巻之19 〔25〕  諸家の模範  その1

 林叟曰く。年少の時、佐倉侯〔堀田氏〕の文学は渋井平左衛門(諱~いみな、孝徳。号、太室)を師として学んだ。
その著書数多ある中に、零星小品の冊子を『世之手本』と名づけて、常に見聞きする諸家の模範とも成り得ることを、仮字に記したものがあったので写しておいた。
この頃篋(はこ)の底からから検出したが、このような小冊は散亡しやすいので、わしがかの冊中に写し加えよと勧めると、その意に従う。

 その序文に云う。
世の手本は、卑賤の身として、しかも愚かな口さきになるので、申すも恐れながら、御当家の御政のようなものは、上古よりも聞き及ばぬ。
自然と封建の制になって、諸侯多くおあられるが、大方上にならう下で、異朝に書き伝えるような暴政をおこなう事は聞かない。
暴君があっても上の威を恐れて、下を虐して民を苦しめる事はならない。 
幼から都下に居て、こと人に数多出合って物語をきき、善政善風儀とおもう事は心に銘(めい)じた(しるした)。

 人にもかたりなどしたが、見る中に善き政もすたり、善き風儀もかわりゆくことがなきにしもあらず。
近頃老いの身の物忘れが多いままに、覚えていたことも忘れつくさぬ内にと筆にのせ、せめて儒生の職分ならば、天下のことがおろかなこと、国々の政務風儀のたすけにも、万が一はならないだろうかと、書きはじめに。

                          続く
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巻之19 〔25〕  諸家の模範  その2

  加賀の守殿は刀をさしながら乗り物にお乗りになる。
国持の第一で、御取り扱いも格別だけれども、公儀を重んじ法令を堅く守り、参勤交代の時節違うことはない。
すべて質素で、供も徒士(かち)9人、供鑓(やり)3本、合羽籠10荷に過べからずの掟を守り、跡乗りもない。
人数は少なので、御三家に準じ跡供をきらずとも、往来の妨げにならない。
大火の後、御郭内(おくるわうち)込合う間、跡供を残して見合入候得(みあわせいりそうらえ)と触れがあると、外の諸侯は如何にも連入候様(つれいりそうろうよう)にいたして、連れていずとも、跡から入り、加賀守殿供は神田橋に残して、誰も咎めるべきではないが、始終御門へ跡供は入らない。
このようなので願いごということもなく、役人に取り入り物頼みすることもなきよし。

 黒田殿は、日頃から合羽籠を持たれることはない。
外の方々は数多く、または塗り色をかえて、一荷も多く致される。
これを往来の人が見る所である。

 薩摩も法令を重んじ、世間の風に移らず。
衣服華麗な事なく、道中で乗懸蒲団は、紺の木綿風呂敷に包んで、見事になることはなく、これも緒役人へ附届け等は丁寧だが、取り入ることなどは世上で沙汰がない。
振る舞いのとき客がほめた器物は、揃えて跡からおくられている。
質素だがおお躰成は並びなく、近頃大成殿を江戸の通りに立たれたという。
先年嫡子があられた後、御主殿は入られたことがあったが、仮令(たとい)御出生あっても、次男にすべきとお断りされた。

また家中より、相続のとき、内室を奥方にされた。
昔より加賀の仁、薩摩の義との申し習いもことわりである。
若党は大要次男弟なども連れている。
脇目には上下の差別がないように見える。
加賀の表向きは豊厚だが、自身は至ってきりつめているよし。
書士在藩の者は他出させずという。
主人の衣服、器物、三州の物より外は用いない。

                         続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その3

 仙台は養賢堂と学校を名づけ、儒役の者は日々出仕して教授する。
城下で、この町は何、この町は何職人と雑(まじわ)り居する。
織物も細工も自国にないものは世話をして拵える。
諸士は地方で知行(領主が行使した所領支配権)を取って、何貫と云うものもある。
近来、知行を地方で出す所は、仙台、薩摩、安芸、阿波、土佐、秋田、南部でその外は聞かない。

 肥後は古の政所の制によって、奉行所と云う役所で政務を行う。
民百姓80以上の者は扶持を与え、時習館と名づけた学校を立て、諸士を訓導する。
再春館と云う医学館をたて、医書を教える。
何れも他領の人迄佸(あつめ)て教導する。
火事羽織は主人も羅紗を用いない。
上下ともみな革羽織であり。長州も左様である。

 小倉侯、思永の2字を自筆して館の名にして、教授1人、助教4人が置かれている。

 安芸は法令巌である。
門の出入りは1刻をちがえても格碌を削られる。
去年は頭で在番したが、今年は組付けになって来るものがあった。
書状の判は総て自身で書くよし。

 伊藤家は妻があれば妻の扶持を与える。
嫡子がいれば嫡子に扶持を与える。
下男のふやせば扶持を与え、人が入用の時は家中を触れまわり、隙入りなき人の下男を、日雇い銭つかわしてつかう。

 青山備前守殿、総領9歳になれば扶持を与える。

 服部仲殿は家老15両5人扶持、用人10両3人扶持、給人8両3人扶持、中小性6両2人扶持と定めて、段々立身させる。

 米沢に聖堂があって釈菜(せきさい、儒学の祖孔子を祀る中国式の祭典)を執行する。
30万石半知になっても人を減らさないので、少身ものは米を雑炊にして食する者が多い。
何も細工して助成する。
足軽は脇差ばかりにして、細工の物を売りに出して、国許(くにもと)では7月13日より3日の内、本丸大書院にて、越後以来打ち死にの者、大功ある者、陪臣に至るまで自身に祭る。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その4

 本田中務殿も、15万石5万石になられた時、人の減少は無かった。
家中一統に3尺手拭いを腰にはさんでいた。

 上杉と伊東両家では、かつぎ商人門内へ入らず。
伊東では世の風俗に移らない。何事も先規にないことはしない。
今時はやる横麻(よこいとに麻、たていとに絹を用いた織物)を着するようというが、役人がいうには麻上下着という法はあるが、横麻上下着と申すことはないとは、合点しない。

 また泉水に雁鴨の羽を切って放すようにとあるのも、庭籠(にわこ)でかうのは先例があり、放し飼いという先例はないのは合点がいかぬ。

 1月に1度ずつ、1日1夜門を閉めて。
家中の上下、何にしても致すことを致す、舞踊り飲食して楽しむ。
翌日6時(朝6時頃)からひっそりと致すよし、隣屋鋪の者の噺である。

 類焼したら、在所で切り組み置いた材木を取り寄せ、跡にまたまた切り組み置く。
平日在所から願いにて、船2艘が入津し、香の物乾物を仕込んでまわした。

 阿波は至って寛で、門の出入りの限りもなく、当番不参のものも、一通り尋ねるばかりで済む。
進物があれば、多くは帳面にのせるばかりで、広間で煮焼きして食べている。
古は諸家ともに左様のよし。
死罪と云う事を聞き伝えず。
大罪人は山入りと云って山の中へ押し込んで置いた。
甚だしくよい国で、天下一の富饒(とみゆたかの意)の由。
勝手に勘定と云っても急度(きっと)はなき由。

 寛にて国をおあさめるのは至って難しい事である。
いかにとなると、小人政をとるなら必ず巌にするものである。
この跡では、君子をあげて政をさせても、人の苦を見て寛にしようとするのは難しい。
これによって黒田如水公は、今時の大名は、脇の下から汗が出るように家来をつかう、と申される事、承った。

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その5

 土佐は阿波の隣国だが、士民の風俗は大いに異なる由。
土佐は国法が甚だ厳しい。
良材が出るので、江戸の普請も在所で切り組む。
何事も先規を守る。
家中の者が、小屋へ来客があれば坐敷へ刀を持って逢う。
正月3ヶ日の内、家中へ料理をくれられ、懇意の者には雑煮を食べさせる。
郷士千余人もこうある由。
250石以上は馬を持ち、正月11日に在国の時、人数揃える。
主人は出馬して野に小屋をかけ、上下一等に料理を出す。
主人はじめ自身湯を斟(く)まれる。
士は相互に給仕いたし、湯ばかりは自身立てて酌む。
この日、立身を申し付ける。
前日、よび状を出す事なくいい渡した。
250石になると、即時に馬上にて供をする。
これによって小身の者と云っても、平日馬の心当をいたし置く由。
家老に深尾縫殿と申て5千石である。
妻を呼ぶ時、一汁二菜に申しつけてるのを、懇意の人が参り、倹約の時節だがあまりな事と云った。
左様であるけれども、800人の膳部で、手廻り成り難くあったが、そのままに致し置いたと云ったのを聞いた。
答えがなくて帰った由。

 親の墓に千燈を立て、一燈に1人ずつ警固を置いたという。
この事に限らず何れも慥(たしか)な人に承候物語であるけれども、覚え違いの咄事のある。
聞き置いて覚え違いもあるだろう。
我等その家の事はよく存じているが、左様の事はないと云う人もあるだろうが、上の家でなければ、他の家、または名の違いもあるだろう。
跡方のないという事は、誓文も致すようにしよう。

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その6

 相馬では、妙見の祭礼に駒取りいたすといって、前日の申の刻(午後3時から5時)より人数を揃えて、主人はじめ諸士、医者は法師武者で城を出る。
軍法のように押し出す。
妙見の原に仮屋があって一宿する。
朝になると騎馬の士は列を立て野馬を追い出し、柵中へ追い入れる。
小人どもは襦袢で手取りに致す。
総て質素な歌風で、公儀の御用を勤める時節にも、武器以下有り合い(ありあわせ)の物を用い、見事なことはしない。
振る舞いは先代土屋から養子にしたとき、実方の振る舞い致した以来ないとのこと由。
仙台の境に墓所がある。
戦争のときこの山を1人も越さぬように守ることと先祖の遺訓で、代々の葬地にされる由。

 伊達の相馬と、嶋津の伊東と、何れも大身な人を敵取り、太平のときもその危を忘れぬ由。

 紀国には講堂があって、儒者が日々勤仕する。
諸士を集めて、教授する。
勝手方は基盤つもりだが、諸事入用、一紙に見えるように卦(けい)引きして、年によって差し引きされる。
また俗疱瘡にかかり山へ遣り置くので、死者が多いが、貧人には米を与え大切にいたわりやるべしと申し付ける由。
その外90以上の者へは扶持を賜る由。

 今年の参勤は倹約をして、供の面々、武器有り合いのままであるべしと触れられたが、大寄り合い朝比奈総左衛門は武器立派に照り輝いて出立した。
目付け役がとがめると、拙者宅では、先祖から武器の分は1年に1度づつ塗り替え、御供の諸士、有り合いを用いよとのこと、古い物を買い調(ととの)えよには心付けず、そのまま用ゆと答える。
総て朝比奈、代々勝手よくも、心がけ善き故である。

 井伊掃部(かもん)殿は京都へ御使いに参らるとき、彦根へ立ち寄り、それより行列を立て、弓鉄炮は箱に入れ、足軽共左右につけ参り、見事なものは他にない。
彦根の者は差し替えの大小、着替えの具足所持しない。
額付羽織の寸法がある。
主人も1本道具、1つ挾(はさみ)箱である。
老中招請にも、囃子(はやし)で、一汁五菜である。
外へ振る舞いに行っても6時限り(午後6時頃)に帰り、宵の口でも外にいることはなかった。
国許(もと)に妾なし。
まして江戸から女子を連れ行くことはなかった。
妾腹に男子出生すれば、母へ金100両遣わし暇をくれて、出入りを留めた。
子は局で生育片(そでてかた)のの相談があれば、それより子供衆の並に致した。
外へ遣わす進物は、見ぬと云うことなきに由。
直孝殿の定で、家中の万石の者はいない。
近来木俣は万石に成られる。
諸士の格重き者、5等か6等がある。
その外は騎馬徒といって1列である。
鍋島、藤堂の両家も、頭役は格別、細やかに役格はなきによし。
門の向いの番所に士出いて、私に出入りさせるや否やを見る。
藤堂も左様である。
子供、前髪がある内は、親同道でなくては他出ならない。
服紗で刀を持つことはない。
玄関で刀をとり、乗り物に乗られる。
乗り物は蓙(ござ)ばかりで蒲団はない。

 ある時、聖堂を立てるといわれたが、家老が申すには、結構なことだけれども、作事立坪定法があって、1坪もふやすことはならない。
1か所何れの茶屋、またはいらぬ所を取り払わせ、その立坪で立て申すべきと。
もっとも諸士を訓導する所は、前々からある由。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その7

 藤堂家は久居と名張と合わせて3方と称える。
おりに役が闕(かく、欠けるの意)れるとき、かの三方の相談で極(き)めるよし。
平生金銀を貯えて、御手伝い等をかり金で勤めることはない。
御手伝いが済めば、家中の碌の内をかりて、重ねてまた御手伝いを勤めるほど貯えている。

 先年川々浚(さら)いで、土手を築くよう仰せられた時、その沙汰があると銅銭を買い入れた。
果たして銭は高値になって、外のかたがたは難儀だというので、左様にぬけ目のないやり方である。
されどまた寛であることもある。
組の足軽など、頭の気で給分も人数も、間に合うようであれば構わぬ由。
道中乗りか懸けは、紺の蒲団2つで外の色がない。
新参衆は武器量を望む程かし、年賦で上納させる。

 亀井殿も、妾腹が出生あれば、50両やって暇出すよし。

 松平右京殿家、法令が厳しく、武道をみがく。
鑓(やり)のものを打ち、せんだん巻(千段巻、槍、刀などの柄を藤や麻苧(あさお)で巻いて漆を塗ったもの)で鑓印を附す。
また先祖から死刑を行うことはないと云う。

 小笠原佐渡殿家には、鑓印、物打ちへはめるようにされれる。
目見え以下の者は、いかに立派な衣装を着ても、半襟をかけさせる。

 加賀、越前、安芸、備前、酒井雅楽(うた)殿は、留守居役仲ヶ間入りしない。
されど仕損じする事もない。
公儀の事も定まる事、家法もそれぞれに立てるようになれば、外を聞き合すことも入るまじき事になる。
総て近世は、同役附合、仲間附合、公儀向勤より六ヶ敷(むつかしき)ようだ。池田両家では、大身小身に限らず、跡断絶させることはない。

 備前では、暇を遣ると云うことはむかしからなく、書置きして立ち退けば、明日表門の前を通っても構わない。
学校を立て、文武の道を教え、二仲の釈奠(まつる、さだめるの意)を行う。

 藤堂家は、暇を願えば料理を賜い、手自ら腰の物を遣わし、思う程の碌を遣わしかねる間、もっとものことである。
もち他所で片付けなかったら、立ち帰るように、と申しつける。
今はいかにあられるか承らずか。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その8

 本田弥八郎殿は、小身だが本家なので大身の紀伊守殿へ参られる時は乗り物を門へ横に付けられる。
さて坐につかれれば、紀伊守殿は敷居を隔てて居られる。
だんだんに申されて、一間へも入るよしになる。

 榊原家では男子10歳より女の手をはなれ、表に寐させる。
外から帰られたら、供の人へ言葉をかけられる。
年始の礼は鳥目に名札を付け、奏者の前に持ち出す。
奏者はその名前を見て披露いたす由。
火事があれば諸士は、草履取りに鑓を持たせ、草履をその鑓に結び付ける。
曹洞宗の寺菩提所では、領内の寺残らずその末寺に申し付ける間、仕置きいたす。
白井の双林寺はその寺の本寺であった。
末寺になることは迷惑のよし、公儀へ達した処、榊原領分の内は家法の通りであるべきと、奉行から申し付けがあったよし。

 越前では、謙信流の山本帯刀を用いて、軍法を組みたて、如何なるか、家中に謙信流は禁制と。
帯刀先祖じゃ御附人で、世間に申し伝える越後流とは大いに異なるよし。
長柄の刃を漆で塗らせる由。

 大久保家は、御旗本の大身衆で、1月に1度ずつ廻って寄り合いがある。
新八郎殿とて千石ほど取候人を、本家なりと正坐にされる。

 青山大膳殿、36人衆とて、軽い士もあり重い士もあり、古いものなので、政事等気に合わなければ合点がいかぬよし。

 松平主膳殿は、伏見で先祖五左衛門殿にしたがって討ち死にの人の子孫をば、列坐ろ云って重く致す。
辻番、足軽、手廻り少々を、江戸抱えにして、下々は家中の召仕までみな国人である。
みな酒樽の口を細工に致して。総人数を導く役なので、古法に叶うのはもっともなこと。

 米沢の筆、長門の傘、鍋嶋の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束のようなまな下々細工にいたす。
第1それに精を出し、博奕する隙なく、第に身持ち形気(かたぎ)になり、仕置きも致しよい。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その9

 加賀、薩摩は勿論、阿波、土佐、米沢、伊東、相馬、外々のように諸役人へ手入れしない。
御用仰せつけられたら、勤めるようにとの覚悟のよし。
世上では沙汰致し〔静(静山公)曰く。
今の世の中になってはこのようではないか。
この作者の頃は世近いが、まだ野人古愚の風である なお知っているだろう人に尋ねて〕。

 会津、筑前、備前、洞津、西条、孝悌忠臣のものを代官は申し立て、褒美を与える。
公儀御預所は勿論といえども長崎では別てそのきわが見える〔静曰く。この一条は今もこのようか。知らぬ人に問うように〕。

 保科、井伊、藤堂、家訓があって、世間でその書を取り伝っている。

 阿部備中殿家では、毎月朔日、諸子を会し、家の法令をよみ聞かす。
何れの家でも左様にあった。
この家に生まれたものは、存じたることだが、大勢の中で読みきかすれば、別けて身にとって気を付け、傍輩と励み合う心も生ずるものである。

 大田家では、法令を坐敷に張り置いて、総て陳大小など云って、目立ち拵えを指すことを許さない。
初地のもの、武器を用意致す趣など、委(くわ)しく載せ置き由。

 堀田家は、代々朝起きて、儒教を崇び、毎日上下を着し、先祖の位牌を排し、父母の機嫌を伺い、聖堂を立て、釈菜を行う。和漢の書物を積み置き、望みのものにはかし置き、百姓を憐み、孝悌のものをたたえる。
大病人には、願次第に人参代として金子をかす。
これは軽きもの、病中には物入りが多いので、送葬もならぬとはあってはならぬよし。

 また除け米と云って、上の物でもなく、下の物でもない金があって、貧人の急を救うよし。
領分は村々に銭穀を預け置く。
そのはじめは100石に金壱歩米二俵程を役人その外使いなど参るときの扶持米は、その内をつかい、収納のとき、前に遣った分を補い置いた。
かりものがあれば、少しずつの利分を付け、納めるように申し付けた。
百姓の為になることのよし。
近習の中に、日記役といって内外を記す。
主人が問い尋ねること、その筋々の役人へかかって僉議(せんぎ)するに及ばず、即時に知ることが出来る。

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その10

 吉田の伊達では祝いごとがあって、酒をのますとき、中間には酒2合、蛤壱升ずつ遣わして、上下のこるものはない。

 大垣の戸田、参勤帰城の発足の日限極まって、1日も違う事がない。
江戸へ供の人の名、勤め方ともに書きつけにして、3月節句、広間に張り置く。出仕の者はそれを見て、段々用意をして、1年の勤めをする。
何を伺い聞き合うこともない。毎日朝六時から役人は出仕する。
主人も出て、五時(現在の7時頃)に退出する。
その後のことは面々の宅で取りさばきするよし。

 近頃は六半(現在の7時頃)より出仕のよし。
役替えは、手紙で役所へよびよせ、主人自筆の書き付けを拝見する。
それを取り上げ、役所の扣(ひかえ)にいたし、そのものへはその写しを与える。
当番の者なれば、坊主をやってよびよせる。
諸士は役格計りで、何の次、または何役なれど何の格など云うことはない。
重き役でも、いらぬ時は元の出所へ帰る。
火事があれば人々は手桶を提げ、その所へ聚(あつま)る。
供番は触なけれど、その場所へ参る間、主人奥方の供、世話することもなくて揃い居する。
何日は何と云う極(きま)りがある。
主人の衣服は勿論、庭の手入れ掃除まで、何することも聞き合わせすることも申し付けることもなく、極りの通りに致す。
白洲へ家老客を送り出れば、若党4人、刀持ち、草履取り、陰にひかえる。
用心もその程々に召し連れ出る。
下々間まで、譜代で妻子を持ち居る。

 松平主殿頭(とものかみ)殿は、代々先祖の出所、参州深溝を葬地とする。
家中の嫡子は、何によらず稽古に志あれば申し立て次第で扶持を与え、何方へ住居するも勝手次第。総て政務勝手向いのこと、無役のものでも心付けがあれば、頭支配へ申し達し、家老評議の上、挨拶がある。
火事の時奥方の逃れ、猩々緋の印をたてられた。
越前殿は供の女、小袖をうらがえた。
一統に赤い装束になった。これは外にもあった。
大垣の戸田では、壱人が騎馬で先に立った。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その11

 会津白川では、諸士の望みを次第中間を割渡する。
その故みな中間頭の支配にして、給金も少なく、取り逃げの気遣いもなく、面々の世話が少ない。

 会津は世々神道を学び、仏寺いらず。
また城中に学校を立て、諸士を教え、城下に学校を立て、農商に教える。
奥方は里に参られて夜に入り帰ると云う事なし。
300石以下の者は、馬を持てば飼料を与える。
100石位のものは、貧だが馬好きな者である。
馬を持てば却って徳分になる、などと云って譏(そし)られる者もある。
公事奉行と云う役人が4人いる。
諸士の中に悪敷沙汰あるものがあれば、それに申し付けて吟味させられ、噂で仕置することはない。
饗応あるとき、先ず給仕の小姓に料理をくれる。
子供のことだから美食を羨む色相もあるべきとのよし。
社倉あり、米を貯えて置き、領内のものへ春に貸して秋に取り納めて、減米、また土蔵修復、その役方入用の為2分通りの利を納める。
数年を経て大分のことになる。
養老米といって90以上には扶持を与え、貧人米といってその貧窮のものには扶持を与えた。

 水戸は儒教なので、何公も諡(おくりな)を称し、戒名なし。
讃岐殿(高松藩:水戸藩松平の分家12万石)をはじめ、別れの家々同じことである。
史館があって諸生は数多居て、天下のことを記す。
公儀または禁裏よりも、御用のことばもある。
下々の外へ出て、がさつであったのを門迄参り知ると、捕手参り、理非なしに死罪のよし。
もし取りすくめば、相手方へ咎め参る。

 尾張も、敬侯以来諡を称せられる。
文学を尊み、明倫堂と申す。
二仲の釈奠を執り行う。
主人奥方へ入り給うとき、若い女はみな下がり、老女と少女ばかりで、給仕等致す。

続く

巻之19  〔25〕  諸家の模範  その12

 郡山の本多殿の学校を益習館と云って、教え習わす所がある。
益とは『管子』に出る文字だと云う。
次男以下は家来同前に召し仕う。
今はその家はなくなった。

 佐賀、南部の民は国をはなれ7年を限りとして、国へ帰り改を受ける。
佐賀に境目方と云う役がある。領内他領の境目を正す役で、そのことに至って秘するよし。
何れの家にもあることだろう。

 紀伊国から御供で参られた家には、大身小身によらず、夏の間腰掛けに水をくみおき、茶碗も添え、供のものも飲むように致した。

 長門では、手元役といって、家老も手元に居てことを取り扱う役がある。
福山の阿部殿も、家老の側で物を書くもの、200石程の士がある。
左様これもあり度こと。

 脇坂家は主人の居処で客使者の取次ぎをする。
たとえば公家衆御馳走でに、この宿所へ越されたらそおの所で取次ぎ、屋敷は大門を立て出入りがない。
この外にも、留守の年は大門をたて置き置く処がある。

 林家では、その家の学風がある。
されど弟子の内で、他門の学風をしたい、却って家学をさみする(かろんじる)者もあるが、これを咎めない。
久敷門人、家来、下部に至るまで、平生厚いことはないが、困窮に及び、立ち帰るまたはなげきなどすれば、平日の無沙汰無理を咎めず、妻子とともに飢餓に及ばぬようにされた。
家の立てかた、奥表の中に用いる部屋がある。
その外に役人詰め居り、主人始め、奥表通行、その前よりならでは道がない。
小払いの金銭、器物の出入り、上台所、下台所、中間の食事、厩、足軽、中間の部屋の出口、家中の出入りの所、一目に見渡して、心扣(ひかえ)に成ることもあるが、それがそれとは見えず。
下よりは大いに気を置くことなる。
これは名高い阿部四郎五郎殿の指図で、立たせたとのよし。
今その阿部の家のこと聞き及ばず。

 丹羽家は、家中地方である。
火事の行列のおし合図があって、麾(き、さしまねく)のかわりに鞭を用いて、拍子木をならす。
隊伍の整(おさまり)り方は、見事である。
外の大名は、合図申し合わせのヶ条、鐘太鞁など持つ為、美々敷ことはさることだが、法のようにまいらぬことが多い。
これにかぎらず、事の整いは法の善悪にもあらず。
人の鍛錬にあることに極まる。

巻之19〔25〕  諸家の模範  その13

 久松両家ともに、広間に士が見えない。
客の使いあれば、何方からか広々した所へ一両人出て取次ぎをする。
備前の家中で、汁振る舞いと云う事、今にむかしのかどがある。
肴でも何にでも、珍敷(めずらしき)品をうるとき、汁を拵えて御越し候と心やすい方へ云い遣わすと、面々は膳を拵え、小さな飯櫃の上にのせ、手前にあり合わせのものなどを取り揃えて持いき、あつまって喰う。
無造作で、在番の者も度々寄り合う。これによって、古老の物語を思い出して、吸い物のおこりは、大名がたが漁猟に出て、獲物をしるにして、吸い物を下され、供の者へふるまうと、みなわり籠を持ち寄り、その鍋の辺りに行って食べたよし。
今の人は酒のときのものと心得て、小付食は古風さが残る、と云うことをしらぬ人が多い。

 加賀守殿は城下に止宿をしない。
拠らず止宿のときは野陣の格で、宿の両出口に物語宿をとり、足軽下宿で鼻紙1枚を壁に付け、武器をたてかけ、その前に股引きのまま起居する。
割宿はよき宿で、大成宿の構いがなく、押し合いの都合よい様にわり付けている。
料理などは悪敷(あしき)と、やどの者をしかること末々までない。
物音をたてることは堅き法度で、勝手に騒げば、自身にまわる。
頼んで静かにする。
その宿所で噪敷(さわがしく)すれば、即座坐に厳敷(きびしく)申し付けるよし。
弓鉄炮の者は、迎として30日程以前に上田まで参って待って居る。
軽井沢では遊女があるので宿しない。
程を見合って、軽井沢へ参り居る。
 江戸よりは、確氷(うすい、確氷川流域の山間地)の手前まで参って帰る。
 御関所は、武器を通すことは禁制によって、左様に致されるよし。
城主から出役の人へ下々迄賜物あり。
盗賊は不意のことで、第一に備え置くことになるが、領主の世話にこの様にならずと賜物はなきよし。

 松平伊賀守殿元祖は、自身で髪を結われるので、その家中今に至り、過半にみずから髪をゆう。
外では、髪結いを屋敷へ入れるのも由、あり間敷ことである。

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その14

 足利の戸田の家中では、親類は勿論、懇意の者が亡くなると葬送の見送りにいく。
格式次第、目付け役へ申し遣わすと、若党は鑓を持って各々にかす。
領分、村々に米麦を貯え置いて、貧人に春にかし、秋に取り立てる。

 尾州、両家老をはじめ、毎日の登城は羽織袴で。
それ故小身の士は裏付上下を持たず。
麻上下の次は袴の上に麻上下の肩衣を着て、継上下と申す。
若党が袴を着るのは、主人が麻上下の時ばかりで、平日は羽織ばかりである。
それもそれと申す法ではない。
小身者は、若党1人で草履もとって、先方で人になれたら坐敷の給仕をさせる。

 阿波は寛だが、国中で絹など着る者があれば押し込めて山入させる。

 越前家の松平大和守殿は、結城の名称を続(つ)ぎ、結城の先祖を祭る。
年始暑寒に家老まで直筆で諸士別条がないのを尋ねる。
家老から廻状で、諸士へ申し達する。
その礼に何れも家老の宅へ参る。
帰城のときは綿服で、諸士に逢われる。
諸士も下には絹を着る者も上に木綿を着る。
五節句には、諸士その外、玄猪(げんちょ、亥の子の祝い)嘉定(かじょう、嘉祥、日本の伝統的行事の1つ)に出る者には手自ら餅を賜う。
在府のときは、毎月1度ずつ用人は先立って役人詰所へ揃いと申せば、出られて、出やったかと申し、広間では、当番かと申す。
五節句も目見えの者へ声をかけらる。

 詰所へまわりないときは、不快の段を断り(詫びを入れ)、表向へ出給うことはない。
外へ出られるとき、供を略して、門前隣家へもならない。
先方で断りがあっても、家風だといって式のように出られる。

 奥平では、参勤交代の時節、遠路になれば、少身には難儀だろうと供する人は、大方300石以上のよし。

 酒井雅楽頭殿も、坐鎛まわり、屋鎛まわりと云うことがある。
如何様の式か、そのことは聞かない。
これもあるべきことである。
さて諸士の家では、当歳(年)でも、家督相違ない。
国持でも、左様の家は、半分ならずともないかと思われる。
凡そよいことが消えるのは末の世の習わしで、ヶ様(かよう)のことがなきことになっても、何てことはないだろう。
だが、しるしが無いと民は信じぬし、いかにしてヶ様が続いていくのをささえるか、、、憂い事になっていく。
かの家ではヶ様の政、かの家ではヶ様の風儀と兎角あることのみを記した。
雅楽頭殿家中、面々の宅では、大抵年順に坐に付く。
親戚からの書状は、その裏に返事を書くので、事のもれもない。
伊東では、書状を遣わすと云うことなく、便あれば役所から名前をかいて家中へまわし、印形をとる。
別条があるか、用事があれば、その上に書き付けて、事を弁じる。

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その15

 加賀には乞食がいない。
国中へ他国の乞食を入れない。
その故か盗賊放火人がいない。
老人90以上の者には扶持を与える。が、申し立てるのも稀である。
これは扶助ばかりで優礼のないことによるのもと思われる。
外々にもあることだが、賤しい人でも扶助のうえ優礼を加えて、その家の永きかざりになるようにありたいもの。

 松平右京殿は、道中で騎馬の人は、駕籠を吊らせず、通して馬に乗る。
乗り掛けは薩摩のように、紺の風呂敷で蒲団をつつみ、上下一統、武器に金紋を用いたと申さず。

 佐賀では、博奕禁止を重くしている。が下々は過料壱貫文である。
士は何かの僉議に及ばず改易になる、子孫まで禁錮される。
その余りの罪は命さえあれば、改易でついには帰参になりよし。
在勤のものが大病を煩うと家老などは格別、その外のものは邸中で死すことはなく、みな外宅(妾宅)をいたし、外宅金が渡る。
まことは葬送が入用になる。
大方は町家をかりて、名題ばかりに、直に駕籠で寺へ参る。
寺は下屋敷の内に禅寺がある。
何宗のものでもその内で葬送を行う。
もっとも上の入用何ほどと云うことの定式がある。
毉(医)師は諸士の下に列する。茶堂はまたその下である。

 仙台で講釈はじめに儒者は若年寄りの支配だが、その日はそのうえに着坐して、坐敷の牀(ゆか)に聖像がある。
主君は拝され坐につき、その次に講師が拝し、主君と相対され1尺ほど上に坐して、講釈を致すよし。

 長州では、春の釈奠には、長州侯が出られる。
また釈奠のあとには養老の礼がある。
国老35人、庶老35人、手廻頭、医師など相伴して、料理を給い、家老出て、庶老まで挨拶がある。
何れも綿を賜る。その日のかかりは、表用人が一切のことを引き受け勤める。
手廻りの頭は家老の次席で重い職のよし、うけたまわる。

 上杉殿の先供を手明組と申す。
米沢で御馬添と申す格の内から、式台の間と云う坐敷の庭を36貫目の石をかかえて、3返廻る役にあたりよし。
されども供先で力を出せば、致し方あるべきことになるが、しかられぬまでの首尾によし。

 大村殿家中では、加増並びに次男三男を呼び出し者は1代切りである。
されども希なる大功を立てたものは格別に由。
百姓も次男三男に家をもたせること禁制である。
但しその屋敷内に家を建て妻など取るは、何軒でも勝手次第によし。

 加賀に乞食のいない訳を承るに鰥寡(かんか)孤独(律令制において国家による救済対象とされた家族構成)、総てたべものがないものは、小屋をたて養われる。
草履、草鞋をつくらせ、年数をつみ、料物がかさなっていけば、それで相応の渡世につかせるよし。
国中のもの利売にかしこく、鏡とぎ、小間物、薬うり、遠国までまわりあるくよし。

続く

巻之19 〔25〕  諸家の模範  その16

 明和(1764~1772)の頃、秋元隼人殿は、駿府から帰られるとき、途中から家中の子どもに玄関前に出て居る用に云われた。
何れも髪を結い、衣物を着かえて、玄関前に待って居る。
駕籠から出られて、早く我等を見たい、さてさて1年の内にどれだけ成長したかなと申され、待ち受ける者も、供して参る者も、感涙を流しよし。
屋敷を替えさせられた時、先方は権勢ある人だから、この屋敷は良くない、この屋敷は良くないと云って、所替えする人なので、随分屋敷をし直した。
引き渡し、またよの人の難儀にならぬように致され、誰も誰も古い住居をはなれるは、難儀である。
1軒の屋敷替えで、幾屋敷が動いたかと申されよし。

 加賀では、出入りの町人から、金子をほどほどにかりて、利分をつけて、封のまま返される。
これを扶助を申し、急用に備えてと申される。

 何方にか、白川なりとも申す、不如意に難儀された時、百姓に才覚金も申し付けられた。
申し出通りの利子もつけて、その時かえされたら、貯えるだけの益があることを願い、貯えるほど出せば、通用自由になる。
それから手廻しよくなりよし。これは信の一字の徳である。

 堀田出羽守殿に、徒士の数が多いことがあったり、少ないことがあったり。
いかに問うと、年頃あって、家中の次男、軽いものは総領をも呼び出して、徒にする故であると云う。
数が少ないときも、それゆえに大儀(苦労)とせず、勤むるよし。

 片桐殿の領分の80以上の者には、手当あるよし。
また孝悌の者を賞させられると承る。
また毎朝諸役人に逢われ、途中で給人格以上の者が扣(ひか)えて居れば、駕籠の戸をあけ、その以下の者は籠の戸をあけずに披露致された。
何方にても左様にあられた。

 薩摩では、主君のために命を落とす者を葬る所があって、年々薩摩守殿は参詣されると承る。

 二本松では、嫡子20歳になられると扶持を与え、平士並みに奉公致させる。
父の家督をつぐときは、その扶持を隠居料に給わる。
また当主でも嫡子でも、諸芸の稽古の志があれば、3人扶持を与えて、修行致すよし。

 秋月家では、不幸あるとき酒禁制であり、客、使者等へも飯の後に盃出さず。

 この書をよみ給わる人、心得られて、これはよきことなので、強いてこのように行おうとすれば、知らぬに劣らない。
常々心得て、このようにせねば叶わぬと云う時に取り出して、それによって改め変えるならば、とてもすぐれた指南書となるだろう。

 終わり。

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