三篇 巻之十ニ 〈1〉  盛姫君、浜御庭御入り  その3

(少しお疲れになられたか)近くの松の腰かけ(といわれている)に少し休まれた。
浜の景色が描かれている御たばこ盆や、御ついたてをここに下される様は、めったに目にすることはなく、誠に驚くものである。
またつばめの御茶屋では、数々の御生花を置いた様も素晴らしいのだ。

うちならふ(並ぶ)花のかずかずめづらしな
     いづれをそれとわきてめで見ん

それから中嶋が(姫君のおましになる場へ)参った。
とても素晴らしく包んだ御煙草を下し給うのを

もしほやく煙ならねどたてそへて
    秋の日あかずここにたのしむ
(などと仰っている)

猶様々の所々を巡り、富士見の御山に上り見ると、とてもよく晴れわたっている。

幾千里へだてて遠にふじの根も
     霧打ちはれて見るはまぢかき

やがて「魚舟が出るぞ〜」と告げているので、海の手の御茶屋に行って、簾から間近に寄り、漁師の編みうちをご覧になる。

うるわしや波ぞうたにも網引する
   あま(海人)の小舟をみるはめづらし

ここも過ぎて、貝等を拾って、松原の御腰かけに立ち寄られると、心を込めた数々の御切り花を(姫君に)贈られた。

あかずのみ恵みの花のかずかずを
    猶たのしまむ秋の明けくれ

と仰がれ、猶日毎の楽しみにしようとなさるのがとても喜ばしい。
そこも過ぎて、塩釜の側に参られた。五色の塩等を給われて、

見るはけふはじめなりけり海人の
    藻しほ焼てふおのがしわざを

※見るもの聞くもの珍しく五感に刻みながら、次々と足を延ばされる姫君の御姿が浮かびました。
歌も活き活き、若さが弾けておられ。。。(年かさのお付きの者は、海辺の太陽光を浴びながら、付いて行かれるのは、さぞお疲れになったでしょう💦)。

三篇 巻之十ニ 〈1〉 その4

猶足をどんどん進めて庚申堂に、ほどなく五番堀に着かれた。
ここにも色々うるわしい賜物を飾らせて(姫に)下される。
とても有り難い御恵を仰がれている。
わきに虫の声が多く聞こえてきたので、真に珍しいので嬉しくて行って見ると、木ごと垣根などにかけられた御恵の露深い御籠などを(姫君から)給わる者もある。
また草むらごとに虫が集まり賑やかに鳴く声音に聞き入りては、沢山の虫を捕りながら遊ばれる。

御園生に君がちとせの松むしの声

この上なく面白がりながら、猶行かれると「座りたいわ」と仰る。
くだもの様の物を数々給わる。
ようやく観音堂に詣で、あちらこちらを仰ぎ見て、猶釣りの面白さを忘れられないとまた釣殿に参られた。
今回も二疋か三疋かかかった。
終日、(今ひとつではあったが)御もてなしの有り得なさ。
いい尽くし難い御恵のありがたさは、千尋の海(と比べても)も猶浅いと、(恐縮して)仰ぎ奉り、こう歌われた。

海ふかき君が恵はいく千とせ
  あおぐも高き浜の夕なみ

はや日も暮れて、名残り惜しい気持ちを残してお帰りになられる。
今日の御恵のありがたさは心に満ちてくる。
その千々(たいそう感激なされた沢山の事)の一つだけを取り上げて(人に)聞かせるのは、不本意であられるのだろう。
ただ、ただ(今日のことはみなに)感謝の気持ちを「つたない筆であるが」と御側にいる者にまで(御文で)伝えられた。
この上なく奉り給われた。

巻之一 〈5 〉 忍びがはたらけないお城の造り

何れの時か、武田勝頼は神祖(家康公)を密かに害し奉ろうと忍びを遣い御坐所の床下に入り刺すようにと命じた。
その者が戻ってきた。
勝頼は「どうだったか」と問うと忍びが云うには「床下まで入ったけれども、床が低くて刀を使うことが出来ませんでした。それで何も出来ず帰りました」と答えたという。

一日、述斎林氏に話すとこう云った。
「神祖は駿府城へ移り玉わろうという際に、造りを命じられるとき、床の高さは女子の上り下りが自由になる程にするようにと云われた。すると間者は床下で、はたらきが出来ないだろうから」という上意があったのだと云う。

巻之ニ十一 〈38〉 盛岡と弘前の確執

奥州の盛岡と弘前は隣り合っている。
この両侯には代々確執がある。

ある年盛岡侯に、公儀御用で領内の檜御買い上げの達しがあったが、領内には檜がないと申し答えた。
それより弘前侯にも同じ沙汰があって、答えた。
「こちらの領分には多くの檜がございます」。

そして隣の侯領の檜山に人をつかわして、木を自在に切って公儀へ出した。
その山地は弘前の領分になってしまった。

盛岡侯は初めに沙汰があった時に、「領分には檜はありません」と云ってしまったので、今更ここは我が領分であると云うことは出来なかった。

「その地は、我が領分であったのだぞ。十六里もあったのだ」と言いふらした。

概して弘前の押領の計略はこの類が多いのだ。


※正しく主張しなければ、とられてしまう。
世渡りは世知辛い、お人好しもいけない。
昔もそうだったのですね。

巻之十 〈20〉 伊達家のおもてなし

ある人が、昔仙台侯の来客の次第を物語った。
まづ客が来ればその末家か田村氏かつ親類の人が待ち受けて客に対応するが、ここでは仙台侯は迎えない。
ややあって侯が出て挨拶をする。
それから一通りの饗応がある。
さて(ここからは)いつも馬場で乗馬が始まる。

領内産の馬数十ないし百余匹を出して、主客ともに騎馬をする〈馬具はいつも鞍よろしくは朱漆で、障泥(あおり、馬具の付属品)は熊毛に限り、その他の品は用いないと云う〉。

因みにその乗り合いや毛色を客が誉めればそれは(誉めた客に対して)贈られる。
かねて用意していて人の氏名の紙の札は四方手(しおで、馬具)につけられている。

それから元席に戻ると、国産の打物、器具、織物などを色々出して、客の好みに合わせて贈る。
この流れが終わると「御供揃い候」と下より申し出て、客は退出すると云う。
何度も取り計らいはこの様子であると云う。
客が各邸に帰るのに、いつも先程の贈り物を先だって邸に届けられる。

また家頼(けらい)や諸客の刀を預かるとき、四品(徳川家、松平家、井伊家、細川家等の大名)以上は袱紗(ふくさ)で堅(たて)に持つ。
諸大夫(大名の家老等)以下はふくさなく横に提ぐ。

また四品以上の刀は刀架に掛ける。
その以下は毛氈(もうせん)を敷いた上に置くと云う。

わしは一度もかの邸に行かないので、その実は視ていないけれども、流石伊達家の風儀は格別の事だと思うままに記した。

この様な事も世のやり方に従って変わっていくものだろうから、今に(これから)如何な事になっていくのだろうか。

巻之八 〈7〉 蜷川家家紋

お側に勤める蜷川相模守の長子、大和守(親常)という新番頭をわしは久しく知っている人である。
この家は足利将軍時代を経た旧家である。

その家紋は写真①。

その物を審(つまび)らかにするならば一日逢った時に聞いたのだが、合子箸(ゴウシハシ)ですと答えた。
合子は今の飯碗である。
これに箸を添えた象(かたち)である。

後に古き諸家紋帳を見ると、写真②に見える様に、合子箸蜷川となった。

kamon01.jpg

巻之十六 〈11〉 細川光尚の嫡男幼くして跡を継ぐ 厳廟の思し召し

厳廟(家綱)の頃の話。

肥後熊本侯細川光尚、慶安二(1649)年十二月病が篤くあられ、嫡男六丸はわずか七歳にしかならないので、光尚は終に臨で、子が幼いから、我が領する肥後全国を公に返し入れたいと申し置き属紘(亡くなった)された。

明る三年四月遺領はこと故なく六丸に賜った。
その時家老長岡式部、同勘解由を大城に召して仰下されたのは、光尚が齢盛りにして没したことを悼み思召された。

肥後は西海の要地で殊に国も広い。
六丸はいまだ幼弱なので、他に遷されるところだが、曾祖忠興より世々中貞(よく仕え節操を守ること)あつく仕え奉り、また光尚の臨終のもう仕方が奇特であったので、その儘に賜った。

家人等心を同じくして力を合わせて六丸を育て上げるように、と。
また小倉侯小笠原忠政に、隣国の間柄でもあるので、折々肥後に行き、かの家人等と事をはからうようにと仰せ下された。

また御使いをも下されて、国政をも問うようにと、数々添えて仰せごとがあったという。

この六丸十一歳で殿上元服御諱字を賜い、叙任四位侍従になり越中守綱利と云う。
後に少将に陛(のぼ)り、七十ニ歳で没された。

抑々(そもそも)光尚が、子が幼いので領国を返し奉りたいと請いたのだが、また幼息に大国を襲(つが)し給い、国事迄も御心添えられたことも、誠に君臣上下揃い合うという美談になったのだ〈林話す〉。

巻之ニ 〈10〉 武家らしからぬ無様な歩き方

述斎林子が云った。

当年元日(文政壬午、5年、1822)朝、雪が降り出した折節、登城していた。

ある歴々の人が、松重の直垂をくくって、金作りの梨子地の御紋の鞘の両刀をいかめしく帯していた。

布衣(ほい)の従者を連れて、爪折の朱傘をささえて、(林子と)同じ様に登っていたが、雪降るためか、その様が殊に軽率な走りを見せるように歩く。

御門々々に松飾りのある中央を通らず、少しでも路を素早く行こうとせずに斜めに行くのだ。

その姿が体たらくに思え真に見苦しくて、その身柄不相応だと思った。

公門に入るお辞儀の如し、と見えるならば、心あることと語られるだろうが。

三篇 巻之十三 〈2〉 壱州の賢夫人二人

壱州の先の夫人は、笹山候の娘である。
お付きの老女は八十瀨と云う。
笹山候から輿入れの時より付いて来た者である。

この話を肥州(静山公の御子息)が語る。
当笹山閣老(野州、賢老は老中のこと)の姉は岸和田候〈岡部〉の後妻で今は亡き人である。
この婦人はすこぶる賢劣で、その女子を教育されること、所謂曹大家にも劣らない。

笹山閣老となられても、彼の元に行かれる時は、種々のみ教えがしばしばあったと。
わしは思う。世に知られる硬閣老に、意見を云われる人は如何なる婦人であろうかと。

余人にも聞いて欲しくてここに記した。
また今迎えた壱州の妻も、かの賢夫人の先妻の子を(今の)賢夫人は養育されていると。
ころは一斎語れるよし。

巻之十ニ 〈1〉 日光御参詣に掛かる経費

日光御参詣は経費が掛かる。
官吏の某は先朝御参宮の御入用の記録を懐にした。
わしは借りてこれを写した。

安栄五申年四月、日光御参詣、御供人数、御入用金、御扶持方
一、金十八万両      御入用金
一、金四万三千両     被下金
一、十万三千扶持     御賄御扶持方
一、ニ十三万八百三十人  人足  
一、三十万五千疋     馬数
一、三百五十三万四百四十人扶持 御供上下御扶持方
一、雑兵六十二万三千九百人

巻之十九 〈22〉 矍鑠(かくしゃく)と生きるお殿さまたち

また林曰く。
今より3代前の秋元但馬守は御役を勤めて1度引いて、また再び勤めた人である。
妾の年齢が25歳に満ちると手当てして縁付けする。
少より老に至るまで幾人もその様に扱ってきたという。

その意図は、人情はたとえ夫妻に於いても、そのはじめの容色に愛する所があれば、終まで長久なる者である。
30歳も越えて容顔も衰(おとろふ)れば、自ら(女性自身の自分に対する)の愛情が薄くなっていく。

人の生涯に係ることなので、早く縁付けするがよいと言われたという。
実に仁人の用心と言えるだろう。

またこれも今より3代前の鳥居丹波守もまた重ねて勤めた人である。
中年に夫人が病で亡くなった後、継室も無く常日頃は表住居で、妾を長屋に置いていた。

公私閑暇の時に、その長屋へ行き、厨下から酒食を運ばせ、弦歌酔飽して帰られる事が折々あるばかりだった。そうして一生を送られた。

色に溺れず、女人にまみえる筈も無く、かつその身の摂生にもなる一種の趣向でこそあるだろう。

それ故にか、齢高きまで矍鑠の様子は、目の当たりにした。
何れ重い任務をも勤めらる人の大衆に優れた所は、何かに就て有るものである。

巻之ニ十六 〈1〉 御腰物ためし

徳廟(家康公)の御時に新しい刀をしばしば命じて試されていた。

試したまま刀を出す様との御旨で、骨を通した刃の様子、膏(脂やラード)が着いた鉄の色までも微細に御覧になった。

御傍に侍る輩は汚らわしき事の様にいうものもあったが、「武に穢れと云うものはない」と仰せられたとのこと。

以前は御腰物ためしに奉行が行くと、着服を改めて登城したものだった。

だが今ではためしを(徳廟が)見届けた時のままだと云うので、(着服を改めず)すぐに登城する事になったという。

今70余歳で御作事奉行を勤める臼井筑前守が、初めて御腰物奉行を勤めた時に、その局中老輩の説にて聞いたと語ったと。
林が語った。

続篇 巻之99 〈8〉 彦根侯の家格

彦根侯の家格のことは毎度記している。

またわしの荘は、芝辺りを気に留めているが、毎々往くことに気づく。
つまり時として小荷駄馬を引き連れて行く姿にお目にかかる。

近頃も見ると、7匹ばかりの中に、割薪を負わせていた。または炭俵を負って、馬1頭に馬夫(まご)1人ずつ付いて口づなをひく。
みな下人とみえるが、質朴な田舎風で、浅黄の単羽織りに裾に子持ち筋を白く染め出したのを着ている。
また引き連れた最後(おおあと)に宰料が1人いる。

両刀を帯してくくり、袴を履き、羽織りはなく、細い竹杖をついて随い行く。
この者も国の者と見えて、中々当世の江戸風ではない。

わしには不審に思われ、「何れから何れに往く者ぞ。また何れの家中や」と問わせた。
すると「井伊の家中にて、八町堀の蔵屋敷より、桜田外の上屋敷に行くなり」と答えた。

それで初めて、かの小荷駄は彦根侯の馬であることを知った。

どれだけ手厚い家風であろうか。

巻之69 〈1〉 台廟攬英の御気象(気性)

ある日述斎と昔話をする中に台廟(将軍秀忠)攬英の御気象について二条を話した事を記す。

台廟が大御所になり給うた後、毛利宰相秀元(1579~1650、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名)は、右馬頭元就の第5男で、故中納言輝元を養子としてその家は続いた。

昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか14歳で大将を承り、異域に押し渡り、武勇を振り兼ねて聞き召され、秀元は只人に非ず。
文武の名誉、世にも人にも許された。
門地と云い官品と云い、家光の益友はこの右に出る者はいないと常に仰せになり、日々の如く(酋犬)廟(家康公)の御前に召され、昔今の物語ども聞きし召すのを飽かぬ御楽となされると、人はみな秀元を目して御噺衆と呼び、名を云う者はなかったという。

寛永(1624~1645年)中、細川三斎入道忠興(1563~1646 初代肥後細川家初代。細川ガラシャの夫)が帰国の辞見と御馬を賜い、それから西城に登り、台廟の御前に召され、旅中服用の御薬を給い、御手づから清水藤四郎の御脇差しを下されて、その時に仰せがあったのは、「我先に汝等と共に太閤の前にあって談話をされた折に、汝この脇差しを見て、あれはこの清水の作の脇差しを帯し、利休の尻膨れの茶入れのある茶事を催したらば、生涯の至楽足れり」と申された。

「その言葉は今も耳の底に残るので、汝にこの脇差しを授かる」と仰って忠興は感謝して退いたと〈この尻膨れの茶入は、既に細川家の物となったという〉。

巻之9 〈10〉

林氏が云う。
厳廟(4代将軍家綱)の頃は世風もかなり開けた様だが、それでさえ、今より見れば古風である事が多い。
伊丹順齊は万石取り(大名・旗本)で入道(僧侶)し、勘定頭(評定所にて関八州内江戸府外の訴訟を担当。老中の下、郡代、代官、蔵奉行などを支配した)で留守居を兼勤された。
また内藤善斎入道は持ち弓頭(将軍の弓を預かり、将軍の警衛、城内の警備にあたった)である。
今立(いまたつ)朝有司の中に入道の者があれば、さぞ人々も奇怪に思うだろう。

続篇 巻之2 〈4〉 盛岡侯のこと

奥の盛岡侯〈南部信濃守利済、なんぶとしただ、1797〜1855。2度(1547年と1854年)三閉伊一揆が勃発した。2度目の一揆の後に江戸屋敷で蟄居を命じられた〉は、近代打ち続く不幸のため、以前退身の嫡子信州と称する人の子で僧になったのを還俗して家督を継いだ。

僧だったときに、わしの隠荘北隣福厳寺と云う曹洞禅の法眷なので、今の福厳住持のその行実をよく知る。
その侯は、家を継いだ始めに諸臣の兵具を問いただした。
武器不足する者は、総て補い與えよと。
また帰俗の後もとかく以前の禅機を持して、戒行厳粛であると。
またこの度津軽侯は、逼塞(ひっそく、江戸時代武士や僧侶に科された刑罰)を仰出されたときに、家臣に命じられたのは、

「汝輩も知る通り、かの侯はもと我が家臣であったが、諸侯に列するのは天幸である。今計らずも恥辱を蒙るのは、憐れむこと甚だしきである。かの逼塞中は我が内の者どもは尤も穏便であってくれるよう。これは旧を念う厚情である」と。

聞く者はその徳意に感じ入るばかりであった。

三篇 巻之59 〈7〉 神君御産湯の水

田安殿の臣某が語る。
三川国に住む松平平太郎左衛門の庭中に古井戸が在る。
云う。「神君の御産湯の水である」と。

それを一の井戸と云って、注連縄を張って錠を設(シ)め、猥(ミダリ)に汲むことを許さず、官の御用ならでは開くことはない。
この水は、瘧疾(ギャクヤミ、おこりやマラリアの病)の者に飲ませると即(タチマチ)に治ると。

わしはある日ゆえあって、この水を与えられた。時に脚が数日痛い思いをしていた。
わしは思った。

「これは神君の御産湯の水といえども、かの御仁徳の流れを汲めば、足が疾であっても奚(ナン)ぞ恐れることはなかろう」と。
毎早これを拝飲すると、やや快を覚えてあきらかに癒える。
然るに瘧のみに無く、邪気の入りたる者はみなその功ありと知った。

信(マコト)に神祖治世の余沢、御産湯に逮(およべ)るか。

三篇 巻之61 〈9〉 水戸黄門〜当代斉昭侯に召されて物語る

水戸黄門〈当公斉昭侯〉よりお召が有って赴いた。
かのこの雅談される中に、仰るには、世に云う『へちまの皮のだん袋』ということは、古人は、馬皮から袋を造り、この内に諸物を納(い)れていた。
因みて人に対しては、敝馬(ヘチマ)の皮の団嚢(ダンブクロ)と言うことになったと。
珍しい御言を聞いた。

またその日は同客と3人になったが、幸と知己の人々で、切磋の語(モノガタリ)する中に、両客の話を傍より聞くと、頃日参政某侯の愛妾で、何か仔細があって、その部舎(ヘヤ)の婢より、小刀で突害(つきころ)されたと。
その故は、この妾籠溢のあまり、参政支配の諸氏より苞苴(マイナイ、つと)を受ける杯(など)、それ耳(ノミ)ならずこの難の所以が数々有って、かの家の諸臣伏せたが、実は誰人が主君の為に刺客を含めたと。
またこの婦人は、かの妾の下女ても非ず、かの参政の臣の女(ムスメ)、所謂部舎子(へやご)という者で、籠妾なら従置するが、然るに及び杯(など)、またその殺害の後を、かの女の認め書き置いた文は2尋ばかりのものもある杯。

当日退散のとき、厚く恩恵を謝して去った。
明日もまあ使臣を遣わし前の事を謝して、多年懇意にする同朋〈運阿弥〉が、使臣に語った旨を録する。

またその日公に謁見した後、また3人と小室に召されて、側ら近く進むと、公は迺(すなわ)ち曰わく。
「静山、汝の頭髪は実に偉相である。ほめたいが、明日同朋の言(コト)には、昨の静山の容貌は法躰にあらず。また俗容にあらず、奇とする。大いに好し」。
また曰わく。「彼の面胸を観察すると、何か一物あるものである。聞くに違わず、武徳が備わる漢なるものだ。昔朝鮮の役のとき、かの相法印(松浦家初代藩主鎮信公)の事を聞いた。今彼を見ると、その子孫と云って、恥ずかしくないだろう」。
わしは聞いていて歎息、夢が未だ覚めないかの様であった。因みにそな真を子孫に胎(のこ)す。

この日の公は歓喜坐々(ましまし)て、各退帰りは夜闌に及んだ。
また神輿には、3人の肖を画かせようと、画臣の右膳と云う者をわざと召し出され、自ら燭を剪(き、はさみでの意味)りつつ、えがくのを御側で観られた。
侍臣もまた列(ツラナッ)て共に観る。
(まるで)偏に昭君が胡王に下さるさまである。
1人は信州の当侯、1人は野州の老侯、わしと倶にみな写真をなして、公はその評論が有って、笑い話が相交じる。
子孫といえども、その若さは未だ有らざる栄か。

また思い出したが、その夜の御物語の中で、今日持たせる狭箱は、高相肥前守〈鎮信〉が勤行したときに従えた狭箱で拙寺に納めてあるのを、某が模制して、貴邸などに参上するのに、供に従えよと云われたら、取り寄せよ視たまえと、御前へ取り出して、丁寧に、自ら打ち返し打ち返しつつ、画臣に仰って、その図を成され、公家へ留められた。
すると天祥公な御名は、水府の御家(水戸徳川家)に永く伝えられたことは、祥公の御遺徳、賢くも、名出多久ぞ、喜びし思いぬ。

   天祥(松浦家第3代鎮信公)公御狭箱図
  水戸殿御覧は、この箱一箇である。公の御箱は、2合 
  と御蓑箱ともに3合である。

3823_n.jpg


※松浦家には鎮信公が御2人おられることを平戸の歴史研究家によりうかがいました。

巻之70 1 神祖の恭敬の姿勢

 神祖(家康公)は常に御面をふして人と応対されていたのを天海僧正が申し上げた。

「君は天下の主においでになるのに、下に臨まれるに、この様な御姿は御威望がなきにございます。こいねがわくは御心あっていただきとうございます」と申した。

 御答えに「以前太閤の御前に在ったことを忘れておらぬのだ。これが久習(クセ)と成ったのよ」と仰せられたと。
このような恭敬が御有りさまであったことを後は知らなかったのだろう。

 輪王寺宮安心院〔公延〕大物語あったと、その近習を勤めている者の話を聞いた。
またこの宮の話は、慈眼大師から世々相伝という。

続編 巻之28 〔2〕  有難い仰せ

 この4月8日、上野慈徳大妃の御位牌所御参詣の道だからと、予め筋違御門外の火災の人御救小屋を御目障りになるからと、取り払われた。

 然るに御成りのとき、ここの小屋は何かにとお尋ねがあったので、前文の旨を申し上げると、仰せになるには、
「この箇所は上聞きに達しなければ、御成りを理由に解く払うものではない。通御のときにその人を払い置くだけで済むではないか」
と有られたと。

 有難い仰せではないか。

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