巻之四十ニ 〈七〉 子の命名期間

大抵、子が生まれたら、七日で父が命名する。都下の貴賤みな同じ。
けれども、わしの領内壱州では、以前より百日に当たり名付ける。これは古礼によるのか、自ずから符号するのか。
近頃に至っては世俗を見習い、追々に七日で名付ける者が多くなっている。
また肥前の領内宇野の御厨という処も男子は三十三日、女子は三十日に当たり名付けているが、今ここに、七夜に命名することを知らない。
また聞く。長崎の風習は、三十三日に当たり神詣して、神前に於いて三つのくじを探り、それを得た所の名を神前にて命名するとのこと。
これも女子は三十日と云う。
『礼』に内に則り三月の末日を選ぶ云云この日に。妻子を以て、ああ、父と見ゆる。
『正義』曰く。この一節を明かす。子名づく法は卿大夫以下三ヶ月の末と云うによれば、けだし古の用所か。

巻之四十九 〈四〉 婦女の白い木布の袴

林の話から。
奥州白河領内の深山に入って所の農村、男子は耕作のとき尋常の様に尻を端折って働いている。
が、婦女は白い木布(木の糸から作った)の袴を必ず着用することになっている。
如何にも古雅な風潮が遺されたこと。
京辺はまだその類はあるだろうか。
東奥の遠く鄙びた所に珍しい事ではないだろうか。

続編 巻之一 〈五〉 相応の身柄に生い立ちた人でも心根いやしく一生を送る輩

祭酒〈林氏〉曰く。
人の風致と云うものは、自然に得て態(わざ)とすることが成らない所に見えるものである。
そうそうたる小禄の人で、今は芙蓉班顕官を勤る中で、甲は馬を好み、年巳に老いていき、朝々馬場で家来に馬を騎させ、それを見て楽しむ。
乙は財を惜しむ事をしらず、人を救う事に当てては、財を抛(なげう)ち泥土の様である。
だから借財山積しても屑とならない。
丙は好む木があって、その一種を二輪に栽て手入れする。
この広い都下の花戸にもその庭中にあるほどの物はない。
挂(かけるの意)幅もその木の図、料紙、硯もその木のまきえ、杉戸も明かり障子の腰も、屏風衝立もみなその木を描く。
その他諸器用、その木を取るしかなく、袱紗(ふくさ)、風呂敷までもその模様である。
丁は長夏の時に琴柱(ことじ)を立てて大机の上に置いて、風が来る毎に自然の音声が鳴るのを聞いて娯みにしている。
午睡するときも必ずその辺に於いてやっている。
これら相応の身柄に生い立ちた人はいかほどにもあるべき筈のことである。
わずかな家録で育つ人には出来ないことである。
これ自ずから福分備わっていて、遂に原禄百倍の足高をも賜って、衆人の上に立って、多くの属吏を使い、家内数十口の下男下女を雇い入れるに至る。
実に天から賜り徒然ならぬ事である。
どうやら大家に生まれた人の、あくせくと心根いやしく一生を送る輩が往々にしてあるのは、恥ずべき事ではないか。

巻之四十九 〈七〉 吉原町が消失した時の遊女の仮宅工賃

都下の繁昌の習い。
火災が広く焼失が多いと、工価が沸騰して人はこのことで悩む。
この頃吉原町が消失して、川の西畔が多くの遊女の仮宅となった。
造作が急で、匠が多く湧いた様。
だから倡家も困難の時または作価がのぼるにちがいないと云う時は、側の者が云う。
かつてある工に聞いた。
いつもいつも遊女屋仮宅の時には、工価は却って安い。
人々はその所に行く事を望んで赴くので、価格を倍にするに至らずとのこと。
これは工作の所がみな女人海なので、視聴の娯楽となるからだと。
嗚呼、人心は色を好むのを知ったことだった。

巻之五十一 〈一六〉 金銀借用の証文の話

ある人曰く。
先年長崎で、老人が反故にされたと、昔の金銀借用の証文の話をした。
その前の文は今と異なることはないが、終わりにこの返金は弁法を相帯する者は、面目を失うもあり得るとある。
この様に認めた上は、かつて約定を違うことなく、互いに貸借していたのだ。
要は当時は、証拠正しく書き並べて、証人奥判など数人が連署した証文も、いつしかその効き目なく、信義のない振る舞いをしても、恥入る色もない。
この薄世の世の風潮を見て、昔の質実は古い証文の文言で知って欲しい。
人情の転換には、概嘆に堪えられず。
件の古い証文の年号は元禄とあったと確認したと。

巻之一 〈ニ一〉 絵馬と発句の作者

徳廟が、本庄筋に御成になった土岐、ある社頭(社殿にぬかづく)をよぎらせ給われた。
境内を徘徊せさせ給わる時、社の側に掛けてある絵馬を見させ給い、
「あれにある発句は善い句である。何人の仕立てか、名は柏莚とあるに」と問われたまう。
随従の輩、「誰に候や弁じ申さず」と答え奉った。
その時、上意には、「これは当時名高き市川團十郎と云う役者よ。
汝らは知らぬのか」と仰せられた。
左右の者どもはその何事も御承知の御ほどを畏れ入ったという。

巻之49 [4] 山の農村婦女の作業着、白い木布の袴

林の話から。
奥州白河領内の深山に入って所の農村、男子は耕作のとき尋常の様に尻を端折って働いている。
が、婦女は白い木布(木の糸から作った)の袴を必ず着用することになっている。
如何にも古雅な風潮が遺されたこと。
京辺はまだその類はあるだろうか。
東奥の遠く鄙びた所に珍しい事ではないだろうか。

続篇 巻之四十六 〈一四〉 婦人の肖像画

前に近年渡来した和蘭婦女の図を載せた。
わしはまた崎陽邸の留守に命じてかの婦人の肖像画を呈した。
数カ月を経て送られてきた。かの地で刻版された形容は殊更である。
右、蛮人は蛮画の態がある。
和人は和画の態がある。
和画の意味を以て蛮人容貌を写す。
よって自ら容色も別になるものである。


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続篇 巻之四十六 〈一五〉 死刑の者の首を斬ること

一日、三上候の処で犬追物を観た後、談話の次に候曰く。
成瀬素人〈犬山城主〉の臣に某がいる。
我が方に久しく懇来している。
この男は心が剛なる者、段打ちをよくやっている〈この人は試しものの時、腰車といって骨が五重あるところを六度切通した手練であると〉。
ある日云うには、某の人斬りの門人となったので、死刑の者の首を斬ること度々であった。
さてそねな斬らんという時は、胸中に今刀を下さんと思えば、罪人は息を外へつくことなく、アッアッと内へのみ引く。
その為、その苦慮を見れば自ずから酷くおもう。
だから、今に斬らんという時は、おのれは無心になれば、罪人も一向心がつかず、平気になるものである。
そこで、首を打ち落とす。
死んでいく者ではあるけれど、しばらく苦痛を与えぬが善しと思い、この様に為るとのこと。
人と人の間の事なのだが、心気自ずから相通ずる所があるから、不思議なものである。

続篇 巻之八十四 〈一三〉 チョマ、女子の呼び名、死者の名


わしの領内に小値賀と云う島がある。王代の肥前国、値嘉嶋(チカノシマ)である。
ここの里の俗だが、女子の名を梅あるいは桜と呼ぶので、世人とは子となっている。
また切支丹の宗門改めは、海内の普く所でやることにしていて、辺鄙なので、この島など専ら人別に改めをする。
ある時、役人が帳面の人名と引き合わせ改めていた。
「チヨマ」と云う者がいた。
だから、「チヨマ」と呼ぶと、右は死亡した者だと云う。
役人は「死者を書き出すとは何事か」と叱った。
相手は答えて、即「チヨマはここにおりますゆえ書き上げました」と云う。
役人は「これは何だ」と云うので、「死亡した者はチヨマ、兄でございます。そしてこれはチョマ、妹でございます」と云った。
役人は、「ならば、なぜ字を分けて書き出さぬのか」と咎めた。
相手が答えて云うには、「ごもっともでございますが、もとより字はなく、ただその名を呼ぶだけでございます」。
どうやら、この地では女子のベッピン者を大抵「チョマ」と名付けて、別に名はないようだ。 
これはその親が他人に誇る事である。
だから所々で同じに呼ぶ女子があるとのこと。
辺鄙な場での風俗である。
口申    衝白
一紙は経解字説が、一紙は遠坂の風俗。一一詳細に文義を明晰し、読み終えて大いに発明の事あり。珍しきが存奉り候。このニ紙とも近来の御出来、いずれもワル口宗も口をつぐみ、一言も御坐無き候。敬々服々。稽首(けいしゅ、末尾のあいさつ)。
十一の十六。

巻之67 〈6〉 犬追い物の射法

文政の初め頃、身内の井戸小文治が、犬追い物の射法を学ぼうと肥後熊本に行った。
関根俊蔵に就いて習った〈侍組五十人を両人して預かる頭だと。高ニ百石〉。
この人に肥後の五家(ごか)のことを聞いたと云うので、わしはこれを問うた。
この地は熊本から東南の方に当たり、八代から踏ん込み行く。
道程は六七日路を経るべく思うに、日向の堺辺りにあるようだ。
殊に深山の中にあり、かつ道ははなはだ険しく難であると。
この村は山中に一村のみあって、古は僅かに五家あったので、因んでその名を呼んでいる。
今は人が増えて百軒もあるだろうか。
その初めは平氏が西敗のとき、かの党が隠れ棲んだ末だと云う。
また米良と云う一堺があると聞いた。
これは別の地になるとのこと。
この五家の人はみな一類であり、その内頭分の者ニ三家がある。
今は熊本侯に付属して、この中から年首の拝礼として一年一度城下に出るという〈米良は『武鑑』に、米良主膳無高、肥後米良相良近江守は一所と記す。
すると人吉侯に属するか〉。
総じて鳥獣を射て生業とする。俊蔵はかの所に至り、その射方を見ると、丸木弓で今の制作法とは異なる。
その制作は深山の事なので、立っている檀(マユミ)の木を伐って、三年ほど乾かして枯らして、これを用いるとのこと。
弓の尺はその人の指尺(タカバカリ)で、七尺五寸に制作した〈この指尺で七尺五寸にすることは射法の古い制作であるので、今は知る人は稀である。
徒らに弓の匠に任せて作った物を用いる。
だから古法に非ず。だから、五家の弓は全く旧の時の物がある〉。

その制作法は今の弓は外竹の方を檀(まゆみ)の皮の方にして、内竹の方を肉にしてこれを削る。
一握りは大抵一本を二つ割にして、弓二張を得ようとはかるようにと。
またその木の皮の方はかつて磨きをなさず、皮のままにして、節が粗いのを良しとする。
みがけばひき折る等あるので、つとめて皮性のままにするとのこと。
また弓の削りは円るから、工作ははなはだ拙い。
本ゆわずを右乳に当て、左手を推し、指頭の当たる所を握る。
少し古い弓よりは高いか。別に握革を用いない。
また古い制作法はない。
また弦の制作は問わなかった。
矢もいつもの制作と違うのか、制作を聞かなかった。
ただし、矢じりは竹皮で作るのかと。射本は定まる規もないか。
おおよそは的を己の後ろに視て捻じ曲げながら射る。
右手は肩に寄せず、頬ならびに顎を出して放つ。
だが、的に当るのは違わず、一切志す者はみな同じであると。
終日射るにはニ三帳を以て猟用にする。
もし明日一帳を以て射終えようとする時は、前夜より弓を流水に浸して置いて用いる。
すると弦はたゆまず、弓の力を落とさないと。古法か。
また、俊蔵が見た者は五六人になる中、強弓を引く者があったが、俊蔵がその弓を引くには弦口があかない。
その人は矢車も長くして、当たりも人をこえたが、他の者は羨んでいたと。
また的と称する物は四五寸ほどの状態の者なので見たところ十間余りにして射るという。
この五家の人は、言語は薩州の人に似て、詞の中多く何に申すとと云っている。
食物は米はあまりなく、俊蔵がいる時は小豆ばかりを食わせて、大いに困飢していると。
この余りの栗をも食用としている。
また、この五家米良の他に、那須と云う人境もあるとのこと。
何れも平氏の残党であると。
わしは敢て聞いた。
かの五家、以前は深山の中にいたから、世間の人はかつて知らなかった。
だから、ある時渓流から器物が、流れて来るのを見る人があった。
そう、これを認めて遂に奥に入り、この人居を探し得たと。
果たしてどうなのか。

続編 巻之十ニ 〈三〉 観世左近、 柿のよく熟するを見て

観世左近〈今の大夫、左衛門の祖父か。不可院〉が御用があって、喜多七大夫〈今の湖游か〉の宅へ行った。
話が終わり居間に行く時に、庭木の柿の実を七大夫は指差して「あの柿はよく熟して見えるなあ。物も熟したら落ちやすくなると云うが。左近、ならば、よく云う様に落ちた後は臍〈ヘタ、下手と音が通じ、かけている〉ばかりに成るものよ。
だから打咲て、過ぎていくのだなあ」。

巻之十六 〈二〇〉 馬の乗り降りを一方に極めず左右

西洋人著した馬の調教の書物があった。
騎法もさまざまある中に、乗り降りを一方に極めず左右よりするとのこと。
いかにも実用的である。
今の様に一方より騎ることに癖がつくと、事に臨んでは不都合になることもあるに違いない。

巻之十 〈一〉 婦人の容態風俗も種々に変転は限り無し

久昌夫人(静山公の御祖母さま)が言われること。
「世風は移り変わるもの。
わたくしが若きときは、芝居の役者は歴々の奥方の体に似るようにしたものだった。
けれど今は歴々の奥方が役者女形の真似をして恥とも思わないのみか、誇らしげに人前に出ているのはいかばかりか」と仰せられている。
なるほど、またその時より今已に三十年を超えて、婦人の容態風俗も種々に変転は限り無しである。

巻之三 〈三一〉 首の下げ方

仙台中将宗村(伊達宗村)は気象高い人だという。
登城(江戸城に)謁見の時、いつも首の下げ方が高ければ、一日同席の人々にそのことを申されるので、「我等の首は、実倹(朝議や公事の場)に入る時に、三方に載せて出るべきであるから、その高さで丁度良い」と云って、何知らぬふりであるので、みな口を閉じたと云う。

巻之十 〈六〉 蚊と蚊帳

わしの領内の小値賀は大きな島にしても三千石もない処である。
この地には蚊が多く生ずる。
その形は殊に小さい。
それで尋常の蚊帳では蚊が入り防げない。
別に目の小さな布を織って蚊帳にする。
蚊は塩気を嫌うものだが、海島に関しては論外。
この風土では、初めて蚊帳を吊るのは毎年四月八日に限る。
それより前に吊ると、特に蚊が多く出る年は、困難をものともせず、じっと忍んで家の中に潜んでいるだろうから。
一笑すべき。

続篇 巻之四十六 〈九〉 人の口は紛紛(土屋候の怪我)

当月初め上野詣での際、東漸院にして院代〈教観坊〉が語ったことには。
去る朔日寺社奉行土屋候(土浦藩第九代藩主)が閣老青山野州の宅で、門に入ろうとして籠から出た。折しも両番の中か、これも門にて下馬して内に入いろういうとき、馬は後足をはねていた。折り悪く、土屋候は籠より出るときで、馬の足が候の面部に当たったのだ。甚だ苦痛であり、眼が開かない。鼻血が止まらない。
ようやく玄関に入られたが、折ふし同役の脇坂候が居合わせ、その計らいにより、裡(うら)もから帰られたとのこと。
この様なので、院主東漸院も坊中申し合わせて、その夕べに早速土屋候の邸へ見回(みまい)に参ったという。
わしは云った。却って俗家を知らない為に、さても不慮なることではないかと。
この後、和州(大和国)の方に行ったとき、このことを話題にした。元より不慮なることだが、某が幼子を治療する印牧元順が来るが、これは土屋候懇意の者から聞いたからこそ、さほどのことではなくなるのだ。
目の下に少し痣ができているが、もはや一両日には出勤されるだろうとのこと。
わしは思うのだ。世の中の取り沙汰は、針小棒大だ。このことにも当てはまるだろう。
それより十日経ちいよいよ出勤されたと聞く。またこの両番とか聞くは、石川左金吾と称する寄合衆〈三千石〉であると。その人も驚いて、日々候邸に見回に行ったということだ。
また取り沙汰には、土屋候はその日の供頭の役義を取り上げ、供の士も戸じめにして七日目に免罪したと。
これも主人(土屋候)の意思はそれほどでなくても、同役の中書はことを難しく書いてあるので、やむを得ずこれに付随われたもの。
人の口は紛紛(入り乱れるものよ)。

巻之一 〈一七〉 寄合石川兵庫の母三也子(みやこ)のこと

三也子(みやこ)と云うは、寄合石川兵庫〈四千石〉の生母である。

わしは久しく相知っていたが、貞操温順な性質で和歌を好んだ。

年七十余りに身失せぬ。

その後久しくして石川氏を訪ねて語り、この人の事に及んだ。

石川が云うには、三也は常に桜の花を愛した。

年老いて後、身のよしある寺院に、亡くなり葬る地を卜し、桜の樹を植えてあらかじめ墓標にした。

花時には常にその下に行き、愛でた。

その詠は以下の通り。

  春毎に咲くべき花をたのみつつ

       とはれむ種をけふぞうへける

わしはその志しの優れるを聞いて、益々追悼に堪えず。

よってしるして後に伝える。

巻之一 〈21〉 本庄辺りの 社のそばにかけた絵馬

徳廟(今はなき上様、何代かは不明)が本庄辺りに御成のときの話。

社を通られ、境内を歩かれた。

社のそばにかけた絵馬を御覧になり、「あれはよい句じゃ。何人が仕たるぞ?名は柏筵(はくえん)とあるが」と聞かれた。

小姓どもは「誰であるか、弁じられません」と答え奉った。

そのとき、「これは名高き市川団十郎と云う役者よ。汝らは知らぬのか」と仰せられた。


そこにいた者たちは、「何事もご承知であられる」と畏れ入ったとな。

巻之ニ 41 善人な商人の話し

大阪に鴻池伊助という富んだ商人がいる。
 学や文才は今ひとつだが、心は天が与え給うた善人である。 
一年子を失ったときは人が代わる代わる来ては「陰徳のあるあなたがどうしてこの様な事に遭われるのでしょう」と言うと、伊助はこう申した。 
「私が不徳の者であるのは言うまでもありませぬ。
 世にすぐれた好い人でも果報あしき目に遭われるのは珍しくありませぬ。
 善事を為せば天が善報をなす。 
悪もまた悪報になると言うのは定まりの理であろう。 
だが、善をなしとも不幸せな者もおる。 
悪もそうとばかりに天が責任をとらすことがないこともある。 
これは天の間違いである。 
だが、何事も間違いを当てにしてはならないので、ただただ定まる理を守るべきではないか」。
 この人は塙險校と懇意にしていて、塙が多くの書を買ったり種々の書を彫刻する費用など、常に力になっている。 
金数は少なからずな事だけれども、いささかも厭う色はない。 
塙は、その家内が困難になるので、 また助力して欲しいという。
総て人が善い事を行うことに、金銀を費やすのを露塵いとう心がなくて、必ず力を合わせよというが。
 商家にはまれなものである。

プロフィール

百合の若

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