は浪風もなし
〈『和漢三才図会』に見える。読み人を云わず〉
これは、淡路国と阿波国との迫門(セド)である。また『歌枕』に〈紀伊〉、
かぢさがりゆらの^と^渡る柴船に 
  漕をくれたるなげきをぞする顕仲
この由良の^と^も、門(ト)にして『赤水興図』によると、淡路に由良というものがある。紀伊と相対してここは迫門(セド)である。阿波の鳴門と西東にあり〈世に紀州由良というのは、由良港(ユラノミナト)で、迫門とは別の処、紀の海口である〉。これ等にも思いを致したい。
それで単にいうなら、庇羅島(ヒラノシマ)と肥前の地との門(ト)にして、「ヒラノト」である。また本地へわたる、庇羅より渡る、これも渡(ト)というべきだろう。が、これは不自然。`ト`は濁音にならない。清音でありながら、今濁音になるのは、言便(ゴンビン)で濁るのである。
因みに、その地勢を知らない為に、過ぎし文化八年辛未冬、官命があって九州を測量した地図がある。ここに出してみる。その地図の全体を見て、よく知ってほしい。

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◎また前に云っていた松浦値嘉島は、庇羅と両郷としたことで、今も大なる島である。
けれどもその地は分断して続かない。
その島々を読んで、わしの居城の方にあるのを宇久、次を小値賀と云う。
それから次いで、中通、若松、奈留、久賀、福江と云う。
その形中小大と交じり連なる。
だが、宇久小値賀は前に離れ、その余りの中通以下は後(シリ)に連なる。
これは所謂五島で数によって称する。
問う。ならば、前の二島〈宇久、小値賀〉はどうして五島に加えるのだろう。
答える。『肥前国風土記』に云う。
値嘉島は郡の西南の海中にあり。
昔の者は同天皇〈同天皇とは前に纏向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)と云う景口帝なり〉巡幸の時、志式島の行宮に在して、西の海をよくご覧になった。
海の中に島がある。煙気が多く立ち上っている。

陪従安曇連百足を勅して、遣わしてこれを察(み)せしむる。
島は八十余りあり。
中に就くニ島は、島ごとに人あり。
第一の島名は小近。
土蜘蛛大耳がいる。
第二の島名は、大近。土蜘蛛垂耳がいる。
のこりの島は、並びに人おらず。
ここに百足は、大耳等を捕えて奏聞す。
天皇勅をして、みせしめ(言偏に朱)殺そうとした時、大耳等頭を叩いて聞きし曰く〈中略〉。
ここに於いて、天皇恩赦を垂れて放し、更に勅して云わく。
この島は遠しと云えども、猶近いように見える。近の島と云うべし。
よって、値嘉の島と云う〈中略〉。
或いは一百余りの近島がある。
或いは八十余りの島がある。
西に船の泊まる停(とまり)がニ処あり。
遣唐使、この停を発してより、美弥良久(みみらく)の済に至り、ここより船を発して、西を指してわたる。
〜ここまで肥前国風土記より。
また考えを巡らすと、大小とも値嘉の島なのは、呼称は別にして上古景行帝の頃は、大小(オヲ)の音を分けるまま、小島を小近(ヲチカ)と呼び、大島を大近(オチカ)と呼んで、その地を知るのを〈景行帝より、十三代四代の帝、顕宗、仁賢の両帝は、履中帝の御孫、御兄弟として坐するが、御兄仁賢帝の御名、億計(オケ)と申し奉り、御弟顕宗帝の御名を、弘計(ヲケ)と申し奉るも、御同名に非ざるは、呼び声の違い故である。
これ等を證とすべき。真淵が『語意孝』にも、これを詳しく述べた〉、数百年を歴たる中、いつしか今の小値賀の地のみ、旧名を残して、大近の地は、その呼称さえ絶えて、地勢によって、今は五島とのみ称しているのは、里俗を嘲るのみでなく、文雅の諸人、或いは国君さえも述べないのは、どうしてだろうか。

◎『風土記』の文に、遣唐使は、美弥良久の済に至り、これより発船して、西を指してこれに度(わた)ると見えるのは、美弥良久という処は今審にしないけれども、大近の島端から西を指し度ると云うと、漢土は今の浙江の辺である。
朝鮮対州は、共に大近の北方である。
『風土記』の文の唐使海路の便を見てほしい。
また今の浙江は、唐の代の明州で、『古今集』の旅、仲丸の歌〈天の原ふるさけみれば春日なるみかさの山に出し月かも〉の後注に、この歌は昔仲麻呂を唐に学びに遣わしたのを、あまたの年を経て、得(ェ)還り参(モウ)でに来たのをこの邦(クニ)よりまた使が下り至るにかこつけて、参でに来た明州の海辺で、かの国の人は馬の鼻向けをした。夜になって月がとても面白く出るのを観て、必ず歌を詠もうと語り伝うる、と見えたのはこの大近の対向によくかなったことだった。
これを思え。


◎また『風土記』の文に、天皇〈景行帝〉巡幸の時、志式島の行宮(アンキュウ)に在しと云うもの、今『風土記』の板本があると頭注がある。
曰く。志式島の事は詳くはないと。
わしは思う。平戸の島端は、北は居城の地、南端は〈この南北の距離は十里余り〉。
すなわち志自岐の社がある。また西海をみそなわすに、海中に島があって煙気が多く履う、云々。
小近大近と。今かの社地より西を臨めば、小値賀の島がある。
五島も同じ。また、志式、今は志自岐と書くが、『延喜式』神名帳、肥前国の式社四座の中、志々伎神社〈名神大〉は、正しくこの神である。
それで『延喜』には志々伎、今は志自岐、『風土記』は志式、みな同音である。
ただ『風土記』に島と云う物は庇羅島の南端であり、巡幸の時、北辺より島中を経られず、南肥後の方よりそこに至られたので、志式は素より島中にあるので、南端からみて称するなら、志式島と云うのは、相応しい。
よく思いを致すよう。
また云う。今かの志自岐の里俗、及び社家に伝わるのは、昔景行帝がこの処に到りたまわれたと古来伝説に言てある。
明らかにますます符号するのだ。
因みにわしは云う。
志々伎は古の文字、今は志自貴岐と書く。
だから古は志々と清音だったのが、終に言便に従い、志自と濁ったままを書かせている。
それで思う。平戸島の半ばより南方に、獅子村根獅子村等がある。
それより南の島先は志々伎神社とする。
だから、伎は崎のことで、獅子の崎となるのだ。
ただし獅子の文字は、全く後世の物で、古に志々と呼んでいたが、未だ考えが得られず。
これは庇等値嘉の事ではあるけれど、図を観て知って欲しい。
その首(はじめ)の宇久島は、五島侯の領地、次の小値賀島はわしの領地で次第に混雑する。みなその祖先に故あっての如し。
こと、下に述べたい。
またそれ以下の島にニ万領と称して、五島氏とわしと相互に、五分一ニ分一などと呼んで、農の租税、或いは漁猟の運上を両村に分かつことになった。
他には有ると聞いていない。
たとえば里中に小祠がある。
この朽損を修理するに、かの主よりは祠屋の半ば、わしの手よりは、その半などと云って、かの五分一、ニ分一の割に為るのである。
珍しい事なので、ここに付録した。

◎また宇久島は今五島侯の領分で、その島第一である。
小値賀島はわしの領として、第二にある。
これより、五つの島は連なりて五島侯の領分とする。
この次第交わる故を尋ねると、祖先覚翁殿のとき、その女を五島侯の先囲(かこむ)に嫁いで、男を生む。名は守定。
守定、幼きときに内乱に遭い、母と共に平戸に逃ぐる。時に覚翁殿は既に卒るをもち、子は高齢殿に寄った。
後その力により守定は本領に復(かえ)り、その母もまたかの家に帰る。
また里俗が伝える。
わが祖先公の女、五島氏の先君に嫁す。
このとき宇久の島を粧田として五島氏に贈った。
今宇久にある物は、この為だと。ただし前と一事。
因みに云う。今五島侯は、清和源氏と称するが、全くその初めは、わしの家祖先公の六子、宇久(うくの)源六と名乗られた末である。事『新修家譜』に詳しい。
ならば、嵯峨源氏の一族である。
この地理の事にはこだわらないけれども、宇久小値賀見合いの為に、ここに及ぶ。
わが居城(スミドコロ)は、あまさがる鄙(ヒナ)のとほき国の島なれど、平戸てふ名は、古より久しく伝へぬ。
しかはあれど、何(イカ)にして斯(カク)は名づくるも、今にしては人しらず。
因(ヨ)て、われその国の島に主(アルジ)として、斯なん人と同じからんもいかにと、昔のさまを前に書しるし、また値嘉の島てふ名も、遠き古に聞こえたれば、これをもともに、わけしるし侍りぬ。
あづまより千里へだてし庇羅の迫門(ト)の
   我が住むかたはちか(値嘉)の五島(イツシマ)
     (本文ママ)
珍敷考指上侯。得と御一覧御評被仰下度奉翼侯。頓首。
        二月十九日
清細なる考證感心仕候。
        二十一  衡
(忠行日。以下他日の御礼)
一、御領地云々めづらしき事を承り申候。
あの類の御草稿は一時遊戯と違ひ、実に考證も可相成之事どもにて感心仕候。

巻之四十九 〈一三〉 壱岐、対馬のこと

領分壱岐は、孤島といえども流石に一国であって、産物も多い。
モグラはかつて無し。
長く続く畝もその害を免れ、花卉を庭園に植え、及び手入れする者はその妨害がない。
わしは常に戯れ言をする。
嘗て黄門光圀卿、文蛤白小を常陸の磯浜、潮来湖に放ち、長年滋息して、民はその利益を頼るほどだった。
昆布は唯松前に出るのを、その石を松前から取って、大津浜に置かれる等の事までされたとのこと。
これとは反するが、もし何者かがモグラを壱岐に放てば、その子は繁茂して一国の災いになるだろう。
また虎を六十州の土地に放すなら、これも本邦の永き災いになる。
この様なことをやる人は無限地獄に墜ちて、永く悪業の苦を受けるだろうと笑うと、またこれと反することがあった。
対馬にはタヌキがいない。
昔年、宗家の臣に某と云う人がいて、狸の害を断つと誓った。生涯辛苦して、遂に一国の狸の種物を尽くした。
その人が常に云ってた事は、狸も天地間の動物の一種である。
その種を尽くすのは不善である。
我は必ず子孫は無かろうと云ったのが、果たしてその子孫今は絶えたという。
対馬の老臣大森繁右衛門が話したと、林が話してくれた。

続編 巻之八十六 〈五〉 蝦夷菊や蝦夷人の話

松前志州は旧来の馴染みであったが、家の浮沈により四十余年付き合いが疎くなり、この閏月にかの宅を訪れた。
西東隔土の話になり、わしは云った。
その領国(松前藩)で産出する蝦夷菊は愛すべきものである。
帰国の後、必ず各種を送って欲しいと云うと、志州が云った。
いや、その菊はわしの領地産ではないのだと。
先年当地から持ち帰り、植え始めたが、今ようやく育つようになったのだと。
わしは愕然となった。
そうして、芸花家が南京、薩摩、蝦夷などの名を托して珍重する者、この類が多いのだ。
また問うた。
その中の牧人(モクシ)と云って、馬に乗る自在な者を既に文政七年の頃、私邸に招き見物し目を驚かせた。
蝦夷もまたよい乗り手であり、随分牧人に劣らないとのこと。
馬具は何を使っているのか。
志州が答えるには、(蝦夷人には)馬具はなく、裸背である。
鞍を用いれば、荷鞍なので(荷物様の鞍しかないようだ)、なかなか常の馬具をの用いる事を知らない。
また馬を馳せるには、平地は勿論、山坂等嶮しく難あるといえども少しも避けず、直下しても恐れず、鉄砲もまた馬上で放ち鳥獣をうつ。
わしはこれを聞いて思った。
蝦夷人は、弓練の事は人みな知っているが、かの土の事を記録した書物にも専ら書いてある。
それにしても、鉄砲に於いては未だその資料を見出していない。また馬乗の事も見ていない。珍説と云えないか。
またわしは云った。蝦夷人がこの様ならば、きっと義気盛んなのだろう。
志州はこう云った。義気に於いては少しも無い。去年東蝦夷のウラヤコタンで、異国船が大砲を放した時、鉛子(タマ)の大きさ二寸余りの物が陸地へ転(マロビ)来た。
蝦夷人はそれを見て、みな逃げ去った。
なかなか義気の心のなき俗であると。
これもまた考え方の相違だろう。
わしはまたかの俗の真容を問うた。
すると近臣に命じて、路上にその肖像を描かせた。
それはここに移した絵の通り(写真)。
また、寛政の手入れの時、三ヶ寺建立があった。
その中に浄土宗の寺があった。その事も聞いたが、なかなか(宗教の)教化は進まない。
和尚は受け持つと地を巡行するばかりで、金を溜めるばかりである。
念仏も蝦夷人は唱えるが、常に忘れてしまい唱えない。
酒を与えれば、その時は唱えると。
一向法流が行われることはならず。

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三篇 巻之十七 〈九〉 沖の神島、地の神島(コウジマ)

わしの領分小値賀は、隔土(ハナレドコロ)で肥前の大島である。南辺の僻地なので、領主もあまり行かない。何れの先代にか、かの地巡視された折〈この小値賀には、神島(コウジマ)といって両所に神祠がある。人は沖の神島、地の神島と云う〉乗船が神島の前を通るとき、鳥居の上に白髪の老人が現れた。公はご神体であると、随行者に示して拝むよう令(しむ)るが、みな視えずと答えた。ただ用心某が視ることが出来た。正しいご神体ではなく、何者なのだろうかと云っている。
また巨綱島氏が伝える。かの地へ渡るは、雄香院殿のみである。この時も老沖縄が現れ、公は拝敬されたが、人に伝えると視えずと云ったという。
だからこの二つの事は、雄公の時にお姿が現れたと云うのか。また現れた方は別の方と云うのか。いずれにしても、その神の身体を顕されたのだ、不思議なことぞ。
また地の神島に、法印殿が朝鮮国からご帰陣の後奉納されたお刀がある。封人も容易には見難い。島の押役(オサエヤク)は、これを拭う時に拝見するが、革柄で鉄の緑頭のお構(コシラエ)になるので、中刃(ナカゴ)はいかにも上作とわかる。
人が評するには、公の御陣中に常に身につけておられる物を格別に奉献されたと聞こえた。
またある人が云う。沖の神島には、年々大歳の夜に海中に火が現れ、島の神前へ到り全て波間に没す。人は竜王の奉燈と呼んだ。
また云うには。平戸は古の庇羅の島である。南北に十里余り〈五十町程〉、南端は志々伎神社がある。平戸城は北方の海辺である。また極北に山がある。山上に白岳祠〈小石祠〉がある。この神もまた霊がある。商舶および余船に至るまで、平戸を望んで来る者は、時があって夜霧が四方塞いでも、指所を弁ずるなかれ。この時、船中に於いて、かの山祠を祈念すれば、必ず山頭に火光を見分けることが出来る。
船は即これを認めて行けば、すなわち平戸に達する。
全く神の霊火と伝わる。!

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