続篇 巻之九十三 〈10〉 叱る事が出来ない奏者番(城中の武家の礼式を管理する番役)

九鬼長州(初代守隆、1573〜1632)は、柳間(大広間席)の表大名だったが、今は入って奏者番である。
わしが、在職中の旧知だったので、時にはかの邸を尋ねて会っていた。

ある日の談話中に、かの天徳寺(話の流れかんら山口県防府市の曹洞宗天徳寺か)披露のことを言いだすと、長州は云った。
「それは何某で(既に)執り行われましたよ。
総じて奏者番は、不念不調法ですので指扣(さしひかえるを転じて、非難する)を申し上げることは誰とても無いわけないですよ。
つまり脇坂淡州(安ただ〈草冠に重〉)は寛政の頃(寛政2年、1790)より奏者番を勤め、一度引退復職しましたか復職しました。
まあ今に至るまで一度もいい損じ(武家の無礼な礼式を叱る)はないのです」と。

これもまた人の及ばない所であり、稀なことだと思う。


※気が回らない事を叱らない。
不調法を叱るのが奏者番の仕事だろうに。目くじらたてるより、落語になりそうですねー。

巻之ニ十一 〈4〉 福島正則と浮田秀家、三原酒

福島正則に備後の国を下された後、同国三原の酒を献上しようと、回船に積んで回路を遣わした。
その船が豆州(伊豆の国)八丈島辺りを過ぎる時に、人の様なものが巌の壁から手を挙げて招く。
それで船を岸に寄せるとその人は髪は身体を覆い、衣は弊しており殆ど乞食の様だった。

またこの様に曰く。
「積んだ物は三原酒ではないだろうか、いや、そうであろう。願わくばわしに与えて下さらんか」。

船人はこれを船にいる士に伝えた。
士は聞いた「そなたは何者か」。

答えるには「わしは浮田秀家である。この島に久しくあって、故郷と連絡が取れない。今思わずそなた達の船を見ると三原酒を積んでおられる。にわかに旧国を懐かしく思い、久しくこれを飲みたいと乞いたくてな」。

士は浮田の思いを聞いて曰く。
「これは主人が献上するものであるので。。。しかし君の言葉を聞けば余儀なきことである。よし、進ぜ申そう。けれどもその証しがなければ、帰ってから主人に言い訳が立たないのだ」と云うと、秀家はすぐに歌を一首自ら書いて与えた。

そして士は酒を秀家に与え、かの歌の書を持ち帰り、つぶさに正則に報告した。

正則は、「汝の為すところよし」と悦んだ、という。

巻之一 〈48〉 柔術

明和の頃だったか。

加藤右計と云う柔術に達した人がいた。

ある時他の柔術者が「この技で仕合を請いたい」と云ったが、右計は「仕合は無用である。とても柔術の仕合は勝負して一人は死ぬより他はないから」と云ったけれども、「是非に」と引かない。

右計は「それならば」と立ち会った。
かの男は組み付くと即ち擲(なげう)った。
壁を打ち抜きその身体は外へ飛び出し即死した。

右計が云うには「いらざることだった。是非と云うから立ち会ったが、この様な事になってしまった。しかし彼も達した者であった。わしは擲た時、当て身をしたのでわしの肋(あばら)を蹴り折ったわ」と、人にその部分を見せた。

すると肋骨が一つ折れていたと云う。

巻之四十九 〈2〉 火災後に囲んだ馬の絵幕

また曰く。

相馬家は貧だが、武具の貯えに於いては他家が及ぶに非ずと云う。

先年火災になり、急に板囲いも出来ない程の費用も差し支えたので、家にある馬を描いた幕で、邸の焼跡を囲った。
その立派な様子、中々貧家のやる事とは見えない。観る者みな、家法であると思った。

しかし月日を経ても貨財が整いかねて、風雨に幕も追々損じていったので、やがてまた新しい幕に残らず張り替えて、ニ、三度その様にした。
これらはみな(武家には)元々ある品なので、事を欠くことはない。

つくづく感心した事であった。

巻之八十九 〈6〉 世の盲説が流布するのもよく観たほうがよい

白井権八(明暦元年、1655〜延宝7、1679年11月3日)
世俗に伝わる話だが。
白井権八という美少年の手利(てき)きの者があった。
人を害しかつ濃紫という游女恋の状、また権八は刑された後その妓の貞節の事が都下にあまねく識られる事になった。
いわゆる豊後謡(ブシ)等の婬辞に盲作したことから起こった。

また町奉行所記録の文を視て、初めてその本当のことを知った。
また世の盲説が流布するのもよく観たほうがよいだろう。

 延宝七年未年十一月三日  平井権八

このものの儀、武州大宮原において小刀売りを切り殺し、金銀を奪い取り、その上追いこれを剥ぎをした。
本人は宿次(しゅくつ、宿場から宿場へ人や荷物を送る次ぐこと)の証文を偽証した。
それだけでなく手鎖を外し、欠け落ちをした。
重々不届き至極に付き、品川において貼り付けを申し付ける。
延宝七年は、厳廟の御世にて、今に至る事百四十八年〈文政丙戌、1826年〉。

続編 巻之六十三 〈1〉 弁慶を慕う本多忠義

本多能登守忠義は、中書忠勝の孫で、その子忠敬の三男である。
『藩翰譜(はんかんふ、新井白石著の江戸時代の家伝系譜書)』に書いてある。
十三歳で父に従い大坂の陣に向かったと云う。

また曰く。
大相国の仰せとして、寛永四年(1627年)に、播磨国で初めて所領四万石を給い、終に奥州白川で十万石に至った。
漢文二年(1662年)、入道して鈍斎と号し、延宝四年(1676年)九月卒に至り、七十五であったと。

近頃聞いたことたが。
「忠義は常々弁慶の人となりを慕っていたが、到仕法体となって、直に武蔵坊弁慶と称したいと請うていたが、余りに異風であると、御充(ゆる)しがなかった。すると頓(ぬかずい)て、能登坊と称したと」。

定めし弁慶の号を御免なかったので、鈍斎とは更(か)えるであろう。
〈以上のことは古老の話だとのこと〉。

三篇 巻之六十四 〈7〉 鎮信公と金子氏

わしの厩の仲間(ちゅうげん)に金子氏の者がいる。
わしの馬の口付をしてしばしば途話にも及んでいる。
その男の祖は、法印公(松浦鎮信、1549~1614平戸松浦26代当主、平戸初代藩主)の時に、対朝鮮の軍にも従い往った者である。
この者は公の戦場に従い、毎に御馬に添って立っていた。
すでに戦に臨んで、公は御馬を馳せようとなさると、御轡(くつわ)をつかんで放さない。
公は怒り、「離せ、離せ」と仰っても離さない。
「まだまだ」と云って動かない。
公はますます怒り、御采配で頭を撃たれた。
それでもはなさない。
要はその機会に至るのを見て、「今(サァ)」と叫んで御馬を放った。公は即座に敵を突き、即ち勝たれた。
またこれに限らず、先陣の戦で公の意図に協(かな)わなければ、「鳴鳴(アーアー)」と高い声を出して、御幣の柄を咬まれる事が度々あったと。
因みに御幣の柄は竹で出来ているが、御歯の痕がことに多く着いていたと云う。
今その物は伝わっていない。恨めしい。

またこの金子は先陣にあって、公は夜に入れば毎に屯営を巡られた。
この時の金子は毎に御馬に随いた。
公自ら松明を持って御馬を進められた。
時が移ると松明の燃えさきは闇い。
その時はいつも金子の頭で、燃えさきを僕(うち)払い、光を出された。
その若さにより金子の頭は火の為にかたまって、ほとんど焦土の様だったと。
主従の勇剛に想いを馳せてみたい。

◎上の事をある日宗耕に語ると、はたして神祖(鎮信公)にも御拳で御鞍の前輪を叩かれるのは御癖で、御先手または諸軍の中、御意の様にならない時は、声高に御指揮があって、御拳で御鞍を撃たれた。
それ故に、御手指(ゆび)の節がコブの様で、伸び縮みが出来づらかったと。
また崩御の御時は、御病故か、御指が伸びて曲がらなかったと云うのですね。

巻之4 〈1〉 重豪公

 松平栄翁〈薩摩老侯、島津重豪 島津氏25代当主、薩摩藩8代藩主 将軍家の岳父として松平姓を名乗った 1745〜1833〉の人となりに豪気がある。

1日ある席で越候と相会して、何か興に乗じて栄翁は、「もし今一戦に及ぶ時があれば、わが軍卒を率いて、一方を指揮したら人に後ろ(背中)は見せない」と居丈高になって云われると、越候ははなはだ恐怖を感じた。

ひそかに他の人に向かって、「かの人(栄翁)はまた相会する人には非ず」と云った。

坐客は指して越候の怯懦(きょうだ、臆病)を笑ったという。
今の武家はこの類の人が多いに違いない。

巻之96 〈2〉 乾隆帝

乾隆帝(けんりゅうてい、清第6代皇帝、1735〜1796)

在職の間長崎に赴任していた時に、その頃の宿老徳見茂四郎が唐客の話として語った。

その頃の天子は乾隆帝であるが、聖主で慈仁普(ひろ)く国に及んでいた。
かつ南巡り北巡りといって行幸があって年々違わず行われていた。

しかし民のいたみよりは還って下の沢(うるおい)になると、老幼みな巡視を当てにしていたという。
また巡視の時は必ず70以上の老者にはみな恵賜あると。

またこの時は帝も馬上にての巡行であった。
その時は御服の上に、わが俗の坊主合羽という雨衣の様にこしらえたものを着ておられた。

この服は至って薄く、荒い薄物の様なものとのこと。

されどもこの衣矢玉といえども、重ねてこれを履くことはなさらなかったと。
如何なる物なのか、そのこしらえを詳らかにする事は出来ない。

右の古い竹で編んだ箱の中より観て再録している。

続篇 巻之25 〈15〉 秦氏、川勝氏

小普請衆の中に、川勝来次郎がいた。
この家は秦川勝の後裔であると云う。
観世大夫は服部氏で、姓は秦である。

同姓だからと、この川勝家の女を、不可院と号させ左近、迎えて妻としたと今の左衛門は語った。
能役者は河原者ゆえ、他と縁辺することはならない。

然る時は同姓のゆえを以てする様に。
この川勝氏700石、先年御小姓になったと云う。

何れの御時か、元は秦と称して来たのを、川勝と称する様にとの命があって改めたと云う。
このこと近年書家系図の選がある時に、その事に与えた人が語った。

三篇 巻之24 〈8〉 信輔の朝鮮渡海

豊閤の朝鮮の役に、武家の将士がかの地に赴くのは勿論である。
その中に甚だ奇なのは、『秀吉譜』に云う。
文禄2(1573)年の2月、近衛前の左大臣信助が、朝鮮遊覧をしたい、しきりに渡海の志があるとのこと。
帝はこの話を聞いて、(渡海を)留めた。
秀吉も聞いてしばらくしてこの様に云った。
「無益これ尤も甚だしきなり」。
そこで、書を徳善院に遺してこれを言う。
そこで帝は宸筆(シンピツ、天皇自筆の文書)を名古屋に遺して、秀吉に賜う。
秀吉は、これを戴き拝し、これに依って信輔は葦船航りのこの渡海をやめたのだ。

この頃日野資愛卿〈前の大納言この節参向〉に邂逅(カイコウ 会う)し、四方山の談に及ぶ中、過ぎし頃ははからず知恩院宮に立ち寄り、しばしば御懇命などを軽く語りして、卿は咲(わら)いて、云わるるには、「宮は活気なる御性質で御燕間には、身近の侍の士を相手と為(セ)られて相撲をとり給う。
その時は鉢巻をして立ち会い給うなどを物語った」。

わしは聞きながらその御壮志を感じ咲い奉った。

続篇 巻之1 〈3〉 佐渡国における至誠のなせる技

林子曰く。
人の至誠と云うものは何にも通徹するものである。
佐渡の地役に、田中従太郎(1782~1846、江戸時代後期の儒者。林述斎に学ぶ)という我が門人がある。
質実なる性質でその道を崇の意(こころ)が尤も深い。
佐州に聖廟を建てようと年久しく願っていた。
時を得て、今の奉行泉本正助によって政府に達し、今ここにそれが落成した。
いささかも官費を煩わさず。
国民は従太郎に心服して、富める者は金銀木石を出し、貧しき者は力役に供して、その国にはこたえるほどの経営が成れる。
佐州が有って以来無き盛挙で、人の誠はここまで洞徹するものかと感ずるばかりである。
(写真の図を参照)。

ちなみに奉行も広恵倉を立てて、その利金で永く聖廟並びに学舎修繕の費用、かつ書冊を購入し師儒を招くまでの用を弁ずる法を設け、政府に達して久しくその事を廃れさせなかった。
不思議なほどのことである。かかる小吏さえこれ程の功業を為せる。
今の世、堂々たる侯国にて、文武教場さえ整わぬ所があるのは、何たることか。

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巻之14 〈12〉 太田猪兵衛

姫路酒井家の老臣に、近頃太田猪兵衛がいる。
林の門である。

その祖は、忠清雅楽頭(うたのかみ)の時に、児(ちご)小姓で齢僅か15、6歳、振り袖で勤めた折から、世人が知る伊達家の諸士、かの邸で騒動に及んだとき、原田甲斐が血刀を振って奥の方へ切り込んだのを、太田はその所へふと行き掛かり、甲斐を討ち留めたと云う。

これに因んで忠清は取り立てられ、遂に家老となって、その子孫は世職となったという。
その頃の風俗児小姓さえもこの様に気(け)なげなることであると〈林話す〉。

続篇 巻之15 〈5〉 小野篁の子孫

輪宅の荻野長は小野姓で、篁(おののたかむら、802〜853 平安初期の公卿、文人)の後(子孫)だと。曰く。

篁朝臣の塚は大徳寺(京都紫野にある臨済宗の寺)の後ろの畠中にある。
その傍に土人がほうづき塚と呼んできた古塚があるのは、紫式部の古墳と云う。
これは雲林院(京都紫野にある臨済宗の寺院)の末院白豪(ごう)院と云う小院の持ち分である。

地方は、紫野雲林院の卯辰の方2町ばかり畠の中だけれども、とても細い田疇(でんちゅう、田畑のこと)なので、往き求め辛い。
篁の塚は紫女に並んであるけれども、管理する者もなく、ただ土人の口碑に存するのみ。

子孫の身では、忍び難きこと云々〈長曰く。これは御勘定小嶋祐介が目撃した話である。この祐介は、文政6(1823年)年に、高瀬川目論見の御用で上京した。この古墳あたりもその管係の場所ゆえ、よく探った所はここの如し〉。

巻之46 〔15〕  浪花相撲年寄り

 浪花の相撲年寄りに、藤島岩右衛門がいる。
若きときは、角力取り後に年寄りとなる。
相撲は上手で、諸手も心得た者である。
今年74になるが、気体は健やかで、今も裸になって弟子にとり方を教えているという。

 わしの所の相撲朝雪はもとこの藤島の弟子だった。
因みに昨夏、これもわしの角力錦、黒柳が上京した後も、浪花に行った時も大いに悦び、日々習慣して、かの相撲はこのようにすれば勝つなど云い聞かせたりして、両人ともそのようにして勝つことが多かったという。
その練達をそのようにしていた。

 この藤島が云うのは、総じて角力取りが入浴するとき、弟子にからだを洗わせるのは、角力人は肥大肉満なので手が肩に届かない。
また洗身には不自由になるので、やむを得ない。
人に頼んで汗沙の汚れを洗う。

 然るに今の角力は、はや弟子の1,2人も持つとその者に手足まで洗わせて、己はただ安坐するのみ。
その人はこれを関取の所為と思うだろうけれども、我が目(藤島本人)から見て、死人を人が洗うのと同じと云えると。
真に矍鑠(かくしゃく)たる一老人である。

巻之89 〔11〕  滑稽さと質実の伊州

 第3巻に、御側衆の曽我伊州の滑稽な話をした。
今ここに高家今川刑部大輔が咄したことは、伊州は間柄(親しい)なので若年の頃親しく逢っていた。
その一事にかの近習を勤めた者が新たに妻を迎えたときに伊州は問うた。
その方は妻を気に入ったか、また容色は善いかと。

 近習ははつ(終わり)と云って答えなかった。
伊州曰く。妻の容儀は目前のことだと。気に入る入らないは己が心中のことだと。
なんぞ即坐に云えないのか。近習は羞じて云わなかった。

 伊州また曰く。
されば」わしがその容子を云おう。
色白く小長(た)けて、鼻の傍に黒子がある。愛嬌ある女だろう。

 近習は驚き平伏して、如何にして御存じと云う。
伊州曰く。
汝が余りに秘して云わないので、天眼で知るつ云うので、近習は不審に思い、帰って妻に殿さまに何れかで拝顔したかと問うた。
妻は曽(かさね)て知らぬと云った。

 やや不審は晴れないが、後から聞くと、伊州はある日、曰く。
側に仕う小童に路次の者の合羽笠を取り出させ、それを伊州自ら着て、潜に路次から1人行き、近習の小屋に往き案内を請うた。

 妻が応えて出ると、手に持つ文箱を出して、これを御主人に届けて給りたしと云った。
妻はただ今は不在と答えた。
僕は、ならば口上もあるので、別の日に来ようと出て行った。
それには気にも留めていなかったと、伊州曰く。汝の家にか、ゆえありげな者が来たことがあったろうと妻に問うてみよ。

 近習は帰って、妻に聞いた。
果たして、そのようなことがあったと答えた。
近習は(家を再び)出て、(伊州に)その由を云うと、伊州聞いて、この者はわしだと大笑いしたとよ。
その滑稽さは凡そ比類なき。

 その一事、御側職は諸家定例の音物(贈り物)があることにより手綱(馬に乗ってくるので)も多く来る。
伊州曰く。
これは諸氏の音信を等閑(なおざり)にしてはならない。
世人の様に売り払うのは不本意である。

 また自家の馬数は少ないならば、多くもいらない。さらば己の服あつらえるのも、綴りたてて夏月中のかたびらとしよう。
因みに横じま、竪じま、あるいは紺、柿色、または檜(ひのき)垣染め分けなど、種々の物をつぎ集めて着用すると。

 刑部は親しく視たという咄である。

巻之11 〔19〕  仙台中納言政宗

 仙台中納言政宗は、御治平後になって年老いて云うには、「武士は戦場を忘るまじき」とおりには水をあびておられた。
後に病が篤く床に臥せたとき、御尋の上使いを下された。
政宗は殊に忝(かたじけ)なく思われた中々起き出せなかった。

 然れども是非と人にたすけられ、ようよう表坐敷に出て、上使いに対面し、御厚恩を拝謝し申された。

 このときも、礼服を着し出られたが、その大病中にもやはり水をあびて出たと云う。

巻之11 〔20〕  座右の壁の正宗の詩

 林公鑑みて曰く。

 政宗は、文事にも達した人だった。

その詩の内に英雄の気象(気性)を写し出したものがある。
殊に用いる字も疵瑕(きず)もない。
当年の傑作と言える。

 馬上少年過。世平白髪多、残軀天所ㇾ赦、不ㇾ楽亦如何。

 これは他の人にかかせては面白なかろうと、8世の孫陸奥守斉宗の所望して大幅に揮灑(きさい)させ、常に坐右の壁に挂(か)けると云う。

続篇 巻之100 〔5〕  本庄勢州と逢って話す  その1

 今川氏の祖忌宴に招かれ、計らず本庄伊州に逢った〔閣老松平伯州の別家で、10,000石濃州高領主、常に附府〕。
その人は故閣老松平豆州の次子で、わしが退隠後、豆州邸でよく有る毎に、「来てください」との内々の招きを受けていた。
が、役柄ゆえに憚らる旨で、嫡子駿州の住居に往き、豆州の舞台に至り、諸親類とともに見物したのであった。

 このとき勢州はまだ若年なので某と称していた。
前髪で2番目箙(えびら)を下面に為していた。
後高富侯の養子となって、本庄伊勢守と名乗る。
豆州を卒後歳月を歴て、勢州は大番頭となって、尋で伏見奉行に進んだがこの度召され奏者番に転じた。
然るに昨日思わずも逢えて、年頃の久闊(きゅうかつ、無沙汰)のべながら、「伏見には幾年かの在られますか」と聞くと、6年勤めると相互に喜び話した。
また久々でよく視れば、故豆州の子とは云いながら、眉目さながら故豆州を視るようで、不覚(スズロ)に涕を催すばかりであった。
因みに伏見勤役中の物語を聞くままに書き付ける。

 続く

続篇 巻之100 〔5〕  本庄勢州と逢って話す  その2

 伏見奉行はかの地の訟獄(訴訟)を聴いて、この地の町奉行抔(など)のような月に5度とか6度とか、その日あって庁出あるという。
また年に1度とか、大阪御城代も来て、出坐傍聴があるという。
蓋(けだ)し(思うに)見分けである。

 「伏見の御城蹟(あと)は如何ですか」と問うと、「御役所から6,7町(1町約110㍍)とか高処に在ります。今は石垣も何もみなございません」。

また問うた。
「かの金古瓦は存していますか。今は払底(フッテイ、すっかりなくなること)したと聞きますよ」と云えば、答えた。

「今もなおありますよ。某も堀り得て全ての缺(かけら)を集めて携えて還りましたよ。因みに私も先年加納遠州〔久周〕が奉行のとき、頼まれて全品を蔵に保管してます」云うと、「それは何の紋だろうか」と云うので、「尋常巴の形です」と答えると「かの地瓦には菊桐の2様がありますよ。金色は如何に」と聞くので、「慶長の古い金ならば、その色は純金ですね。今もなお光沢が見えますよと。わしの蔵に保管した物は金色が朦朧としていますね。他日缺片を領ちくれよ」と勢州に云った。

 続く

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