巻之一 三ニ 加藤清正の石垣造り

加藤清正は石垣造りの名人である。

現在の肥後の隈本城(原文ママ)の石垣は元々高いと言われる。

裾から走り上がりると最初の23間(1間=1.818㍍、2間=3.636㍍、3間=5.4547㍍)は楽に上がることが出来る。

だかそれより上に上がっていくと頭より上に、石垣がのぞきかかっていて、空が見えなくなっている。

伝わり聞くには、清正が自ら築いたと箇所だという。

これは隈本に行った者の話である。

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巻之六十 七 飯沼弘教寺の駕籠

下総の飯沼弘教寺に前から駕籠がお堂に釣ってある。
住職の代替わりには必ずこの駕籠のもとに参り、拝むこと。
これをしなかったら、祟があると。
この中に、東の丸殿と申される方の霊がお出でだと。
または婦人の姿が現れるとも。弘教寺の住職に聞いたまま記した。

巻之九十六 一三 駒込勝林寺

駒込勝林寺は田沼候の寺で、妙心派の禅宗である。
この寺は前は貧しい寺であったものを、故田沼候閣老が時めくときに、大修理をして今の大づくりになった。
そのころ、候が参内なされ、住職に向かって申されたことは、檀家の縁が深いので寺もこの様に立派にいたした、と。
(だから、お寺側も)満足であろうという態度でいた(候に対し)住職は喜ぶ色を失い、答えるには、寺は(立派か否かを)論ずるまでもありませぬ。
ただ、候の(これから先の)御成り行きを心もとなく思うばかりであります、と。
はたして和尚の云うようにはならなかった。
この僧の名を聞いていない。折を見て、聞いてみよう。
印宗和尚の話。

※完全に未来を見通せる人はいないでしょう。でも悪い未来は変えるのが、人が持つことを許された知恵かな?

巻之四十四 一〇 佐和山城は仮りの処(倹約質素)

佐和山城が落城した後、石田は十八万石だから、居所はさぞ華麗だろうと人は見るが、みな荒れた壁で上塗りして綺麗にしないし、中は板張りのまま、庭は木を植える様子はなく、手水鉢も粗末な石のままなので、人々は案外とそうだと受け取っている。三成の有り様を考えれば、倹約質素の計らいであって、佐和山は仮りの処と思っている心根だよと、人々はその狼心(卑しい心)を暁っているとのこと。

巻之一 一〇 木作りの刃のない小脇差

赤穂の義士大高源吾は赤穂藩改易の前は、按摩医者になって米沢町の裏家に住んだ。
その時常に木作りの刃のない小脇差をさして、往診に出かけた。
その小木刀に自分で読んだ一首が彫られていた。
人きれば をれもしなねばなりませぬ
  それで御無事な木脇指さす
この歌を味わいながら、始終おもんばかる志しを知るべき。当
年見た人はどれだけ感慨深かったであろうか。

巻之四 二三 金成村八幡社の鈴

近藤重蔵曰く。
奥州栗原郡仙台領に金成(カンナリ)村がありそこに八幡社がある。その地から鈴が一つ掘り出された。その鈴には八字刻まれていた。福寿延長子孫繁栄の、文也。伝えて云うには。かの地はむかし黄金商橘次信高という者の宅跡で義経がまだ遮那王のとき、鞍馬から随従して陸奥に下り、秀衡のもとに入るときまずここに滞在し、それから秀衡に託したという。この鈴はその宅跡の辺りで過ごしたときに得たらしい。思うに橘次が所有していた物でないか。

巻之六十一 一五 柏筵が江島へ贈った短冊

先年、江島(江島生島事件の一人)という大城(ここでは敢て本文通りに)の大年寄りが、歌舞伎芝居に行き、桟敷で身を持ち崩したことは世間のいう通りである。
この時、柏筵(はくえん、時には白猿、後の市川団十郎)は名高く、折しも景清の狂言を演じていて、江島が桟敷にこれを招いて人に誇ろうとしたけれども来なかった。度々江島は、柏筵を呼ぶので、柏筵は句を短冊に記して贈った。
  景清は桟敷へ顔を出さぬ者
これで柏筵は、かの難を逃れたとな。

巻之七十七 五 富士の裾野での鏃(やじり)

柔術起倒流の師白亭が大鏃(おおやじり)を集めているという。
近頃富士の裾野の樵が山中に入って木を伐っていると木の奥から鏃が出たのだと。
木の在所は人は滅多に入らない処で、頼朝さまが囲い狩をなさった時に射られ入り込んだのだろう。
遺鏃は、樵が持っていたものを三嶋駅の人が伝え聞きして、貰い受けたもの。
白亭は噂を聞きつけ、三嶋の人に頼んで貰ったと。
これは図にした(写真)。
鏃は実に大きな物で、古人の弓の力量がしのばれる。
ここでいう近頃とは、五六年前である(古人と比較すれば)近いことである(寛政八年丙辰三月記す)。


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巻之十一 ニ四 櫓から日傘を出される事(矢留の傘)

能役者喜多七大夫の祖は、右京と云って太閤秀吉の近習士であった。
七大夫の家の伝によると、大阪落城の時右京も城内にいたが、大野修理は早く傘を櫓から出して振るようにと云う。
右京はそれに従って天守に上り、日傘を出して振ると、雲霞の様に集まる寄り手がみるみる減っていった。
又城中の婦女雑役の者太達は、城より出る格好になり、右京も故郷筑前に落ち帰ったと云う。
ただしこれは表向きの話である。
実は落城の時、関東の御内旨によって秀頼は薩摩に落ちてゆかれるのに、右京も従って行ったと云う。
この櫓から日傘を出される事を矢留の傘と云って、ならわしなのだと云う。
だがどうした訳が詳しくはわからない。
これを七大夫の父、湖遊が語ったそうな。

巻之五十六 〈七〉 城の建つ地は時代により移り行く、目の前の事になると気づかない

林子が語った。
城の建つ地は時代により移り行くものだ。
だから、造り替えねばならぬ物である。
山城などは水地と違い地勢も変わらないが、その時の敵のいる所により要不要になってくる。
注意して言うならば、照祖参遠に坐す時は、金谷駅の上の諏訪原(牧野平とも云)の城はなくてもいいのではないか。
これは甲州押への為に。
甲州亡き後はこの城はいらないかと。
だから、廃城になる。
世の人は、この意味も知らず、深く考えることもなく、某の所の古城跡は天剣の地なので、どうして廃するのかと云うのは笑える。
また慶長仲、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、城から川の水が低ければ、水車で城内へ水を汲み入れたものだ。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりで実用的でなく、出水ごとに淀城はいつも氾濫の被害を被っている。
これは河道が変わったことで、当年築城の時の地勢ではないのである。
古今の変わり様に通じてなくて、城の利不利などを評する人が往々にしているものだ。嘆かわしい。
この他、海に害をなした城によって、今は海が乾いていき、いつか田になるかも知れぬ。
また城門の前の間地も、後に間近く家をたて連ねたものも多い。
これらは事に臨む時に焼き草となるかも知れぬと。林子が云うのだ。
西征の時に、諸国の城地を目撃して、意中に心得難い事が多いのだ。
そもそも城ばかりでなく、着具なども同じ事である。
先祖の具足だと言って貴び蔵に入れて置くのはよい。
それを自身も着ようと思う輩もまた多い。
それは人それぞれ大小肥痩せあれば、今当てて、我が用にするために乳縄でつくり直しても役に立たないのだ。
某が若い時は痩せていて、中年より肥えた。
既に年少の時の乳縄は今とはかなり違っている。
一人の事でさえこの有り様。
これら、目の前の事になると気づかない。
着具をつくり変えることも知らず、いたずらに月日を過ごす武家は、実に太平の余沢(先人が遺してくれた恩恵)に潤い過ぎるというものである。

巻之六 〈二六〉 血判をする時の教え

誠嶽君〈誠信、肥前の守〉、清(静山公の隠遁前の名前、本名)に謂われたことは。
「我は御代替わりの誓詞を両度まで老職の邸にて為た。
その時、座席に小刀を用意してあるが、その小刀で指を刺すと、出血が気持ちよくなく、血判はあざやかにならない。
だから大きな針をよく磨いて、懐に忍ばす。こうして、その事をやるのだぞ。
また予め膏薬を懐にして、事あればこれをつけるとよい」と給われるので、清も当御代替わりの誓出血の時は、教えの様に針を以て指を刺したが、快く血が出た。
血判の表も恥ずかしくなかった。
その席を退いて血流が止まらなければ、そく教えを以て用意した膏薬を傷口につけたら、血は止まる。
その教えは、かたじけなきことであった。

三編 巻之ニ十七 〈五〉 片桐家紋、豊閤紋服の紋

わしが若冠の時、木下肥後守〈利忠退老して号長及ぶ〉は叔母の夫として、しばしば頼り登宮の助けをも為された。
この木下の知己で、片桐石見守〈貞芳〉をも時として頼んだ。
石州は、四十余り五十にも及ばない人で、わしが邸に来ても天祥院殿とは、先祖も他ならぬ因縁もある等語られた。
この人ある時、着服の紋所に丸さニ寸位の中に、鳶の翼を張って立っている形があった。
傍の客に語るには、これは家に結所ある紋所で、時としては着物中に紋に用いることがあると語っている。
先年の久しい様を思い返していると、近頃一斎〈佐藤捨蔵〉と談笑することがあって隠荘に招いて、かの紋服を着てやって来た。
打ち解けて語る内に自ら云った。
今の片桐候の〈この片桐候は、名を貞信、石州貞芳の孫で文学あり。
一斎の門人〉賜である。
この祖先に豊太閤から下されたもので、豊閤紋服が伝わっているとのこと。
わしはこれに於いて、初めてその由緒を知った。
一斎はまた云った。
「ひそかに思うのだが、この円形は日輪の象(カタチ)で、日光が及ぶ所の表である。
鳶は我であり、鳥は取るなればこそ、天下はみな我が執(トル)ところと謂う表章である」。
わしはこれを聞いて、その言った事を信念にした。

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三篇 巻之ニ十九 〈一〉 肥前国風土記の話

『肥前国風土記』から
大家島。昔、景行帝の御宇、巡幸の時にこの村に土蜘蛛がいた。
名を大身という。
皇命を拒んで、降服(まつろ)うことを肯ず。
天皇、勅命して殺して滅ぼした。
それから、白水郎(あま)ども、この島に就いて、宅を造り居んだ。
だから大家の島という。
島の南に巌がある。鍾乳(いしのち)と木蘭(もくらに)とある。
廻縁(めぐり)の海には、鮑、螺(にし)、鯛、雑魚、及び海藻、海松と多い。
この島は今は大島と呼んで、城下から海上三里の北にある。
なるほど『風土記』に載る様に巌がある。けれど島南にはない。
三つある巌の内、二つは東方にあって南に向く。一つは西方にあって西を向くと。
島の人に聞けば、巌の入り口は凡そ三間もある様で、高さは一丈とも云えるだろう。
深さは知れないが、波が打ち入る響きから察すると、十間余りにも及ぶだろう。
西方の巌も、深さはおおよそ前記の様で。
この余に小巌は処々にあると。
この余に、西方の巌前に、障子巌と呼ぶ石がある。
海中から立って、高さ三四丈ほど、横十間に及ぶ。その下、潮が通じる孔(みち)があって南北に満ちては退(ひ)く。
また島の北に裏海(いりうみ)がある。
入ると一里余り、されども北向きに波が荒く、泊船はやり難い。
この遥か対するは朝鮮国である。
このニ処は『風土記』にも載せていない。
また今領内の輩もかの島の海巌を知らない。還りて数歳の昔をこれに載せた。

※丈=10尺=3.03㍍

巻之六 〈一〇〉 水戸の瑞竜寺(西山義公墓所)

水戸の瑞竜寺は、余程高い処のようだ。
この山上には西山義公を葬られている。
これは公の遺命とのこと。
かの家の老職、中山信敬〈備中守実文公の弟〉交友の人から聞くには、かの山は一岩石にしてことに険しいと。
その岩石に穴を開けて棺を穴中に入れたのだと。
その話題は、源文と諡をした黄門殿の葬り方である。
この頃また聞く。かの藩の立原翠軒が云うには、穴を開け葬った後、岩を砕いた石屑で棺を填めた。
十年に及ぶ頃には、必ず融化して、元の天然岩石に帰すとのこと。
誠に不朽の挑域である。

続篇 巻之五十八 〈六〉 御石火矢台(大砲)

長崎港は異舶が入津する処で、山岸三囲、ただ一方が通じる。
その岸に砲場を七処に置き、大砲を設けた。
御石火矢台という。場に地形の高低はあるけれども、その設備は一つである。
この場は、昔年わが天祥院忠志の旨を申し上げ給い、官の許しを承りこれを設け始めたのだ。
また今年天保辛卯には、紅毛の貢物を保護して長崎の小通詞今村四郎という者が出府した。
わが荘に識る者があるので訪れた。その間の話に曰く。
長崎の御台場、近頃福岡、佐賀の両侯より修繕を加えられるという事、石垣を高く築き上げられて、見分けは立派に見えるが、この頃入津の蛮長(カピタン)が語るには、砲台高壮といえども、もし砲を発しても届かないし、船舶には当たらずみな上を超えるだろう。
古い昔の砲台のごときは、ことごとく船舶を的にしながら失鉛(アダヤ)である。
清(わし)は思うに、天祥公は武器の備えに長しながら、かつ官家に忠義なること、今に至って益々その遺念の在る所を知る。
残念なことには、筑前の両侯は見分けを専らにして実用に及ばず。
あまつさえ蛮奴の笑いを招く。嘆かわしい。

続篇 巻之五十六 〈一〉 古い鏃(やじり)

先年松屋与清が、ある人か富士の裾野で得た古い鏃(やじり)だとわしに贈ってくれた。
写真参考。
このものは、世で云われる頼朝卿が行ったかの地で牧狩りのときに、兵士が射捨てた遺物であろう。
これを見れば、古人の弓の力は今より優れると思った方がよい。
『将軍譜』をよく調べてみると、卿が富士野で狩ったのは、建久四年夏のことで、今に至って六百三十八霜。
古物が存在したことは、よいことであった。
またわしの平戸の蔵には、富士の裾野で得た古い鏃がある。
全く当時の物である。これは平根て、まあ大きな鏃である〈文政庚寅〉。

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続篇 巻之十 〈五〉 「明石の浦はいかに」

一日瞽者が『平家』をかたるのを聞き、鱸(スズキ)と云う句の中に
ある時忠盛は備前の国より上られて、鳥羽院は「明石の浦はいかに」と仰せられると、忠盛はかしこまって、
 有明の月もあかしの浦は風に
      波ばかりこそよるとみえしが
と申されると、院は大いに御感動され、やがてこの歌は『金葉集』に入れられるだろうと云われた。
『金葉集』を見ると、月のあかかりける比(ころ)、明石にまかりて月を見てのぼりたりけるに、都の人々、月はいかにと尋ねければ、
            平 忠盛朝臣
 ありあけの月も明石のうらかぜに
       なみばかりこそよると見えしか
季節を吟じる標注に、ありあけの月も明石では、波ばかり寄(よる)とそえて、夜とは見えなくて、ただひるの様にあかかりし(明るし)という心であろう。

この歌は『平家物語』にも書かれた。

続篇 巻之八十ニ 〈一二〉 『武家事紀』『耶蘇天誅記』

武家事紀』に、志津ヶ嶽合戦〈秀吉、勝家との戦いである〉のときに、坂口上の要害に高山右近、海山の要害に中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。

天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえた。

折節、清秀は馬のすそを冷やして、髪もまど結っていない。その中に高山が来て云うには、「柴田の軍勢は、ただ今押し寄った模様。然らば海山の要害は甚だ浅間である。高山の坂口の要害の一所につぼみ然るべきだろう」と云った。

清秀はすぐにすそを致しかけた馬に裸背で、うち乗り、海山の要害四方を巡検した。帰って云うには、未だ屏の手も合わないので、これを勢いよくはしり、坂口にいたらないのは然るべきでない。

その上面々の受け取りは。高山は坂口に、清秀は海山で最必死になるようにとのことで、高山を返した。

その内に政盛の先手が四方より押し入り、根小屋を焼いた。清秀は兵を卒して突き出ていき、戦死した。高山は坂口の要害を出て、大元(本部)に退いた。秀吉は、清秀の死を忠義の死と感じ入ったようだ。

わしはこの頃の合戦は殊に不案内なので、云い分は食い違うだろうが、以上の文を検分してみたい。中川は義勇、高山は潔くない。高山氏がかつて南蛮宗であったことは前にも触れたが、家紋に今でいう十字架を用いていた。

これはさて置き、高山が専ら南蛮宗であることは、諸書に伺える。南蛮宗は自らの死を嫌い、人手によって死することを旨とする。

関ケ原の後、石田、高山、小西の成果を見ればわかるだろう。中川、高山は共に南蛮宗だが、中川は義勇、高山は然らず。

清秀は、かの宗法に違える所であるが、忠勇の執る所にて、上天感応して今に逮んで歴々たる諸侯の中にある者はもっともなるか。

また高山の成り行きは『武家事紀』にある。「高山右近は、南坊を号され、後前田利家に仕えた。南蛮耶蘇の邪法を堅く守り、慶長十九年三月に内藤飛騨守と同じ船で、南蛮国に到った亅。

この年は台廟将軍と成られ給いた後、大阪が落城する前年なのだ。

『耶蘇天誅記』に云う。慶長十九年〈申寅〉九月廿四日、摂津国高槻の城主高山右近友祥は兼ねて切支丹宗旨に拘泥し、親類縁者種々異見を加えるが許容せず、終に台名に戻り、今日南蛮国のうちジャガタラへ追放された。

内藤飛騨守もかの宗門を信じて、上意に背いた間、同じ罪に処せられマカオへ追放された。また長崎辺りの伴天連徒党の輩からも百余人、一同に長崎の湊より船に乗せ、今日マカオへ追放とのこと。

〈これについて、一話が残る。

長崎は初め専ら南蛮人の商いの港であり、今の阿蘭陀人の商館は以前は南蛮人が建築した。今の出島も、その時の有り様を伝えよと云う。

またその頃来津した南蛮の中に少年がいて、こう云ったという。『僕は日本人だよ』。けれど衣服はすみずみまで南蛮製であり、言葉もみな南蛮辞である。

だからそれを信じる人はいなかった。南蛮少年はある時、護り刀と我が国の文字の書を出した。人はこれを視ると、高山右近がかの国へ渡った後、我が国に遺した幼児がいて、乳母が窃(ひそ)かに長崎へ伴い、かの国人に託した。そうしてそこで成長した幼児が故郷に再び帰ってきたのだということ。

この頃は禁令もゆるくなったか。

少年は長崎に留まり、蛮医(外科)を学び術を得た。これを暮らしの糧とした。

名前は栗崎道意と称する。これよりこの治療が広まり、今の南蛮流と呼ぶ外科述は、この道意の流れであると云う。

今、西城の御医栗崎道枢と称する等、もしかしたら医孫なるか〉。

続篇 巻之八十ニ 〈一三〉 赤穂義士夜討ちの前年の話し

前に記した、南蛮へ追放した高山右近の子の栗崎道意の孫も長崎に住んでいたが、元禄中にある夜中この親のもとに人が来た。怪我人が数輩。治療を給わりたいと云う。

折ふし親は出ていて、十歳ばかりの孫が迎えの者について赴いた。西浜町長久橋の上に附した怪我人を見ると、一人ならず深手の者がいる。いちいち切傷治療の法を用い(治療を終えて)帰った。親も帰っていて、その由を物語れば、始末の一つ一つに行き届いているので、親も賞美し、余人も十歳の手並みには珍しいとほめた。

この怪我人が出た訳はこんなことであるー。

その頃御代官高木氏の本家彦右衛門は、御用物方を勤めて富潤い、家僕も多く仕い、ますます豪奢に及んだ。

ある日その新生児を産神へ参詣させる中、佐賀の家臣鍋島某の家来が用事があって、主の住所、深堀より市中に出たが、これと行き合った。雨後のこと、彦右の僕へ泥土を跳ねてしまった。

僕等は、無礼であるぞ!と云うので、鍋島の家来は過ちを謝するが、聞き入れず遂に打ち、投げるに事が及んでしまった。

(鍋島の)家来は忍んで帰った。が、深堀から その輩廿余人を党して、舟路に回り夜中、高木の宅西浜町に到り、押し入り、家内くまなく切害(殺害)した。

その近所の橋に引き取る中、手負いの者の治療を乞うたというのだ。

これよりその党はみな深堀へ帰り、この意趣を述べ終わるとことごとく腹切りて死した。今は深堀の寺内にこの数輩の墳墓が並び立ち、江戸泉岳寺にある義士の墓に似ているとのこと。

また云い伝えるー。

この年は赤穂義士夜討ちの前年であり、義士の輩はこの事を伝聞して、胸中密かに復讐の事を促したのではないか。長崎の所伝、この様だと云う。

巻之一 〈一ニ〉 天川儀兵衛の話し(赤穂浪士復讐)

我が師皆川氏が話されたことー。

浄瑠璃本に書かれた天川儀兵衛は、その実尼崎屋儀兵衛と云って、大阪の商人で浅野内匠頭の用達である。

大石内蔵助復讐の前、着込みの鎖帷子を数多く作ることを預かっていたが、町人の武具用意と云う風聞があって、官の疑いがかかり、呼び出しがあり吟味があっても決して言わなかった。

拷問すれど言わない。終にその背をさいて鉛を流し入れられたが白状しなかった。

あまりにきびしい拷問に死にかけたことは、幾度もあった。

けれども白状しないので、久しく牢にいたが、江戸にて復讐があったと牢中で聞いた。

儀兵衛が改めて申すには追々御吟味のことを白状したしとなった。

すなわち呼び出して申し口を聞くと、その身は浅野家数代が出入りしていたので、厚恩を蒙る者であった。

かの家が断絶した後で大石は格別に目をかけて、一大事を某に申し含んで、江戸では人目があるからと、この地で密かに鎖帷子を作っていたということ。

全く公儀への野心ではない。はや復讐成就してからは、如何様にもお仕置き願い奉ると云った。

これを聞いて奉行はじめその場に居合わせた人々は、涙を流さない者はなかったという。

そうしてゆるされて獄を出て、家に帰った。

殊に長寿で九十ばかりで没したという。

時に人は、往時を語り、「これを見られよ」と肌を脱いで、背に鉛の残ったものが、一星、ニ星ずつ肉が出ていた。

観る者は身の毛もよだつようだったそうだ。

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