巻之七十 一ニ 盗賊いなば小僧

いなば小僧という盗賊。
ある日、奥の宴席で妾采女達が集まって話していた。
聞いていると、いなば小僧が話題に上がっていた。
捕らえられた小僧は、牢に入っていたときに、松浦様の鳥越の屋敷に夜中、盗みに入ったと話したという。
屋根の上から中を窺い見ていると、奥方が一人見台に書物を置いて、見入っておられる。
そのご様子は、いかにも良い家柄の奥様である。
これまで所々の家に入りましたが、よその奥様で殿様が国元でお留守のときに不埒なご様子のお宅が多いものでして。
流石伊豆様の娘御だと思いながら、奥の間に忍び入り、数々ある三味線を探っていると、良い物だと思う品も見当たらずにいると、ふと側の三味線の糸に指が触れ鳴ってしまった。
これには、あっしも驚いたが、人も目覚めてしまった。
だからすぐさま忍び出た。
この話はその時に誰かが聞いて(何処かへ)伝えたようだ。
盗賊が云うことだが、亮鏡院(奥方)の志操人品を暗室の中に人が(入って)見ていたとは!わしもこれまで聞いてはいたが、今初めて喜んだ。(ここでは盗賊があちこち入るのを聞いたが、留守中の奥方の様子を聞いて静山さまは喜ばれたと思うのですが)
糸が鳴った三絃は、春雨後と名付けて先代より伝わる品である。
そのことは、「丙丁○(火編にまま)余」に詳く書いた。
この盗賊のことは、わしが二十歳の頃で、亮鏡院は十七歳の頃である。

公鑑曰。此一条真に銘心せり。走も少時拝顔せしこと、今更不堪感○(火編に倉)次第なり。
(ここの部分はこのままが良いと思いました。)

巻之九十 一ニ 武家としての心得、隠老の身でも寒きときも劣らない

蕉堂(林述齋)曰く。
十一月朔日、若君様の御髪置お祝い式(七五三、三歳で行う)があった。
その五日はお祝いの申楽が催され、緖有志に饗が振舞われた。
よく六日は奉謝として老臣の邸宅を人々が拝廻した。
某もその中にいて帯同していると、大番頭の中の一人と書院番頭の一人が途中行合い、互いの乗る輿の戸を引いて会釈した。
見ると手炉に蒲団を掛けたものに手を入れていたが、にわかに手を出して会釈している。
両人はまだ中年である。
今冬は季節の動きが遅く、暖かく感じられ寒さを覚えない。
とくにその時は未の刻(午後2時)を下って薄曇りで風もなく、春陰の光景であったのだが。
これは何と形容すればよいのか。
いわんや武役専一の人達のこの様な振る舞いは興醒めであきれたものである。
近頃は何かあると人が軟弱に成り果てていると嘆かわしく思える。
某は今年六十だけど、まだ衣をゆったりと着ないし、炬燵に当たらない。
湯で手洗いをしないし、駕籠の簾を下ろさない。
また駕籠の中に火器を入れないし、家では障子を閉めることはない。
だからといって、寒を好むわけではない。
常にこうあらねば、物の役に立たないと思うからこそ。
さても世には不甲斐ない性質の人があるものよと、しみじみ一人ため息をつく。
蕉は儒家、わしは武家。
かつわしの齢は既に蕉を頼りに付従う七八。
しかるに今は隠老の身となっても、蕉氏のおかげで劣ることなくいられるのだ。
要するに蕉氏の嘆きは尤もなこと、千万かたじけないのである。

巻之十ニ 九 鷹狩りと人相見

徳廟(今は亡き将軍、どの御代か不明だが)が葛西の辺で御鷹を放たれた時のこと(御鷹狩)、ある農家に立ち寄られたという。
その家の農夫はかねてより人相見として近郷に知られていた。
徳廟はその時御鷹の所で御足を泥汚れをたまわれ、洗わせる為に、従いたまわる者が、人や水を参らせよと云った。
農夫は早速出て来てお側に寄って、御足に水を濯ぎながら、仰いで御顔を見奉り、「ところでおまえはこの上なくよい御人相をしている」と云った。
(将軍は)大いに笑わせたまわり、「かの上手な人相見かな。褒めてやれ」と左右の家来にいわるた。
御賞美の物を下さる事になったという。

巻之十ニ 八 落首(平安から江戸期の風刺歌)

林氏(幕府の儒教学者林述齋)が云う。
明暦大火の後、武家をはじめ町方までにもおびただしく下された金である。
大城(江戸城)延焼の時にこの様にと云うが、当時国力が盛んであることが想像すると、時の執事も人があってこそと見えていた。
したがってその時の落首(平安から江戸期の風刺歌)、
しば(文に口、ケチの意)き雅楽(うた)心尽しの豊後どの
江戸にはづんど伊豆ばよかろふ
雅楽は酒井忠清、豊後は阿部忠秋、伊豆は松平信綱である。
このとき下の人望忠秋にかえして、忠清信綱は人が思いより良からぬ事に見えた。
この落首はある大家の旧記に載っている。
拙く俗的だが、当年を回想するとよいだろう。
歴史の童謡ことわざやの類にして、捨てるにおしい。

巻之七十 一五 女の髪筋でよれる綱には大きな象もよく繋がる(徒然草)

「徒然草」にそもそも女の髪筋でよれる綱には大きな象もよく繋がるという。
なるほど、既に第九巻に記した、横綱をゆるされた大力の大関谷風が十七になる妾に牽かれた様に(何かでへそを曲げて高い所に登り降りてこなくなった。
若衆が呼びかけてもダメで十七の妾に手を惹かれて降りてきた)、その後雷電という丈七尺で大剛力の大関がある時歌奴の為にほうを打たれ、あいたたと云って目を瞑ったと。
傍の人は笑えないと。
又はある時は少女にたわむれて、この婦に胸を打たれ、後ろへ倒れたと玉垣勘三郎(年寄り)が語った。
もっともな事である。「徒然草」に云える事は、自らを警(いまし)むべく慎むべきはこの惑(煩悩)なりと思い合わせた。

巻之三十七 九 蠟燭(ろうそく)のこと

文禄中まで平戸に蠟燭はなかった。
助左衛門が献ずる蠟燭を真似てこれを制作する。
蠟を採るものは、五種ほど。
漆、エギリ、ハシバミ、だまの木、カラスウツキ、また女貞木からも採ると「本草」にある。
「龜州府志」より。
黃白の蜜、壺の底に固まるように留まっている物を取って蠟とする。
唐の蠟燭は芯に葦を用いる事で、時に立ち消えてさまう。
平戸人はこれを考えて、とうしみを巻いて芯にした。
はなはだ上等である。
昔は軍用の松明を常夜灯に用いていた。
昔の年中行事の絵の中の、昔大晦日では、掛取りの帳面を持った人に松明を持たせている。
今これを思うと、不自由な上に不用心である。
これでは有り難い世にはならないなあ。

巻之52 〔12〕 洪水のこと

天明六午年、水が出て、本庄の地の被害が甚だしい。
わしはその時平戸におり、近くでその様子を見なかった。
その時の事を伝え聞くに、洪水だという。
近頃耳にするのは、荘の近辺原庭町に可文(菊屋善兵衛。この者は侠気(おとこぎ)があると前に述べた)がいた。
水が出ると聞くと、その長屋の者を集めて隣地の霊光寺の本堂に棚をかいて、一同を登らせた。
やがてそこにも水がつくと、借りていた鯨舟を寄せて、みなを乗せた。
既に家屋は一面氾濫しているので、可文は声をあげて、「今、船を出すぞ。覚悟はよきか、よきか」と云うとみなは声を合わせて「よし」と云うので、ひかえていた手を放すと、船は矢の様に流れた。
一瞬の間に駒形堂の岸に着いたという。
可文は後にしばしばこのことを話して、洪水の勢いを嘆いたという。

続 巻之十七 一 灸

わしが少年の頃、仕舞を犬塚新五郎(水戸候の大夫)に学んだ。
その人は一年上総出の召使を置いた。
一日この者に灸をすえさせると、度々落とすので、「ふつつかであるぞ」と叱ると、召使は言う。
「みみっちい旦那だな。
灸を一つ二つ落としたと云って、さほど言わるることはないに」。

巻之四十ニ一五 盗賊浜島庄兵衛〈世にいう日本左右衛門〉の事

以前に盗賊浜島庄兵衛〈世にいう日本左右衛門〉の事を起こした。
最近、林氏や人に聞いたので話したい。
庄兵衛は何方へ盗みに入る時も、自身が手を下すことはない。
手下の者を働かせ、己は床机に腰掛けて指図するとのこと。
駿州で夜盗に入る時、そこの町奉行付きの同心が夜周りして怪しんでいると、手下の者が刃を抜いて討ちかかってきた。
同心も心得ていて抜き合わせて、しばらく叩きあうが、庄兵衛は腰掛けながら立つ事もなく、手下の者を使いながら後方より組み留める。さてさて気丈な男かな。
その身の職分を守り、死を決して戦う姿勢には感心する。
かかるけなげなる者に怪我をさせたと、抱き寄せて後ろに場所を移し、全ての盗みの仕事を終わらせてそこを立ち退いた。
また自ら訴え出た後に、懐の中を探ると、その中に正真正銘の朝鮮人参を数根あった。
吟味の与力が「これは何処かで盗んだのではないのか」と問えば、大いに笑い、「我輩とて多くの手下を持てば、もし手を負い血が出た者は独参湯では救いがたい。その用意に買い置いている」と答えたという。
また世に己の紋をつけた黒羽二重の服を着て、雑色の衣服を用いていると。
いかにも気象高いことよ。
太平の世に生まれていればこそ、盗魁(盗人の頭)として終えていくのだろう。
乱日に生まれたなら大国をも治める資質を持った盗賊である(林が語る)。

※昔の人の人を見る目が大きいのにビックリ!
また『気象高い』の表現はそのまま残しました。面白い言葉だと思いました。

巻之十ニ 六 麻の御上下

同じ御代に節約の新令が色々出された時のこと。
一月ばかりの内、朝夕を通じて麻の御上下をお召しになられていた。
が、いつの間にか立ち消えになった。
側の人々の考えを申し合わせるとこの麻の着用はあって欲しくないという事だった。
(上様は)今の世は、あらゆる種の上下があるのをみな止めて、麻の上下になされるべきと思召され、御自ら着用をお試しになっておられた。
けれども如何にも平服には着にくい物なので、永きにわたる御令に加える事が出来ないと、そのままになされたと(周りの者は)評し奉ったということ。

※リーダー御自ら動き試されるのは、頼もしい事だけどやり過ぎは

巻之六十九 〈二八〉 刀等の鞘の小口は内側に金陀美にするのが正しい。

林子が語った。
槍、長刀、大小刀等の鞘の小口を金で陀美細工にしてあるのを荘厳の様に思う人は多いのは大きな誤りである。
昔はみな打物の鞘は割って、その内側に金陀美にすることであった。
だから自ら小口に及ぶのだ。
その訳は刃を錆びない様にするためである。
けれどもいつしか本質を失って、鞘の内側に金陀美にすることがなくなり、小口ばかりになってしまった。
古人は何事も実用を考えてする事なのに、後の人は心もなく略するのが浅ましく思われる。
金屏風も昔は残らず箔を押して、その上に画を描いていたものだ。
とすると、緑青など年を歴ても色が変わらない。
今は絵の所の箔を省いて押すので、緑青など程経れば、みな(色が)変わってしまうのだ。

巻之十四 〈一四〉 昼成り

林曰く。
承応の頃の官の日記に、大君の御目覚めの刻限を記しているが、云々卯時(現在午前五〜七時)御昼成りとある。
この頃までは通用した俗語に古言が残っていることが多いと見える。
『中右記』だったか、目覚めることを昼成りと記すようと書いてある。
今、婦女子の辞で、おひんなると云うのはこの転語である。
また前髪を小結と云うと見えて、この頃の日記、正月無官御札の所に、小結之輩と記している。
面白いことである。
静(静山さま御本人)曰く。
邯鄲(かんたんの夢)の能に、慮生がの里に宿泊した所に、仙枕があって、粟の一炊きの間に五十年の栄華の夢を見て目覚めようというとき、狂言の女が出てきて云う言葉に、「いかにお旅人、粟のおだいができ候、とうとうお昼成れや」と云ったという。
これも古代の言葉を伝えている。
又小結とは、少年の持つ烏帽子の小結と掛けている。
そういうこと(小結〈こゆい〉烏帽子、小結の組紐をつけた烏帽子)。

続 巻之ニ十一 〈七〉 御多門の狭間が連なる中に狭間の黒い戸

一橋御門を入り、竹橋御門をとおり、北はね橋とかいう御門外を行く間、御門からあとを廻って行くと、お堀をへだてて高石垣の上の御多門の狭間が連なる中に狭間の黒い戸が十ヶ所余り並んでいる〈尋常の狭間蓋は壁とともに白土である〉。
俗説に、御一代ずつの御遺物を納められてらしい。
或いは御凶気を入れた所ともいう。
近頃、ある人が言うことには、「この中は田付、井上両氏が預かる御火器が置いてある。万一何かあって、狭間を開く時は、土戸は重いので、銅の戸に作りかえられた。だから遠くから色が黒く見える」のだそうな。
いやいや、何れが本当なのかね。

巻之六十〈一九〉 クルス(蛮語十字)

前に中川氏の紋を「クルス」と云うことを載せた。
この「クルス」は蛮語十字のことでもと「クルイス」と云うのを「クルス」と云い、転じて「ケレスト」、また転じて「キリスト」、また「キリシタ」。
ころ我が邦に切支丹と云うものである。
中川氏の前の瀬兵衛のころの南蛮寺はすなわちこの宗である。

kassi016.jpg

巻之四十一 〈ニ〉 新吉原町の郊外の御制札

新吉原町の郊外に、古来からの御制札が建てられた。
次の様に。
花柳を漂う客は何も考えず見過ごす。
が、知る者は少ないのだろうな。

◎前々から御禁制の様に、江戸町中端々ににいたるまで、遊女の類を隠しておかないこと。もし違反の輩がいれば、その所の名主、五人組、地主まて、曲事(不正な事)なる者である。五月日

◎医師の外何者も乗り物一切用いてはならず。付けたし、槍、長刀は門内かたく停止するべきものである。五月日


kassi017.jpg

巻之六十ニ 〈一六〉 書『柔咄(ヤワラバナシ)』、八角(角力)

『柔咄(ヤワラバナシ)』と云う書を見て曰く。
〈上略〉享保の始めまでは、相撲両人土俵の中に中腰で立ち会いて、行司団扇を引きと取り組むことになる。
要はその団扇の引き方に依怙贔屓もあるより、この八角〈相撲の名。
この八角とは、鏡山の後に出て、鏡山は関口流の柔術を学び、相撲に工夫練達した者である〉気の練と云う事を工夫し、両人とも下にいて、互いに心の相遭ところで、取結ぶ事になる。
されば綾川、七ツ森、源し山田の類も、八角に学び、一時に名があった。
木村庄之助も八角に学び、行司の法を良くしたと。
だから今の角力はみな、鏡山、巻瓦、八角流にして、古の相撲のとり方はあらじと、父翁がはなされた。
わしが若年の頃見た時は、前角力などは、みな立ちかかりて取っていたが、近頃はみな下にいて取りかかっている。
この下にいて取るより、(昔の腰を上げた取り口は)角力に対する心を汚くする。
幾度も幾度も、まだまだと云って立ち会わない者が多い。
特に近頃小野川のすくいは、谷風との取り組みでいつもいつでも、隙取りで、最も見苦しい。
その取り組みの清きは、宮城野丈助である。
向かうより、かかれば待てと云わず、直に立ち会う。
その弟子の錦之助もしからば、その立ち会いを宮城野流と云いし。
たとえ取り口に損があっても、毎度負けになることもあるけれど、その心は清くこそあるのだ。
これを見ると、角力の世界さえ百年に及ばず違ってきている。
『柔咄』は文化九年に収録した物である。

巻之九十八 〈六〉 大男、角力

当六月、熊本侯の国元から大男が来たとうわさになった。
角力年寄の勝浦の弟子になるらしいと聞いた。
長け 七尺三寸     →約213㌢
足の太さ 一尺三寸五分  →約40㌢
貫目 三十五貫五壱百目  →約133. 125㌔
食 一日に一升七合余り
酒 一度に一升を飲む
衣 三反余りを着る
牛をまたぐと云う〈人呼んで牛跨と云うとのこと。この牛をまたぐに因んでか〉。
牛は大獣だが、馬よりは背が低い。
それにしても大男子である。
これに付き思い出せば、わしが少年の時、雲州侯の角力に釈迦嶽と云う大男がいた。
久しい事なので長けも何も覚えていないが、その頃回向院で相撲興行があった。
わしはその門前市店の楼で両国橋を釈迦嶽が渡るのを見たが、その長けは衆人の頭上につき出ていたのは、馬上の人と云ってもよいくらい。
またわしが、十一二歳の頃、久昌夫人(静山さまの御祖母さま)に就いて箱根の温泉に行った。
小田原に宿泊した時に、釈迦嶽も上京するとその駅を通行した。
わしは道に出て、その側で立ち寄り見たが、わしの頭はかの帯の下にあった。
年少ではあったが、これで大男であることを知った。
ある人から聞いた。
「この男、長けが大きいのには似ぬ小量者だから、つねに人中に出る事を嫌がってね。が巨貌なので、外出すると人がとり囲み人垣になる。だから、都下は住みにくい。一日も早く帰国したいなどと云って涙を流して泣いてね」。
概ねこんな事だった。
さきに熊本侯の東勤めの従者として、侯の薙刀(なぎなた)を持って出府するようにと云われていた。
またある人曰く。この妹もまた同じく巨婦だとのこと。はたしてそうなのか。
またかの男の掌形として移写した。
わしも小兵と云う程ではないが、わしの掌には一増陪、如何にも大兵である。掌形は写真の通り。


kassi018.jpg

巻之四十 〈一〇〉 寺領の政事、増上寺の下屋敷

華養院というのは、増上寺御祠が金の出入りを掌り、かつ寺領の政事をも引き受け、裁許する職の僧であると云う。
この僧は、わしの臣への話中に云ったと聞いた。
増上寺の下屋敷に侍三十余りのやからが住んでいる。
これらを以て金子(きんす)進退等のことも為す。
また屋敷の中に牢屋、揚がり屋もあって、俗僧や罪ある者はここに入れ置く。
その罪によっては寺社奉行の方へ引き渡すこともある。同心も数十人居ることになる。
はじめてそこに備わるものを聞いて驚いた。

続編 巻之一 〈ニ〉 巨人

既に前編九十八巻に、肥後国出身の巨人のことを書いた。また頃、林子が言うには、六月某の宅にかの巨人が来たと。ちなみに居間の入側まで呼び入れてよく見て、居あう者どもは尺をとった。
身の長け 七尺三寸(221㌢)
手裏   八寸五分(25,74㌢)
足裏   一尺一寸(33,33㌢)
身重さ  三十ニ貫目(120㌔)
衣着丈  五尺一寸 (154,545㌔)
肩行   2尺2寸五分(68,166㌢)
袖    一尺九寸 (57,573㌢)
羽織   三尺八寸 (115,149㌢)
坐して手を伸ばせは鴨居に及ぶ(田舎間)。立つと頭は長押(なげし)の上に出て、手指は天井に届く〈その席の天井は鴨居上より三尺五寸である。ただし、長押とも〉。予め聞いていたよりも巨大に見える。
また曰く。年少の時、雲州の釈迦嶽を見たが、辛未の西行きに対州で朝鮮の軍官許乗を見た。この度で、三度になるが、その大きさはこの男だったと思う。またこの巨人は気の弱いこと、珍しい。人前で物を喫すのをいやがり、第一は手をつき首をうなだれ、恐れ入りばかりであるのを、ようようにすかして安坐している。とにかく、途中で人に観られるのを甚だ嫌い、なるたけ外出しない。
大家からいって来るとき、主人の命で強いて門を出る風であるとのこと。また付き添いの者なくして、一人では何かの席にも出かけないという。
わが宅へは、かの藩の儒官野坂源助と従来我が門人なので付き添ってやって来た。
そこでわしはねんごろに、人に恥ずべきわけがないことを聞かせ、この後は誇り顔で人前に出よと諭して大笑いした。
古の防風氏なども存外に小心の人かとまた笑った。
また曰く。巨人の側に師弟らが代わる代わる立ち見るので、丘をつくる泰山に於けるようだ。
わしもさらば長競(せいくらべ)をしようと立ち巨人と並び、腹をさして云った。「誰か二人を解体して見ないか?一臓一腑大小何かあるだろう。ただ、胆ばかりは、わしのものが大きいに違いない」と笑った笑った!

巻之四十ニ 〈ニ〉 鷹犬目利きの次第

往年の書付を見出して再録する。今その原書を忘れた。
鷹犬目利きの次第
一、犬が生まれて十日程していろいろ見れば、両方の耳の間に骨三つあるものである。
ただし、逸物(いちもつ)の下地は、両方の耳の間に骨一つある。これを上とする。
一、達者な、犬の下地は、跡足もぎ揚げたような跡足の物である。
一、つち 一、はし 一、まなはし 一、なかもち
一、つちというのは、つぶりを云う。ただし、両方の耳の間が広いのは嫌われる。
一、はしといのは、口ばしを云う。ただし、狸ばしも、口先まで小さいのを上とする。
一、まなはしと云うのは、足を云う ただし、爪が長いのを上とする。
一、なかもちと云うのは、背筋を云う。ただし、しかり毛が多いのを上とする(『余録』)。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR