巻之六十 七 飯沼弘教寺の駕籠

下総の飯沼弘教寺に前から駕籠がお堂に釣ってある。
住職の代替わりには必ずこの駕籠のもとに参り、拝むこと。
これをしなかったら、祟があると。
この中に、東の丸殿と申される方の霊がお出でだと。
または婦人の姿が現れるとも。弘教寺の住職に聞いたまま記した。
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続編 巻之16 〔3〕 家康公の薬

家康公は引起と云うお薬をお持ちだった。
この御方、大阪御夏の陣のとき、緒陣に下されたと云う。
水あるいは白湯にてこれを飲むと、元気をひきおこす、よく効いたとのこと。

※薬が六種書いてありますが、薬事法があると思いますので、ここに書くことは控えております(原田)

続編 巻之26 〔4〕 二人で一人のはなし(再話試し)

二人で一人のはなし
平戸のお城下で火事があったんやと。
二人子がおったんやと。
あんちゃんは目が見えん、妹は腰抜けた。
あんちゃんは行き先がわからんと云うが妹が、あたいをおんぶして、行き先を云いますからって。
で、妹はあんちゃんに道を教えついに無事逃げられたんやと。
またこんなことがあった。
足長と手長がおった。
二人とも人に勝るのは難しい云うてな。
で手長が足長にわれを背負いたまえと云うたと。
そしたらな、二人で一人の用を成したんやと。
何も悲観することはねえだよ。そんなはなし。

続編 巻之21 〔6〕 起用な四国の猿

四国の猿は肥前のより小さくて舞や技をよく覚える。
こんな猿をどうやって捕まえるか。
こんな風。鍵付き戸棚を作る。
それを多く猿のいる山奥に持っていく。
猿が遠巻きに見る前でこうやる。
戸棚に食物を入れといて、人が鍵を開けて中に入り食物を食べる。そして扉を閉める。
後、猿は人を真似る。
不器用な猿は扉を閉めないから、人来れば、たちまち山に逃げていく。
器用な猿は人が来れば、わざと扉を閉める。
戸棚はからくりがあるので、扉は開かない。ついに人に捕らえられる。
これって、猿に知恵があるのかないのか。
いわゆる猿知恵か。

巻之六十一 一 めでたき

当年(乙酉、きのととり)春初の口占に、

春毎にかしらの雪はそれながら
君のめぐみぞ猶
林氏の手紙より。
御先手(江戸幕府の軍性の1つ、若年寄に属す)頭役を勤める春日八十郎という人が八十になる。
この元日には側室に姫を設けた。
年頭の挨拶が終わり、参政衆に届書を提出していた。
名前が八十ならば年齢も八十。
ならば姫に八十と名付けたとのこと。
かくしゃくたる老人で珍しいことであります、なあ、と。
林氏がわしに云うには、
老候にも、五十余り、六十余りにかけて、多くの柘榴房(ざくろのふさ)の様な福がありましょう、と。
定めて、八十に成られる頃までは、お達者でお出で下さいませ。
春日(局か?)、このことを書物に記され、たしかに春の初めはめでたく祝うものであるとしたためて、筆を置こう(今年も側室二人がおめでた、とのこと)。

巻之七十七 三 災害時の商い

文化丙寅の大火(1806年)は江戸南北に燃えた。商いの利欲は思うがままになるのか。その翌朝草履が銭七十ニ文(1文は現代の12円)がだんだん高くなり四つ(今の午前10時頃、四つ半は午前11時頃)には一足三百文になっていた。この者はお上に咎められた。
前に天明丁未の年(天明の飢饉、天明7年、1787年)、江戸近郷は食が不足して、米が高騰、銭百文で米三合を買うことになった。
だから露店の者は商いをやめたり、または高値売りがあらわれた。
そんな中で、上野の山下の亀屋という奈良茶店。元からの廉価のまま、一碗十ニ銅(一銭は銅貨)ずつで売っていると、諸人争ってこの店に来て食べている。
天意にかなっていることよ。その頃からこの店はますます繁盛して今におよび、家が栄えている、と聞く。

巻之九十六 一三 駒込勝林寺

駒込勝林寺は田沼候の寺で、妙心派の禅宗である。
この寺は前は貧しい寺であったものを、故田沼候閣老が時めくときに、大修理をして今の大づくりになった。
そのころ、候が参内なされ、住職に向かって申されたことは、檀家の縁が深いので寺もこの様に立派にいたした、と。
(だから、お寺側も)満足であろうという態度でいた(候に対し)住職は喜ぶ色を失い、答えるには、寺は(立派か否かを)論ずるまでもありませぬ。
ただ、候の(これから先の)御成り行きを心もとなく思うばかりであります、と。
はたして和尚の云うようにはならなかった。
この僧の名を聞いていない。折を見て、聞いてみよう。
印宗和尚の話。

※完全に未来を見通せる人はいないでしょう。でも悪い未来は変えるのが、人が持つことを許された知恵かな?

巻之五十六 一七 ラクダの呼び方

前に駱駝(ラクダ)がやって来たことを記した。今では市中でもよく知られるようになった。
前回、享和(1801〜1804)には見た者がなかった。だから多くの者が見て、珍しいと云ったものだった 。
この程燕席亭である人が云った。ずっと昔、この獣が日本へやって来た、という。
そこで「国史」を紐解いた。推古天皇の七年秋の九月癸亥(みずのと)1日、百済から駱駝(ラクダノウマ)一疋、驢(ウサギウマと読む、ロバのこと)一疋、羊二頭、白雉ひと番(つがい)の貢物としてやって来た。今、一千二百二十六年であるが、世間が珍しがったのは尤もである。また「和名抄」もこのことを伝えている。良久太乃宇万(らくだのうま)と和名が記してある。

巻之四十四 一〇 佐和山城は仮りの処(倹約質素)

佐和山城が落城した後、石田は十八万石だから、居所はさぞ華麗だろうと人は見るが、みな荒れた壁で上塗りして綺麗にしないし、中は板張りのまま、庭は木を植える様子はなく、手水鉢も粗末な石のままなので、人々は案外とそうだと受け取っている。三成の有り様を考えれば、倹約質素の計らいであって、佐和山は仮りの処と思っている心根だよと、人々はその狼心(卑しい心)を暁っているとのこと。

巻之四十四 一三 駿府遊女と吉原遊女の言葉

駿府に二丁町という遊女家があるのは知られている。
また、東武の吉原町遊女のことは世間とは特殊で、来たれと云うのを来なんしと云い、嬉しく思うと云うを嬉しくおつすなどと云う。
そのほかにも言葉が異なることが多い。
駿府遊女の言葉は、全くこれと同じとかの地の遊女町に行って聞いた人が云った。
ならば、昔かの地の遊女を当地へ移したのであろうと云い伝えると、今吉原町の言葉は駿府の語言が遺っているとのこと。

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