巻之一 二〇 市川団十郎の慎み深さ

歌舞伎役者の市川団十郎は頗る(すこぶる)文史(しるしぶみ、記録)をあちらこちらに出向いては探しもとめて風雅な心もそなえている。

家業を子に譲り、自らを白猿(その祖は歌舞伎の名人であるが俳諧をたしなみ、その名を柏莚-はくえん-といい、代々その名を継いでいく習わしだが本人は祖にも父にも及ばず下手であるといい、音にかけて代々の柏莚は用いていない)。

小ぶりな別荘を本庄にしつらえ住んでいる。

御放鷹など近辺にお成りの時は(上さまが鷹狩を為さるといって近場にお成りになる時は)人にこう言っている。

「河原者の身だからお通りになる路の側に居ることははばかられる」と。

その時はその場を離れ境の本宅に行くと。

またその生業によりその家は富むが、衣服を新調する時はあえて一色のものを用いず、別の色の布地を継いだものを着用する。

云うには、卑賤の家の者が貧しくないからといって美しい服を着るのは身分の上下を考えぬ行いであると。

また自分以外の俳優はそのかつらに天鵞絨(ビロード)を使うが、白猿は黒い木綿で作るとのこと。

その慎み深さはこの通りである。


第何代目の団十郎か判りませんが、ウィキによると五代目の話の様です。

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続篇巻十六 六 上総屋今助

江戸の銀主(ぎんしゅ、金持ち)の中でも、上総屋今助はよく知られている。

わしも以前から聞く名である。

この男はかつて劇場で瀬川菊之丞と云う役者の衣装番をしていたが、だんだん出世して、金貸しになった。

また水府(水戸公)の御用をしている内に大久保今助と呼ばれるようになり、駕(かご)に乗り、槍箱を持ち、水戸侯より賜わった葵御門の時服(天皇、将軍より賜った服)を着るほどである。

わしはまだ今助に会った事はないが、傲慢な男なのかと思っていたら、肥州の者(肥州は今の肥前肥後の事、文面から肥州出身で松浦静山と今助を懇意にしている)に話を聞くと既に年齢は70を越し、歩き方はのんびりしているが、豪気な性格であるという。

だから1度会ってみたいと思い、わしを訪ねる様に云うと、では品川の静山さまをたずねるよう申しましょう、うかがう日時は後でお知らせいたしますと応えた。

今助は喜んで、(わし、静山がいる品川の)鮫津にやって来た。

世間のうわさほどにもなく、ただの平凡な老人だった。

(別の)銀主が云うには、今助はかつて虎の門の内藤侯の草履取りをしていて気働きをして出世していった。

また(内藤侯邸をやめてからも) 今助は年頭には必ず挨拶に侯邸に来た。

元日の登城のとき、自分が乗ってきた駕、鎗等は侯邸の門外にのこし置いて、かの(葵の)時服を脱ぎ隠した。

これは侯の草履取りをしていた日々の様に今でも内藤候の家来であるという気持ちを持ち続けていますよと表明しているのだ。

これを聞いて想い出すのは、わしの処で庄次郎と呼んだ駕かきの事である。

後に我が屋敷に召抱え、帯刀を許して勤めさせた。

そんな庄次郎だが何と今助はかつて庄次郎の子分であったのだ。

庄次郎は出世した。今助も富を持った。

庄次郎は年を取り、死を迎えた時に今助は「我は(庄次郎の昔からの)子分であります」と云って、庄次郎の小屋に3日間泊まった。

そして自分の財で葬送を出し、(葬式が)終わるとすぐに去って行った。

今助の行動は昔仕えた者を今でも昔と変わらず大切な主人だと思っている、という事だった。

巻之一 ニ三 沢庵和尚の話し

品川の東海寺に沢庵番というものがいた。

これは寺領の農夫が夜毎に寺の門という門を守って居ったはなし。

その由来を聞くと、沢庵和尚は高徳な方で政に帰依され、大城へも召されるし、又寺へもお立ち寄りになる事も度々になると。

沢庵和尚はとにかく永住を望まれない。

時には寺を去ろうとなさる。

公はこれを憂えて、人を使って、警護と称して出ていく事をとどめた。

ついに沢庵の遷化(せんげ、高僧が亡くなること)の後も例となり、永く続けている。

今親しくしている農夫に、どうしてよる夜寺門を守っているのかと聞くと、わしたちが守らなければ、沢庵さまが逃げ出されるからと応える。

農民の愚直だけれども古色のある風は、実に愛すべし。

続編 巻之16 〔15〕 夢窓国師、天祥寺関山国師の話し

天祥寺に詣でる時に聞いた。
夢窓国師は徳の高い僧なので、出かけるにも随従者が多い。
ある日(どこかに向かう路上の)途中に話したという。
妙心の開祖関山国師のまだ若く学びの徒であった頃に会ったが、関山は落ち葉を拾い焚物にしようという姿を見て、あの僧こそ、われに続く弟子達も皆学ぶべきで方であると。
はたしてその言葉通りとなった。
夢窓は関山の知己であろう。

巻之九 ニニ 横綱谷風

先年、谷風梶之助という大関がいた。
横綱を免されて、寛政の上覧試合にも出るような大変な力持ちの大男である。
ある時、何か弟子の事で立腹しその者を連れて、殺す!と怒っている。
楼上にいるが、多くの弟子がかわるがわる楼に出てきて詫びを云うが承知しない。
後は関わる者は誰にしても、殺す!といよいよ怒りが増して、寄付く者がいなくなる。
一人才覚のある弟子が、谷風の十七歳の妾に「あの様に怒られては何ともしがたい。
何とか機嫌を直して楼から下ろしてもらえないだろうか」と頼んだ。
妾は心得て楼に上がり、谷風の手を執り、「弟子達は一同にお詫びを申してますよ」と云った。
「下におりてくださいな」と手を引き云われると、谷風は「おう、おう」と応じながら下りた。
少女に牽かれて、その場を済ませたわけだが。
後で、弟子達は、この様な稀な角力の力持ちも、幼い婦人一人に敵対することが出来ぬものと、皆々、少女の才覚に伏した格好となった。

巻之六〈ニ七〉 酒井讃岐守忠勝の毎月御忌に当たる日の話し

酒井讃岐守忠勝は、謀をしようとした臣下の者達を捨てたまいし後、毎月御忌に当たる日に一室を掃除して、沐浴をして身を清め、麻の上下を着て、自ら様々な物を備えた。
その入口を閉じて人が来るのを許さなかった。
ある時、誤って、一人がその間へ走り入った。
讃州は祀り供えた物の前にひれ伏していた。
そして振り返り、「しい、しい」と言って手で制した姿は誠に御前に(その人々が)ある様子であった。
家来中、密かに語り合い、みなその至誠に感じ入ったとのことだった。

巻之五十七 〈七〉 旗本の三淵氏

ある人が云った。
旗本の三淵氏と云う人がいた。
国持衆〈国持の大名〉細川氏〈肥後熊本侯〉代々参観の年に、正月にかの家を訪れるとき、予めその知らせがあれば、三淵氏は仏壇を座敷に出して置いていた。
細川侯が参られ、仏壇に向かい、以前の報恩を謝すると云われて直に立ち出られる。
その時金百五十両を持参して位牌前に供えられるという。如何なることなのかと物語られた。
この三淵氏と云うのは、今西丸に土佐守と云う御小姓頭取りである。
千二百四石という。この家に違い無い。
紋所は二引き輌ならば、足利氏の由緒ある家か。
また熊本侯の老臣に三淵氏あり。因縁の人か。

続編 巻之一 〈四〉 天海僧正に邂逅された時の話

林叟曰く。この頃一老人の物語を聞く。
昔殿中で家祖道春が、天海僧正に邂逅された時のこと。
道春が「今日は何事で出られますか?」と問うた。
僧正答える「御札を奉るために出ております」。
道春は哂(わら)って「御札は何の用事があるのです?」。
僧正、すぐさま一首を朗吟した。
守るとも守るともなき小山田の
      いたづらならぬ案山子なり。
道春もその敏才を褒めたという。
まだ聞かぬ談話である。

続編 巻之十ニ 〈四〉 宝生大夫の先代、九郎の話

今の宝生大夫の先代、九郎は元禄の頃の人で、この坐は上掛(かみがかり)であった。
が、その頃上意は、喜多の門人に仰せ付けられたと云う。
それゆえ今に至り、謡の文句も上掛りがならないことが多く、下掛の謡とはよく合うことが多いとのこと。
今、かの家(宝生)では、このことを秘して云わずとのこと。
これは西丸御小姓組番頭大岡土佐守〈中奥御小姓だったとき〉が、今の大夫弥五郎より聞いた話。

三篇 巻之六十 〈九〉 陽苗字の者

長崎の通辞に陽苗字の者がいる。
今にいる。その先は欧陽氏名は玄明、書をよくしていた。
わしもその筆跡を保管していたが、度々の火災で半分消失した。
また水府の脇師大原造酒之助の祖も王氏であった。
明より我が邦に来て、水戸義公に慈愛されたのだった。
近頃聞いたところによると、大原の前は王文○(火編に罒幸)の弟で、○(左に同)字継熈、号雨春堂。
右欧陽玄明と、大原の先某とは、同じ年に同じ船で我が邦に到ったとのこと。
年は清聖祖が康熈三年と云う。
ならば、我が朝寛文四年甲辰にして、厳廟の治世十五年である。

巻之十 〈五〉 妖狐

武田信玄の家人に兵助〈姓氏失〉と云う人がいた。
一日山路を行くと、野狐は大入道になって来て、「お前の刀は刃が切れて役立たずじゃの」と云う。
兵助は振り返り、「刀は刃が切れておっても、武士の心中ははぎれなしじゃ」と構わず行き過ぎた。
妖狐も「その胆勇にやかなわん」と何事もなかったという。

続篇 巻之五十六 〈七〉 間宮林蔵

官の小吏の中に、間宮林蔵と云う者がいた。
わしはひと目会いたく思って尋ねていたが、これまで会えなかった。
その人は先に蝦夷地に事があるときに、蝦夷の極に至り、満州の境を超えて、清人にも接語したと聞いた。
ある人に聞いたが、林蔵は常陸の人で先年蝦夷御用の時に、松前奉行支配下役に召抱えられ、勤め上げたが、かの地故の様に松前氏に御返ししては、御普請役となって、御勘定所に隷して、その後は天文地理の書を読んだ。
固(もと)より、妻子もなく、家には甲冑一領、着換え一領、他には当用の武具と兵書などがあって、軽賤の者には稀な志がある者である。
また御勘定奉行の密旨を承って、所々の御用を勤めているので、在宅することも少なく、ただ一人の傭婆(ヤトイババ)があって留守をする。
今年は〈庚寅〉長崎奉行に属して従行していたが、備前国鞆の津に至った時に、時疫(流行病)をうけて危篤に及んでしまった。
この時受け持っていた書き物はことごとく焼き捨て、翌日奉行へ直対を請い、官長から承っていた密旨の證文を手渡しで返した。
そして帰舍してたちまち死んだと。
そうして、その男は、馬革で屍を包み、還り、葬ったと云うにも、こちらが恥ずかしくなった。
悲しい思いで聴いたものよ。
頃は八月のことだったか、検使として御普請役二人は出立して信州に赴いたという。
ある人が云った。
この者僕の所に往来してから年は久しくなってしまった。
永日に渡りあきらかに詳しく申し候わん。

続篇 巻之三 〈一五〉 高松侯の臣の沼田逸平次と云う者

高松侯の臣に沼田逸平次と云う者がいた。
馬乗り役を勤めながら、傍ら好事の人である。
古昔の図書若干を蔵して、己の著書もまたある。
近年侯邸の厩より火を出して消失させたときに、初め火が起こった折、馬添えの者は狼狽して為すことを失した。
沼田はその子某と共に進んで炎の中に入り、侯父子が乗る馬に道具をみな調え、焔々を脱出した。
侯父子を騎馬させて、邸を立ち退かした。
それで侯は危難をまぬがれた。
沼田は思うには。 
この様な急な出火では、保管所の物一つも焚を免れることはなかったろう。
途中より戻って火を視ると、刀箱は煙に包まれ、火は既に遍いていた。
木鉄みな燃えて、その間に掛け軸らしきものがあった。
即座に思い出すのは、この侯家は常に敬い蔵する神祖の御画の真によるかと。
すなわち、火中より引き出したものに、焼き痕がないのだ。
開いて見ると、尊容厳然として故(もと)の如くだった。
人はみな驚かぬ者はなかったということだ。

巻之ニ 〈37〉 人の心を読む僧が震え上がった件

人の心を読む僧が震え上がった件
昔、人の心中を読むことが出来て、思う所を話す僧がいた。
誰も皆見抜かれて返すことばがなかった。

この時、素行先生(山鹿甚五左衛門)が若き日のこと、ある人が「この坊さんに会ってくれ」と持ちかけた。
先生は「会わない」と言うも、会うことになった。
「やむを得ないなあ」と遂に会うが、肝心の僧の様子がいつもと違う。
「今日は(先生の)心中を話すのを御免あれ」と言っている。
先生が「是非承りたい」と言うのに、言わない。
見ている者たちは大いに訝り、先生に尋ねた。「どうしたら、坊さんは言うのでしょうね」。

先生は「私の心に決した物があってこそ、知るは理の当然である。
もしわが胸中を一言でも口外すれば、抜き打ちにするぞとわしは思い切っているのだからな。
さあ、言い出す前に逃げかえるがよかろう」と言ったのだと。

(注)
 山鹿流兵法としてよく知られている 山鹿素行の逸話である。
素行が赤穂に蟄居となったときに。兵法を赤穂藩に伝えたともいわれるが正確にはわからない。
素行は平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬が松浦家に召し抱えられ、後に家老となった。

巻之一 〈32〉 加藤清正と隈本城

甲子夜話 巻之一 〈32〉
加藤清正は石垣上手で知られている。
今隈本城(本文ママ)の石垣はもとから高い。
その(石垣の)下より走り上がると、ニ三間は自由に走って上がれる。
が、それより上に上がろうとすると頭の上にのぞきかかって、空が見えなくなる。
伝えによると、清正が自ら築いたという。
これは隈本に住む者の話である。

巻之一 〈46〉 加藤清正一番鑓

加藤清正がその子の某(名を忘れた)に語ったという。
言うにはー。
「わしが秀吉公に従ってはじめて一番鑓をしたとき(何処だったか忘れた。賤ヶ岳であったか)、坂に登って向かうと敵がいた。
それと行きあって戦が始まった。
その時の胸中は、何かに向かっているのか暗闇の様に一向にわからない。
その時、目を閉じて念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで鑓を入れると、何か手応えがしたとわかると敵を突き止めた。
それからだんだんと敵味方を見分けたのだ。
後で聞くと、その時の一番鑓になった」
と言ったという。

(コメント)
加藤清正は、事実上の織田信長の後継者を決めるための「賤ヶ岳の戦い」で、先頭を切って敵陣を突破し、豊臣方から柴田方へ寝返った山路正国を討ち取り、特に功績の大きかった7人の内のひとりとして「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになったといわれている。
一番鑓(やり)は、戦国時代の戦では武勇の誉れ高き事であった。
しかし、加藤清正には3人の男子がおりましたが、上の2人を幼くしてなくしていたので、清正の死により、家督を継いだのは三男の加藤忠広でした。しかもまだ11歳という若さでした。
そのため家臣を上手くまとめられず、しかも長男の光広が面白半分に、大名たちの名前と花押入りの謀反の書状を作ってしまい、これが幕府にしれ、お家取り潰しとなってしまいました。お家が復活したのはそれから21年後の1632年です。ただ、所領は出羽国の1万石でした。光広は事件の翌年亡くなっています。
この甲子夜話では「某(名を忘れた)」と書いていますが、恐らくあえて名前を書かかなかったのでしょう。

巻之六 〈38〉 浅野氏、志厚き家法

芸侯浅野氏は、もと豊臣家の臣といえども国家の厚眷をもって大封となられたという。
敬上報国の道において、他家よりも分けて心を尽くす家訓とのこと。
献上物件でもちゃばは洗うこともならないと、壺に盛るとき自身で匙をとり盛る。
その時は前夕より齋戒して礼服を着け、おも立ちたる有司並び居る所で為すという。
また西条柿もその事は同じと、自ら見張り居り、事を執るものは匣(はこ)に詰める。
匣の目張りをするまで自身で見届けると云う。
城下に神君の御宮がある。
月参りのとき、大抵の病があっても、強いて浴澡剃頭して、必ず拝することを法にしているという。
その他おのずから下に及んで、藩臣の主を奉ずる志の厚きも、他家よりは勝る。
元禄中末家赤穂侯の遺臣、復讐の事は世に喧伝するに至るのも、自然その家法の薫染に出ると云う。

(コメント)
歴史的には関ケ原の戦いで功績のあった浅野長政が和歌山城に入りますが、ここを息子に譲って隠居になります。
しかし家康から空いていた茨城の真壁(5万石)を隠居料としてもらって入り、この地で亡くなります。
墓も真壁の伝正寺にあると思います。
そして息子に譲った和歌山の浅野家が広島(安芸)に移ったのです。
真壁の浅野家はその後真壁に陣屋を残して笠間に移りました。
しかし笠間は山の上に城があり、山城では不便で街中に家臣が集まれる建物を建てます。
これが城を建てたとして、1国1城令に違反したとして赤穂に移されたと言われています。
そして赤穂浪士の事件が起こる。
赤穂浪士には笠間や真壁出身の人も多かったようです。

巻之七 〈15〉 藤堂高虎、至高の忠義

上野にある神祖御宮は寒松院の隣にある。
この院はすなわち藤堂高虎の〈寒松院は高虎の法号〉の埋葬地である。
この故は神祖御世の中、高虎は忠勤していたから。
後神祖の御病が重くあらせられた時に、高虎は御床の下に候ず。
時に神祖が言われた。「はや今生に別れたらば再び逢うことはないだろう」。
高虎が答え奉るには「臣(自分)はまた地下に於いてまみえし奉る事は難事ではございませぬ」。
神祖は再び曰く。
「なるほど。但し汝とは宗旨が違う。恐らくは同所に往生いたさぬ」。
高虎曰く。
「尊慮を煩わされませぬよう」。
即御次に退き、改宗して天海僧正の弟子となった。
また御前に出て、その事を申し上げた。
神祖は殊に喜ばれた。
高虎が卒るにおよび遺命して上野に葬らせた。
これは地下に於いて、永く御側に侍する御約束を奉ぜた所だという。
(この様に)聞き及んだが、(人から聞いた事でも)涙を催させるである。

(コメント)
城つくりの名人とも称された藤堂高虎という人物や家康との関係などを理解しないと解釈も難しいです。
神祖は家康のことで、神祖御宮は「家康の御宮」であり(上野)東照宮のこと。
上野東照宮のHPに記載されている内容に、
「 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。」とあります。

巻之七 〈17〉 箱根山関所での笠

松平楽翁(定信)が顕職(高官の職)の時に、公用で京に上っていた。
その道中箱根山を越すときは、歩行(かち)で笠をつけながら御関所を通られる。

御関所の番士は、何れも白洲(白砂の庭園)に平伏せして、番頭が一人頭を挙げて声をかけてきた。
「御定法にございます。御笠をとらせるように」と云っている。

楽翁はすぐに笠をぬがれ、通行して、小休の処から人を返して、かの番頭に申し遺されるるには、「先刻笠を着したのは、我らの不念(不注意)であった。

御定法を守ること感じ入った」との挨拶である。

この事、道中の所々に言い伝えて、その貴権を誇らず、御定法に背かぬ姿にますます感仰(仰いで君恩に感ずる)されたと云う。


※ 松平楽翁〜定信。 江戸中期の老中。 陸奥国白河藩第3代藩主。 1787〜93に寛政の改革を行った。


(コメント)
箱根関所には関所の入り口に、1711年に木札(御制札場)が立てられた。
そこには次の5項目の取り調べ内容が書かれていた。
一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。
ニ、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。
三、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合する検査を行う。
四、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。
五、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。

巻之八十八 〈14〉 歴史から隠れる偉人、慈悲上人

わしは、妓舞(鼓を打ち舞うこと、ここでは神に奉納する舞かと)の事から屋代氏所蔵『江島(えのしま)縁起』を借りた。
第五軸の詞書に、建永元年慈悲上人開基と云っている。
この上人の事を尋ねると『本朝高僧伝』等にも見ない。
隣地の萩野生は古昔を記憶する者なので問うと、「古書に所見がない人でございますね」と答えた。
だから何人で何国の生まれかわからない。
されども『和漢三才図会』は云うのだ。
下宮本尊弁財天〈弘法作〉建永元年(1206年、土御門帝)源頼朝建立、慈悲上人開基、諱(いみな)良真。
また云うには。碑石有り、高さ五尺許(ばかり)。
相伝、慈悲上人は宋に入り、慶仁禅師に見(まみ)え、この碑石によると帰朝したと。
ならば、この上人も入宋する程の人ならば、国書に遺跡がないのも訝しい。
水府(水戸)の『鎌倉志』には、下宮は、建永元年に慈悲上人諱良真の開基にて、本尊弁才天、如意輪観音、慈悲上人の像〈ある人曰く。上人の像は、肖像にて如意を持つと〉、慶仁禅師の像、実朝の像を安置したとある。
また碑石の条には、相伝この石は、土御門帝の御宇、慈悲上人宋国に至り、慶仁禅師に見(まみえ)て、この碑石に伝えて帰朝した。

篆額は、小篆文にて、大日本江島霊建寺之記と三行にあると。
『三才図会(絵を主体の中国の書)』はこの志に由るのか。それと
云うのも、本にあるかの地の所伝から出るなら、虚談ではないだろう。

また宋の慶仁禅師と云う人も『仏祖統記』等には所見がないのだ。
萩野に問うが、「古書に見ない人ですね」と云う。

ならばこれ等のことは却って偽りで古賢の名を託したというより、書に所見がないというのは、正しく後世に名が伝わらない和漢の逸人(隠人、世間をのがれて俗事と関わらない人)であるといえよう。

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