巻之二 三四 猫の踊り

先年、角筈村に住まわれる伯母殿に仕える医者、高木伯仙が云う話には、「私は下総国の佐倉の生まれだが、亡き父がある夜眠った後、枕元で音がした。

目を覚まして見ると、永年飼っている猫が首に手拭いをを被り立ちながら、手をあげて招くようにしている。

その様子は童が飛んだり跳ねたりしている様である。

父はすぐさま枕元の刀を取り猫を斬ろうとした。

猫は驚いて走り出し、今は行方知れず。

それから家に帰らなくなった」と。

そんなことだから、世に云う猫の踊りと云うものは迷い事とはいえないだろう。

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巻之四十九 一七 宗教と刺客

今年、遊行上人が持参した文書を見ようと宿にしている浅草日輪寺に行った。

恵充という首席教師の寮で四方山話の中で聞いたこと。

その五十五代の他阿上人(今の上人の先代)が、越後で化益(教化して善に導き利益を与えること)するときに末席の者の中に刺客がいた。

自宗(鎌倉時代に起こった一宗派)の集まりの中にまぎれて、匕首(あいくち)を懐に忍ばせて上人を刺そうとしたが、それが周りの者に知れると、その者は乱心者ということにして、何もなかったことにして済ませた。

が、その者は偏執な考え方をする日蓮や親鸞の僧徒がいるために上人に斬りかかったというのだ。

宗教をやっていて何ということだろうか、不思議。

巻之二 一 葡萄の模様

世間で葡萄の模様をつけることの意味。

武家では忌むことであると。

あの「実が成り下がっている」のは、音の響きから「武道成り下がり」といい当てているのは、忌みか?

これを古いことの様に云う人がいるが、駿府の神祖(家康公)は、御遺器である御掛け硯箱を御生前、常に御座右に置かれていた。

その御箱の模様は実った葡萄だった。

その模様全般に葡萄が描かれ、所々御紋があった。

だから、世間で云う「物忌み」は後の世の人がいい出したことで、古からのいい伝えでないことは明らか。

 

巻之18 〔16〕 人だま

吉原町西河岸のゆう女が労災によって危篤になったとき、人だまが出て飛び去った。

このとき、屋外を行く人がいた。

これを見て刀を抜いて人だまを切った。

それで娘の病は治ったと云う。

理外のはなしである。

巻之七十九 九 羊革の小鼓

故観世新九郎の話によると、家に神代の祖から拝領した羊革の小鼓があると。

その鼓には霊が宿り、時に鳴らないことがある。

ある御能の舞台のときに鳴らないことがあった。

その日雨天ではなく、また何も調子に障ることもないし、色々手を尽くしたけれども鳴らない。

だから代りの鼓で御用を勤めて帰宅したが、やはりおかしいと思い、箱から出して打ってみると、その音はいつも通り良い音がする。

どうしたことか。たびたびこの様なことがあるのだ。

続編 巻之51 〔3〕 狐の祟りも、人の口はまちまち

印宗和尚の話。播州竜門寺との文通によると。

京東本願寺が火事で焼けた時に、尾州名古屋より仮のお堂を京へ送る。

海運の途中、船数艘に積んでいたら、柱積んだ中で大船2艘に船火事が起こり、積材は燃えて尽きてしまった、と。

人が云うには、これは狐の祟りか、と。

また松尾華厳寺の手紙には、本願寺の本堂注文の中、大工の棟梁が心得違いを起こして、柱10本の長さ1間ずつ短く切ってしまった、とのこと。

大きな木材なので、にわかには取り入れられなかった。

けれども、本堂の建て方を早急に調えることは出来ず、これにより仮のお堂の沙汰(尾州竜門寺から仮のお堂を送る事は)に及んだのだと。

前半に仮のお堂の事は本当に起こった事と記したが、人の口はまちまちで何が真実なのか。

巻之九十六 〈ニニ〉 雹(ひょう)と中禅寺湖水の氷の解け方

ある人の説では、ひょうが降る年は必ず時候がととのわぬと云う。

日光山中禅寺湖水の氷の解け方でひょうが降る、降らないを占うと、違わないと云っている。

湖岸から氷が解け始める年はひょうは降らない。

湖心から解け始める年はひょうが降る、とのこと。

そのことをいつの頃からか、江府市店の漬物屋たちが聞き及び、日光の人に頼み、春になると毎年、氷の様子を聞いている。

ひょうが降らない年は、醤納豆、金山寺の類を塩甘にして稼ぐ算段をする。

ひょうが降ると出た年は、塩を強くするとのこと。

そうすると、気候不調で漬物の味も変わるものだが、あらかじめ予想して、調えておけば、味が変わらない様に感じるのだ。

塩辛ければ、人もさほど賞味しないから(それほど多くは売れないから)、収入は減る、ところだけれども。

されど味が変わり無駄に破棄するよりは、利を失う事にはならない。

商売は人知れずの苦労があるものよ。

珍しい噺なのて、その年の気候を考える為に記した。

(これはこの春に、上州、武州の辺りで、ひょうが降り、麦を撓めた。その前後時候は不調。陰晴冷温、みないつも通りでなく、世間では病人が甚だ多かった。心得ておくべきと、林翁曰く)。

巻之七十 二七 喪について

喪に関する何かの書で見た。

諒闇(天子がその父母の喪に服する期間)の八月の良夜(月が明るい夜)に京師市中の少女が口ずさんだという句。


普天(天下)の下そつと月看る今宵かな


自然の句と云うべきだろう。

巻之66 8 加賀地域方言

☆手桶〜てうけ。
☆羽虫を1羽、2羽と数える〜蝶1羽、蛾一羽。
☆あやにくやる(あいにく)〜えんば、燕波と書く。
☆さっぱりなに何〜かいに
☆妻〜おかた 
☆下女〜おかる
☆娘〜ごりょんさま
☆これはしたり〜あらもったいや
☆したまへ〜おくまっせ

巻之四十四 一三 駿府遊女と吉原遊女の言葉

駿府に二丁町という遊女家があるのは知られている。
また、東武の吉原町遊女のことは世間とは特殊で、来たれと云うのを来なんしと云い、嬉しく思うと云うを嬉しくおつすなどと云う。
そのほかにも言葉が異なることが多い。
駿府遊女の言葉は、全くこれと同じとかの地の遊女町に行って聞いた人が云った。
ならば、昔かの地の遊女を当地へ移したのであろうと云い伝えると、今吉原町の言葉は駿府の語言が遺っているとのこと。

巻之八十七 一 里俗の言葉

平戸領国は辺鄙だが、里俗の言葉に古を観るべきではなかろうか。
当然、わしのいる本庄や浅草屋敷の人は、聞き慣れないわしの方言の訛りを何故訛るのか理由も知らず笑うことがある。
わしはかつて見聞きましたものを「余録」(わしの記録、日記)の中に書いてきたが、見直しここにもう1度書いておこう。
ただ、漏れも多く、未完成であるが。
☆ふりあのく〜頭を上げて上を見ること。
☆あえる〜物が落ちること。落馬を馬よりあえる。
☆えんぼう、えんぼ〜カゲロウをいう。
☆しび〜鮪。京都はつ、江戸はまぐろ。
☆はかり〜射当てた獣が逃げる際、血がしたたり脚を引きずるさま。
☆はこ〜小児が大便をすること。
☆まぶし〜身を隠して鹿猪が来るのを待ち伏せるところ。石の陰、小柴などを折り指して陰にするところ。
☆よか〜ことの宜しき、好き、善きをいう。
☆うれ〜梢、竿の先。木のうれ、竿のうれ。
☆たまがう〜ものに驚く。魂消る。
☆こってい〜オトコうし。
☆まる〜大小便をするを、小便をまる、くそまりちらすなどいう。
☆しおざや〜潮の満ち引きに、たち騒ぐところをいう。
☆あらぬさかさま〜その言うこと、またはしたことなど、人の聞き違い、違うことをすることをいう。
☆いん〜いぬ。あかいん、黒いん。
☆ンギン〜軽く鼻音になる。例えば、吟をンギンという感じ。

巻之9 〔18〕 大奥の御雛飾り

大奥の御雛は世間のように、高く棚を設けて並べることはなく、毛氈を敷き並べるとのこと。
三月には拝見を許された婦人の輩は、市中の人でも大奥の女人に親戚があれば、それぞれの部屋より手引きして御庭より御間中(おんまなか、半畳の広さ)の御雛を見物できるのだと。
拝見した人が云うには。
イカサマ雛は公卿の形を真似ただけで、尊敬して貴ぶ様なものじゃないね。
だから市井の者を思う気持ちがないんだよねー。

巻之61 〔12〕 鬼室とは何人か

曰人(遠藤曰人、えんどうわつじん、1757?1758?〜1836、江戸時代後期の俳人、仙台藩士)は諸国を巡歴している。
その語に近江の蒲生西宮と云うところで見たのは、原野の真ん中に六角の石塔があった。
彫りを見ると、、、
朱鳥元年  鬼室集斯墓
朱鳥は天武帝の年号、今に至り千百四十年。
鬼室とは何人か。または異邦が帰国しなかったのか。

巻之七十三 六 昔天狗に連れ去られた男の話し

我が屋敷の下男に東上総泉郡中崎村に酉の五十三歳になる農夫源左衛門という者がいた。この男は昔天狗に連れ去られたという。こんな事だったという。
七歳の時に祝いに馬の模様染の着物を着て氏神八幡宮に詣でていた。その社の辺りから山伏が現れ、(自分を)誘い連れ去った。
行方不明になって八年経ち仏事をやったので(親族による仏事だと思われる)、山伏が、お前の身は不浄になったので(人間界に)返すと云って、相州(相模国)大山に置かれた。それを里人が見つけてくれたが、その腰には札があったと。よく見れば国郡の名まで書いてあるので、宿から宿を通して家に帰った。七歳の時に着ていた馬染めの着物は少しも損なってなかった。これより三年間はその家にいたが、十八歳の時、例の山伏が来て云った。迎えに来たと。

伴だって行こう、目を瞑りたまえと云われ背負われた。それから帯様のものを肩にかけたかと思うと、風の様な音を聞きながら行った。すると越中の立山に着いた。ここには大きな祠があり、そこからは加賀の白山に通じる。その途中に畳を二十畳ほど敷いたところがある。ここに僧、山伏が十一人が連座している。
源左衛門を誘い出した山伏の名は権現と云った。権現は源左衛門を長福房と呼んで、十一人の天狗、権現を上座に置いて、長福もそのソバニ座らせた。この時、初めて乾菓子を食べた。また十一人は各々口の中で呪文を誦する感じであったが、いきなりショウ・シチリキの音がして皆はたちかわり舞楽をした。
かの権現の体は白髪で髭は長く膝まで及んでいた。温和慈愛な感じで、天狗らしくなくなよなよ、ゆらゆらした感じである。諸国を廻るうちに、奥の国(魔界)は昔の大将の陰者になる者が多いという。

また源左衛門は、山伏に伴なわれて鞍馬、貴船に行くと、千畳敷に僧達が多く座っていて、参詣での人々が様々な祈願を心の中によく伝わり聞こえてくる。だから、天狗は議をしている。この願いは妥当だ。かなえさすべき。某は笑うがよい。あるいは、愚かなものよと、大笑いする天狗もいる。または極めてかなえられない願いもある。かなわないものに見えても、何かの呪文を誦することもある。
諸山には伴なわれて、様々な天狗が出てきて、剣術をやり、兵法を学んでいる。源左衛門も伝授された。申楽、宴歌、酒席にも連れて行かれた。天狗権現師匠は、毎朝天下安全を祈り、勤行するようにと教えた。

またある時、昔一の谷の合戦の状態を見せようと云う事があった。山頭に色鮮やかな旗を翻しながら、人馬が群れて走り、ときの声が上がり、その場の様子、何者にも例えようがないと。つまり妖術である。また、世の中には木葉天狗と云う者もいる。あの世この世の境ではハクロウと呼ぶ。この者は狼として生きた経歴がある。白い毛が生えている老狼なので、白狼である。
また十九歳の時に人間界へ還す時には、天狗の類を去る証明書と兵法の巻物二つを与え、脇差を帯させ、袈裟を掛けて帰したと。
始め魔界に入った時に着ていた馬の着物、兵法の巻物と証明書の三品は、上総の氏神に奉納し、授けられた脇差と袈裟は今度お見せします、と云った。わしはまだ見ていない。
ある日のこと、奉納した巻物を社司が秘かに見ようとしたが、眼がくらみ見ることはできなかった。それで、その儘納めていると。巻物は梵字で書かれている。
また天狗が品物を買う銭は、白狼どもが薪を採って売ったり、または人に肩を貸すなどしてその駄賃を集めたもので賄っていると。天狗は酒を嗜むと云う。

また南部におそれ山という高山がある。この奥十八里に天狗の祠がある。ぐひん堂と称する。ここに毎月下旬信州から善光寺の如来を招き、この利益に頼り、白狼の輩の三熱の苦を免れるように祈る。その時は、天狗権現師匠とその仲間達で皆を出迎える。如来来向の時は白昼のともし火の様だとのこと。
また源左衛門がこの魔界にいた時、菓子を一度食べてからというもの、物を食べたことはない。だから両便(大便、小便)の通じがなかったと。
以上の説、かの下男が云うが、虚偽疑がない訳ではない。けれども話すところすなわち妄想ではない。何もかにも天と地の間にこの様な妖魔の一界があるのだなあと思ったことよ。



続編 巻之25 〔13〕 日光の飛銚子、天狗の品

千石和州は伏見奉行で、この地に没した。
この人が日光奉行の時に真に接したいう逸話がある。
日光の山上に何とかと云う祠があった。
神前に葵のご紋がついた木銚子があった。
参詣の人の宿願があると、この器に酒を入れて置く。
また一里くらい隔てて、何とかと云う処にも祠が一箇所あった。
つまり、宿願の者の願いがかなえられるときは、この祠の木銚子が自ら一里先の祠に移り中に在るのだと。
土地の者によると、これは飛銚子というのだと。
道者(仏道修行者)の輩も信仰拝詣する者が絶えないという。
これは天狗の品であるからではないかと、云った。奇異なことである。

巻之六〈ニ四〉 池の中から泡から虹

わしが幼く、鳥越邸の池の辺りの小亭で遊んでいたとき。
池の中から泡が一つ二つ出てきた。
はじめは魚類かスッポンによるものだと思っていた。
それから泡の中から煙が立ち上り、だんだん煙多く、後は釜中から煙が立った様になって、池の水がぐるぐると回り、輪の様に波立った。
やがて空中に虹が現れ、後は天に登っていった。
それから池の辺りに生臭い臭気がたかり、幼いときのことなので、恐ろしくて家にたち帰り、後は知らない。

巻之四十七 〈六〉 晴雨のしるし(予報)

ある人の話に「晴雨のしるし(予報)も近頃は当たらない。
日和が続けばついぞ雨は降るない。
雨になれば長雨になって晴れない」。
とすると聖人の代の五日の雨に、十日の風というのも忘れた頃にしかない。
賢愚の世に生きるのも、晴雨のしるしが当たらない様に、
賢人とみえる者は何にかにつけ不幸せな事がある。
あるいは不具か短命。
愚は不思議に長命で権力者貴人となる類は、天理と噛み合わないと言ったりするが。
なるほど思い合わせる事も多いものだ。
だから覚えた東は(上土に皮)の詩をここに書きつけておこう。
児を洗いし時に
人は皆子を得ると聡明さを望む
我は聡明であったがために一生を誤った
ただ願うのは、みどり児よ、おろかであってくれ
災いに合わず、難儀に合わず、ゆくゆくは公卿に

※現代にも通じてる?

巻之ニ十 〈六〉 大津町に八幡の祭礼の武者人形

若狭の小浜侯がはじめて封を賜った年のこと。
城下大津町に八幡の祠がある。
城内外の鎮守として、例年八月十五日に祭礼がある。
その時、ねりものが多く出る中に太刀脇ばさみの武将の体なる物があった。
侯は、「その人形は何時の何将の容貌か?」と問われた。
ところの者は「頼朝卿でございます」と答えた。
すると、侯は桟敷を降りて拝せられた。
今から見ると古例かも知れないが、祭礼には当侯は必ず旧に従っておられたとのこと
〈さしたることではないが、聞いたままに記した〉

巻之四十五 〈ニ八〉 投ぜる賽銭

前に両大師遷坐のことを載せた。
またこの二月晦日にも行って見たが、この日もまた見る者は以下の様にあれば、よく見るのも無駄ではない。
けれども、前月のことを思ったら、人後よりその行装ははかり知れない。
そんな中、大師の輿は人の上よりよく見えたのだが、通行の時四方より投ぜる賽銭、輿の屋根に積まれること甚だしい。
ところが、輿かき僧のしわざであるが、輿を振り傾けて傾けてかの賽銭を落としつつ急いで行っていた。
人中なので、輿かきの様子は見えないが、思うに賽銭を積めば、輿が重くなるので、輿かきの負担が増えるのであろう。
また前に示した、輿に乗せてあると見える紫天蓋は後から、さして行く。
これも銭を天蓋に積むと、竿を動かして落としながらいっていた。
わしにも紙に包まず、一孔銭を投げる者がいて、噴沫の様に空中に飛散した。
定めとしてこれらも後には倍化して献ずるだろう。
その儀をはかり、帰路にその路を通ったら、一銭も地に残る物はなかった。

巻之四十 〈五〉 火球

林子曰く。癸未十月八日よる戌刻下りに西の天に大砲のような響きがして北の方へ行った。
林子即座に北の戸を開けて見ると、北天に残響が轟いていた。
後に人が話すのを聞くと、通行人はそのとき大きな光り物が飛んでいくのを見たという。
また数日隔てて聞いた。
早稲田にちょっとした御家人の住居があり、玄関辺りに石が落ちて屋根を突き破り、破片が飛び散ったのが、その夜その時なのだという。
そういえば、七八年前にもあったな。
これは昼間の話。八王子の農家の畑の土に今回の夜の一件のような音がして飛び物があり、石をゆり込めた(原文ママ)。その質は、焼き石のようだと、人々は打ち砕いて玩(もてあそ)んでいる。
今度の破片も同じ質だと見た人は云っている。
昔星が落ちて、石になりなどと云うことはこれらから由来しているのだろう。
造化の所為は意外だった。
七八年前の飛び物は、まさしくわしの身内の者が見ていたのだが、その大きさは四尺にも過ぎる、赤っぽく、黒っぽく、雲のようで、火焔のようだ。鳴動回転して、中天を迅足に飛ぶ。疾走の後は火の光のようで、かつ残響を曳くこと二三丈に及んだ。東北から西方に行った。
見た者ははじめは棘いて見入っているが、後は怖れから家に逃げ入り、戸を塞いであとは知らずと。
林子の話を聞いて、繋ぎ記した。

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