続篇  巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その1
 辛卯(天保二年、1830年か)二月、林子が書に附して一小冊を見せて「この『地震記』は、京阪の人が見せてくれた。
『夜話』の巻に加えてくれないか」と云った。

 また「この冊は八月初旬までの事を記してあるが、その後も地震が続き小さな揺れが止まらないという。
十二月廿八日はまた余程の揺れだった。
翌廿九日昼前とその夜人定頃と、両回前日に同じと、京人の書状を云って寄こした。
また賀茂季鷹が狂哥に、

                  震     優
 大変を太平にする世なほしは、家をユツたり国もユツたり(『詩』の商頌。政敷優々。言う、人神の徳政和楽である)。

『本朝地震記』     全

  この書ははじめに地震の諸説を挙げ、次に神武天皇より以来文政(1818〜1831年)まで凡そ二千五百年余りに間大地震の年月を記し、且つ文政寅年(戊寅1818年か)七月の地震の始末を記して、後世に残しておいて子孫の心得にもなる書である。

 葉月のはじめ庵の柱によって、宝暦(1751〜1764年)のいにしえの地なゐ(地震)のその名残も忘れられかけているときけば、この度もいかにやいかにやと我も人もおじ畏れたので、
わずか三十日経ってややおだやかになったのは、げに四方の海なみ豊なる大御代の御いさお(功)尊くもあるかなと、
独り言いう折、柴の戸おして客(まろうど)が来て、その一言をこの巻の冠(はじめ)にかいてよという。
つまらないただ言かも知れない。

でも乞われるままに毫(ふで)とるものは

        洛下隠士何がし誌
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続篇  巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その2 
『本朝地震記』(本文ママ) 
               平安豊時成編

夫地といふ文字、往昔は(山水土を縦に重ねる、「ち」と読む)に作る。
これは会意(かいい、漢字の六書の一つ。二つ以上の漢字を合わせて一つの字を作り、その意味を合成する漢字の構成法)である。
『史記』『漢書』に墜(ち)に作る。
震は動なり、亦怒なりともいへり。
天は動く四時を為し、地は静にして万物を養ふ。
しかりといへども、天は左に旋り、地はまた右に旋りて止まず。
譬へば、人、船中に在りて窓を閉て座すれば、其船のおのづから行をしらざるが如し。
この故にも天も動き地もまた循環して、徐々(そろそろ)動く者也といへり。
但し地の体は北を陽とし南を陰とす。
山嶽多くは北にあり。
天の体は南を陽とし北を陰とす。
故に日輪は南に行(めぐ)る。
是天地渾相聯(つらな)りし象なり。
されば古語にも、地一尺減ずれば則一尺の天を生ず。
本来無面目、南北何れの所にかあらん。
猶鶏卵の黄なるが如く、其形円満なるが故に是を地球といふ。
その周り大方は皆九万里といへり。
亦諺に六海三山一平地いへり。
是海は十分の六分、山は十分の三分、地十分の三分(ママ)、地十分の一分。
是故に(山水土、ち)をもって地の字とするは、其会たる意なり。
されば地震するものは、陽気陰の下に伏して陰気に迫り、昇る事あたはず。
於ㇾ是地裂動き震するにいたる。
これ陽気其所を失ふて陰気塡(おさ)るゝが故なり。
また地中に蜂の巣のごとき竅(あな)あり。
しかして後水潜(くぐ)り陽気常に出入す。
陰気これにて相和し、其宜を得るを常とす。
もし陽気渋滞(とどこふり)して出ることあたはず、歳月を積重るに随ひ、地脹(ふく)れ水縮(くぐ)るゆゑに井戸涸(か)れ、時候ことの外熱気なり。
これを譬はば、餅を炙るに火のために脹れ起るが如し。
将に地震ふときは、蒼天も卑(ひき)くなり、衆星も大さ倍するといへり。
これ地昇り天降るにあらず。
既に雨ふらんとするときは、山を見るに甚だ近く見るが如し。
陽気陰を伏し地を裂て天に発出するが故に、地中震動す。
これ則ち地震なり。
そのはじめ震ふもの甚だ猛烈なり。
これ地中(ちのしたの)陽気一塊に発するの證なり。
また次に震ふものは緩なり。
これ嚮(むかう)の陽気地中に残れるが少しづゝ発出の所以なり。
されば一天中の世界なれども、中華にふるひて本朝に動かず。

続篇  巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その3(本文ママ)

日本震ひて唐土また動かず。
一国中にかぎり、他国に出でず。
或は江戸静にして浪華に震ひ、大坂豊にして京都うごく。
是地中の陽にて地脹るゝと脹ざるとの故なり。
地中に凝して陽気其所より発せんとする故に、甚だしきものは地裂山崩るゝこと往々これあり。
一村にありてもそのあたりの多少あるは、是また地の堅からざるとの故なり。
凡初めて大に地震するときは、海打に泥涌(わき)上り津浪山のごとく泝(さかのぼ)る。
奥州の洪水、遠州今切など是なり。
また大地震の後、月をかさねて震ひやまざるは、いまだ陽気の出尽さざる故なり。
其甚きものは山焼出るといへり。
されば我朝往昔よりの地震を考るに、人皇の始め神武天皇より三百九十余歳を経て、孝霊帝五年乙亥のとし近江国地一夜に裂て湖となり、同時に駿河国富士山一夜の間に湧出し、豆、相、甲、武の四州震動すること夥(おびただ)しといへども、富士も琵琶湖も、神代よりあることは、既に赤人が歌、其外『万葉集』中の歌によめり。
夫より六百六十余歳を経て、人皇廿代允恭(いんぎょう)帝五年丙辰七月廿四日地震して、宮殿舎屋を破る。
其後百九十余年を経て、三十九代推古帝七年乙未四月二十七日地大に震ふ。
後七十余歳同四十代天武帝白鳳四年乙亥十一月十日地震、同十三年戊寅十月四日筑紫国地裂ること三千丈余。
其幅三丈ばかり。
此とき民屋おびただしく壊(くず)れ山岳大に崩る。
同十九年甲申十一月七日山崩て河湧て諸国舎屋寺塔破壊して人民六畜夥く死する。
此とき伊予国の温泉没してふたたび出ず。
土佐国の田畑五十余万壊(くず)れて蒼海となる。
此夜東方に鼓のごとき鳴声あり。
尤震動昼夜止まず。
此とき伊豆の嶋二ッにわれて西北に分る。
嶋山増し加ふること三百余丈。
さきに鼓のごとき響は、神此島を造りたまふ動きならんといひつたふ。

続篇 巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その4(本文ママ)
それより二十二歳を経て、同四十二代文武帝慶雲四年丁未六月五日大地震。
此とき大空に長さ八丈横三丈にて、三面鬼の形の雲現はる。
夫より三十四歳を経て、四十五代聖武帝天平十六年甲申正月七日に地震。
美濃ことに甚し。
百十三歳のゝち同五十五代文徳帝斉衡三年丙子三月八日、畿内地震して民屋を倒す。
同五十七代の帝陽成帝元慶三年己亥九月廿九日大地震。
五年ののち同五十八代光孝帝、仁和三年丁未七月晦日の夜大地震して、星隕(おつ)ること雨のごとし。
夫より五十年を経て、同六十一代朱雀帝天慶二年己亥四月二日大地震。
此とき主上は殿を去り給ひ、清寧殿の庭上に五畳の幄舎(あくのや)を建て座し給ふよし『平家物語』に見えたり。
夫より三十四年を経て、同六十四代円融院貞元元年丙子六月十八日大地震。
古今未曾有の変異にて二百余日震ふ。
夫より六十五年を経て、六十九年後朱雀帝長久二年辛巳夏大地震。
此とき洛東岡崎法勝寺八角九重の大塔倒る。後四十五年を経て白川院永保三年に建り。
夫より百三十四年を経て同八十代高倉帝安元二年丙申四月八日地震。
その音雷のごとし。
四年を経て、治承三年己亥十一月七日にも地震。
夫より九年、同八十二代後鳥羽院文治元年己巳七月九日午のとき大地震。
そのとき白川六勝寺倒る。
八角の塔は上六重はふり落す。
三十三間堂十七間が間倒る。
皇居を始め、在々神社仏閣民屋の壊る音あたかも雷のごとく、立昇る塵埃は黒烟(けむり)のごとく天をおほふて日影をみることあたはず。
山崩れ川を埋み、海をただよひ浜にひびく。
大地は稲妻のごとく裂て水湧出、磐石われて谷に転び、人民六畜死する事数を知らず。
此とき白川法王は熊野の御幸あつて、御華参らせたまふ折からにて、触穢(しょくゑ)出きにけりと、急ぎ御輿にめされ辛うじて都六条殿に還考なり、南庭に仮(かりや)を設けて御座とし給ふ。
主上は宝輿(ほうれん)に御(めし)て池に汀に御幸なる。

続篇 巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その5(本文ママ)
夫より九年を経て、建久五年甲寅閏八月廿七日地震。
又六十一歳を経て、同八十八代後深草帝正嘉元年丁巳鶴ヶ岡八幡宮震動。
七月廿三日大地震。
夫より七十四歳を経て、同九十一代伏見帝永仁元年癸巳歳四月廿三日大地震。
うたれ死する者三万余人。
三十一年ののち九十五代後醍醐帝正中元年甲子十一月十五日大地震。
此とき江州竹生嶋半分に破(われ)て湖中へ没す。
五十七年経て、一百代後円融帝南朝永和二年丙辰四月廿五日地震して、民屋を倒すことあり。
其後二十年を経て、百一代後小松帝応永九年八月、十三年正月、同十四年二月、同十七年庚寅正月廿一日、以上四ヶ度大地震。
このとき天地ともに鳴響(きょう)す。
夫より廿一年を経て、百三代後花園帝永享四年四月十一日、同九月十六日地震あり。
此ときは尤甚し。
夫より十七年経て、文安五年戌辰地震。
此年洪水流行病、猶又飢饉にて、古今の凶年なり。
夫より十五年を経て、康正元年乙亥十二月晦日地震大なり。
夫より十一年のゝち、百四代後土御門帝文正元年丙戌十二月廿九日大地震。
翌年応仁の大乱起る。
夫より廿三を経て、明応二年甲寅五月七日地震。
同四年乙卯八月鎌倉大地震。
又十四年のゝち、百五代後柏原帝永正七年庚午八月七日の夜大地震。
其後七十五日打つづき震動して猶止ず。
此とき国々堂社仏院楼閣民屋顚倒(てんたう)すること其員(かず)をしらず。
摂州天王寺石花表(いしのとりゐ)石垣壊(くづ)る。
山々崩るゝこと夥し。
同月廿七日遠州の海浜洪濤(おゝなみ)うち来り、数千の在家土地ともに海に流れ死する者一万余人。
陸地三十余町海となる。
これより今切と名付と『応仁記』に見えたり。
夫より三十七年を経て、百六代後奈良帝天文二年丙辰二月十三日夜地震。
此とき星墜(おち)て海に沈むといふ。
同十三年地震。
夫より廿八年を経て、百七代正親帝天正十三年乙酉十一月廿九日大地震。
夫より九年を経て、百八代後陽成帝文禄四年乙未七月三日どきより天卒(にはか)に曇り飈(つちかせ)しきりに吹きたり。
毛の雨をふらす事夥し。
同月十二日の夜山城、大和、近江、丹波、河内、摂津がおびただしく地震す。
伏見桃山城も所々破壊る。
其外寺社民屋山岳のくづるゝ音あたかも百千の雷のごとし。
此とき洛東大仏くづるゝ。

続篇 巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その6(本文ママ)
 夫より三十五年経て、百十代後水尾帝明正七年庚午正月七日、相州小田原大地震。また十七年を経て、後光明帝慶安元年戊子四月廿二日大地震。
同二年江戸大地震。
夫より十一年経て、百十二代後西帝寛文二年壬寅五月朔日地震して、東山豊国の廟壊る。
夫より廿二年経て、百十三代霊元帝天和三年癸亥四月五日、下野日光山、同時江戸大地震あり。
同十月大隅国地震して海陸となる。
夫より廿年を経て、百十四代東山帝元禄十六年癸未十一月廿三日関東大地震。
以後二百余日震ふといへり。
夫より三年を経て、宝永四年丁亥六月十八日、下野猿ヶ股の土手大地に入事数十丈。
同年十月四日大坂大地震。
圧死(おしじに)山をなすといふ。
此とき紀州、三州、遠州、勢州津々浦々、青き泥湧上り津浪おこりて死する者万を以てかぞふ。
同月廿二日富士山震動して近国灰ふる。
夫より十八年を経て、百十五代中御門院享保十七年九月廿六日肥前長崎昼夜八十余度震ふ。
同十一年丙午三月十九日夜、越前勝山弁慶ヶ獄震ひ、凡十八間四方岩石二ッ、二里八町の間飛(とん)で大河をせきとめ、洪水あふれ人民牛馬死する事其数をしらず。
其とき彼麓の二ヶ村三百余軒、泥の池となる。
廿五年のゝち、百十七代桃園帝宝暦元年辛未二月廿九日京都大地震。
破壊ことに夥しく、其後七月まで震といふ。
同四月廿五日越後国高田地震。
酉刻より丑の刻まで三十余度震ふ。
山岳人屋崩れて死する者壱万六千余人。
同六年大坂梅田〔墓所なり〕宝永四年に死たる者の五十年忌、緒宗より万燈供養あり。
廿一年のゝち、百十八代後桜町帝、明和三年丙戌正月廿八日奥州津軽青森の辺り、大地震にて津浪あり。
人民死する者其数をしらず。
近くは文化元年甲子三月、羽州秋田大地震。
象潟(きさかた)山崩れ死亡多し。
また文政五年壬午六月十二日京都地震。
此とき江州八幡在ことに厳きよし。
同十一年子十一月十二日朝五ッ時、越後国三条、見付、長岡、与板、和木野町等、十里計四方大地震。
其とき出火ありて横死の者三万余人、牛馬六千計、神社仏閣大厦(たいか、大きな家の意)民家其数かぞふべからずといふ。
凡往昔よりの地震猶諸国に有べけれども、只書典(ふみ)に載たるのみを記す。
日時(じつじ)若違いあらんは幸にこれを免せ。

続篇 巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その7(本文ママ)
偖(さて)今年文政十三年庚寅七月二日、朝より一天晴にあらず曇るにあらず、俗にあぶら照といへるけしきにて、
蒸炎(むしあつさ)昨日に増り凌ぎ難かりしが、
漸(ようや)く七ッの頃となればやがて暑気も少しはさるべき也のおもひ居たる折から、雷声のごとき虺々(どろどろ)と響くと等しく、夥しく地震(ちふるひ)出す。
是はいかにと衆人驚く間(ひま)もなく、引続きたる大地震見る見る家蔵の震動する事、宛(あたか)も浪のうち来るがごとく、
其上土蔵高塀、或は石燈籠、また器物道具の崩破るゝ音、千万の雷頭上におちかかるがごとく、
往来の人は大道に蹲(うづくま)り、家に有る者畳にひれ伏し、今や棟梁(むなぎうつばり)のためにうたれ死するかと胆を消し、
人々生たる心地なかりしが、甚しく震ふ事引続三度、梢暫くして少し穏になかりしかば、家毎に畳を大道へ投出し、
互に引連ね我一とこれに逃出々々誰いひ合となく、須臾(しゅゆ)の間に洛中洛外町々、家裡(いえのうち)にのこる者稀にして、
老若男女貴賤尊卑の差別なく、皆々大道に膝をつらねしは、
宝暦のむかしはいさ知らず八十年来珍らしき事なりけり〔『類聚国史』光孝天皇元慶三年八月五日地震条に曰。

此夜大地震。京師人民簾舎(イエ)自ら出て于街路(チマタニ)居ると見えたり〕。

続篇 巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その8(本文ママ)
扨(さて)京都の人家或は倒れ、また柱ゆがみ、天井おち、或は籠の壊崩(くづれ)たる尤多く、土蔵は殊更にあたり烈しく、矢庭に震崩(くづ)したる多く、其外四壁おち大輪くだけで、是がため怪我人数多あり。
凡京中の土蔵に一ヶ所として満足なるはなく、されども誰かこれを補はんといふものなく、取除かんと思ふものもなくて、只大道にひれ伏し、神仏名号をとなふ。
適(たまたま)主家または近辺の縁家の安否を訪もの、皆陣笠胸当にて奔走す。
地震は初めの如くにあらざれども、只虺(どろ)々と鳴て震ふこと須臾に数ヶ度、凡翌三日朝までに百廿余ヶ度震ふといへり。
されば此夜は家々の馬でうちんをともして大道に夜をあかす。
かくて三日の朝は空晴わたり、日光(ひのひかり)赫々(あきらか)なれば、流石大道の住居も見ぐるしとて、銘々家裡(いへ)に入て漸くわづかに其破壊をつぐなふ。
此日地震(ちふる)ふ事猶やまず、凡一時に七八度より十ヶ度づつに及ぶ。
此夕も七ッどきより同じく今宵も大道に夜をあかさんと、畳をつらね屏風を引、うへには雨覆をなし、町幅せまき所には、向ひより互に縄を張り竹をわたし、上には筵または合羽などを引覆ひ、皆々前夜のごとく夜を守る。
又恐怖の甚しきは、市中に居るは浮雲(あぶなし)とて、東山の野辺、或は鴨川原西の野へ席をかまへ、食器を運び出て難をさくる人も夥し。
此夜暁がたわづかに雨降といへども、朝にいたつて晴る。
地震ふる事少し穏なりといへど、一時に六七度におよぶ。此夜も猶大道に出るといへども、夜気感冒せん事を恐れて、前夜のごとくにはあらず。
然れども皆々端近にかたまりして、厳しからんには大道ににげ出ん用意なり。
これより日々震ふ事数少く、十四五日頃には一昼夜十五六度廿度におよぶ。

続篇  巻之58 〔1〕 『本朝地震記』林子夜話に託す

その9(本文ママ)
扨(さて)京都の人家大小とも破損せざるなければ急にその修理をなさんとすれども、大工左官はもとより、手伝人歩にいたるまで、迚(とて)も家々に当てる事かたければ、数度呼使におよべども容易に出来らず。
適々(たまたま)来るといへども、一日来れば二日来らず。
二日かゝれば五日休むがゆゑ、修理も全からず、漸々竹木材をもて仮りに突張りし、或は縄もてつなぎ置もあり。
又は一向に人歩も来らざるは、止事を得ずそのまゝになし置も多し。
これらは元来はじめは満足と見えて、人にほこりがほにいひたる蔵など、連日の震ひに追々破損し、思ひもよらず一時に崩れて、其響近隣を騒がす。
其後十七十八日両日大雨ありしに、雨湿通りて、又も土蔵くづれ傾(かたぶ)き、或は残りたる大輪落るも多し。
故に人心何となく恐怖やまず、日夜易き心もあらずして、只安全をのみ願ひしに、原(もと)より泰平の大御代、ことさら公にも諸社緒山の御祈を命じ給ふよし。
よりて七月の末つかたには、稍震の数も減じ、今八月初旬には、一昼夜にわづかに五六度となりしはいと有がたき聖代と、万人こぞつて歓をなし侍るあなかしこ。

此一帖は些(すこし)も世の弄びのためしるすにあらず。
遠国辺境にてはさまざまに風評なすが故、京都に縁者又は知己ある人々には、日夜安心をなさざるよしを聞り。
因てそのあらましを記し、猶遠境の人をして易からしめん事を願ふのみ。

終り

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