巻之七十 ニ八 学問が子孫に続くことを願う

昔のことが折々に心に浮かんでくる。

国を治めていたころ、江戸屋敷に学館を立てて、子弟に教育を施し武技を日課にしていた。

また生徒の為に書物をいくばくか置いた。

が、丙寅の災い(文化の大火、文化334日の大火と思われる)にあってしまった。

また就封(しゅうほう〜領地の家督を受けること、場所は平戸と思われる)の始めの頃、学校を興したが、年月代替わりを得て、光輝くわけでもないが、廃止にならずずっと続いている。

これら尚、子孫に続いていくことを心から願っている。

今幸いに江戸の学館の印は灰になることなく残り、封地の学校の印も永く伝わることをここに記す。

予の志は印文に込めていると思ってほしい。



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巻之六 六 いちめ笠とおちめ笠

古画にえがかれた婦人の深い笠の頂に高い形をしたものを被るのを多く見る。

これをいちめ笠というらしい。

またある人がいうには今も吉野の奥の木でつくる深笠をおちめ笠という。

なぜなら、乱世に平氏の人落ち行きて、この山中で製作するものならば、おちめ笠と云うではないか。

しかし、これは後の人間があと付けしたのであって、おちめいちめは語音の転訛である。

吉野にあるものは、古風なままで伝わっていくまでのことである。

巻之二 三四 猫の踊り

先年、角筈村に住まわれる伯母殿に仕える医者、高木伯仙が云う話には、「私は下総国の佐倉の生まれだが、亡き父がある夜眠った後、枕元で音がした。

目を覚まして見ると、永年飼っている猫が首に手拭いをを被り立ちながら、手をあげて招くようにしている。

その様子は童が飛んだり跳ねたりしている様である。

父はすぐさま枕元の刀を取り猫を斬ろうとした。

猫は驚いて走り出し、今は行方知れず。

それから家に帰らなくなった」と。

そんなことだから、世に云う猫の踊りと云うものは迷い事とはいえないだろう。

巻之一 三ニ 加藤清正の石垣造り

加藤清正は石垣造りの名人である。

現在の肥後の隈本城(原文ママ)の石垣は元々高いと言われる。

裾から走り上がりると最初の23間(1間=1.818㍍、2間=3.636㍍、3間=5.4547㍍)は楽に上がることが出来る。

だかそれより上に上がっていくと頭より上に、石垣がのぞきかかっていて、空が見えなくなっている。

伝わり聞くには、清正が自ら築いたと箇所だという。

これは隈本に行った者の話である。

巻之四十ニ 一三 鶴亀の図

「余録」に記す。

鶴亀の図に、亀の尾が蓑の様なことが多い。

絵描きの創作かと思うとそうでもない。

昨春、江戸に居る時、織田雲州(丹波柏原の主2万石)と語った。

曰く。

わしが東に上がる時、遠州金谷に泊まった。

その夕刻、宿を出て、近辺を歩いた。

山の麓の沢に亀が多くいて、みな毛が生えているのだ。

これを捕り瓶に入れて、江戸屋敷に連れ帰ると、みなつつがない様子である。

因って、(雲州に)見てくれないかと請うた。

雲州に1匹贈ると、即座にその姿を写した。

「本草」に緑毛亀とあるのもなるほどと思う。

毛は青色である。また常に描く者は、毛を甲羅の下より描く。

今見ているものは、背面よりみな生えている。

世に出回っている絵とは似ていない(寛政5年に記す)。


藻亀

藻が着いた亀

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巻之四十九 一七 宗教と刺客

今年、遊行上人が持参した文書を見ようと宿にしている浅草日輪寺に行った。

恵充という首席教師の寮で四方山話の中で聞いたこと。

その五十五代の他阿上人(今の上人の先代)が、越後で化益(教化して善に導き利益を与えること)するときに末席の者の中に刺客がいた。

自宗(鎌倉時代に起こった一宗派)の集まりの中にまぎれて、匕首(あいくち)を懐に忍ばせて上人を刺そうとしたが、それが周りの者に知れると、その者は乱心者ということにして、何もなかったことにして済ませた。

が、その者は偏執な考え方をする日蓮や親鸞の僧徒がいるために上人に斬りかかったというのだ。

宗教をやっていて何ということだろうか、不思議。

巻之二 一 葡萄の模様

世間で葡萄の模様をつけることの意味。

武家では忌むことであると。

あの「実が成り下がっている」のは、音の響きから「武道成り下がり」といい当てているのは、忌みか?

これを古いことの様に云う人がいるが、駿府の神祖(家康公)は、御遺器である御掛け硯箱を御生前、常に御座右に置かれていた。

その御箱の模様は実った葡萄だった。

その模様全般に葡萄が描かれ、所々御紋があった。

だから、世間で云う「物忌み」は後の世の人がいい出したことで、古からのいい伝えでないことは明らか。

 

巻之一 二〇 市川団十郎の慎み深さ

歌舞伎役者の市川団十郎は頗る(すこぶる)文史(しるしぶみ、記録)をあちらこちらに出向いては探しもとめて風雅な心もそなえている。

家業を子に譲り、自らを白猿(その祖は歌舞伎の名人であるが俳諧をたしなみ、その名を柏莚-はくえん-といい、代々その名を継いでいく習わしだが本人は祖にも父にも及ばず下手であるといい、音にかけて代々の柏莚は用いていない)。

小ぶりな別荘を本庄にしつらえ住んでいる。

御放鷹など近辺にお成りの時は(上さまが鷹狩を為さるといって近場にお成りになる時は)人にこう言っている。

「河原者の身だからお通りになる路の側に居ることははばかられる」と。

その時はその場を離れ境の本宅に行くと。

またその生業によりその家は富むが、衣服を新調する時はあえて一色のものを用いず、別の色の布地を継いだものを着用する。

云うには、卑賤の家の者が貧しくないからといって美しい服を着るのは身分の上下を考えぬ行いであると。

また自分以外の俳優はそのかつらに天鵞絨(ビロード)を使うが、白猿は黒い木綿で作るとのこと。

その慎み深さはこの通りである。


第何代目の団十郎か判りませんが、ウィキによると五代目の話の様です。

続篇巻十六 六 上総屋今助

江戸の銀主(ぎんしゅ、金持ち)の中でも、上総屋今助はよく知られている。

わしも以前から聞く名である。

この男はかつて劇場で瀬川菊之丞と云う役者の衣装番をしていたが、だんだん出世して、金貸しになった。

また水府(水戸公)の御用をしている内に大久保今助と呼ばれるようになり、駕(かご)に乗り、槍箱を持ち、水戸侯より賜わった葵御門の時服(天皇、将軍より賜った服)を着るほどである。

わしはまだ今助に会った事はないが、傲慢な男なのかと思っていたら、肥州の者(肥州は今の肥前肥後の事、文面から肥州出身で松浦静山と今助を懇意にしている)に話を聞くと既に年齢は70を越し、歩き方はのんびりしているが、豪気な性格であるという。

だから1度会ってみたいと思い、わしを訪ねる様に云うと、では品川の静山さまをたずねるよう申しましょう、うかがう日時は後でお知らせいたしますと応えた。

今助は喜んで、(わし、静山がいる品川の)鮫津にやって来た。

世間のうわさほどにもなく、ただの平凡な老人だった。

(別の)銀主が云うには、今助はかつて虎の門の内藤侯の草履取りをしていて気働きをして出世していった。

また(内藤侯邸をやめてからも) 今助は年頭には必ず挨拶に侯邸に来た。

元日の登城のとき、自分が乗ってきた駕、鎗等は侯邸の門外にのこし置いて、かの(葵の)時服を脱ぎ隠した。

これは侯の草履取りをしていた日々の様に今でも内藤候の家来であるという気持ちを持ち続けていますよと表明しているのだ。

これを聞いて想い出すのは、わしの処で庄次郎と呼んだ駕かきの事である。

後に我が屋敷に召抱え、帯刀を許して勤めさせた。

そんな庄次郎だが何と今助はかつて庄次郎の子分であったのだ。

庄次郎は出世した。今助も富を持った。

庄次郎は年を取り、死を迎えた時に今助は「我は(庄次郎の昔からの)子分であります」と云って、庄次郎の小屋に3日間泊まった。

そして自分の財で葬送を出し、(葬式が)終わるとすぐに去って行った。

今助の行動は昔仕えた者を今でも昔と変わらず大切な主人だと思っている、という事だった。

巻之18 〔16〕 人だま

吉原町西河岸のゆう女が労災によって危篤になったとき、人だまが出て飛び去った。

このとき、屋外を行く人がいた。

これを見て刀を抜いて人だまを切った。

それで娘の病は治ったと云う。

理外のはなしである。

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