巻之一 〈一八〉 大阪の御城の天守にあった金扇の御馬印を守った話し

大阪の御城の天守の第一重には、神祖(家康公)が関ケ原御勝利の時の金扇の御馬印を籠め置き給うた。これを鎮護の思し召された。

何年(年号不審)の頃、その中段より火が出て燃え上がった。

諸人は臨み見て驚き騒いだが、為すべきもなし。

この時に在番の大番衆中川帯刀は御天守に走り登り、御馬印を自ら抱き、御天守から飛下りた。

数丈の石垣をすべり落ちていくと、その身は擦り傷により傷口が悲惨なれど、御馬印はいささかも損壊しなかった。

その事を番頭より陳く聞き、その子某を跡式に仰せつけられた時に、並高を加増して、千石賜れたという。

今某氏の祖先である。

治平の時に当たり、戦国の討ち死に比す御奉公である。

その志のけなげなることは、百載の後に至りて生色あるぞと云える。

巻之ニ十三 〈4〉 安芸の寺のディウスの画像

寛政己酉(元年、1789年)にわしが東勤めをしていた時、安芸の怒田本郷駅に宿をとった。
ここは寂静という親鸞宗の寺があった。
わしの医師はここに宿をとった。

その住僧が語ってくれた。
『寛永(14年、1637年)に肥前天草一起騒乱(本文ママ)の時に一僧がいましてね。いづくとも無くここに来て説法講談をしました。聴者は日に日に多く集まりました』。

『その僧はついに耶蘇の法をすすめて、信ずる者が多く出たので、領主はかの僧を捕らえ、東武へ送りました。かの僧はディウスの画像は今の本郷禅宗の寺にあると云うのですね』。

この事を語った僧も見たという。
その像は阿弥陀の様にして威霊があったという。
奇聞である。

天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこの様な事があるとは世人は知らない事だ〈『校書余録』〉。

巻之三 〈21〉 光秀の愛宕山連歌の行方

愛宕山で明智光秀が連歌を歌ったことはよく知られているが、その時の懐紙がかの山房にあると伝えていると云うが。

わしは今年、連歌師阪(ばんの)昌成にこのことを聞いたら、寛政の末に愛宕山の祝融のときに燃えてしまったと。

貴むに足らないが、旧物なので惜しい。

その時の百韻は今に伝写のものもあると云う。

巻之七十七 〈12〉 鳥銃(てっぽう)を打つとき、双眼か碧眼かー二つの流派

成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があるとずっと前から聞いている内に時が過ぎた。
ある日ふとしたことから、借りることになった。彼も出世して、心よく貸してくれることが出来るようになった。
模写しようと側で見ようと、長篠城の様子を見るとー。勝頼が敗軍して武田の武将数輩が突戦した後に討ち死にしたり、兵馬や戦鼓の状態、その場の実情が見えてくる。
これは正しく写さねば。

見ると、それは当時の目撃者が描いた事ならではである。
その中で、信長の先兵や神祖(家康公)の御兵が陣を並べて鳥銃を発する様を描いた所を詳しく見るとー。

信長の兵は十に一、二だが、神祖の御兵は総てみな片眼打ちである。

ここから思うと、わしの藩で鳥銃を打つとき、みな片眼である。

わしが最初思ったのは、田付武衡等の流れである双眼を開けて打つとするなら、それは領内のやり方は田舎の旧風になるなと。今は総て田付武衡の流れを(碧眼の方法に)従わせているのだ。

だから神祖の御時は専ら片眼の銃法があったことがこれで知ることが出来た。
萩野長が云う。
「先年、系譜修撰の御用を勤めた時、稲富氏の系譜の中に隻眼で鳥銃を打つ術を神祖に申し上げる由を書き戴いた。かつその時稲富氏に神祖の下し賜われた御誓書を今正しくその孫に伝えよう」。

この稲富流があるのも、世に普く知られることである。
昔年、稲富の法を御当家が御採用になったことをこの古図からうかがえる。

またわしが文中に伝えた隻眼の術は真柳流と云う。
今はその伝は、絶えて名のみ残っている。

巻之十八 〈27〉 薩摩へこ組

以前は薩摩に党を組んで男伊達をする士のへこ組があった。
その組は何かと云うと、この者達は僧が持戒の様に行状を守る。
まず夙に興て(朝早く起きて)書を会読し、夜は寝るまで指矢を射る、婦女に近づく事を禁じる。
もし途中、女に逢っても諦視すれば大いに咎めて自殺させる。
またこれを難ずる者は泡盛酒を多く飲ませ、酔い臥せた時枕を取り払えば、頭が低くなり即死す。

この様にして失約を罰し、幾年か期間が過ぎれば組を出て、平常の士行に戻る。
婦女を禁じるのはこの様であるといえども、男色を求めて美少年に随従し、ほとんど(美少年は)主人であると。ある人の話である。

またわしが聞いたものもこの類で、律僧の武勇を兼ねた様でという。
その一を云うなら、酒宴を設ける時、グルリと輪になって、人々の間を大きく空ける。
その中央に綱を下げて鳥銃(てっぽう)をくくりつけ、玉薬を込め、綱によりをかける。
どんどんつまっていくのを見て、火をさしながら綱を持つ手を離せば、綱はより戻ろうとしてくるくると回る内に銃の玉が発射する。
円坐する者は、元のままにいて逃げないし、その玉に当たっても怪我をしない。

人も哀れまずと云っている。
この様に狂勇を所業にして、偏った弁倫も乱れるので、栄翁老侯(薩摩守重豪)家督の時に、この徒党を禁じられ、へこ組は取り捨てとお触れが出た。

かの組の者共は、お触れを聞いて、議したが、「わが輩がこの様な事をするのは、心得がたき事である。武士道が立たず。党類ともに死して義をあらわさん」と云われた。

その党魁の某が云うには「いゆいや、お取り捨てとあれば、わが党が糞土畜獣となります。今、これを改めなければ、還って武士道に背き、いよいよ糞土の類とされるのも恥であるので、乃ちこれを弊廃いたしました」と云った。

わしは嘗て密かに図工にその容体を図にした。
頭は糸鬢(いとびん、耳辺りの髪の毛)で、衣の丈は短く膝より上にあり、刀は長く四尺ばかりと見えて、脇差は短く一尺余りか。
これで首を掻くのだろう。

これを以てしても、その人の気性は思いやりたし。

※この薩摩へこ組の話題はあと2つ続きます。

巻之四十三 〈12〉  身近にみた薩摩へこ組 その1

巻之十八に、薩摩へこ組の事を載せた。
この頃『余録』の中より見出し、またここに収めている。

これはわしの中の医生よし親しく聞いた所を記したことである。
庚戌の秋、駕に従って崎陽(きよう、長崎)に寓した(仮住まいをした)。
時に同学泉道寧を訪ねた。この先道寧は、加治木君の請に応じて薩摩で遊ぶ事百有余日。話を聞くとたまたまへこ組の事に及んだ。
その事当今稀に聞く事が多い。
それで筆にしたためて他日の遺忘に備える。

勝国の時、肥後に清正があった。
威風異域に振るう。
薩州はこれを畏れ、配下の士、年少で血気の輩に云い含め、吸う百人党を設け、一つの謡を作って唄わせた。
曰く。

  肥後の加藤が来たならば、ゑんしょ肴に
  団子会釈、夫(それ)でも否(いや)と
  云ならば、首に刀の引出物。

この謡を内外となく唄わせて、清正に釈然の意を示した。
その流は今に被及している。
年少血気の輩は、党を建てた。
これをへこ組と称した。

この党に与(くみ)する者は婦人と居ず、また女子が炊く飯を喫しない。
その他に推し知ること。

常に長手拭いて木綿のしごき帯を暫時も身から離さない。
何となれば、闘いで疵(きず)を被る(こうるる)時は、直ちに手拭いまたはおびただしいで金疵(きんそう、刀傷)を束ねるに備えること。

常に血気凶暴を事として、甚だしくは人を殺すに至る。
因ってへこ組を禁じても、その令は行われ難いと云う。
また薩摩では、肥後、大隅、日向に分解して千人或いは千五百人の士を置いて不慮に備えた。

続く

巻之四十三 〈12〉 身近にみた薩摩へこ組 その2

また薩摩にては、肥後、大隅、日向を分界にして、千人或いは千五百人の士を置いて不慮に備えた。
これを一所持(いっしょもち)と呼ぶ。
へこ組の多くはこの一所持の少年等である。

春分には関猟と云って三国各々一所持の人数を一所に集め、猟日を定め将を命じ、候自ら出て猟をした。
これは軍事の習練である。
因って隊伍は約束を定めて、みだりに弓炮(大砲ら爆竹)を放つのを許さない。

ある時令に違えて、先立ち銃を発する組があった。
約束を失したならば、隊伍は大いに乱れる。
因って令を違う者を尋ねると、「へこの者どもでございます」。

候曰く。
「汝等少年、軍令を犯すに当たる。罪殺すべしというも、今日の事は許そう。他日約束を乱すならば、乃ち罪せん」。
へこ共は恩を謝して退いた。

後、候はまた猟をした。
時にまたへこより先立ち銃を発する者が数十人出た。
候は甚だ怒り、即所意を問わせた。 
みな曰く。
さきに某等が過って放った。
候は幸いに罪を怒んで、かつ命じた。
「もし他日犯者があれば、刑があるぞと申したではないか。某等、何故に恩恵を忘れたか。命じるに死を以てせよ。並びにこれより以後は、令を守る時は生を愛するに相当する。某等、軍に於いて士卒に先んじ死を擢(おそ)れぬ所業とみなす。因って令に背くは、死を恐れぬ証とする。請う!速やかに誅を蒙らぬと誓ってくれ」。

また長崎の市人は故あって、加治木(鹿児島県加治木町)にいたが、一日道寧の舎に来て曰く。
「明日鹿児島に向かい、府下の風景を探り、しばらく淹留(滞在)したい」と、別れを告げて去った。

しかしながら両三日してたちまち帰った。
主人はその帰りの速やかさを問うと、市人は面識を変えて云った。
「府下で逆旅の主人と宴を催した時に、へこの座があったんですよ。で私に問いてきて、『子が業とする所は何ぞや』。私は『買うて以てします』と云いましたよ。『それでは武士の心得あるまじきぞ』と(へこは)言うのです」。

へこは続けた。
「市井の買人は、ただ利欲を知るのみだ。何ぞ武勇を知らぬ。われ(買人)願えや!子の首を斬る事を許せや!」。
買人は戦慄して「貴賤なく誰が生を惜しまぬ者がいましょうか。
願わくは命を全うさせて下さいませ」と涙を流した。
へこは、「買人は、意気地なしだ。斬るに足らん奴だ」と云って肘を露(あら)わした。

見ると刀疵が縦横に走っていた。
そして自ら刀を抜いて、腕を刺して云った。
「大丈夫、所為かくの如しじゃ」。
乃ち席は流血で溢れた。
また買人の手を取って噛んで、二指を折った。
買人は神魂死んだ様になった。
奔(はしり)で加治木に帰った。
凶暴さはこの様であったと。

続篇 巻之四 〈10〉 薩摩へこ組の容貌

薩摩へこ組のこと、既に甲子夜話 巻之18,43に云った。

その中、男色を求め美少年に随従して、(美少年は)ほとんど主人の様だと記して、文末にかの国図工が描いたこの容貌を云った。

この頃、平戸の庫中に置いたその時の絵を思い出して、取り寄せた。
薩公の画人洞竜(生年不明〜1811 谷山洞竜、薩摩藩の画家)が描いた。
その時も描く事は憚ったが、わしが懇求したので、辞しかねて描いたもの。

写真の図の中、杖と木履(ぼくり、下駄)は前記にない所だが、画者の目撃のままを描いたものである。
へことは、兵子と書くという。

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続編 巻之四 〈3〉

ある人が云った。
この夏笹山侯〈青山野州、閣老〉は使命を奉じて京に赴任される時、かの方より恩来がある事は知られる所。
さて日頃聞くに、かの地を出られる前に院御所へ罷出られた時に、女房を伴い内々の御沙汰があったのは、天明中内裏炎上の砌、所司代は在京してなかった。
ことに御手薄な時節の所を折ふし侯は在京になっていたので、笹山より早馬で越された。
鳳輦〈天子の乗る車〉を守護して事なく御立退あったのを今に忘れさせ給わず。
その後所司代職をも勤められ、この度また奉使の為西に上がられた。
これは御馴染みの人だと思し召される御噂の由であると。
この様に綸言〈天子の意〉を内々ながらも蒙られるのは、何とも模範なることである。

  附けて言う。天明災のときは亀山よりも
  松平紀伊の守が乗り付けた。里程近い為に 
  、亀山侯は夕七時頃到着した。笹山は夜五  
  頃箸至とのこと。
  それゆえ亀山はゆるりと供奉の手当も出来             
  たが、笹山は到着直後に御立退となられた 
  間、万事不調となったと云う。
  これは道の遠近は仕方のないところだけれ
  ども、亀山は早き死を以てその功績湮滅し  
  た。
  笹山は老に至り顕位に在ると、この様な手
  本にも逢う。寿夭修短は天命といえども、
  また幸不幸の異あるものである。

三篇 巻之三十三 〈1〉 彦太郎、安徳御廟を語る

ある日彦太郎(脇髙安)が語った。
宇佐八幡宮の神体は、仲哀天皇と神功皇后の御兜であるが、ことの外大きいものらしい。
かの御社の大宮司社人等に、彦太の門弟があり語った。

また曰く。
『安徳帝御日記』と云うものがあった。
壇ノ浦御入水、御身代わりの者が悼まれ御詠哥があると。

この御日記は薩侯の医某の家に保管している。

また髙安の門弟の前人が語った。
また安徳帝の御廟は琉球へ渡る堺の小島にある。
その社家があるが、今に至りその辺り(ほとり)は田畑作り取りなので、侯家の所務に入らずという。

三篇 巻之三十三 〈2〉 平戸の木田彦三郎が遺した随筆

わしが少年の時、平戸の儒生の木田彦三郎が書き遺した随筆に一事があった。
もと何に書いて出したのか定かではないが、そのことはありえないともいい難く、またその人品気質とも違わないと思えるので、わしの記憶したものをここにしるす。

あるとき、義経は随従の人と連坐した。
義経は、何か弁慶に憤った。
拳で弁慶の頭を撲(う)った。
弁慶は即ち次に坐す亀井(六郎)の頭を撲った。

六郎は驚いて怒り、曰く。「どうしてわたしを撲つのか」。
弁慶は答えた。「回り撲ちです」。坐中みな笑って事はおさまったと。

※平戸の儒生という所を聞いたことがなかったので少し見たら、『新上五島町観光なび』にこの様な事が書いてありました。
『種子島にポルトガル船が入港したときに王直が「私は明国の儒生及び名は五峰である」と名乗った』と。
また五峰は五島の意味だそうです。

※王直(生年不詳〜1560)中国生まれの後期倭寇の頭目。1543年、種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、日本に鉄砲を伝えたとき、日本側と筆談をしたという。平戸に王直の住居があった。

巻之六十ニ 〈2〉 本多忠勝の法号

ある人曰く。
本多忠勝の法号を西岸寺と云う。

神霊を燈明寺に祀り、映世大神明と称する〈燈明寺下谷にあるのは、巻之ニ十にある〉。
今岡崎候より、正、五、九月には必ず代参がありますと。

また忠勝は甲冑の像で祀っていると云う。
だから従兄本田三楽〈越中守。今退老している〉にこのことを問うと、燈明寺には像がない。
神号を書して祀ると聞いた。

もし参拝されたら、かの寺並びに中の書家に云い遺すように。
三楽家には未だ参詣していないのは、その故にと聞く。

巻之十九 〈17〉 足利将軍13代の像

この頃ある僧に聞いた。

相国寺の中の等持院に足利将軍13代(義輝、1546~1565)の像があって当時の物だった。

十余年前、院から火を出した(文化5年、1808年)。人々は狼狽して、その像を池に投げ入れた。

火は鎮まり、水中から取り上げてみると、その像は塑像(そぞう、土で作った仏像)だった為、みなみな損壊していて姿形が残らずと。
実に惜しい。

巻之62 〈3〉 鳥居元忠が神号

因みに云う。
鳥居元忠(1539~1600:戦国、安土桃山時代の武将)も神に祭り、壬生の城内〈今鳥居侯の城地〉宮居がある。
年々8月朔日〈慶長、元忠伏見討ち死にの日である〉に祭式がある。

吉田家より霊神の許しを得て、神号を林述斎に請うと、精忠と名付けた由、今その地で精忠霊神と専ら唱すと。

(本件関連記事)
巻之六十ニ 〈2〉 本多忠勝の法号 ⇒ こちら

巻之46 〈5〉 忍城 及び 巻之45 〈6〉 忍城追加

忍城(おしじょう)は武州埼玉郡にある。
この城の案内をよく知る人がある。
云う。「この城は城堀がことに多い。だから居住の士が城主の所に出仕するには、多く堀中を舟行きして赴く」と云う。
また門每の内には者頭の宅を構えて、直ちにその門を衛る。
この組下の足軽の小屋はその傍に在るという。
またこの城の上に流れる川がある。
これを引き入れて堀水とする。
よって時日があって、城の下の堀障子を開くと、堀の水がことごとく出去って、乾堀(からぼり)となる。
時に堀底を掃除して、また水を引き入れて満たすとのこと。
この流れを発するとき、魚多く流れ出る。
よって衆人は群衆して、これを争って取る。殊に賑わうという。
この処は北条時代に成田下総守の居城になったという。
この人が築いた所だろうか。

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巻之45 〈6〉
忍城追加

追加する。忍城の堀幅はことに広くて、中々堀を隔てていて互いに人の声がとどかない程であると云う。
道も大抵幅5間ばかりと聞こえる。
またわがなかの士に、忍に縁家がある者がいる。
これは幼少のときに往って覚えていることは、道より水の所までは、段があって下ると云う。
すると道は堀端より高いと聞こえる。
また本城の後ろに林木のある嶋がある。
この処には狐が多く住んでいると云う。

巻之7 〈22〉 石1つ

わしの邸に来る石工が、ある日芸樹(樹芸 草木を植えること)のことに与して、大城に入ることがあった。

還って人に語るのを聞いた。

大城御天守台の石垣は殊に大きな石である。

中の四隅の石は、石1つの大きさ9尺余になると云う。

大城の壮観、思いを馳せてみよう。

続篇 巻之73 〈17〉 JNRI 

この蛮文は、上野国の多湖羊太夫の碑の傍より先年石柩を掘り出した。
その内に古銅券があった。
その表題の字がこんな物だった。
その後、ある人が、蛮書き『コルネーキ』を閲覧して、耶蘇が刑に就く図がある処の像の上に横架を描き、またこの4字を題していた。因みに蛮学通達の人に憑てかの邦の語を糺すと、その義は更に審にしないと。

多湖碑の文は、和銅4年3月とある。
この年は元明の朝(元明天皇(660〜721年)の朝廷)で、唐の睿宗(えいそう、唐の皇帝662〜716年)の景雲2年(711年)である。
今天保3(1832年)年を距(へだた)たること1122年。
するとかの蛮物は如何なる物なのか。
古銅券と横架の文と同じきこととは、疑うべきである。
また訝るべき物か。
前編63巻に、この碑下より十字架を睹(み、見分けるの意)出したことを挙げておく。
これと相応じることとなるだろう。

尚識者の考えを俟(ま)つ。

750_n.jpg

巻之46 〈12〉 諳厄利亜(アンゲリア、現イギリス)の舶

過ぎし文化5年8月に諳厄利亜(アンゲリア、現在のイギリス)の舶による長崎の港内で狼藉が有った。
その時に、福岡、佐賀両侯の人数は、追々長崎に赴し中、福岡より兵器を海運し、平戸の迫門(せと)を船ども昼夜となく陸続きにして通ったという。

そのさまは、図の如し(写真参照)。

1886_n.jpg


船に所載した石火矢は2挺(先にぬけ出て進む)になるものもあるし、4挺なるも有り。
船数は計りがたいと聞いた。
福岡も大家であったということだ。

三篇 巻之61 〈7〉 石垣上手の清正公

加藤清正は石垣が上手で、ある人が云うには、某が肥後に往ったとき、隈本城の石垣を見て、高いけれどもこばい隠(ナダラカ)で、捗(のぼ)るべく見えるまま、かけ上がると、4、5間は捗られる。が、石垣の上から頭上に覆いかかって、空が見えない。
そのためそのままかけ下るのだという。

またこの頃ある人が語るには、大城丸大手、御橋内御曲輪(クルワ)の石垣も、清正が築いたのである。
それゆえ、御城御取り建てのとき、清正は石垣が上手であると、台命(将軍の命令)が有って、清正自身の指図で築いた所だという。

因みに今も、北は西丸大手の隅(カド)から、西は三角(ミスミ)矢来(ヤライ)までを清正石垣、または加藤土居と呼ぶ。

またこの云々は、『白石随筆』、『岩淵夜話拾遺』にも出すとのこと。
わしは類焼後、坐右の焚書亡くして、引用することが出来ない。

3篇 巻之61 〈3〉 大内桐金襴

脇氏高安彦太郎も古き家なので、奈良以来の旧談も多い中に、豊臣太閤から賜いし陣羽織を、年歴たると今はかの装束の角帽子(能で被るもの)に為し更して家蔵とした。

ある日携えて来てわしに示した。
外包に記して云う。「秀吉公から拝領した金襴大内桐角帽子、彦太郎曰く。
大内桐とは、かつて防州の大内氏全盛のとき、貯置きし漢渡りの物なのを、後太閤は獲て、陣羽織と為さられたと。
またこの物は大御所公が御当世のとき上(たてまつ)られて、御覧あられた」と。

またかの家は、神祖より恵賜の能の狩衣が有る。
紺地金紋に巴をついている。
因みに彦太郎の家紋は今は巴を用いると。

大内桐金襴の略図〈紺地金紋〉

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