2020/05/13
巻之61 〔25〕 川越の名の由来
川越の名は何が由来なのか。
その土地の人に聞いたら、上方から奥羽に下る者は、中山道を経て、熊谷駅から右に入り、松山を過ぎて、入間川を渡る、と。
川の地だからこそ、そう云うのだど。
今の川越のお城下は川を隔てること一里半である。
松浦静山公の随筆「甲子夜話」を語りのお稽古として紐解いています。
2020/05/13
川越の名は何が由来なのか。
その土地の人に聞いたら、上方から奥羽に下る者は、中山道を経て、熊谷駅から右に入り、松山を過ぎて、入間川を渡る、と。
川の地だからこそ、そう云うのだど。
今の川越のお城下は川を隔てること一里半である。
2020/05/14
先年、琉球使が来られたとき、王子が大和風に歌をよまれたものを書き留めた。
さしたるものではないが、大和という異なる地での一端が見られるので、記録したものである。
扶桑の大樹公が代替りをされたので、慶賀の使として、明和元年の秋にむさしの国に向う途中、肥前国の松浦に至り、追風がなくて十日あまり舟を止めて待っているところでよんだ。
読谷山王子朝恒
(以下原文ママ)
遂にふく風の便りをまつらがた
いく夜うきねの数つもるらん
伏見の里にて月を見て
いつもかくかなしきものか草まくら
ひとり伏見の夜半の月影
富士山を見て
人とはばいかが語らん言の葉を
及ばぬ不二の雪の明ぼの
霜月初(はじめ)つかたむさしの国にいたりかの所にて月を見て
たび衣はるばるきてもふる里に
かはらぬものはむかう月かや
帰路、浮嶋が原にて
ふじの根の雪吹おろす風みえて
一むらくもるうき嶋がはら
深草にて
ふる里にうづらの床もうづもれて
冬ぞあはれはふか草の里
2020/05/21
ある人が北総常陸の辺りに来て、河口、銚子の浦に泊まって沿岸の住民に聞いた話。
5年ほど前、異邦人が三里ほど沖に舟が出入りし、舟の印である小旗を皆巻いて、はだか船の如く碇を下ろして目立たぬ様にして鯨を捕り、その肉を魚膏(膏はあぶらのこと。
魚のあぶら)にしぼる。それを煮煎する燃料に鯨の骨、皮筋を用いた。
魚膏は、田舎から肥し船と名付けて都に来る船の様に、作る中に畜えて置く。
かの国を5月に出て、かせいで8月に帰国するとのこと。
この異国船、初年に来たころは、官の申令は厳しく浦から浦に伝わり、魚長より小舟の漁師まで驚いて領主の耳に入れて、最寄りのお代官に申し通ずる心得となっていた。
ところが、異船から通訳らしい者が、我々は全くの魚膏を得る為に来ているだけで、他に怪しいところはありませんからと漁師たちに(お上に伝えるのは控えてと)云っている。
この為にこちらの方も利益があればと、漁師達は追々内密にして、今では異人は年を経るに連れ沖に益々やって来ては、鯨捕りで稼ぐ事が絶えない。
世の諺、油断大敵と云うべきである。
されどこの位はどうと云うこともなし、その政(まつりごと)に諜報なしと云うことになるのだろうか。
2020/05/22
大洲(伊予の)侯にお会いした時に、国々の暑い寒いの話になり、我が平戸の気候を語り、予州も海が近かければ夏も涼しいでしょうと云った。
侯の臣 堀尾四郎次がその場にいて云う。
そうでもありませぬ。
暑さが来るとたまりません。
暑さが盛りになると、ゆっくり行くにも暑い気が(かたまる様になっていて)黄白色の様に見え、空中にその暑さは留まった様になり、人目をさえぎり、10歩前を行く人さえほとんど見分けがつかない。
その蒸し暑さは耐えられない。
この様になると、ゆっくり行く者は青傘(藍色の紙を貼った日傘、紙は青土佐を使用)を用いれば、凌ぎやすくなる。
だから、暑さの中、青傘をさすことを止められたら、暑い中での往来は最も難儀になると語っている。
国、国によって、暑気の厚い薄いもある中に、予州はこと更に著しく異なることだった。
2020/05/24
ある壱岐の男、久しく対馬に居て隠れ家に住み、某の召使をしていた。
その男が話してくれたこと。
対馬の南方の海辺にけわしい山がある。
高さ1里、廻り3里と云う。
山の土砂は皆、金色だと。
きっと金を出せる山だと。
(対馬の)国人は牛頭天王の山と云う。
しかし、山中にその祠もなく、呼称のみだが、時として忽然と宮祠が現れることがあると。
これを見る人には必ず禍があると云う。
またこの山内は貴人といえども騎乗することはない。
もししたら、忽ち害がある、と。
先年、巡見上使(将軍の代替わりの時に大名領を視察する為に派遣された役人)の時に、その人が騎乗して通行したら落馬した、と。
これは山神の悪する処である、と。
またこの山下に観音院という寺のがある。
この蔵に夫婦貝という一大法螺貝がある。
毎年虫干しの時に、来る人みな見ていく。
この貝は、男法螺貝で、女法螺貝は海底にあると云う。
そのため男法螺貝を吹くことを厳禁にしている。
もし吹くことがあれば、海波が忽ち起こり、大船を覆してしまうと。
だからこれまで、この法螺貝を吹く者はいない。
国人が云う。
あるいは異賊が来る時に吹くと、怒涛巨浪が起こるだろう。
それならば、蒙古襲来を防ぐべきではないか。
果して、そうなのか、否か。
2020/05/26
西国の商人が物語る。
琉球に商いに行く船は薩州より切手を受けて出発する。
この国に着いても渡口の浦に清国の番所があって、上陸することが出来ない。
またその渡口のもう一方に浦がある。
ここは薩候の番所があるので、ここで、切手を出すと上陸を許される。
この辺の民家には若い婦人がいて、こちらとの商いが成約になると歓待を受ける。
殿方よりご婦人方の裁量によってこの国と貿易をしているのである。
我が国(西国)との貿易は禁止事項で、本来清国に対して憚る事になるのだが。
(商売人は)この様な新手のやり方を考え出すものだ。
琉球の民は誠に正直で篤実である。このご婦人方の様な信じられない事(本来出来ない西国との貿易)を重ねて仕事にしている。
「中山伝信録〜ちゅうざんでんしんろく、清の除(草冠に保)光がしるした琉球の地誌」を閲覧すると、
但曰く。久米は那覇にある。
またの名を大門村。ピン人30の姓を洪武中に賜った。
他の徒はそうではない。
ゆえ、唐営の名は営中と称する。
のち唐栄とあらためる。
この文によれば、これらは清国番所と云うものか。
(どちらにしろ)那覇は清国の渡口である。
2020/05/28
わしが幼い頃、祖母の元へ大奥の人という、体躯のいい長身の白髪の婦人が来た。
いかなる縁によるのか、何勤め(なにづとめ、大奥の中の)幼くてよく分からなかった。名はおこなとか云った。
この人に祖母君のあれこれを聞かされ、色々世間話をしている内に、有徳院様(八代将軍吉宗)の時の御踊りをお孫さまにご披露されてはと云うと、心得ておりますとも、と云って、(祖母君は)立上り舞った。
手を右左に上げ下げして、またその掌を打ち、輪の様に行き回るばかりである。
歌は自ら唄い、そこで松阪こへしと云われた。
幼い心に面白くない踊りと思ったが、松阪踊りというものだったということ。
今思えば、古風なことだったと追慕しているところである。
※松阪踊り〜伊勢節の盆踊り。伊勢の古市で享保(1716〜1736)ころから行われた。
2020/05/30
2020/06/10
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Author:百合の若
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