2020/05/06
巻之一 三ニ 加藤清正の石垣造り
加藤清正は石垣造りの名人である。
現在の肥後の隈本城(原文ママ)の石垣は元々高いと言われる。
裾から走り上がりると最初の2〜3間(1間=1.818㍍、2間=3.636㍍、3間=5.4547㍍)は楽に上がることが出来る。
だかそれより上に上がっていくと頭より上に、石垣がのぞきかかっていて、空が見えなくなっている。
伝わり聞くには、清正が自ら築いたと箇所だという。
これは隈本に行った者の話である。
松浦静山公の随筆「甲子夜話」を語りのお稽古として紐解いています。
2020/05/06
加藤清正は石垣造りの名人である。
現在の肥後の隈本城(原文ママ)の石垣は元々高いと言われる。
裾から走り上がりると最初の2〜3間(1間=1.818㍍、2間=3.636㍍、3間=5.4547㍍)は楽に上がることが出来る。
だかそれより上に上がっていくと頭より上に、石垣がのぞきかかっていて、空が見えなくなっている。
伝わり聞くには、清正が自ら築いたと箇所だという。
これは隈本に行った者の話である。
2020/06/01
2020/06/06
2020/06/08
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2020/10/05
2020/10/06
2020/11/06
2020/11/12
『武家事紀』に、志津ヶ嶽合戦〈秀吉、勝家との戦いである〉のときに、坂口上の要害に高山右近、海山の要害に中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。
天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえた。
折節、清秀は馬のすそを冷やして、髪もまど結っていない。その中に高山が来て云うには、「柴田の軍勢は、ただ今押し寄った模様。然らば海山の要害は甚だ浅間である。高山の坂口の要害の一所につぼみ然るべきだろう」と云った。
その上面々の受け取りは。高山は坂口に、清秀は海山で最必死になるようにとのことで、高山を返した。
その内に政盛の先手が四方より押し入り、根小屋を焼いた。清秀は兵を卒して突き出ていき、戦死した。高山は坂口の要害を出て、大元(本部)に退いた。秀吉は、清秀の死を忠義の死と感じ入ったようだ。
わしはこの頃の合戦は殊に不案内なので、云い分は食い違うだろうが、以上の文を検分してみたい。中川は義勇、高山は潔くない。高山氏がかつて南蛮宗であったことは前にも触れたが、家紋に今でいう十字架を用いていた。
これはさて置き、高山が専ら南蛮宗であることは、諸書に伺える。南蛮宗は自らの死を嫌い、人手によって死することを旨とする。
関ケ原の後、石田、高山、小西の成果を見ればわかるだろう。中川、高山は共に南蛮宗だが、中川は義勇、高山は然らず。
清秀は、かの宗法に違える所であるが、忠勇の執る所にて、上天感応して今に逮んで歴々たる諸侯の中にある者はもっともなるか。
また高山の成り行きは『武家事紀』にある。「高山右近は、南坊を号され、後前田利家に仕えた。南蛮耶蘇の邪法を堅く守り、慶長十九年三月に内藤飛騨守と同じ船で、南蛮国に到った亅。
『耶蘇天誅記』に云う。慶長十九年〈申寅〉九月廿四日、摂津国高槻の城主高山右近友祥は兼ねて切支丹宗旨に拘泥し、親類縁者種々異見を加えるが許容せず、終に台名に戻り、今日南蛮国のうちジャガタラへ追放された。
内藤飛騨守もかの宗門を信じて、上意に背いた間、同じ罪に処せられマカオへ追放された。また長崎辺りの伴天連徒党の輩からも百余人、一同に長崎の湊より船に乗せ、今日マカオへ追放とのこと。
〈これについて、一話が残る。
長崎は初め専ら南蛮人の商いの港であり、今の阿蘭陀人の商館は以前は南蛮人が建築した。今の出島も、その時の有り様を伝えよと云う。
またその頃来津した南蛮の中に少年がいて、こう云ったという。『僕は日本人だよ』。けれど衣服はすみずみまで南蛮製であり、言葉もみな南蛮辞である。
だからそれを信じる人はいなかった。南蛮少年はある時、護り刀と我が国の文字の書を出した。人はこれを視ると、高山右近がかの国へ渡った後、我が国に遺した幼児がいて、乳母が窃(ひそ)かに長崎へ伴い、かの国人に託した。そうしてそこで成長した幼児が故郷に再び帰ってきたのだということ。
この頃は禁令もゆるくなったか。
少年は長崎に留まり、蛮医(外科)を学び術を得た。これを暮らしの糧とした。
名前は栗崎道意と称する。これよりこの治療が広まり、今の南蛮流と呼ぶ外科述は、この道意の流れであると云う。
2020/11/13
前に記した、南蛮へ追放した高山右近の子の栗崎道意の孫も長崎に住んでいたが、元禄中にある夜中この親のもとに人が来た。怪我人が数輩。治療を給わりたいと云う。
折ふし親は出ていて、十歳ばかりの孫が迎えの者について赴いた。西浜町長久橋の上に附した怪我人を見ると、一人ならず深手の者がいる。いちいち切傷治療の法を用い(治療を終えて)帰った。親も帰っていて、その由を物語れば、始末の一つ一つに行き届いているので、親も賞美し、余人も十歳の手並みには珍しいとほめた。
この怪我人が出た訳はこんなことであるー。
その頃御代官高木氏の本家彦右衛門は、御用物方を勤めて富潤い、家僕も多く仕い、ますます豪奢に及んだ。
ある日その新生児を産神へ参詣させる中、佐賀の家臣鍋島某の家来が用事があって、主の住所、深堀より市中に出たが、これと行き合った。雨後のこと、彦右の僕へ泥土を跳ねてしまった。
僕等は、無礼であるぞ!と云うので、鍋島の家来は過ちを謝するが、聞き入れず遂に打ち、投げるに事が及んでしまった。
(鍋島の)家来は忍んで帰った。が、深堀から その輩廿余人を党して、舟路に回り夜中、高木の宅西浜町に到り、押し入り、家内くまなく切害(殺害)した。
その近所の橋に引き取る中、手負いの者の治療を乞うたというのだ。
これよりその党はみな深堀へ帰り、この意趣を述べ終わるとことごとく腹切りて死した。今は深堀の寺内にこの数輩の墳墓が並び立ち、江戸泉岳寺にある義士の墓に似ているとのこと。
また云い伝えるー。
この年は赤穂義士夜討ちの前年であり、義士の輩はこの事を伝聞して、胸中密かに復讐の事を促したのではないか。長崎の所伝、この様だと云う。
2020/11/15
我が師皆川氏が話されたことー。
浄瑠璃本に書かれた天川儀兵衛は、その実尼崎屋儀兵衛と云って、大阪の商人で浅野内匠頭の用達である。
大石内蔵助復讐の前、着込みの鎖帷子を数多く作ることを預かっていたが、町人の武具用意と云う風聞があって、官の疑いがかかり、呼び出しがあり吟味があっても決して言わなかった。
拷問すれど言わない。終にその背をさいて鉛を流し入れられたが白状しなかった。
あまりにきびしい拷問に死にかけたことは、幾度もあった。
けれども白状しないので、久しく牢にいたが、江戸にて復讐があったと牢中で聞いた。
儀兵衛が改めて申すには追々御吟味のことを白状したしとなった。
すなわち呼び出して申し口を聞くと、その身は浅野家数代が出入りしていたので、厚恩を蒙る者であった。
かの家が断絶した後で大石は格別に目をかけて、一大事を某に申し含んで、江戸では人目があるからと、この地で密かに鎖帷子を作っていたということ。
全く公儀への野心ではない。はや復讐成就してからは、如何様にもお仕置き願い奉ると云った。
これを聞いて奉行はじめその場に居合わせた人々は、涙を流さない者はなかったという。
そうしてゆるされて獄を出て、家に帰った。
殊に長寿で九十ばかりで没したという。
時に人は、往時を語り、「これを見られよ」と肌を脱いで、背に鉛の残ったものが、一星、ニ星ずつ肉が出ていた。
観る者は身の毛もよだつようだったそうだ。
Author:百合の若
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