巻之五十ニ 八 木がくれの宿

蕉軒が話す。

8月の末ごろ、成島東岳(成島司直、幕府奥儒者)が、王子(王子稲荷か)詣で時に雨に遭って、谷中村荘の六閑堂に休憩したときの口号。

 雨そそぐ荷葉(はちすは)浪こへて

     秋風涼し木がくれの宿

時により面白く聞いた事だった。

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巻之六十六 七 能の仕手や狂言師の使う鬘桶の由来

能の仕手や狂言師等が腰かけたり持ちまわる鬘桶は、古代は猿楽の鼓の入れ物だった。
それが何故今に残るかといえば。
能「八嶋」で別に弓流しをすることがあった。
仕手が義経弓を取り落とし云々とい云うところで、後見(今で云うと黒子の様なものか、)が近寄り、仕手が立ち
腰掛けていた鬘桶を取り、小鼓の脇に置き、鼓者が寄りかかっている床几を、その時熊手を切払った後に弓を取り返し元の渚に打ち上がらばと云って、鬘桶に替えて仕手に寄りかからせる。
鼓者が鬘桶に腰掛けるのが残っているのはここに存在しているのだと、教わった(観世新九郎)。

巻之79 〔10〕 年十七八になる娘が小鼓を打つ、女弦

昔聞いた事をふと思い出すままに書き出してみる。
防州山口であったこと。
ある家の年十七八になる娘がいきなり狂って、小鼓をちょうだい、打ちたいの、と云うのだと。
この女弦(本文ではこう表現。今の女性演奏家の様な表現かと)は、唄はするが、鼓を打つことはないと。
家人も不審に思いつつも、鼓を与えると、何か打ちたがる。
それで側の者があれこれと望むと、曲舞(くせまい、舞)一挺、思うままに打ったと。
皆が皆、思いもかけないことと、どうしたのと当人に問う。
我に幸(こう)某の魂が寄ってきたのよ、と答えたと。
防州山口は、大内氏が領めた後衰退したけれど、これから大いに繁栄して、鼓者の輩もこれからやって来るだろうと。
だから幸氏(官の鼓者、小左衛門、清次郎、清五郎の輩皆幸と称する)の輩の様な者がここにいるのか。
どうにも晴れない不審なことよと、某は話したのだった。

続編 巻之22 〔13〕 「胡蝶」という能

宝生座に「胡蝶」という能があり、外流ではない。
その次第はワキ僧一人。
塗り笠に行脚の出で立ちで、吉野の奥から都を見たいと、京に上る。
一条大宮で荒れた家の庭に見事に今を盛りに咲く梅花をながめていたら、女が自分は梅花に縁がない蝶であると泪で嘆く。
僧にお経を唱えてもらい成仏したいと語る。
女は(僧の)夢にあらわれると夕べの空に消えていく。
僧の夢に現れた夕の女、蝶は梅の花に出逢った歓びを舞い、春の夜が明けゆく雲に羽うちかわし、霞にまぎれていく。

巻之四十七 十七 麻疹が流行りと文(文家と武門の違い)

近年気候が不順で両三年は諸国は風水旱魃が起こっている。
人身にも影響があって、流行病があれこれ起こっている。
また昨冬は晴れが続き雨雪がなくこの春もずっと晴れが続いていた。
ところが二月末より長雨になり、花時も降り続きで過ぎた。そのためか、春寒が甚だしく、穀雨の時期には人々は厳冬の服を着ている。
その上、麻疹が流行り家ごとに染まっている。
この頃また風邪が一般に流行し、感冒せぬ者はいない。
林翁(幕府儒教学者林述齋)への手紙のついでに「もしやこの流行疾病にかかってはいないかい」と問うた。
その返事の端にこう書いてよこした。
老朽し柳は人になびかねば 世の春風もよきて(よけて)吹くらし
この翁は屈強の身体をしていて、このたわむれは一首の通りである。
が、麻疹は別である。
わしの内の家来老若みなかかってしまった。
わしと他に三人がかかっていない。
わしの年齢は翁より十も上である。
この頃は風邪の流行りで剣技の相手がいない。
日々は弓矢の百、二百筋を射している。けれども、和歌の一首も詠ぜず、不風流なのは、文家と武門の違いである。

巻之五 〈三六〉 三十一文字の歌章の箏曲、歌の基本

わしは久しく思う事がある。
古は歌は『うたう』ことであったが、今はウタ(本文は歌の左側だけを以て)は『よみい出たる』ばかりで、『うたう』ことがない。
流行りのうたは別にその詞があって、とくにかりそめにも、花前月下などウタをよむとき、その詞を弦詠(琴などに合わせて)しようとした。
その頃名の売れた山田豊一を謀り、山田にわしの為に三十一文字の歌章の箏曲を作らせた。
その後、家老長村内蔵助が帰村する時にも、また長村伊勢守が堺の奉行となり任地にゆく時も、わしは餞別の歌をよんで、竹に(書いて)侍妾に弦詠すれば、伊勢も長村もこと更に感悦して興味深くしてくれた。
長村を餞する時には
鶯の谷より出て峰たかき
       霞にうつる春の初こえ
(と歌った)
伊勢を餞する時には
住の江の松と久しきやがてまた
       岸による波かへりけん日も
(と歌った)
つまりいつか世の中でも、風雅を好む者はこの箏曲を用いるだろう。
林氏はこの事を面白い思いつきだと、度々激賞した。
後に基本を知らぬ様になった時の為に、記し置けと勧めるままにここに記す。

巻之八十 〈ニ三〉 歌の作者

真淵の『古今集打聴』に人丸の歌。
ほのぼのとあかしの浦の朝露に
     嶋かくれゆく舟をしぞ思う
と云うのを、異本の『今昔物語』を引いて、小野篁の歌とした。
また引き證が多い。
ならば代々の尊尚あるいは制詞らは何になるのか。
吾輩の浅学を以て、咎むるもまたおこがましい。
人々よ、『打聴』を見て知って欲しい。

巻之四十ニ 〈一〉 画才 騎馬の飛ぶ様子

狩野栄川院に画才があることは前にも云った(巻之十九)。
その後の林話に、一日ある人が、青々草色馬蹄、香ばしいと云う句意を画き給われたという言下に、騎馬の人のすぐるところに、春草に飛ぶ様子を描いたのはみな、驚いて感じ入ったとぞ。

三篇 巻之十五 〈一〉 能の家々の伝え

能は習いごとと称して、その家々の伝えがある。
中における石橋の能は、家々にそのやり方があると申し、観世大夫に聞けば、かと云い、喜多に問えばこれという。
それぞれによる処取る処があると聞こえた。
わしもニ家の石橋は折々見る。
共にシテ始めは尉(じょう)で、中入りあり〈間の狂言、大倉八右衛門の方は、仙人一人出る。
鷺の方は、天狗だろうか、三四人出る〉。
後の出はは、獅子である。
また聞く。宝生大夫の石橋は、始めは尉だが、シテ連がこれを為め、間の狂言がなくて、直に牡丹ね台を出し、ついで後ジテ、獅子の出はない。
これはほんのジテが為める。
ある人が評価した。これは易いはずだ。
金剛大夫の方は、始め尉、中入りして、間の狂言がなく、直に牡丹の台出し、尉で獅子の出はである。
早装束になるから、金剛こそ早業といえる、と。

続篇 巻之七十 〈一六〉 能装束

能見物のとき、脇師高安彦太郎が云った。
その家に太閤秀吉公より賜った能装束があるという。
また今家紋とする三巴は、神君より拝領した狩衣、紺地に巴の紋ちらしを金でほどこしている。
また、はなすに今春大夫の分家に、今春八右衛門と云う人がいる。
八右衛門から分かれて大蔵庄左衛門と云う。
この家に唐の楊貴妃の宝冠が伝わっていると。
だから能の楊貴妃の天冠かと聞くと、唐時に貴妃が着したものと云う。
すると希世の宝物ではないか!
だが、今は質物に入っていると!何れにあることか!穿鑿(せんさく、根掘り葉掘りうかがう)はすまいぞ!

続編 巻之十ニ 〈ニ〉 小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁

最近没した小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁〈退老後の名前〉は、名人と云われた打ち手で、紫調(将軍に許され名人に与えられる紫色の調諸)を御免蒙った者である。
その頃、幸清次郎も同じく上手と云われ、この者も紫調を御免蒙った者であるが、両人は仲が悪く、日頃の談話はいうまでもなし。
御用のときも互いに一言も交わらぬ程であった。
ところが、ある日休翁が清次郎宅の門前を過ぎて、鼓音を聞いて、いきなり中に入り、清次郎に対面した。
「拙者参りたるは別に用はないのだが。今鼓音を聞くと、はなはだ衰えている。もしや死期が近いのかと思い、参ったのよ」。
それで、いつもの健強な音が悦ばしいと云えば、清次郎曰く。
「今朝、指の逆むけを引き切り、とても痛み困っている。いつしかそれが音に現れていたのだな」。休翁は「よしよし、それならば安心いたした」と云った。
上手を先立てては済まないと思い対面したが、もはや気遣うことないと即出て行った。
いつもの交際はまた元に戻ったという。

続編 巻之十ニ 〈五〉 山姥の謡

山姥の謡は、世間では一休和尚の作らしい。
蜷川氏の家伝は、曲〈クセ〉の中に、「仏あれば衆生あり。
衆生あれば山姥もあり」と云うまでは蜷川大和守親元の作で、「柳は緑、花はくれないの色々」と云い切りまでが一休の作だとのこと。

続篇 巻之一 〈一一〉 善光寺の本尊阿弥陀仏

この夏〈丁亥〉、用事があって松代候〈真田豆州〉を訪ね要談が終わり、話が種々に及ぶなか、候曰く。
「善光寺〈信州〉は某の支配処にしていて、何ごとも領内同前に聴いている。またかの本尊阿弥陀仏と云うのは、深秘にして勅封だから誰も見ることはできない。だから、知る人はいない」。
わしは即座に、「だとすれば世に崇詣する仏像はいかに」と問うた。
「この体のものニ三あってみな古の仏体ではない」と。
わしは「この寺のことは明らかににされてないけれども、かつて謙信が奪い取って、今真仏は上杉家に伝わるなどと云うのも信じ難きことぞ。
またかの寺の住持は尼僧で、大勧進と称さる僧は、かの寺にいて寺務を執り行う。
東叡持ちにて天台宗院家くらいの人だと。
また尼僧はこの都の青山善光寺に在院している。
先の尼はこの大勧進と姦通の沙汰があった。
それから主尼の勢いは劣っていき、勧進の権は重くなり、今に公事が絶えないぞ。
当時の主尼は摂家の姫で官家のよせも重く、御間近く拝謁されることもあったとか。
以上のこともみな候の方に訴えでることになるが、裁許は東叡府にてされる。それから寺社奉行の手にも渡る」。
松代候はただ聞くばかりだと話された。

続篇 巻之九十ニ 〈三〉 舟の字

自然居士の謡の曲(クセ)に、
「然れば、舟の船の字は君とすすむと書(カキ)たり」とある。
右の傍(ツクリ)の公は、君の字であることでの論じはないけれども、左偏の舟を、すすむと読むこと如何にかと問えば、ある人が答えた。
前の字の古語、「止・舟(上下に書く)」と書いて、進(ススム)であり、先(ススム)であると註する。
また篆体の船の字があれば、「すすむと書(カキ)たり」と云うとのこと。
わしはこれを聞いて、この謡を作った人が、字学にも通じていると、感じ入ったことよ。

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巻之一 〈29〉 雁金打という弓

紀州の雁金打という弓は、雁の形の焼き印を二つ押す。
紀州藩の官制で、市中の売り場に出る事はない。
以前は多く世の中に出たが、最近では売出しを禁じられ、出る事は稀である。
この弓は打ち出す処から筏にして(運び)水上げをする時に、粘着力の強く離れないものを良しとする。
また蒸し暑さによって弱ることがないものを良しとするという。

巻之二 〈27〉 立ち位置を理解すること

中村弥三郎(富士見御宝蔵番。和哥(本文は歌から欠をとっている)をよくする)が語るにはー。
某〈名忘れ〉は江都(えど)で名のある狂哥(本文は欠なし)人で、その道の宗匠である。
ある時、狂哥(欠なし)集を選んで、これを京師(みやこ)に上らせて、冷泉某殿(名忘れ)に点を乞うた。
けれどもその後一向に沙汰がない。
だからまた手寄(たより)を求めてその左右を聞くと、かの歌集が返された。
某は喜んで開き観るに、一首も点がない。
これは如何にと再び視るがない。
とうとう本の末に一首の歌を見つけた。
某がよく視ると、冷泉殿の手跡である。
敷島の道を横切るかま鼬
  てんになるべき言の葉もなし(本文ママ)
狂哥(欠なし)師はこれを読んで、流石は歌道の御家と恥入った。

※歌から欠を取った字(哥)は、本家本元からは今ひとつの者に使う言葉なのでしょうか。
冷泉殿にはちゃんと歌という字を使い、線引きがあるように思いました。

(Note)
一流とは言えない者には歌から欠を取った字を当てていて、冷泉殿には歌という字が使われていました。
その字で区別されているのでしょうか。

中国語では「哥」は兄など年上の男性を指す言葉だそうですが、日本では普通に「歌」と同じように使っていたと書かれていました。

続篇 巻之八十四 〈4〉 昔も今も。深き観方を教えらる

いつの春のはじめにか、某が刻行して年玉にしたものがある。
今ここによく観ようではないかと出して、収めた。
沢庵の歌、感賞は浅からず(以下歌は本文ママ)。

少智菩提防

ふもとなる一木の色を しりがほに
        かくも見とげぬ みよしのの花

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巻之五十六 〈4〉 想夫恋に思う

想夫憐という楽(がく)を聞き及ぶ。
この頃悠然院(徳川宗武、吉宗次男)どのの『楽曲考』を見た。
『相府蓮〈新楽無舞〉。この曲は唐土より渡った。
想夫恋とかくのは、音が通うままに書いたのだ』。

また『白氏文集(はくじもんじょう、唐の文学者、白居易の詩文集)』には、想夫憐と云う詩に、『長ヘニ愛ス夫憐ノ弟ニ句。
請フ君重唱セキ夕陽ノ開クニ』とある。

また『平家物語』には、小督(保元2年、1157年生まれ)。
平安末期の女性、藤原成範の娘、高倉天皇後宮)どのの爪音である。
楽とは何かと聞くと、「夫を想って恋ふと読む。想夫恋と云う楽である。仲国、そうであればこそ君の御ことを思い出し参らせて、楽こそ多くて、この楽を弾き給うことは優しい調べである」と見える。

すると、平氏繁盛の頃、彼の地は宋の代であるけれども、楽は隋唐より伝たわったままを用いたとなるだろう。
総じてこの楽は如何なることを為す楽だろうか。

『楽曲考』に舞無しと見えるならば、その舞衣装によって知ることもあるかも知れないなあ。
林の様な祭り好き酒好きの通達の人に問うてみるかな。


※お酒が入り、想夫恋を語るとよさそう。だけど、結論出なさそう、ですね。
お正月に結論の出ない〇〇論も楽しいですね🍶🍶

※お読みいただき、真にありがとうございます。みなさまには、良いお年をお迎えになりますように。🎍🎍

巻之ニ十七 〈11〉 真間のゆう廟御成の際の御歌

ある人の物語に、下総の真間(千葉県市川市真間、万葉集に出てくる真間の手児奈の面影のある街です)の弘法寺什物(ジュクモツ、秘蔵の宝物)の中に一軸があった。
真間の古歌を書き集めたものであるという。
その奥にゆう廟院(家康公と思われる)の御歌と載っていた。

 箕笠もとりあへぬ夕方に
    しとどにぬるるままの継橋


※真間の継ぎ橋 かつて市川市真間にあった橋。
日本百名橋番外に選定された。
川の水はなくなったという。
いかにも真率な御詠である。
定めてこの辺りを御成の際、白雨(ゆふだち)に逢われ玉(たま)いしことがあって、一時の御即時であろう。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
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