巻之七十 ニ八 学問が子孫に続くことを願う

昔のことが折々に心に浮かんでくる。

国を治めていたころ、江戸屋敷に学館を立てて、子弟に教育を施し武技を日課にしていた。

また生徒の為に書物をいくばくか置いた。

が、丙寅の災い(文化の大火、文化334日の大火と思われる)にあってしまった。

また就封(しゅうほう〜領地の家督を受けること、場所は平戸と思われる)の始めの頃、学校を興したが、年月代替わりを得て、光輝くわけでもないが、廃止にならずずっと続いている。

これら尚、子孫に続いていくことを心から願っている。

今幸いに江戸の学館の印は灰になることなく残り、封地の学校の印も永く伝わることをここに記す。

予の志は印文に込めていると思ってほしい。



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巻之六十 四 水戸殿の壁書き

林翁曰く。

水戸殿へ参るときに、勝手口から入ると寄付きの間に壁書きがある。

その箇条は、

1.紙燭(しそく)を一切使ってはならない。

1.殿中で痰をはくことはならない。

1.(菓子等の)番中(包紙、箱等)をまとめた屑籠は御玄関から出仕入れしてはならない。

と三か条あり、その末尾にこれを破る者には科料(罰として金額を取り立てる)を申しつけていたとのこと。

某が若い頃は折々そのよう(条項を破り科料を申しつけられるのが)見られたものだった。

近頃、行ってみると、第ニ条の痰をはくべからずと云うのを除いて、前後二条だけでよさそうだ。

昔はこんな風であったのだが、今はいらない条項は消したらよかろう。

この事からも、昔の武士が粗野であった事を想像されたし。

巻之一 三七 大老家の家風

外桜田なる井伊家の屋鋪は昔より主人寝所の前は馬場で、毎早朝、家中の諸士がせめ馬(馬を乗りならすこと)をしている。

そのもの音で主人は目を覚ますと云う。

さすがは御当家格別の家風と云うべきところだが。

然るに明和(17641772)のころ大老を勤められた御代(井伊直幸と思われる、17841787に大老)より、改めて、ごく普通の庭に変わってしまったと云う。惜しむべきことである。


大老という重責におられる方には、それなりの格式のお暮らしを送っていただきたい、ものかもしれませんネ。

巻之ニ 一四 革袴

元禄の頃までは世間の多くが革袴を着ていた。

わしの先祖松浦鎮信公(15491614平戸初代藩主)壮年のころまでは、家老以下役人も専ら着用し、自身も着用されたと聞く。

歴史上の方々も着用された、と。

下々では宮本武蔵と佐々木の巌流島の仕合において。

巌流の下段の太刀で宮本は革袴を払って5寸ばかり切ったという。

それも常に着用していたということだろう。

現在は火事装束の他は見ない。

巻之六十一 一 めでたき

当年(乙酉、きのととり)春初の口占に、

春毎にかしらの雪はそれながら
君のめぐみぞ猶
林氏の手紙より。
御先手(江戸幕府の軍性の1つ、若年寄に属す)頭役を勤める春日八十郎という人が八十になる。
この元日には側室に姫を設けた。
年頭の挨拶が終わり、参政衆に届書を提出していた。
名前が八十ならば年齢も八十。
ならば姫に八十と名付けたとのこと。
かくしゃくたる老人で珍しいことであります、なあ、と。
林氏がわしに云うには、
老候にも、五十余り、六十余りにかけて、多くの柘榴房(ざくろのふさ)の様な福がありましょう、と。
定めて、八十に成られる頃までは、お達者でお出で下さいませ。
春日(局か?)、このことを書物に記され、たしかに春の初めはめでたく祝うものであるとしたためて、筆を置こう(今年も側室二人がおめでた、とのこと)。

巻之十三 ニ 何事も人の真似をして良いものではない

徳廟(亡き将軍、何代かは不明)が御鷹狩の出先で一人の男が老婆を背負い歩いている。
何者かと御尋ねになり、おつきの者がただす。
この老婆は歩くことが難しいが、将軍さまの御成を拝顔したいと申すので、道の端を伴っていた。
が(将軍さまに)間近になるのを背負って避け奉っていたと申し上げた。
徳廟は孝行な子である、物をとらすとの上意にて、下された物があったという。
その後、また御放鷹のとき、同じさまの者がいた。
これも御尋ねになったが、その応えも前と同様であった。
そのとき、上意にて先日のまねをするものではない。
良い真似をするのは、同前であると仰せになり、御褒章の御沙汰はなかったということ。

※まるで隣の爺の様。人真似はすんなで終わる昔ばなしみたい

続 巻之十七 一 公方さまを見奉るには

ある藩士が初めての江戸上りで公方さまを見奉りたいと言い出した。
友は言った。「藩士は見奉ることはできぬ。農夫になれば望みを達せる」。
藩士は「ならばどうしたらよいか?」。
友曰く。「田舎に御成の時に、農夫に頼み、その家人として見奉ればよい」。
士は喜んで、双刀を抜き、農家に身を寄せる。
その時、御成があったので農夫がこっそりと「あれこそ公方さまなれ」と教えた。
士は「いやいや。
あれは御一人にして御法体にはあらず」と疑った。

巻之十ニ 五 御膳所の小吏への御褒美

徳廟(今は亡き上様、どの御代かはうかがうことが出来ず)が、御飯の炊き方が格段よく出来た時は御膳所の小吏へ御沙汰があって、その都度御賞美金など下さろうとなさっていた。
が御料理向の者はどの様にお口にかなっても、ついに御褒美の御沙汰(固辞するので)は無くなった。
これ程までに御深慮があるのかとおしはかり奉れば、本当に有難き事となった。

三編ニ 〈一〉 上の事が下に通じない。 下の事が、上に通じない

水戸殿労国の御ことは、西山公より御相承と聞こえる。
前に当公は、馬の飼い方の命があった事を載せた。
また郷里への仰出を見た。
みな、巳年となると、初めて帰国された年である。
御文中、博徒堕胎の事、しばしばあった。
これは(先々)常陸の国俗にするよう、中山氏の話に聞いた。
    仰出の文
我ら相続した巳年以来、郷村在町の儀については、日夜心を労する所、近世の風の為か、上の事が下に通じない。
下の事が、上に通じない儀もあって、この事をことさらに心配している。
先ず人は父母あって生ずると云いながら、天から生じ給う事をよくよく知ることだ。
その内、幸不幸があって、幸いに王侯貴人に生まれたる者は人の上になり、不幸にして下万民と生まれたる者は人の下となる事に、愚昧の我らの様な者も、この国を領して人の上に立ちながら、家内を始め百姓町人に至るまで撫育(ぶいく、可愛がる)しようと思えば、相続以来発信し続け、誰も知らぬ者もないようにしなければならぬ。
家中には借上げなど申し付けず、常々衣は木綿服を用い、食は一汁か一菜のみにして、ことごとく省略し、この度国の在こくにも用金は申し付けず候の儀は、百姓町人も勝手を直し、何れも父母へ孝道を尽くされ、子弟の教育も届く様にと、右様にして、また奢りを制し賭博を禁じるも、みな人々の為を思う故の事であるから我らが思う様に奢り賭博がやまないのは、結局は上の意識が下へ伝わらない故である。
我らはいやしくも天朝より三位の貴きに命じられ、将軍よりは三藩とも立置られ候上は、鹿(旧仮名遣い、荒いの意味)衣非食を用いる事を格別といとわず実行している。下々も自ずから準じて奢りをやめ博打もやめて、人々勝手を取り直すは、父母子弟の教育にもなろうと思う故である。
前にも云った通り、幸不幸にして貴賤はあるが、貴くして上に立つ者は、多く人を使う故に日夜心を労し、賤して下にいるもの、人につかわれて日夜力を労する事は、理の当然で上下ともに労する事なくしては叶わぬ。

故に、我らは日夜心労して何れも力を尽くして勤農いたすように。
上下共に常々奢り勝手にするならば、美服美食はいつもの事になる。
だから常々奢り、また博打をして農業をおこたり、ついには経営につまるとなれば、天より授けられたるたまものを我が物の様に思い、生死を自由にするはいかなる心であるか。よくやく考えて見よ。
我が身は父母から分かれたる身、我が子は我が身を分けたる身ならば、我が子を殺すは我が身を殺し、父母を殺すも同じに似て、天導くにおいては有るまじき事である。
故にその悪い風潮を化かさぬ為に、奢りを制し賭博を禁ずる。
今また我は務めにもこだわる程の普遍向迄仕置き、人々の分に応じ、家をも取り立て様と思うので、我らはこの様に日夜心を労する事を察して務農し、今日の経営に差し支えなく、孫彦に至るまで数多繁盛し、村々人数多くなり、一村に睦まじくして助け合うようになる程、如何ばかり楽しかろうか。
けれども左様にはせず、勝手は必至と通り、収納に差し支えながら身を飾り、表は富んでいる様にして、あるいは己の産業に勤めず、博打に心を使い、他より来る突者の物を欺き取ろうという悪心が起こる為に、却ってあざむかれ身を失うのは、若者の心と云いながら、あさましい事ではないか。
されば我が日夜心を労して、何れものを思えば、何れもはまた我心を労すること推察して、手足を労せずよろしきを得ようと思わず、日夜おこたらず、力を労して産業を務め、多くの子を養い共に繁盛し楽しむようにと思うべき、である。

巻之四十七 〈九〉 御前講釈の時

ある人からそっと聞いた。
林氏(幕府儒者)御前講釈の時は、上(将軍)は御見台で御聴きになると。
講師は文台で講義するとのこと。
ただしこの時は御敷居を隔てて申し上げる。
また御前の御用向き等は、御一間に入ってこられて、上意言上があるとのこと。

巻之七十九 〈ニ〉 鳥取松平因州世継ぎの民部太輔の死

鳥取松平因州世継ぎの民部太輔がこの春、疱瘡を患い亡くなられた。
因州の寺はわしの隠荘から近い弘福寺で三月二十三日に葬送があった。
わしは朝早くに寺嶋に行き、帰途に行き合った。
にわかに避けて、三巡りの社頭に至り、田を隔てて遠く堤上を北行きするのを見ていた。
前に長柄十本、張り弓十挺、対槍四ほ、先馬二疋、台かさあ、立ち傘等の諸道具、持卒どもみな白布をかけて従う。
位牌も輿に入れて先にかつぎ、香炉は小ずしに納めて二人して手昇として、その次の棺をあげて。
総勢が終わった後には、末家の松平壱州〈三万石〉、松平長州〈2万石〉も従った。
この民部太輔は将軍家康三十ニの公子にして、幼名は乙五郎君と称し申しける。
文化九年に誕生ましまして、同十四年に少将斉稷朝臣の元へ婿養子として移られた。
今に至り十歳(ととせ)、年十五になられた。
わしははからずもかの行に合い、上の御愁悼を察し奉り、世の無常を嘆じ、不覚にも涙を催した。

巻之三 〈三三〉 近世の国持(藩主)の内でも見所のある者

述斎(江戸城儒教学者林述斎)が語った。
肥前少将治茂(鍋島治茂1745〜1805)も近世の国持(藩主)の内でも見所がある。
白河侯(松平定信1759〜1829)が当路(重要な地位にある)とき、世間は(白河侯を)風靡するが、独り屈さず(長いものに巻かれなかった)。
(二人の)間柄はというと、国元から手紙を贈り、時事を議論した。
営中では奏者番(城中の武家の礼式)の習礼のとき、一度するだけで再びすることなく本席に戻った。
だから脇坂淡路守が呼び返すと、今敷居に手を付いた様なことである。
そのことは心得ていると、見返りもせず、退く。
また昌平の聖廟拝詣のとき、長袴の裾をくくることが出来ず、空しく立っていると、見かねた勤番の史打ちによりくくった。
これは営中では坊主が、両山では案内の僧がくくれば、自身でくくることはいらないのである。
無頓着な大家風の体(てい)がある。
また寛容の所がある。
家臣どもがよそへ行き、遅く帰った時は、言葉をつくして「溜池邸に行き、遅くなりました」と云っている〈溜池邸には養母の円諦院が住む〉。それを聞き流して咎めない。
時には笑って云っている「みなみなは溜池と云う良い処がある。我らは行く処がないな」。
また身持ちは手堅いところもある。
その中で、袴は夜更けても脱ぐことはない。
奥に居ても然り。臥所に入る時に始めて袴を脱ぐのだ。
この様な古風な人も、今は稀である。
この治茂侯は、文詩に長じた点は格別である。
かの家士(家臣)古賀弥助〈淳風〉が召出される間は、人みな弥助の方が潤色であると評する。
けれども府に召されても、文詩は少しも遜色ない。
人は始めてここで服した。
この侯は、はじめは佐嘉の支家鹿島2万石を勤められた。
わしが先人政功君と同席していたことがあったが、後本家(鍋島本家)を継がれたという。
だから、わしも若い頃は、懇意に会っていた。江戸城より長崎の地にてしばしば行き交わった。
江戸に在るときも、わしの邸に来られ、祖母夫人と先君のことを申し出されて昔のことを語られた。
その性質は人情に篤く誠実である。
その容体は腰をそらせ、鳩胸で、足は棹の様に立て歩く人である。
殿中でも、人はその容体をおかしがる。
また一種の癖がある。
手水される時、湯次の水を何篇となく替えるほど、長く為されている。

三篇 巻之十四 〈一三〉 竹千代君の母親(お楽の方)の話し

一日某氏の邸を訪ねて、談話する中で主人が云った。
今の増山参政の家は、そのはじめは農夫であったが、あるとき里中で小児どもが狐を捉え侮蔑し弄んているところにあった。
とても不憫に思い、その狐をどうするのかと聞くと、すぐに打殺すと答えた。農夫は憐れみ、強いて狐をくれろと求めて、家に帰って、放した。
狐はその恩を感じて、その夜農夫の夢に現れ、云った。「大変感謝しております。御恩返しにはお望みのままに」。
農夫は云った。「ならば、わしを将軍にしてくれんか」。
狐は云った。「このことはあなた様の代では叶えられません。けれどもお孫さまならば、必ず将軍になられるでしょう。またあなた様は、残念ですが大厄に遭われます」。
農夫は云った。「大難はとるに足らねぇや。孫の代になったら将軍さまかぁ。なにしろ大きな望みが叶うんだからなぁ」。ここで夢が覚めた。
ところが農夫は本当に叶うのかとだんだん怪しく思う様になっていった。
月日が経ち、ある日家の近くに鶴が来た。農夫は気づかれぬところから、飛び道具で殺し、人に売った。
このことが役所の知るところになり、官禁を犯したかどで、死罪に処された。
家宅は没収され、家人はその田里を去った。
むすめが二人いたが、この様なわけで江戸に出て、口を糊した(生計をたてた)。
ある日上野山下の広小路にあって、地上に蓆(むしろ)を敷き、土偶(ツチノニンギョウ)を並べてこれを売った。
たまたま、将軍家東叡を御参詣された。
これを(娘が土偶を売る姿)輿の中から御覧なされた。
御帰輿の後、春日局を召し仰がれ、「今日東叡山下で土偶を売る娘が二人いて、ことさら美しかった。
早く呼び寄せ、汝の部屋に置くように」。
局は、人を使って娘達を探すと、果たして有った。
局はただちに御城内に連れて入った。
これより月日経ち昇進して、ついには上の幸いを得た。
御産に至り、竹千代君を生んだ。これは四代将軍様である。
また主人曰く。春日局は、某の家祖で狐が言うことにもまた真実味があると。
わしはだから『柳営婦女伝』を閲覧すると、宝樹院殿〈増山侯の祖、かのニ女は農のニ娘である〉の御事蹟とたがわない。
されども小同大異、要するに、狐異は一聞とすべきである。

続篇 巻之九十五 〈三〉 尾張殿領の号令

張殿の領は号令が行き届いていると、我が身内の者が通行して語るにはー。

総じて士以上の人は、町家に往き飲食等を堅く禁じられている。

もしこれを犯す者がいれば厳科に処すと。

み城下の商屋を見ると、屋毎に前の戸から裏口まで見通しよく、少しの隠れたり障害物がない。

その上目付風の者が時々市中を廻り違法を糺(ただ)す。その目付は塗笠を冒ると云う。

宮駅(東海道の駅場)は名古屋より三里ほど、この間町家が連なる。

その町家の中には、飲食店、茶店は一軒もない。

人がもし休みを取ろうとすれば、草鞋などを売る家に入り憩う。

宮駅には売女風の者も目に入るが、令は同じことになるとのこと。

また農家には床を設けて畳を敷くことを禁じて、地上に筵(むしろ)を敷き、家内みなこれに坐臥する。

小大(本文ママ)みな同じである。

巻之一 〈22〉 幼い将軍の書のお話

明廟(前の話の将軍の次の将軍)がお幼くあられたとき、大御所のおそばで、草体の龍字を大きく伸び伸びと書かれていた。

字体が大きいので紙からあふれる筆の勢いだった。

大御所は「いかがあろうか」とご覧になっていた。

果たして点を打つべき空白がない。

終わりの一点を畳にしたたかに点を書かれたという。

「おお、天下に知らし給う若君なり」と大御所はご満悦であられたと。

巻之一 〈30〉 老女衆の願い

老女衆の願いを老職衆に回した上様
徳廟(今は亡き上様、どの御代かわからぬが)は御政務に御心を尽くされておられると聞く中にこの様な事があった。
大奥の老女の縁で入った人が上様に内願を申し上げた。
「善い様に聞くつもりだが、女の事だから時には迫って申し上げる時もあるだろう。
その時には、この様な我らの身分の者も自由にならぬ事もあるものだ。
老職の意見も聞かなければ」と上様は申される。
「さらば老職に聞かれてもかまいません」と申し上げる。
「少しもかわまないか」と上様が言われる。
そこでまた「もし老職共が異議を申しますならば、如何なさいますか」と申し上げている。
「その時は、老職に聞く」とのこと。
その後、老職が召出され、上様が「この度、老女どもが何々の事を内願いたした。
だから、この様に答えて置いた。けれども、件(くだん)の事はそうであってはならない。
その方ども、厳正に説得するのだ。承知はいたさぬ」と仰せである。
果たして老女衆から件の云々に及んだ時に、老職の答えは、「それはそうあってはならない」という。
老女衆が押し返して申すには「内々の言上に及びまして、上様にもその様なお考えであられましたら、老職へ聞きとうございます」と言っている。
老職衆が答えるには、「たとえ上様のお考えでなくとも、この事はそうであってはならない」と強いて申している。
とうとう老女衆も「それでは仕方がない。
またまたこの事を言い上ぐったりすると、老職が申す旨は重き事と言われる」と言われた。
遂にその事は蒸し返される事はなかった。

※老女達が上様に内願したかった事は何なんでしょうね。
そうしてまで、聞き入れたくない将軍と老職の考えは。。。

巻之六 〈41〉 辻切り

神祖(家康公)が駿府在城の内、江戸では御旗本の若者等はしきりに辻切りをして、人民は嘆くに及んでいると聞こえてきた。

「この事をいかが計わせられようか」と密議があったので、板倉周防守は自ら御使い蒙(こうむ)ると「速やかにやめさせるべきである」と乞われ、その旨に任せられた。

防州は江戸に着いて、「御用があるので、一同と登城するよう」との旨を御旗本中に伝えた。

いずれも登城された時、所々辻切りの風聞を専らお耳に入れた。

「それ(辻切り)を召捕る事の者がないのは、武辺(武芸に関する様々な事)が薄くなっていっている事である」と思し召された。

いずれも心掛けたので、辻切りの者は召捕れる様と仰せのよし申し伝えられると、そのまま辻切りは止んだという。


※家康公が出て来るので、背景から板倉重宗(天正14〜明暦2. 1586〜1657)と思われる。下総関宿藩の初代藩主。秀忠の時に周防守に叙任された。

(コメント)
板倉周防守重宗のことを初めて知りました。少し調べてみました。すごい人ですね。

この話は2代将軍に秀忠がついた1605年に、重宗が周防(すおう)守に任じられていますのでその後ですね。
京都所司代になったのは1620年で、京都をはじめ西日本の治安の総元締めになっています。
人望が厚く、今の法務大臣など見習うべきことが多そうです。

甲子夜話の背景から考えると板倉周防守の京都の屋敷が現在の乃木神社となっているようですので、京都から江戸に行き、江戸での辻斬り騒動をうまく沈めたという話と読みました。

関宿(せきやど)は利根川を使った水運の要の場所ですが、関宿藩主になるのは少し後なのでまだ重宗は京都にいた時の話だと思います。
またWiki.に家康が1602年に辻斬り禁止を命令し厳罰化を図ったと書かれていましたが、家康が将軍から身を引いて駿府に引っ込んでからまた江戸では辻斬りが増えて困っていたということではないかと思います。(by S.K.)

三篇 巻之十ニ 〈1〉 盛姫さま、浜御庭御入り

乙未の春王月(正月)に林が左小冊。
首(はじめ)に記しておこう。
天保四巳年(1833年)八月三日に、盛姫君が浜御庭(浜離宮、将軍家鷹場)へ御入道の記だという。
わしはこれを読んで、その御文才が実に闊達で秀でておいでだと申し奉るのだ。

この姫君は、『千年山御伝略』を閲覧すると、文化八年()正月御誕生と云うと、この年十七で成らせ給う。
ますます恵敏(利口で反応がすばやい)の御質仰ぎ申す。

この前、文政二年卯十ニ月佐賀侯の世子へ許嫁され、おとずれる事その八年酉年冬、かの邸へ適された〈この年から、天保四年におよんで九年〉。

天保四巳年八月三日、盛姫君、浜御庭御入りの節、御道の記。
この度、浜の御園に参られると仰せがあった。

その折のこと、君の思し召しもあって、おん文庫のうち、いろいろの御品を下し給われたのをかしこみかしこみ(慎みと敬いながら)拝し見るのは、うれしさが限りなくあふれてくる。

深い御恵みの程は、浜の真砂のかずかずでもよみつくすことが出来ないだろう。

先の衣のいろ目に、抱えの帯は、世の常ではない彩錦、高麗唐土の機物にも勝っており、目にも彩なるものである。

                  続く


鍋島直正公も、11代将軍家斉の盛姫君も江戸生まれ。
この話では、盛姫17歳の時、お鷹場の今の浜離宮を訪ねられた時のストーリーです。
20歳で夫と共に佐賀に行かれますので、この物語の時は江戸にお住まいです。
まだ佐賀藩が財政的に厳しいとの話は耳に入ってない時期でして、天真爛漫な様子がうかがえます。

三篇 巻之十ニ 〈1〉 盛姫君、浜御庭御入り  その2

ことにまたうるわしい御こうがい(ヘラ型の髪飾り)を給わると、いよいよまれな見るものが珍しいと奉った。
いかり縄(碇の頭につける縄)が浜辺のちどりとりどりに
     たぐひも波の玉の竿
ここでまた団扇の形をしてかさね硯を給う。これは輿に携えて、道すがらの事を書こうと、こと更にとても嬉しくて、如何言い続けられたか。
言の葉に硯のうみの浅からぬ
   君が恵をかきてあふがん
また海辺の様子をそのままに写した御鏡、白がねで作られた花の御胴締め、御扇など御持ち物全て、すぐにその御様子を言い表す事が出来ない(程素晴らしい。
明くる日の出立(浜御庭に向けて)なさるのを待てない嬉しさを、「まして今日は葉月三日」と言われた。夜も明けわたる頃に出られた。
道すがらの家居が多くあるのを見るみると、賤の女が極近くに居るのを、「とても珍しいわ」と見ながら、猶行くと、だんだん浜辺の御坐所(おましどころ)に着かれた。
あちらこちらを拝見なさると、色々な草花に沢山の魚どもを置かれている事がとても並々でない。
猶人々に誘われて海辺の御茶屋に急ぎ行かれた。海を遠く見渡せば、

あかねさし出る光を波のうへに
     みるもめすわらし浜の明ぼの

それから釣殿に参られた。
釣棹の差し引きなど、人々が教え給えると、とても嬉しくて珍しくて、

海ふかき君と臣とのめぐみにて
    けふぞ釣り得しいほ(魚)のかずかず
               続く

※葉月三日に浜のお庭に行くことになって、好奇心は止まりません。夜が明けぬ内に出発なさる。見るもの聞くものを書きつけようと筆を携えられて。。。
家々の並び、市井の女、花々、魚の並ぶ様。御茶屋に行ってもキラキラ光る波にはしゃがれている御様子です。釣りにもトライなさった様ですね。

※途中出てきた『いほ』は、魚で、鹿児島弁で魚を『いお』と言います。方言は古語の名残りがあるのがわかります。

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