巻之八十八 〈七〉 海亀の尾

藩士○川某。年若いときに領海生月島の沖で釣りをしていた。
旭日の頃、その乗る舟の向こう五六十間に大亀が浮き出た。
見る中に沈み、またたびたび姿を見せる。その大きさ、甲羅の径り四五畳敷とも云うべく(その時見た人の魂消た様子からお察し下さい)、背の甲羅の文鮮明にした図の様に、尾毛があって赤い。日光を受けて海水に映り、いよいよその色は美しい。
亀の首の所は見分けがつかないと人に語っている。
『本草啓蒙』にある。海亀は海中に産する大亀である。
小さい物で二三尺、大きい物は丈余り。
甲羅は水亀と同じく六角の文が十三ある。
この甲羅の径り四五帖敷、背中の文は鮮明と云うのにあっている。
また尾毛のことは、同書緑毛げ亀の条に、本邦にも三五寸ばかりの大きさは、池沢流水中の、常亀と共に群遊す。
形は水亀と違わず。
ただ甲羅に黃斑があり、三寸ばかりの長さの細緑毛多く生え、水中を行くときは、甲羅の後ろになびいて尾の様である。
とすれば前に聴いたことは海中の緑毛亀か。
ただし赤毛と云えば、緑色に非ず。
今画者が描いた彩色を為すに、亀の尾毛ある物はみな、赤毛に金線が加わる。
すれば、この着色も関係あるものなのか。ちまたに聞くと、蓬莱山を亀が背負う処を描く者みな、これである。
唐土の緑毛亀は小さき物と見える。
前に四十二かんに出した、織田雲州の語った、わしも目撃した毛亀は、甲羅の背中にみな緑の毛があった。
わしは『啓蒙』にある様に認識している。
ただし、赤色金線があることはない。
『本綱』の所載はこの通り。緑毛亀は新州(これはまだ確認が出来てません🙇)の方で養殖する物で、谷川で自ら取り、水亀の中で畜す。
魚、飼うに魚、エビを以て。冬をこすに水を除けば久しく久しく毛が生える。
長さは四五寸。毛の中に金線がある。その大きさは、五銖銭のよう。他、亀も久しく養えばまた毛が生える。ただし、大きく金線はない。
『和漢三才図会』に並ぶ大抵の画工の図の亀は
、みな、長い毛があるが、緑毛の亀のよう。
本朝の望むものがある物である。蓋を久しくして畜うと毛が生える物ではなくなる。
尋常の水亀も、冬に土の中にいて、春に出るときは、甲羅に藻苔を被っている。
青緑色にして毛のよう。これを捕えて数々撫でても抜けない。
月経れば〜を例えるように、毛は落ちていくのが常のように。
だけれども、わしが目撃した物はなかなか脱毛する気配はない。
また以上の諸説を交えて考えると、海中の赤色の巨介なしと云うものではない。
思うに画家に伝わる蓬山を背負う亀は、蓋して(育てられた)赤毛の海亀が出たものだろう。

巻之四十九 〈五〉 鸛(コウノトリ)の雛

ある人が云った。
鸛(コウノトリ)が巣に雛が生じる(現代は雛が孵ると表現しますが、甲子夜話の中では巣に雛が生じると表現)時は雀の雛の餌を運ぶ。
大きい小さい様々な種類の鳥だが、何故に親しいのか。
コウノトリも雀を害さず、雀もまたコウノトリを恐るる事なしである。

巻之五十 〈六〉 庭園の山茶

わしの庭園の山茶、年々開花が多くなっている。
この春は、花が落ちて枝に一物(本文ママ)があって花のようである。
取って観ると花ではない。それで図を描いた(写真)。
またこの辺りの太田世張と云う本草家に見せたら、こう言った。
「俗に木病と云うもので、山茶、イセツバキ、むくの木、菊などにあるものです。
奇異な物です。
松の十かえりの花なども同類です」。

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巻之ニ 〈九〉 驢馬

寛政の頃、驢馬をオランダ人の官に献じて、御厩の中で畜置(かいお)かれていると聞き及んだ。この事を思い出したので、清五郎にその形状は如何にと問うと曰く。
「鹿に似てやや大きゅうございます。耳は長く壱尺ばかり。尾は枯れた様な牛尾の様です。
その余は今と違いません。蛮名をエーシルスと云います」。
わしはまた乗用かを問うた。
曰く。「その性質は鞍を受けるものではございません。だから駆け行く時は縄を首にかけて牽くのでございます。もし乗ろうとすれなら、手でその耳を取り、ただ背に跨がるだけです。それでも丈が低いので、乗り手の足が地につきます。だから足を曲げて(驢馬の)腹側につければ、体の重さが倍になるので、背負う事は不可能です。背が傾き地についてしまいます。だから乗り手の足を地につければ、袴下が抜け出てしまいますね。乗用には向かないという事ですね」。
背負う物のかさ、わずかに炭俵二つ位になるのだと。
その年、(将軍が)小金井に御狩りされる前に、お召の御馬に鹿を見せる試みとして、御馬預り共の議をした時、急に野鹿を捕獲すべきと、このエーシルスを御厩の庭に放ち、駆逐して御馬を試されたと云う。
驢馬は鹿の様に小さい事と思うべし。
その走り行くさまは、跳びながら歩く鹿に似ている。ただ遅いだけである。
その尿は薬用になるというので、馬舎の内に桶を設けて尿を取ったと。
唐画に驢馬に騎(のる)人を描いたのは、このエーシルスではないのか。
本草者流にちゃんと見るべきではないか。
またこの獣は馬舎の内に子を産したという。
牝多く、牡は少し。牽いて群れて行くには、不可能。
その声は高くて轆轤(ろくろ)の様で、甚だしく聞き苦しいと云う。
以上鶴見氏が語った。

巻之四 〈ニ五〉 狐は霊妙なる者

狐は霊妙なる者(この字が当てられています)である。
平戸城下、桜馬場という処の士が屋敷にて狐が火を燃すのを見た。
若い士どもは取囲んで追うと、人々を飛び越えて逃げ去った。
すると物が落ちる音。
これを見ると人骨の様なものがある。
みなが言うには「これは火を燃すものに違いない。
取り置けば、燃すことは出来ない。
持ち帰って屋内においておけば、必ず取りに来るだろう。
その時、生け捕りにしよう」。
示し合わせて、障子を少し開けて(狐がやって来るのを)待っていた。
果して狐は来て、伺い見るようにして、障子が開いた所から面を入れては出したりを度々繰り返した。
人々は今や入ると構えていると、遂に屋内にかけ入った。
待ち受けていた者は、障子を閉めるが閉まらない。
その間に狐は走り出た。
皆は何が起こったのかと、障子の敷居を見ると、細い竹を溝に入れ置いていた。
それ故、障子が動かず。
いつの間にか、枯れ骨も取り返されてしまった。
さきに伺っていた時に、この細竹を入れ置いたに違いない。

巻之十二 〈一九〉〈ニ〇〉茉莉花(まつりくゎ)

茉莉花(まつりくゎ)の香りをわしは甚だ愛す。
小臣を芸花家にやってこれを求めた。
朝に出て夕に帰ってきた。わしは云った。「買ってきたか」。
答えて云うには「終日回りましたが、どこにもありませんでした」。
わしは云った。「今どき世間では出回っているだろうに。なぜないのだね」。
小臣は「祭礼花と云って探しました。何処の芸花にみなないのです」。
わしは一笑した。

 続きの話       〈ニ〇〉 
この事を蕉軒林叟に語ると、拍掌開口して云った。
「この花はエンブ(花の名前と思われるが不明)の前に既に舶来している。
島津家より照后に献った目録各品の内、平仮名でまり花と書いている、これですよ。
また、ふそう花もあります。仏桑花です。このごろは至治(中国、元の元号。天下がきわめてよく治まること)でもあるまいに、この様なキハイキ(奇花異キ、日本語に相当する花が見当たらず、exotic flowerのことらしい)が早くも舶来したんですよ」との話である。
その進上(差し上げる)目録は島津家の旧記で見たとのこと。

巻之十八 〈ニ九〉 空を翔ける孔雀

孔雀は処々で飼われているけれど、その飛ぶのを見た者はいない。
わしが城にいるとき、庭籠で養っていたが、掃除夫が誤って籠を開けたら、雄が出た。
あれあれと云う中に、飛び上がり空を翔けること雲に及ぶ様な、最も高く行くのは平らかである。
夕焼けを渡り外域に到ると
その尾を曳くの仰ぎ見ると、孔雀を凧にしつらえたと違わず。
『本草綱目』に、孔雀はコウシ(中国の都市)、雷羅の諸州に甚だ多い。
高山の高い木に生まれる。また数十羽で群れて飛び、丘に遊び棲む。
雨が降れば、尾が重くなるので、高く飛ぶことが出来なくなり、南の人はこれを捕る。
これ等の文を、読み過ごす人は多いだろうが、飛んでいる所を見る者はあるまいよ。

巻之十九 〈ニ四〉 夏の鳥は冬は蟄する

先年稲垣老侯が話すには、野州宇都宮で厳冬雪折れの巨木に大きなうろ穴があった。
その中から、鳥が羽を縮め嘴を閉じたものが十余り出た。
よく見ると、みな杜鵑(ホトトギス)だった。
冬は蟄して、この様になったと聞いた。
近頃このことを話に出したら、ある人が云うには、京の田舎で、何れかの山中で鳥が凍えたのを木のうろから得たと。
それで持ち帰ったが、忘れて棚の上に上げ置いた。
それから春になって棚から飛び去った。
この時、以前のことを思い出して驚いたということだ。
この様に夏の鳥は冬は蟄するものなんだな。

続篇 巻之三十一 〈二〉 ぜにがめ

わしの幼児(息子、肥州)が、亀の卵を持ってきた。
見ると白色で鳩の卵の様だった。
四五日して殻を割って亀が生まれた。
大きさは銭の様だった。
その腹の甲に三四寸の臍帯(ヘソノオ)がある。
色白で細い縄の様。日を経て落ちた。
虫介類も卵の中に胞(エナ)があって産後に臍帯があるのが奇である。
『本草啓蒙』にある。水亀は春に陸に出て、沙土を掘ること六寸ばかり。
卵をその中に生じて土をかける。
八月中旬に至り孵化する。
大きさ銭の様。
これをぜにがめと云う。
薬用の亀甲は腹版である」と見える。
幼児が得たのも、八月中旬のことである。臍帯は腹版甲文の際より生じている。
林が云った。
佐野肥州〈大目付〉の庭に小池があって、年々に亀雛(本文ママ、亀の子ども)を生じる。
その卵をなして土をかぶせてから孵化に至る日数は、必ず七十二日である。
しばしば試みるが違わずと云うこと。七十二の数は、あたかも真理に叶う。肥州は知らずに試みて、暗にその数に合致する。
もっとも奇である。

続篇 巻之七十七 〈三〉 うみうそ

平戸のある画工が描いた一図を示す。
写真の図は天保三辰正月の初、平戸城のきたの釜田浦横島と云う処で捕らえた。
海獣である。
生魚を食べて死魚は食べない。
けれども飢えていると、死魚も食べる。人はその名を知らない。
ある人が云うには。
水豹だろう。漁師はこれを売って、金四両に替えたと。
後、ある本草家に質をして、その意を得たという。
詳しくは以下の通り。
このケモノ、その顔面は鹿に似ていてどう猛ではない。
色は灰黒色である。毛は長くない。つみげ(動物の毛の長さをそろえて、袋などに作る)は、柔らかい。
ひれ肉に毛がある。
大筋は五条あって、人の手の様に屈曲する。その五筋の先に小爪がある。
陸を歩む時、このひれを手の様にしてよく走る。
その尾ひれ、また足の様にして走る。
その尾ひれもまた前ひれの様に五筋あって、左右に分かれて付いている。その中央に小さな尾がある。
生魚を取って食べるは、海中に死魚がないということ。
だから生魚を好む。

漢名 海獺(ウミウソ)    和名うみをそ

このうみをそと云うものに二種ある。
気褐色のものを『とど』と云う。
佐州(佐渡)はとどの島が最多い。
灰黒色のものを『あしか』と云う。
相州(相模)はあしかの島が多い。
二種共によく眠ることを好む。
国によって黃褐色のものをも、あしかと云う処がある。
その大きいものは、一丈(3㍍)位に至るものがいる。
その肉は煎って油をしぼる。油が多い。また味噌漬けにして炙って食べる。
『本草』にある。
大獺、海獺と云うも同じものである。

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続篇 巻之十六 〈一一〉 片爪の小蟹

小蟹片爪のものあり(参照・写真)
下の写真を参照。
肥州(静山公のご子息)戊子西征の書簡に、備後国尾道から福地へ越える路がある。
この辺りの塩場(シオハマ)は砂土の中に著しく小蟹がいる。
〈この塩場は潮満ちれば海に、潮去れば砂土となる〉。
その爪は一つは大きく、一つは小さい。
一蟹に一穴、他と混ざることはない。
人の足音の響きがあれば、たちまち穴に入る。珍しいと図を贈ってきた。
五月廿四日。
また云う。この蟹が出る穴を測ると一ニ寸。
走り入るのにかつて自他と違うことはない。
蟹の大きさ図の如し。
この図は大きなるものである。
またやや小さくて多くいる。
穴に入るときはみな大爪の方から入る。
また稀には左爪が大きなものがいる。総て淡灰色と云う。
『本草啓蒙』な云う。
播州ユウダチガニは、海浜潮水が引いたあとの砂上に穴が多い。
蟹はその傍らに居る。
人の声を聞くと速やかに走り穴に潜れる。
甲羅は方(四角)で、上広く、下狭く、色は黒い。一螯(ハサミ)は大きく、色は白く、後の一螯は小さい。
小螯は食をとり、大螯は物を防ぐ。
穴に隠れるとき、小の方から入る。左が大きく、右小さいものがある。
また右が大きく左が小さいものがある。
雌雄の別であろうか。大きいものの甲羅の大きさはニ三寸。
上のものは、肥州が見たものと同じである。
播州、尾州は近いからこそである。
だが、爪の大小や穴に入るのは同じでない。
『啓蒙』また云う。
「備前クソガニは、形は石蟹に似ていて、一寸ばかり。甲羅は、方(四角)でやや横に広く、やや凹で中に一条の凸がある。赤黒色。その螯は甚だ赤く、左が大きく、右は小さい」。
これもまた近場にいる。
けれど同じものでなく、同種のものである。
『本草集解』曰く。
「一螯は大きく、一螯は小さいものは擁剣(剣をかかえるの意味)と名する。一つは桀歩(荒々しく歩くの意味)と名する。常に大きい方の螯で闘う。小さい螯は食に使う」。
この蟹は小さいものだが、似ているものがある。

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三篇 巻之十七 〈一〉 エンビ、スッコンコウなど蝦の呼び名について

難波の蘆(アシ)は伊勢の浜荻(ハマヲギ)で一物異名である。
大村は肥前国でわしの隣邑である。
ここの里俗で、小児の輩は、手のついた小籠を『エンビ』と云う。
または『スッコンコウ』とも呼ぶ。
つまり全く同じ物である。
その元を尋ねると、はじめは川中の小鰕(コエビ)を捕る籠である。
今『エンビ』と云うのは、鰕を訛ったいい方。
また『スッコンコウ』は、漉来(スクイコウ)である。
原(モト)は、この器で鰕を漉い来う(スクイコウ)と云ったのを小児の輩は『エンビ』と片言し、或いは省いて『スッコン』とも言うのを、言を引いて『スッコンコウ』と畳呼びしたのだろう。
事物は末より見ると、まあ、こんなことだろう。

巻之一 24 忠義の狐物語り

これは昔のことぞ。
正(まさ)しく物語といえる。
羽州秋田に何か狐がおった。
人によくなれてね、またよく走んだよ。
そいで秋田侯の身内の人が文を狐に託したんだね。
首にまとったら、江戸に行くんだよ。
速っこくて、またよく役に立ってくれたんだわ。
ある時、パタッと文が来なくなったの。
人々はどしたんだろうねって、探したの。
探して探したの。
大雪に傷ついたらしくて、雪に埋もれていたんだと。
普の陸機の犬の故事に似てんだわ。

(注)陸機の犬: 中国三国時代の後の普の時代に、陸遜の孫の陸機がかわいがっていた犬の話し。遠い所に犬が手紙を届けたりしたという。

巻之三 〈3〉 ちゃぼ

岸和田の岡部氏。
今より三四代前の主人は殊の外鶏を好み、数百番を畜産していた。
その中から羽毛が違う種が往々出てきた。
世にいう浅黄チャボである。
さん(黲:黒に参と書き、暗い太陽色)素色はその家から新たに出た種だという。
別に一種を出して、今はどこにもあるものになった。

続篇 巻之七十七 〈12〉 いたいけなる山雀、瓢箪に舎(やど)る

狂言の小舞の歌(欠なしのうた)に、いたいけ(いじらしい)したる者あり。
はりこの顔なぬりちご、しゆくし(宿紙〜1度文字を書いた紙をすき直した紙)や結びに、笹結び、山科結びに、風車、瓢箪に舎(やど)る山雀、くるみにふける友鳥、とらまだらの狗(いぬ)ころ、起きあがり小法師、振鼓、手まりやをどる、八小弓』
この中、わかり難い物があるが、それはさておき、瓢箪に舎る山雀と云うことにわきは思い合わせることがある。

先年、城にいたときに、領分の辺邑の早岐(はいき、現在佐世保市早岐町)と云う所を巡見したが、この里は陶器を作る者が住み、陶工の頭は今村某という。

住所は山家なので幽深であるが、家屋も手広く、庭も好く造り為して奇観である。築山は自然の山で芝生は愛すべき。
諸木も所々にある中、梅の古樹の一株が横だわり、枝もあらわになって、瓢箪に緒をつけて下げている。

わしは、不思議に思い、主人を呼んで、「あの遠くに下げた瓢箪は何なのか」と尋ねた。
「あれはこの様に置いて置きますと、山雀が来て、かの中に住むのでございます」。

わしはまた「さらば、自分から来るのか」と云うと、「勿論、迎えるのではなく、住処といたしました」と云う。
されば、昔の俗にはこの様な事も有るだろう。
なるほど、いじらしい者(本文ママ)の中に加えても、然るべき風情である。


※早岐の近くに、佐世保市三川内町があり、ここは三川内焼の窯がある。
三川内焼は、元々は平戸焼だった。
佐世保市の針尾島の網代陶石と肥後天草陶石で焼いた白磁に藍色の絵付け。
いわゆる唐子の模様が有名。
縁には高麗の高の字を模様にしている。
豊臣秀吉が朝鮮の役後に朝鮮の陶工を連れ帰った。
慶長3年(1598年)、巨関という陶工が帰化して、今村姓を名乗るようになった。
平戸島中野村の中野焼が三川内焼になった。

続篇 巻之四 〈6〉 狡猾な猿

小臣が話す。
平戸の市中に少数の猿がいたという。
何れから来るのか誰も知らなかった。
家々を徘徊しては食べ物を欲しがった。
人はそのあさましさを憐れみ、果実を投げ与えた。

猿は徐々に人を判別していった。
ある日何者かが与えた一銭を持ってきて店頭に置いて、自分で小餅と換えて、去っていった。人みな感笑した。

ある日また一銭を持ってきて、餅と換えて食ったが、甘(うま)くなかったのだろう、半分食って餅を放って、かの銭を取り去っていった。人はまた笑った。


※甘いは、『うまい』の意味も含んでいたのでしょうか。今より味覚は大まかだったのでは、と思いますが。

三篇 巻之ニ十九 〈3〉 一聯(いちれん)の珍名

蕉軒(儒学者林述斎、明和5、1768〜天保,12,1841)曰く。
日頃松江侯〈雲州、松平出羽守、松平齊恒、寛政3,1791〜文政5、1822だと思われる〉が参勤して、土産として国製の紙に海鮮を添えて贈る。
その使いの名氏。佐佐佐佐(サッササスケ)。
珍しい字称である。
羽州(松平出羽守)が云う。
これは苗字からして起こった名であろう。
能(よく)も思い重ねた物語である。
今の羽州は、林門である。
静(静山、自分)は、それで云った。
「この四字一聯(いちれん、詩の一節)の名は、わしの少年の頃から聞き覚えている。
ならば、この者一代の名ではないだろうな」.

巻之五十 〈2〉 渡り鳥が稲を銜んで来る

行智(江戸時代後期の山伏、梵学学者、宝永7.1778〜天保12.1841)が屋代太郎(屋代弘賢、江戸幕府御家人、宝暦8.1758〜天保12.1841)から得たと稲穂を持ってきた。
その図は写真参照。
これは奥州会津のあたりに鶴が銜(ふく、くわえるの意味)んで来ると云う。
米粒はことに長い。
何と云う稲で何れの国の産なのだろうか。

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わしの領国壱岐にも、鶴がわたって来るときは、間々朝鮮人参を銜んで来ることがあって人がこれを拾う。


※渡り鳥が、何か銜えて来るのは、初めて知りました。銜えるを銜(ふく)むという使い方も初めてでした。

巻之ニ十一 〈27〉 他国から連れ帰った鳥、二種

わしは毎年肥筑間を行き来する。
それで佐嘉(さが)から神崎(かんざき)の間に珍しい鳥がいる。
これより外の地ではまず見られない。
そのくちばしは尖り、頭は小さく、尾も首も長く共に黒く、翼と背に白色がある。
鳩よりは余程大きく、鴉(カラス)より小さい。
全体は鴉に似ている。
俗にいう肥前ガラスである。
これは他国にいないゆえの名である。
或いはかちガラスという。
これは群行と鳴き声によって名付けられた。

昔佐嘉の領主が朝鮮で捕獲して領地に放ち、後自然に増えていった。
これは土俗の伝聞である。
ある人曰く。「これは漢土の鵲である。我が邦国でカササギと名付けたのは、黒白斑(まだら)になっているので、からすさぎと云う」と聞いた。

百人一首家持卿の歌に鵲のことを云う講説の秘訓になるという〈『校舎余録』〉。
またわしの領地にも多久島(現在、度島)と云う二里に足らない島の城地の近くに、これに異種の雉がいる。
土人は、高麗雉と呼ぶ。
これも祖先宗静公〈式部卿法印、松浦鎮信、松浦26代、天文18.1549〜慶長19.1614〉が朝鮮の帰りにかの島に放たれたものと云う。
因んでその様に呼ぶ。
この雉も領分の中、余所にはなく、唯かの島にのみいる。
また他に於いても稀に飼うものを見ると、基本を聞くと、みなかの島産と伝息したものであるという。

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