巻之十 一 婦人の容貌風俗は変る

久昌(きゅうしょう)夫人(静山公のお祖母様)が仰せられた。

流行は移りかわるものであると。

わたくしが若いころは、劇場の女形役者が高い身分の奥方を真似ていたのもだった。

(ところが)今どきの高い身分の奥方は女形役者の真似をして、それを恥ずかしいと思うこともなく、さらに誇らしげに人前に出ている、と。

なるほど(そう仰せられてから)30年を超えた今も婦人の容貌風俗が様々に変わっていくさまは限りなしである。

巻之61 〔25〕 川越の名の由来

川越の名は何が由来なのか。

その土地の人に聞いたら、上方から奥羽に下る者は、中山道を経て、熊谷駅から右に入り、松山を過ぎて、入間川を渡る、と。

川の地だからこそ、そう云うのだど。

今の川越のお城下は川を隔てること一里半である。


巻之61 〔27〕 銭湯の辞

ある人は銭湯の辞を語る。

だれが云ったのだろうか。

雀は藪に入ってたけと叫び、鴬は谷を出て、うめよ!と云う。

(風呂では)あついとて、炙るわけではあるまい。

ぬるいとて、凍えるわけでもあるまい。とかくむつかしきは、ゆの中よ。

あかの他人を入れ混んで。

巻之十五 七 琉球使の王子が大和風の歌

先年、琉球使が来られたとき、王子が大和風に歌をよまれたものを書き留めた。

さしたるものではないが、大和という異なる地での一端が見られるので、記録したものである。

扶桑の大樹公が代替りをされたので、慶賀の使として、明和元年の秋にむさしの国に向う途中、肥前国の松浦に至り、追風がなくて十日あまり舟を止めて待っているところでよんだ。

             読谷山王子朝恒

(以下原文ママ)

遂にふく風の便りをまつらがた

     いく夜うきねの数つもるらん

  伏見の里にて月を見て

いつもかくかなしきものか草まくら

     ひとり伏見の夜半の月影

 富士山を見て

人とはばいかが語らん言の葉を

     及ばぬ不二の雪の明ぼの

  霜月初(はじめ)つかたむさしの国にいたりかの所にて月を見て

  たび衣はるばるきてもふる里に

    かはらぬものはむかう月かや

  帰路、浮嶋が原にて

ふじの根の雪吹おろす風みえて

  一むらくもるうき嶋がはら

  深草にて

ふる里にうづらの床もうづもれて

  冬ぞあはれはふか草の里

巻之16 〔2〕 鶴の子育て

6月のはじめに、永井の飛州(飛騨屋敷)に行くと庭に2羽の鶴を飼っているという。

この庭籠(にわこ)の中にて卵を産むのかと聞いた。

もちろんと答えが返ってきた。

どうやって巣を成すのかと又聞いた。

巣をなそうとする前に、藁を馬の敷き藁のように入れておけば、これを地面にひき散らしてその株を設けたようになる。

その中に卵を産む、ただ2つだけなと答えが返った。

この2つは必ず雌雄だとも。

夫と妻はかわるがわる卵を温め、必ず嘴を使い卵を転ばして、違ったことがあればただして巣にもどす。

これははなはだ厳格にやっている。

また親鳥は雨に逢おうとも、雨を避けずに動かない。

世にいう鶴の巣籠りというが、木の上で巣を成して子を育てるのと変わらぬ。

飛騨はまた言った。

この鳥の水辺での様子をみていると、汀より水中に動く時、足が(長いので)水底に届く間は歩くが深くなると水に身体を浮かせて動く。

向こうの汀に至っては、足が底に届くようになると、最初に汀にいたごとくである。

珍しい話であった。


当時の鳥に対する認識が今と違うのでしょうか。そんな印象を受けました。

巻之四十五 一ニ 仙台家中の酒宴

仙台家中の酒宴には、飲み終わると盃を伏せるとのこと。

よって酒はここで止める様言って、客も同意すれば、亭主も盃を伏せる。

客の酒を固辞するにもまた伏せるという。

巻之四十五 ニ六 はしか(病)と禁忌

去年、西国よりはしかがはやり、この春は東都に及んだ。

官医中川常春は、はしかを治す書を記し、人々に印刷してひろめた。

特に禁忌の事を述べている。

さて、利倉某というおかしな男の事を話したい。

その男、年は50になるが、熱が出てとこに伏せた。

12日は起き上がれなかった。

ある者が見ると、はしかだと。

それで、お前さんははしかだから、薬を渡そう、よく養生をするがよい、というと、その男は、はしかではありません、はやくもよくなりましたよ、といった。

それでそのままにして置いた。

その男が仲間に云った事によると、50になってはしかとは人聞きが悪いとのこと。

それからその翌日は、いつも月代(さかやき)を手入れしているかのように、髪を結って出掛けた。

かつ酒気もあるので、どうして早く回復したのかと聞くと、もう全快したので風呂に行った後、まぐろの刺し身に酒を呑んで来たと。

聞いた者は呆れて、それからはその者の事は捨て置いた。

後日、その者が外出する時、日々駕籠に乗っているが、別にどうと云う事もないという。

 

また、ある人の話によると、吉原町か、どこかある名妓がこのはしかにかかるが軽いので、しばし引き篭もって養生をしたらやがて回復した。

よって(店の)頭もこの様に軽くすむのなら、障りなしとすぐに客を迎えた。

その後朝(きぬぎぬ)より芸妓は再発して遂に死んでしまった。

これで、頭は驚き、この病にかかった他の芸妓には禁忌を守らせたのだという。

命を落した芸妓は鶴屋の大淀という。

続編 巻之25 〔14〕 カマキリと蜂の巣

小虫も知恵深いものである。

平戸にて真壁の某が庭木に熊蜂が巣を作ったのを見つけた(普通の蜂より特に大きく、巣の形はまりの様に大きい。

木屑で造られ、小穴を設けて出入りしている。

勢いよくぶつかることはないが。

ある日カマキリがこの巣に留まり穴の傍にいて様子をうかがっている。

蜂が出入りする度に捕らえ食べている。

日が連なると蜂を食べ尽くし、穴の中に入り、白子を食べ、蜂の種はことごとく尽きてしまった。

巻之七十九 九 羊革の小鼓

故観世新九郎の話によると、家に神代の祖から拝領した羊革の小鼓があると。

その鼓には霊が宿り、時に鳴らないことがある。

ある御能の舞台のときに鳴らないことがあった。

その日雨天ではなく、また何も調子に障ることもないし、色々手を尽くしたけれども鳴らない。

だから代りの鼓で御用を勤めて帰宅したが、やはりおかしいと思い、箱から出して打ってみると、その音はいつも通り良い音がする。

どうしたことか。たびたびこの様なことがあるのだ。

巻之52 〔7〕 家つくり・大工

ある者曰く。ある人のもとに出入りする大工がため息ついて話すことがあった。

吉原が焼け落ちた後(街を再建をするのに)、市中の腕利きの大工どもが争って銘々に建物を建てているという。

昔は、河原者の生業の家は建てないと、それなりに豊かな大工はやらなかった。

かねてより、楼閣に出入りする者がその家を建てていたが、今はかつてそこに出入りしていなかった者までが稼ぎ次第だとばかりに言っている。

利を貪る為ばかりでなく、何屋は誰が造ったと云うのをひろめている。

工人のやることもここまで頽廃したか、と。また劇場の造りも、いま昔は違うという言葉その通りなり。

たまたま、昔かたぎのむかし工人であった老人が云うには、むかしのやり方を守っていたらみる影もないほどに貧しくなってしまう、とのことだった。


家造りは、どの大工はどの界隈と線引きされてお金目当ての競合がなかったものが、お金の為ならばこれまでの暗黙の了解など破っても当然と工人の在り方が崩れたことを嘆いているようです。正論を云っていたら、貧しくなるぞと老工人は嘆いている様です。

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