巻之四十ニ 一四 赤子の産み捨て

この夏の頃か。
福井町大六天祠の側の米屋の裏に藁くずが多く捨ててある。
下男がその辺りを掃除した。用がありまた通ると散乱している。
不審に思い見ると赤子がいた。前はいなかったのにと合点がいかない。
するとそのかたわらの辻雪隠から、おかあ、出よう、出ようと云う声がする。
戸を開けると三歳ばかりの子を背負うた婦人がいた。
名と何処の者かと問えば応えぬ。赤子は己が捨てた、許して下さいと云って逃れようとする。
男は赤子はこの婦人が産したのだろうと見定めて、産婆を呼んで介抱させたり、駕籠に赤子と共にのせて送ったりしたという。
この婦人、三歳子を背負い、藁の中で子を産し、厠で産の後始末をしていたら、背の子が声を出すので人に知られたという。
婆の賀川が穏やかに語る。
これは下々のこと故、高貴の者には教えという程でもない。
が、わしはここに記しておきたい。

巻之八十七 一 里俗の言葉

平戸領国は辺鄙だが、里俗の言葉に古を観るべきではなかろうか。
当然、わしのいる本庄や浅草屋敷の人は、聞き慣れないわしの方言の訛りを何故訛るのか理由も知らず笑うことがある。
わしはかつて見聞きましたものを「余録」(わしの記録、日記)の中に書いてきたが、見直しここにもう1度書いておこう。
ただ、漏れも多く、未完成であるが。
☆ふりあのく〜頭を上げて上を見ること。
☆あえる〜物が落ちること。落馬を馬よりあえる。
☆えんぼう、えんぼ〜カゲロウをいう。
☆しび〜鮪。京都はつ、江戸はまぐろ。
☆はかり〜射当てた獣が逃げる際、血がしたたり脚を引きずるさま。
☆はこ〜小児が大便をすること。
☆まぶし〜身を隠して鹿猪が来るのを待ち伏せるところ。石の陰、小柴などを折り指して陰にするところ。
☆よか〜ことの宜しき、好き、善きをいう。
☆うれ〜梢、竿の先。木のうれ、竿のうれ。
☆たまがう〜ものに驚く。魂消る。
☆こってい〜オトコうし。
☆まる〜大小便をするを、小便をまる、くそまりちらすなどいう。
☆しおざや〜潮の満ち引きに、たち騒ぐところをいう。
☆あらぬさかさま〜その言うこと、またはしたことなど、人の聞き違い、違うことをすることをいう。
☆いん〜いぬ。あかいん、黒いん。
☆ンギン〜軽く鼻音になる。例えば、吟をンギンという感じ。

巻之9 〔18〕 大奥の御雛飾り

大奥の御雛は世間のように、高く棚を設けて並べることはなく、毛氈を敷き並べるとのこと。
三月には拝見を許された婦人の輩は、市中の人でも大奥の女人に親戚があれば、それぞれの部屋より手引きして御庭より御間中(おんまなか、半畳の広さ)の御雛を見物できるのだと。
拝見した人が云うには。
イカサマ雛は公卿の形を真似ただけで、尊敬して貴ぶ様なものじゃないね。
だから市井の者を思う気持ちがないんだよねー。

巻之九十一 六 船橋明神の巨大な鏡

船橋明神(下総国船橋在)の祠の中に、いにしえの昔、海の中から得たという巨大な鏡が二面があった。
神代の物と云い伝えがある。
一つは径八尺(2.424㍍)。
裏に縁があり、厚さニ寸(3.03㌢)になる。
もう一つは、径四尺を計れる。
この鑑の地金はもう一つの大きい方に劣る。
だから、強く敲(たた)くと、その響きはよくない。
ニ鏡ともに車に乗せて移すのでなければ、動かしてはならぬ大器であると。
また黒鉄の御柱と称して(黒鉄は鉄ではない)、長(た)け九尺余り、廻り三尺ほどになる。
これを中央に置き、大鏡は左右にある。共に三神と崇む。
昔よりこれをご神体として、世の人には見せない。
だから、遷宮の時には幕を設けて屏をなして、夜影にご神体を移すと云う。
この話は橋本町稲荷の祝いの某、かの宮の遷座(ご神体を他に移すこと)の時にあってこれを知ったことであった(菊庵話)。

巻之61 〔12〕 鬼室とは何人か

曰人(遠藤曰人、えんどうわつじん、1757?1758?〜1836、江戸時代後期の俳人、仙台藩士)は諸国を巡歴している。
その語に近江の蒲生西宮と云うところで見たのは、原野の真ん中に六角の石塔があった。
彫りを見ると、、、
朱鳥元年  鬼室集斯墓
朱鳥は天武帝の年号、今に至り千百四十年。
鬼室とは何人か。または異邦が帰国しなかったのか。

巻之八十 ニ四 漁の器具で「もり」のこと

先年わしは望んで、伊庭軍兵衛に剣術を習った。
同門に林田長次郎がいてよく話をした。
その父は御勘定役でかつて、佐州(佐渡)在勤の時に奇異の物を得たと話す。
ある時、死んだ鯨が波打ち際に漂い、潮が引いて留まったのを農民、漁師が大勢出て、その肉を割り取っている。
背中に槍の刃の様な剣の様な長さニ尺ばかりの物が刺さっていた。
その茎には土肥組の三字が刻まれていた。
思うに違う地域の剣か?その事はつまびらかにしなかった。
父は数金に換えたいと云い、佐渡の官庫に納めた。
今もまだあると云う。
わしはこれを聞いて笑い、これはわしの領する壱岐鯨が漂着した物で、土肥組は壱州(壱岐)の魚頭・土肥市兵衛の目印だと。
この様な数柄を持って鯨を突く。
漁の器具で「もり」と云うと云った。
林田は大いに敬服した。
わが国(平戸藩)から三百里も隔てれば、その事には我関せずである。
いわんや、千百里離れた所にある器を好いて珍重するのは、溺器(尿器)を以て茗壺(中国の茶器)と例える様なものである。
「余録」より。

巻之十三 ニ 何事も人の真似をして良いものではない

徳廟(亡き将軍、何代かは不明)が御鷹狩の出先で一人の男が老婆を背負い歩いている。
何者かと御尋ねになり、おつきの者がただす。
この老婆は歩くことが難しいが、将軍さまの御成を拝顔したいと申すので、道の端を伴っていた。
が(将軍さまに)間近になるのを背負って避け奉っていたと申し上げた。
徳廟は孝行な子である、物をとらすとの上意にて、下された物があったという。
その後、また御放鷹のとき、同じさまの者がいた。
これも御尋ねになったが、その応えも前と同様であった。
そのとき、上意にて先日のまねをするものではない。
良い真似をするのは、同前であると仰せになり、御褒章の御沙汰はなかったということ。

※まるで隣の爺の様。人真似はすんなで終わる昔ばなしみたい

巻之一 一〇 木作りの刃のない小脇差

赤穂の義士大高源吾は赤穂藩改易の前は、按摩医者になって米沢町の裏家に住んだ。
その時常に木作りの刃のない小脇差をさして、往診に出かけた。
その小木刀に自分で読んだ一首が彫られていた。
人きれば をれもしなねばなりませぬ
  それで御無事な木脇指さす
この歌を味わいながら、始終おもんばかる志しを知るべき。当
年見た人はどれだけ感慨深かったであろうか。

巻之79 〔10〕 年十七八になる娘が小鼓を打つ、女弦

昔聞いた事をふと思い出すままに書き出してみる。
防州山口であったこと。
ある家の年十七八になる娘がいきなり狂って、小鼓をちょうだい、打ちたいの、と云うのだと。
この女弦(本文ではこう表現。今の女性演奏家の様な表現かと)は、唄はするが、鼓を打つことはないと。
家人も不審に思いつつも、鼓を与えると、何か打ちたがる。
それで側の者があれこれと望むと、曲舞(くせまい、舞)一挺、思うままに打ったと。
皆が皆、思いもかけないことと、どうしたのと当人に問う。
我に幸(こう)某の魂が寄ってきたのよ、と答えたと。
防州山口は、大内氏が領めた後衰退したけれど、これから大いに繁栄して、鼓者の輩もこれからやって来るだろうと。
だから幸氏(官の鼓者、小左衛門、清次郎、清五郎の輩皆幸と称する)の輩の様な者がここにいるのか。
どうにも晴れない不審なことよと、某は話したのだった。

続編 巻之25 〔11〕 カツオ釣りの船

平戸藩の村人から聞いた。
近年城下の半里ほど西に行った薄香浦に、天草からカツオ釣りの船に乗り来ている。
初夏に来て秋頃に帰る。
その船は十反帆ばかりで形は天当船の様に、帆柱が三本ある。
だから、逆風が吹いても直行するのだと。
またカツオ釣りには鰯の生き餌がいる。
これをいけすに蓄え、天気を見て、薄香浦西三里ほどの生月島沖ニ三十里ほど出かける。
出かけるのは夕八ツ半(午後3時頃)頃で、夜を通し朝の光の出る頃にカツオの群れに逢う。
釣るのは二時(4時間)ばかりで終わる。
漁獲高が過ぎると、あまりの積載量が元で船は沈んでしまう。
だから、船長は杖を持ち立って、漁師が魚を獲った量を計り、ほどほどのところで止めさせ帰る。
これを守らなければ、船事故に遭う者が出てくるだろうから。
船にはニ十八九人ほどいる。
またこのカツオ釣りは五島領からもやって来るが、やはり漁師の船着き場(釣りの出発地)と釣り場は先に書いたのと同じ。
カツオを釣り、帰港すると納屋で鰹節を作る。
また鰯さえよく獲っている。
漁師の体は田舎じみていて柿で染めた筒袖の半天の姿で、言葉は天草の方言なので、聞いてもわからぬ事が多い。
カツオ釣りをする人は見ないが、そのやり方を見ると、なるほど見事なことよ。
このカツオ釣り、前に記した房総の海釣りとやり方は違えど、趣は同じだろう。

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