巻之57 [4] 夜廻り拍子木の起り

夜廻り拍子木の起り〜夜中拍子木で時刻を撃つのは水戸義公に始まるらしい。
前は夜廻りに撃っていたけど義公は、無益じゃ、やるなら時を打つべしと言いなったって。
せっかくだから続けようってことになり、風俗になったんだと。
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巻之六 六 いちめ笠とおちめ笠

古画にえがかれた婦人の深い笠の頂に高い形をしたものを被るのを多く見る。

これをいちめ笠というらしい。

またある人がいうには今も吉野の奥の木でつくる深笠をおちめ笠という。

なぜなら、乱世に平氏の人落ち行きて、この山中で製作するものならば、おちめ笠と云うではないか。

しかし、これは後の人間があと付けしたのであって、おちめいちめは語音の転訛である。

吉野にあるものは、古風なままで伝わっていくまでのことである。

巻之十 一 婦人の容貌風俗は変る

久昌(きゅうしょう)夫人(静山公のお祖母様)が仰せられた。

流行は移りかわるものであると。

わたくしが若いころは、劇場の女形役者が高い身分の奥方を真似ていたのもだった。

(ところが)今どきの高い身分の奥方は女形役者の真似をして、それを恥ずかしいと思うこともなく、さらに誇らしげに人前に出ている、と。

なるほど(そう仰せられてから)30年を超えた今も婦人の容貌風俗が様々に変わっていくさまは限りなしである。

巻之61 〔27〕 銭湯の辞

ある人は銭湯の辞を語る。

だれが云ったのだろうか。

雀は藪に入ってたけと叫び、鴬は谷を出て、うめよ!と云う。

(風呂では)あついとて、炙るわけではあるまい。

ぬるいとて、凍えるわけでもあるまい。とかくむつかしきは、ゆの中よ。

あかの他人を入れ混んで。

巻之四十五 一ニ 仙台家中の酒宴

仙台家中の酒宴には、飲み終わると盃を伏せるとのこと。

よって酒はここで止める様言って、客も同意すれば、亭主も盃を伏せる。

客の酒を固辞するにもまた伏せるという。

巻之52 〔7〕 家つくり・大工

ある者曰く。ある人のもとに出入りする大工がため息ついて話すことがあった。

吉原が焼け落ちた後(街を再建をするのに)、市中の腕利きの大工どもが争って銘々に建物を建てているという。

昔は、河原者の生業の家は建てないと、それなりに豊かな大工はやらなかった。

かねてより、楼閣に出入りする者がその家を建てていたが、今はかつてそこに出入りしていなかった者までが稼ぎ次第だとばかりに言っている。

利を貪る為ばかりでなく、何屋は誰が造ったと云うのをひろめている。

工人のやることもここまで頽廃したか、と。また劇場の造りも、いま昔は違うという言葉その通りなり。

たまたま、昔かたぎのむかし工人であった老人が云うには、むかしのやり方を守っていたらみる影もないほどに貧しくなってしまう、とのことだった。


家造りは、どの大工はどの界隈と線引きされてお金目当ての競合がなかったものが、お金の為ならばこれまでの暗黙の了解など破っても当然と工人の在り方が崩れたことを嘆いているようです。正論を云っていたら、貧しくなるぞと老工人は嘆いている様です。

巻之七十 四 武家の服

ある人が林氏(江戸幕府大学頭 林述齋)に問いて持論を展開している。

今どきの武家の服だが、麻の上下、服紗小袖で事足ると思いませんか、と。

無駄な継の上下の縞小紋の服などという雑多なものが出回っていますが。

改革されたら、善政の1つになるでしょうに。

林氏は答えて云う。

言われることは至極だと思うがね。

しかしいつの世もそのようにはならないだろう。

既に京都人から出回り始めた直衣は、人々に受け入れられているし、狩衣の色ものはますます数多く出ていて人気がある。

武家の好みもまた同じことだ。(服に対する)人々の嗜好というものを理解しないと、幾ら論じてみても、(貴殿がおもう様に世の中は)動かないだろうね。

巻之九十四 一四 若い娘を後妻に迎えて長生きした医者の話し

蕉堂(安田蕉堂か)が話してくれた。長崎のある処に1人の医者がいた。

60の時に妻を失った。

子弟、親戚は妾を持つように薦めて、老後のたすけにすればよいではないかと云った。

だが、(医者は)これをよしとしなかった。

妻でなければ、始終会えない、と。

だから、またあちこち周り、相応の年かさの婦人を探した。

(医者は)またよしとしなかった。

市中にて名主を勤める者の娘で、年は17になるのを家に置こうとしている。

子弟、親戚は誰もよしとしなかった。

だが、医者が云うには、ワシは必ず長生きするのだ。

今は17だが、晩節の介抱を得られるから、あえてその少女と添うのだ、と。

近隣の者たちはみな驚いた。

医者は老いてますます健やかで、116歳で亡くなったのは寿なさまである。

その時、あの17歳だった娘は73歳で(夫の)看病をしたが、ほどなく老疾病で亡くなった。

いかにも珍しいことである。

巻之四十三 八 蕎麦売りと食い逃げ

注 現代の差別的表記が含まれますが、当時の味わいを活かす為に使用しています。


或る人たちが座談している中での話題。

御小人の某が酔って帰宅時に、夜たか蕎麦売りに逢い蕎麦を食べた。

(お金を払おうと)懐を探ると銭がない!云うには何とも申し訳ありません。

この通り何故か銭がないのです。しかし食い逃げをするつもりは全くありません。

後日払いますから、今日のところは赦していただきたいと頼むと、蕎麦屋も、仰ることはわかりました、貴方が云われる通りにして下さい、と応えた。

そのとき、路の傍らに乞食が寝転がりながら、聴きつけて、今のは黙っていられねえ。

あの身なりの者が銭がないとしても、金1步ばかりは所持すべきだ、と云っている。

それをタダ食いをさせて、代もとらないのであれば、おれ如きならず者には、なぜ、タダ食いをさせないのかいと云う。

蕎麦屋がなるほどと云えば、乞食は起き出して、かの男のあとをおいかけながら、食い逃げ!食い逃げ!といって、追いつき、男に抱きついて、刀を抜いて何処かへ逃げ去った。

その折、ちょうど盗賊改めの某が廻ってきて、この騒ぎを聞きつけ、乞食を組み止めて投げたら、刀が同心の足に当り、いささか手負ってしまった。

某の男(御小人)と同心の家来は近づき、乞食を縛りあげた。

11月下旬のことだという。この評判は良いの悪いのと云っても、まちまちであると聞こえてきそうだ。

巻之10 〔5〕 妖狐と武士の心中

武田信玄の家人、兵助(姓氏失)という人が1日山路を行ったが、野狐が大入道になってやって来た。

お前さんの刀は刃切れして用たたずだと云う。

兵助は刃切れはあっても、武士の心中ははぎれしておらぬと、気にせずに行き過ぎたので妖狐もこの胆勇は恐ろしいと何事もなかったそうな。

巻之10 〔6〕 蚊と蚊帳

わしの領内に小値賀(おじか)というところがあるが、大きな嶋にしても3000石もない。

ここは蚊 が多く出てくる。

しかも小さい。

だから普通の蚊帳を吊っでも が入るので、これを防ぐなら別に目の小さな布地を織って蚊帳にすることになる。

蚊は塩気を嫌うものだが、海嶋ではこれは論外。

またこの風土だから、蚊帳を吊るのは毎年48日より後になる。

それより前(に吊るとなると)蚊が多く出る年でさえ、奴らは息をひそませていなければならぬ(ワライ)。

巻之八十 ニ五 早形糊の作り方

先年、早形糊(早く固まる糊か?)の作り方を何かの書から写して置いた。

小麦粉、葛粉、ミョウバン。

これを等分を水で練って用いる。

また絹に描くには葛粉を糊に練り、小麦粉、ミョウバンを入れて、すり合わせるのもよい。

巻之七十 三三 スルメ

林(翁)曰く。

当地緖祝儀に貴賤関係なく用いる昆布、スルメはみだりに大きいものを好む。

その品が載る素木台も目立って大きいものを人々は立派だと思っている。

昆布は継いで白い粉をぬり、スルメも足など継ぎ合わせて作るのが常になっている。

いつの頃からこうなってしまったか。

どちらとも見た目ばかりで、口にすることは出来ぬ粗悪品である。

今年、京師女御再入内のスルメ、昆布が人から贈られるのを見て、如何にも殊勝な事としみじみ思った事よ。

流俗にこだわらぬものは、この様な法を学ぶべきだと。その形容を下に写し示す。

するめ

京師は、京都のこと。邦家親王妃 18191875、二条広子 18191875、徳川貞子 18501872のお妃さまが、入内した女御かと想われますが、どなたであるか、わかりませんでした。

巻之七十四 二六 大火の時に傘をさして石垣から飛び降りた話し

昔は江戸城の外郭(くるわ、城の外囲い)も今の様ではなかったが、明暦の大火(1657年3月2日〜1657年3月5日)に浅草の御門を閉じたら、通路が塞がり、多くの者がは門内でこの世の地獄とばかりに乱れた。
その内傘売りを1人見つけて傘を買い、さしながら石垣からお堀へ飛び下りた。
これを見た者が、我も我もと次から次に逃れ出た。
傘はみな売り尽くして難を逃れた者が多くいた。
時に云うが。
傘は雨具であって、火事の時の用立ては取り扱い違いだと、聞く者が笑った、という。
(北条流軍学心得書に見られると或る人が言った事だった)。

※平時なら人の事を笑うけど、実際にその時にどう動く?

続編 巻之26 〔4〕 二人で一人のはなし(再話試し)

二人で一人のはなし
平戸のお城下で火事があったんやと。
二人子がおったんやと。
あんちゃんは目が見えん、妹は腰抜けた。
あんちゃんは行き先がわからんと云うが妹が、あたいをおんぶして、行き先を云いますからって。
で、妹はあんちゃんに道を教えついに無事逃げられたんやと。
またこんなことがあった。
足長と手長がおった。
二人とも人に勝るのは難しい云うてな。
で手長が足長にわれを背負いたまえと云うたと。
そしたらな、二人で一人の用を成したんやと。
何も悲観することはねえだよ。そんなはなし。

巻之七十七 三 災害時の商い

文化丙寅の大火(1806年)は江戸南北に燃えた。商いの利欲は思うがままになるのか。その翌朝草履が銭七十ニ文(1文は現代の12円)がだんだん高くなり四つ(今の午前10時頃、四つ半は午前11時頃)には一足三百文になっていた。この者はお上に咎められた。
前に天明丁未の年(天明の飢饉、天明7年、1787年)、江戸近郷は食が不足して、米が高騰、銭百文で米三合を買うことになった。
だから露店の者は商いをやめたり、または高値売りがあらわれた。
そんな中で、上野の山下の亀屋という奈良茶店。元からの廉価のまま、一碗十ニ銅(一銭は銅貨)ずつで売っていると、諸人争ってこの店に来て食べている。
天意にかなっていることよ。その頃からこの店はますます繁盛して今におよび、家が栄えている、と聞く。

巻之四十ニ 一四 赤子の産み捨て

この夏の頃か。
福井町大六天祠の側の米屋の裏に藁くずが多く捨ててある。
下男がその辺りを掃除した。用がありまた通ると散乱している。
不審に思い見ると赤子がいた。前はいなかったのにと合点がいかない。
するとそのかたわらの辻雪隠から、おかあ、出よう、出ようと云う声がする。
戸を開けると三歳ばかりの子を背負うた婦人がいた。
名と何処の者かと問えば応えぬ。赤子は己が捨てた、許して下さいと云って逃れようとする。
男は赤子はこの婦人が産したのだろうと見定めて、産婆を呼んで介抱させたり、駕籠に赤子と共にのせて送ったりしたという。
この婦人、三歳子を背負い、藁の中で子を産し、厠で産の後始末をしていたら、背の子が声を出すので人に知られたという。
婆の賀川が穏やかに語る。
これは下々のこと故、高貴の者には教えという程でもない。
が、わしはここに記しておきたい。

巻之八十 ニ四 漁の器具で「もり」のこと

先年わしは望んで、伊庭軍兵衛に剣術を習った。
同門に林田長次郎がいてよく話をした。
その父は御勘定役でかつて、佐州(佐渡)在勤の時に奇異の物を得たと話す。
ある時、死んだ鯨が波打ち際に漂い、潮が引いて留まったのを農民、漁師が大勢出て、その肉を割り取っている。
背中に槍の刃の様な剣の様な長さニ尺ばかりの物が刺さっていた。
その茎には土肥組の三字が刻まれていた。
思うに違う地域の剣か?その事はつまびらかにしなかった。
父は数金に換えたいと云い、佐渡の官庫に納めた。
今もまだあると云う。
わしはこれを聞いて笑い、これはわしの領する壱岐鯨が漂着した物で、土肥組は壱州(壱岐)の魚頭・土肥市兵衛の目印だと。
この様な数柄を持って鯨を突く。
漁の器具で「もり」と云うと云った。
林田は大いに敬服した。
わが国(平戸藩)から三百里も隔てれば、その事には我関せずである。
いわんや、千百里離れた所にある器を好いて珍重するのは、溺器(尿器)を以て茗壺(中国の茶器)と例える様なものである。
「余録」より。

巻之76 〔5〕 町奉行本庄の地にて御見分での通り道

三月十日、いつもわしの屋敷に来る芸花人に対して、当日町奉行本庄の地にて御見分があると云うので、わしは訝しく思い、何ごとかと、通行する場所を聞いて来るようにと云ったところ、、、
始め本町通り、横山町、浅草御門を出て、御蔵前通り、並木町、浅草寺境内を抜けて、それから田町を通り、吉原町見分があるという。
このときかの廊中大小の妓家の遊女を残らず見せを張るようにと申し付けており、廊中ではまず下級武士を退けた。
上役の町同心たちを先に立って巡見をするという。
これより前の土手通り、今戸町にかかって、橋場の銭座屋舗にて昼餉をとる。
それから帰りは花川戸へ出て、大川橋を渡り、堤を北に三囲稲荷に行く。
休憩して、川端を下り、両国橋を渡り、米沢町通り、久松町、富沢町、人形町から堺町通り。
この歌舞伎の前では、表木戸を開かせて置いて通行すると。
先ごろ、ここが焼失したので新しく建てられた。
奉行は榊原主計頭だという。
これまでに(こんな事)聞いたことがあったか?と問うと、十八九年前にもこのようなことありましたよ、と云った。

巻之九 一四 角力の志し

壬午三月、葺屋町の劇場に角力人が入り見物していたが。
ところが何か口論になり、角力人達廿一人が劇場の人と喧嘩し、欄干を引き折り、散々に打ちまわるので、見物人は麻を乱す様に逃げ出し、またそのために怪我をする者が続出した。
調べによると、角力人六人が町奉行所に自ら名乗り出た。
その党類も皆牢に入り、程なくして裁許がすんだ。首謀者は百たたきの上江戸払い、十三人は五十叩きの上町払いと聞く。
角力どもが牢で話した事には、一般の人々が叩きを受ける時は苦痛のために泣き叫ぶと獄吏は、手心を加えてくれるらしいが、俺たちは力士である。
いかに鞭を蒙っても醜態を微塵も見せない様にしようではないか、と誓った。
打たれても、一人も号泣する者なく刑を受けた。
その中で、皮膚が裂け、血を流す者はいたけれども、約束を守り、力士の体面は保った。
流石、角力の志しは一般の人々とは違うと人はほめた。

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