巻之四十ニ 一三 鶴亀の図

「余録」に記す。

鶴亀の図に、亀の尾が蓑の様なことが多い。

絵描きの創作かと思うとそうでもない。

昨春、江戸に居る時、織田雲州(丹波柏原の主2万石)と語った。

曰く。

わしが東に上がる時、遠州金谷に泊まった。

その夕刻、宿を出て、近辺を歩いた。

山の麓の沢に亀が多くいて、みな毛が生えているのだ。

これを捕り瓶に入れて、江戸屋敷に連れ帰ると、みなつつがない様子である。

因って、(雲州に)見てくれないかと請うた。

雲州に1匹贈ると、即座にその姿を写した。

「本草」に緑毛亀とあるのもなるほどと思う。

毛は青色である。また常に描く者は、毛を甲羅の下より描く。

今見ているものは、背面よりみな生えている。

世に出回っている絵とは似ていない(寛政5年に記す)。


藻亀

藻が着いた亀

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巻之16 〔2〕 鶴の子育て

6月のはじめに、永井の飛州(飛騨屋敷)に行くと庭に2羽の鶴を飼っているという。

この庭籠(にわこ)の中にて卵を産むのかと聞いた。

もちろんと答えが返ってきた。

どうやって巣を成すのかと又聞いた。

巣をなそうとする前に、藁を馬の敷き藁のように入れておけば、これを地面にひき散らしてその株を設けたようになる。

その中に卵を産む、ただ2つだけなと答えが返った。

この2つは必ず雌雄だとも。

夫と妻はかわるがわる卵を温め、必ず嘴を使い卵を転ばして、違ったことがあればただして巣にもどす。

これははなはだ厳格にやっている。

また親鳥は雨に逢おうとも、雨を避けずに動かない。

世にいう鶴の巣籠りというが、木の上で巣を成して子を育てるのと変わらぬ。

飛騨はまた言った。

この鳥の水辺での様子をみていると、汀より水中に動く時、足が(長いので)水底に届く間は歩くが深くなると水に身体を浮かせて動く。

向こうの汀に至っては、足が底に届くようになると、最初に汀にいたごとくである。

珍しい話であった。


当時の鳥に対する認識が今と違うのでしょうか。そんな印象を受けました。

続編 巻之25 〔14〕 カマキリと蜂の巣

小虫も知恵深いものである。

平戸にて真壁の某が庭木に熊蜂が巣を作ったのを見つけた(普通の蜂より特に大きく、巣の形はまりの様に大きい。

木屑で造られ、小穴を設けて出入りしている。

勢いよくぶつかることはないが。

ある日カマキリがこの巣に留まり穴の傍にいて様子をうかがっている。

蜂が出入りする度に捕らえ食べている。

日が連なると蜂を食べ尽くし、穴の中に入り、白子を食べ、蜂の種はことごとく尽きてしまった。

巻之88 [8] エソという魚漁

城(平戸城と思われる)の東の方4里、川原の辺りに田浦という処がある。

ここの漁師が8月下旬から10月上旬にかけてエソという魚を釣っている。

ここは馬渡嶋の並びにあり、大嶋の前にある。

この海の深さは7、80尋ほど(1尋は大人が両手を一杯に広げた長さ)。

漁師は釣り糸2筋を用いる(筋は細長いものを使う時に添える言葉)。

この作業の始まりは、安永(17721781)のはじめ淡路の人がここに来ていて、教えたとのこと。

後々、このやり方に慣れて、今は利益を得ている「余録」、寛政3年より。

巻之六十三 一 蚊トンボ

蕉亭の文通に小虫を包み添えて、これは駿府の人から贈られましたので、ご覧下さいと云っている。

写し図にした。

文にこうある。

俗に「蚊トンボ」という虫とのこと。

この虫は慶安(16481652)のころより見られるようになった訳は、由比正雪の亡霊などと云っている。

水辺に生息している。

黄昏時に百千万が群れて飛んでいる。

かといって何も害はなく、女児ら取る者がいるが毒もない。

曇り空の夕景にとくに多くいる。暑い時は絶えた様に見られない。

この蚊トンボは巻之29に記した様な江州守山の蚊より少ない。

また慶安の頃より現れたと云うが、同巻に記す本庄の地に45年前より鷺立ち(鷺が立っている様な姿の)蚊 もあるがただの蚊であるべし。

ただ正雪の亡霊とこじつけるのはどうかと思うが。

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巻之四十八 八 鷺の産卵や亀の産卵の話し

林翁話す。

時鳥は自ら巣をつくることなく、鶯の巣に卵を産し、鶯に暖めさせて雛になるのはよく知られている。

この頃聞いたが、鷺もその様に巣を持たず、鵜の巣に卵を産んで鵜に返さすると。

これは初耳だった。

又話す。

久留米候の高輪の別業(別荘)に招かれて行ったが、その園に丹頂鶴が卵を暖めていた。

去年(孵った)ヒナもいた。

そこの人に聞いたが、年々1組ずつ雛が孵るのだと。

日数はどの位かかるのかと問うと、36日目には必ず孵るのだと云う。

また先年、ある人が園地で亀を養っていた。

年々子を産する。

その親亀の地に穴を掘って卵を産してからおよそ75日で孵り、小亀となっていくのを度々見た、と。

ふと鶴の36日孵化を思い起こした。

亀は72日であるべし。地中の事だから、人目につくのに23日は遅れるんじゃないだろうか。

6は老陰の数だから、6636。これを倍すれば、72だ。自然とこの数に合うこと、奇跡と云うべきだ。


老陰〜周益では6の倍数。

巻之十一 一ニ 角を持つ馬

馬角は典故(典拠となる故事)には聞くが、実際に見たとは聞かない。

近頃弘前候の領内に角を持つ馬が産まれたと聞いた。

図は下記の通り。

柏木組夕貌関村の百姓長四郎所有の駒で、3歳の鹿毛。

左の耳に長さ1寸丸9分位の角が生え、図の様に曲がり黒くかたい。

ただし根本の方はやわらかく、又右の方にも生えている角が見える。

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巻之一 ニ四 忠義の狐の話し

これは昔のこと。物語とも云えるだろうか。羽州秋田に何とかという狐がおり、人に馴れ、またよく走る。だから秋田侯の内で、書信がある度にその、狐の首に手紙をまとわせて江戸までやっていたのだという。しばしばその素速い獣の力を借りた。ところが、ある時書信がつかないという。はなはだ疑い訝った家人がその行方を探し求めると、途中大雪に逢い傷ついたと見えて雪中に埋もれていたという。



普の陸機(261303。儒学の教養を身につけ、礼に外れる後遺はしなかった、ウィキより)の犬の故事に類する話である。

巻之四十九 ニ三 赤犬

時々浅草の上屋敷を往来するが、門前に赤毛の犬が常にいる。

これは邸内で産まれた。これを見るにつけ、昔を思い出す。

亡き父がまだ領主でない頃、現在住処にしている本庄の荘に居られた時に御居間の床下に犬が子を産んだ。

毛色は全身赤。

父はこれを愛されたが、長ずるに及び、とても勇敢、他の犬に対して一歩も引けをとらない。

わしはまだ9つか10だったが、今だによく記憶している。

その犬は小ぶりながら、常にゆったり歩き、取り立ててこれと云った所はない様だが、いざ闘いになると、未だかつて負けて逃げたことはなし。

父がどこかへ赴かれる時は、必ずカゴについてそっと歩いていくのだ。

騎馬の時は馬の前を歩いた。

だんだんとこの赤犬が知られる様になると、世間はこれを松浦候の赤毛と呼ぶようになった。

行く先々で出会う犬は、みなおとなしくなり、遠吠えしなかった。人々は不思議がった。

また当時は今かかっている大川橋がないので、本庄に行く者はみな、竹町、御厩の渡りをわたった。

だからこの頃の諸侯は輿乗りの者や槍馬を従える者たちを率いて船を渡した。

子どものわしが、川辺で釣りをしていた時のこと。

その折、さき記した船の渡りに出逢った。

赤犬もついて行こうとしていた。

父はカゴ脇の者に命じて赤犬をおい払おうとした。

赤犬は水際に伏せていたが、船が発するとみると、即水に飛び込み遊泳して船に沿うた。

見ていた者はみな感動せずにはいられなかった。

明和八年秋、父は逝去され、天祥寺に葬り奉る時も葬列に従った。

それからと云うもの、毎日父公の墓そばに伏せていたことが多々あった。

その翌年、本庄の荘にて、赤犬は遂に倒れた。

続編 巻之21 〔6〕 起用な四国の猿

四国の猿は肥前のより小さくて舞や技をよく覚える。
こんな猿をどうやって捕まえるか。
こんな風。鍵付き戸棚を作る。
それを多く猿のいる山奥に持っていく。
猿が遠巻きに見る前でこうやる。
戸棚に食物を入れといて、人が鍵を開けて中に入り食物を食べる。そして扉を閉める。
後、猿は人を真似る。
不器用な猿は扉を閉めないから、人来れば、たちまち山に逃げていく。
器用な猿は人が来れば、わざと扉を閉める。
戸棚はからくりがあるので、扉は開かない。ついに人に捕らえられる。
これって、猿に知恵があるのかないのか。
いわゆる猿知恵か。

巻之五十六 一七 ラクダの呼び方

前に駱駝(ラクダ)がやって来たことを記した。今では市中でもよく知られるようになった。
前回、享和(1801〜1804)には見た者がなかった。だから多くの者が見て、珍しいと云ったものだった 。
この程燕席亭である人が云った。ずっと昔、この獣が日本へやって来た、という。
そこで「国史」を紐解いた。推古天皇の七年秋の九月癸亥(みずのと)1日、百済から駱駝(ラクダノウマ)一疋、驢(ウサギウマと読む、ロバのこと)一疋、羊二頭、白雉ひと番(つがい)の貢物としてやって来た。今、一千二百二十六年であるが、世間が珍しがったのは尤もである。また「和名抄」もこのことを伝えている。良久太乃宇万(らくだのうま)と和名が記してある。

巻之九 ニ四 駱駝(らくだ)

この三月両国橋を渡ろうとしたら路傍に見世物の看板が出ていた。
駱駝(ラクダ)の容貌をしている。
また板刻にしてその状態を印刷して売っている。曰く。
亜刺比亜(アラビア)国中、墨加(メカ)之産で丈九尺五寸(2.85 ㍍)、長さ一丈五尺(4.5㍍)、足は三つに折れる。
わしが、人を通して質問したことに対し答えた。
「これは去年長崎に渡来した駱駝の風にしていて、本物はやがて御当地にやって来るから」と言っている。
よって、明日人を遣わして見せるのに、作り物ではあるが、その状態を図にして帰った。
  図を見ると恐らく本物を模して作ったものではない。
「漢書」西域伝の師古の註に言う所は背の上の肉鞍は土を封じたように高く盛り上がっている。
俗に牛封じと呼ぶ。
ある者曰く。駝状の馬に似て、頭は羊に似る。長くて程よく垂れた耳、身体は蒼褐黃紫の数色である。
この駝形には肉鞍が高い風でもなく、その形も板刻の言う所と合わない。
前に駝の事を言ったが、それはちゃんと(駱駝の特徴を)表している。


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続編 巻之22 〔15〕 豹

この(己丑)正月、平戸からの便りによると、平戸嶋田助浦では、対馬人が生きた虎をつれて来たのを城の外門に呼んで見たという。
図も描かせたという。
図。この虎の来歴を聞き書きした。
一。文政九年戌の秋の頃、朝鮮国慶尚道かや山という山で、野焼きの火があやまって焼ける中に、虎が乳児ニ疋連れて、火を嫌ってあわてふためき廻るのを猟師四、五人でうちとめた。
その子ら二疋を捕まえたが、その国においても虎(図をみるとまるで豹のようだが)を生け捕りは珍しく、対馬に知らせると、町人らが買い取り、上方、江戸筋、各地で見せ物として持ち回りたいと願った。
対馬から公儀に伺いが成立した。
まず九州筋からだと苦しくなかろうと、昨秋、筑州、肥州、長崎辺りを周った。
加島へ向かうとき、一疋の子が餌に当たり死んだため、対馬へ立ち寄り、なおまた当月四日に対馬を出帆した。
壱岐の勝本てはしばらく滞留して、十一日、平戸田助浦に着用船した。
これから小倉へ向かう心づもりのよう。薩摩、大隅、日向筋はまだ廻るとは申さず。また伺い
相済次第で上方筋へ参り申すとのこと。
一. 豹の毛色に見えるが、飼い主がいうには虎とのみ云う。
あるいは虎豹の間の悪虎と云うものらしい(この飼い主の言い方は愚である。また虎豹の間に開く悪虎があるとは、俗説である)。

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一。背の渡り2尺七、八寸(81〜84㌢)ばかり。
首一尺(30㌢)あまり、尾ニ尺七、八寸(81〜84㌢)ばかり。
高さニ尺ニ、三寸(66〜69㌢)ばかりある。
大きな虎の一体は、体のわたり一間半ばかりあればよい。
これはまだ三歳でとくに籠の中で育てるので、長さを大きくせざるを得ない。
一。子を得るときは、猫ほどの大きさなので膝の上で飼い育てるとよい。
一。声は、ヲヲンウウンとだけ鳴いて、犬のうめきに似ている。
時に高い声を出し、物凄く、真似が出来ないほど(虎は詩文に多い。豹の鳴き声など書きつけたものはなし)
一。餌は鳥獣を専ら食う。脂身の少ない魚類を食うが、腹に当たるとよくない。
他の獣、猫は似ている為かくい殺しはするが、しっかり食わず。
犬は好物である。穀類は全く食わず。鶏の餌ぶくろなど穀類あるが、残して食わず。
野菜、芋、大根類も食わず。普段は一日に鶏の三羽ばかり食すると飽かないのか、先ず足りているようだ。
飽くまで食すると、至って静かに眠る。また食が足りないと、うろうろ廻り、食をあさる。
一。餌を与えるとき、鶏は毛を抜き、三つに切り分ける。
獣もこの様に、切って食わせる。
生で与えると、己れの毛をそり食するが、籠の中を汚すので、料理(切り分けて)して与える。
鳥獣の骨を噛み砕くことは、例えるなら人が煎餅を噛むようにして、歯にも当たらぬ感じである。

一。雌雄の区別は不明。よく観察をすることを嫌うので、男のようだが、飼い主も確かではない。
一。世の人は虎は雄だから、豹は雌ではないかと言っている。
飼い主は虎にも雌雄があるし、豹にも雌雄があると言っている(飼い主の言葉である。前説は違う。そのまま受け取らぬ様に、虎は雄、豹は雌と云う説)。
一。蝿蚊🦟ともに近寄らぬ。
一。両便とも場所が決まっている。正しくしている。
一。 築州で大守が見たところ、竹のやらい(竹を組み合わせた囲い)を結って、その中に虎の子を二疋放し、餌を生のまま与えられると、ニ疋は餌を争い取る有り様で、たけく鋭く目を覚ます。
一疋の虎が餌に手を付け、魁をすると、一疋は退き、やらいの隅におり、神妙に心を清くした様子は、こと獣の中でもすぐれている。
一。眼は丸く、形が変わる事はない。
一。飛び上がるのに、四、五間もあればよい。一。
今、一疋が加島で死んだのは、黄色に黒い星があって、中に穴がないとの事。
この度、つれて来たのは、黒い輪の模様の中に穴がある。
一。朝鮮の人の言葉に反応すると飼い主が言っている。
一。籠の高さは三尺余り、長さ一間余り、横三尺ばかり。
一。この度周防船に乗って行くとの事。
飼い主は五人ともみな対馬の人である。
文政十一年子十ニ月、対馬より町人らは、虎の子一疋を籠に入れてつれて来るのは、よく問い(話をよく)聞いて、虚実を弁じず、言うままにこれを記した。
    十ニがった十五日
追加
ある人が言うには。この獣が筑前に至るとき、かの城下にて、見物人の中に芸妓がいた。
籠に近寄り中を覗き、虎は手を出して、この婦人の髷を掴んだ。
婦人は怖れて、頭を引いたが虎は引かなかった。
とうとう頭髪はみな切れて激しくになってしまった。危ない事ではあるが、また可笑しいことである。


巻之六十一 五 三嶋小女郎という魚

林子の文に駿府御城内勤番の人からいって来たという。
魚の頭を切った図であるが。。。
俗に三嶋小女郎という魚は、形が河豚に似ていて、味は平たく(深みがないことか?)、無毒の魚である。
一枚目(写真)の魚の中にも二枚目の様に菊の花葉状態かどうかは漁師はまだ見たことがないからわからないと云ったとのこと。
かくのごとく、満身紋がある。
魚中の奇品だと。
魚店では、半ペン、蒲鉾などにするのだと。
漢名はわからない。
はぜの大きさ形で、河豚の様に滑らかな皮膚ではない(※ショウサイフグは滑らかだが、滑らかでない河豚も存在してる)。ホウボウの様な皮膚だという。
甲州の竹には菱の紋がある。
元は信玄の領地だからという。
梶原山の篠は歯切れている。
昔、馬が喰ったからという。
ならば、この魚は今川の故地だから、かく菊の紋があるといい伝えるのだと。


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巻之八〈一四〉 駱駝(らくだ)の図

昨年、オランダ船が駱駝を乗せて長崎にやって来た。
それより「東にも来るだろうよ」と人々は話していたが、ついに来なかった。
先年、某の候の邸に集まった時に、画工某がその図をわしに見せてくれた。
今古い紙の中から見つけたので記した。
図に少し文を添えて云うには。
「享和三癸亥七月長崎沖へ渡来したアメリカ人十ニ人、ジャワ人九十四人、乗組の船積み乗せ候馬の図である。
前足は三節である。爪まで毛に覆われている。
高さ九尺(2,727㍍)長さ三間(5,455㍍)というその船は交易を請うが、禁制な国なので許されず還された。
これは正しくは駱駝(らくだ)である。この度、再度渡来した」。


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巻之八十七 〈ニ〉 カラスの反哺(はんぽ)

前に領内安満岳の番(つがい)のカラスのことを記した。
後『寛政東行筆記』(静山作)にある変わった話題を挙げてみる。
このカラスのつがいの生来を知るものはいない。
山の住持憲明がいう。
カラスの反哺(はんぽ、烏に反哺の孝あり。親に養育の恩を返すこと)の項では、神様の祠の前の石の鳥居の辺りに集まって、鳴き合う。
その声は別れを惜しむかの様である、と記してある。
与えられる餌は神仏の供物の残り物である。
時に鬼に薦める物(柊や鰯か?)を混ぜると、喰わずに去っていく。
山を登る人がカラスを呼び出すのに、小石を拾って叩くと必ず飛んできて樹間で鳴いている。
また『市井雑談集』をよると、紀州高野奥の院に御供の余を与えている一双のカラスがいる。
もし一山に凶事があれば来ない。
寛永元年(スペイン船来航禁止か?)このカラスが来ないことがあった。
その時、来迎院の良昌法印が詠じた。
蔭ふかきねぐらにかへれ山鴉(やまがらす)
       声をしるべの朝な夕ばみ
この歌が詠じられると、カラスが飛び来て、餌を喰っていく。
なかなか来ない時に、再びこの歌を詠じるとしばらくしてやって来る。
追記 この歌のことが少しわからない。
どうして(カラスが)感応するのだろう

続 巻之ニ十五 〈一0〉 ムツゴロウ

孫啓が西帰りの途中で見たと描いた物を肥州(静山さまのご子息)より和州(不明)に送り、わしに転送した。
ムツゴロウ(魚の名-欄外注記)、肥前国白石浜にいる魚である。
よそへ移しても生きられぬ。
おとがい(顎の下)の下鰭(ひれ)の様なものがあるが足である。
これでよく歩む。
人が来るのを知ると、躍って砂穴に入る。
矢の如く速やかである。
これを獲るには砂に穴を掘ってとる。
人の如く瞬きをする。大きい物で六寸ばかりとのこと。
......................
ここからは、静山さんが本草啓蒙と食療正要から転載された内容。
『本草啓蒙』に云う。石ひつ(魚に必)魚。ムツ→京(ムツと京では呼ぶ)。カワムツ→京。モツ。モト→若州。ヤマブト→勢州。コウジバエ→阿州。
渓潤流水及び池沢に多くいる。形はハエに似て狭長。細鱗に嘴は尖り、口は大きい。吻に砂がある。よく虫を食う。小さいもので六七寸。あるいは八九寸に至る。色は淡黃褐でわずかに黒が帯びる。脇に一本の黒い線がある。上下の鰭(ひれ)の色が赤くなるのをテリムツと呼ぶ。またアカムツ→江州、コケムツ→江州と云う。
これに対し常に小さな物をクソムツ→江州、シロムツ〈『食療正要』と云う。また海魚にムツがある。一名ロクノイヲ(奥州。国名を避けて名を易しくしている)、クジラトオシ→筑前、東西諸州にある。筑後筑前の泥海に最多しと『大和本草』にあり。形はニベに似て小さく、紫黒色で黒線がある。細い鱗に大きい頭、眼もまた大きい。尾には股がなく、鱗は硬い。身の長さは七八寸、あるいは尺の物もいる。油多し。煎じて灯油にする。肉の味は蛋白、下品〈げひんではなく、上物ではない〉である、〉である。
以上静山さんによる転載終わり
.......................
また聞く。
同州(肥前)の小城(オギ)戸川の辺りでは、売り物として、旅の客が買い求め、旅中の馬上で食べていて、すこぶる珍味だとのこと。
またある人が云う。「この魚は佐賀領に多くいる」。
また云う。
「かつてこの魚を長崎で見たが、とくに性分強い物と知った。料理されるところを見たが、首と尾を切り離すときに、首と尾の肉が動いて生きている様であった。形はイモリによく似ている。だからかの地の人は賞味しても、形がイモリに似ているので、心もち悪くて人は食べようとしないなあ」。
また云う。
「かつて佐賀領の旅宿で膳が出された時、平椀の蓋をとり見ると、中にイモリが入っているではないか!驚いて女中に聞くと、ムツゴロウですと答えたと」。
と、するとイモリによく似ている物だろうよ。
そうしたら前の図と形状が違うのではないか。
べつの種類なのか。
わしは思う。
この魚はムツと云うのを、ここ佐賀ではムツゴロウと云うのは、イモリに似ていると云えば、イモリは黒色だから、ムツグロと謂うべきを、肥人の訛りで、グロをゴロウと呼ぶ物になったのではなかろうか。


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巻之八十九 〈七〉 四足鶏

わしの浅草邸に行く途中に、花鳥屋と云う店がある。
看板を掲げ、四足鶏を描いている。わしは思う。銭を募る為に作ったのだと。
一日人をよこして見てもらった。
帰って云うには「実に四足が生えてました。信濃国が産地だと云っておりました。鶏のニ脚は尋常の様ですが。ニ脚は前足の後ろ、臀部の左右尾毛の下にありました」。
ただただ脚の後ろ、斜めにあり、指は開かない。
また地を踏むことは出来ない。
その観てきた者の図を後に載せた(写真)。
『類聚国史』に、天武天皇の五年四月、倭。
国添下郡に元気な鶏を貢す。
その冠は海石榴の華に似たり、とある。これも異形である。
時として、様々に変化して産まれることもあるか。
『本草啓蒙』に載るところ、筑前で「キクチョウ」と呼ぶ鶏、脚は六指であると書いてある。
これも一種であるが。片輪ではなく、天然の物である。

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巻之八十 〈二七〉 海獣、オットセイ

『余録』に書いたこと。寛政四年壬子冬に領内松浦郡大島の漁師の家の棚下に一頭の獣を捕えた。図を併記(写真)。
獣は犬のようで身は長く、細い毛は短く滑らかで光っている。背はねずみ色で腹は茶褐色。歯があって犬のようでいて牙はない。耳は極めて小さく、頭の左右にある。前足は魚のヒレに似て肉がある。表は毛があって、手のひらがある。爪と見られるものが五つ。後ろ足も魚の尾に似て肉の掌がある。五本指に三本の爪が生えている。爪と爪の間にみずかきがある。この両足の間に尾がある。小さくて仔犬のようだ。その下に陰戸がある。メスである。人はその名を知らない。
小野氏の『本草講説』を考えると、海獺(ラッコと図鑑にあるが)である。
後、村人の話すことを聞く。この獣はあしかと謂う。津吉の浜で見ることがある。小近、五島〈津吉、小近、五島、みな領内の地名〉の両地もまたあり、海中を群れて行く。
あるいは、石の上に上り伏せている。その中の一獣は眠らず、人が来れば、たちまち海に入る。そのほかも従って海に没して、跡を見ることはない。
この獣は波打ち際に上がるといっても、歩くことは出来ない。だから、石の上から転倒して、形を沈む(姿が見えなくなるか?)。
けれども海中においては、水面を走る(本文まま、面白いので)、原野の鹿のようである。
また、商舶が玄海の洋中で見ることもあるという。ただ、全身を見た者はいない。
またある人が云う。オットセイに牝牡があると。牡はその歯が重なり生えていて、牝は一重である。とすると海獺はオットセイの牝である。
今年、捕まえたものは、歯が一重で陰戸がある。その形は尤も似ている。すると村内にもオットセイがいるにちがいない。海獺も得ることが難しいので、未だその有無を知る者はいない。
   図は下の写真の通り
『仲正家集』
我が恋はあしかをねらうえぞ船の
      よりみよらずみ波間をぞ待つ
これを顧みると、三十五年前の文である。されども往時を思い返せば尚追ってみたくなる。
この獣を捕したとき、大島の漁師の家では幼児を失ってしまった。母親は子がいなくなったことに気づき、戸外の棚下を捜した。獣がいて、子を傍らに置いていた。母親は怒って、木でこれを殴り殺した。子は既にこと切れていた。だから、この獣を取り去り物と人は云った。
その後、死骸を取り寄せてみると、腹の大きさごすんにも肥えていて、囲一尺五寸余りである。首と尾はこれに応ず。
それで縄で頭をくくって、提げて揺らしてみたら、身体の柔らかく萎えて骨がないようにしていて、振ると波状に動く。ただそその生臭い獣の臭いは人は耐えられない。鼻を覆わなければ、近づき視ることは出来ない。

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(※ 以前、甲子夜話で虎は牡、ヒョウは牝と出てきましたが、当時の動物の牝牡の理解はこんなものだったとご理解下さい。生物学ではなく、あくまでも江戸の民俗ですので。)

巻之四十 〈一一〉 日光の猿の話

上野の宮の小姓を勤める者が日光へ随行したときの話を語る中に、かの地雨模様のときは猿が特に多く出て木の梢を移り行くと云う。
その中に小猿を背負うのもいるが、人の子を背負うのとは異なる。
小猿の頭は親猿の臀の方にある。
足をその肩辺りに置いて、両手で親猿の尾を握る。
それ故、親猿は枝から枝を攀(よ)じりながら移り、上下するが墜落なく親猿の背にいると云う。
木に棲むものは天性自然なるものである。

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