巻之六十一 五 三嶋小女郎という魚

林子の文に駿府御城内勤番の人からいって来たという。
魚の頭を切った図であるが。。。
俗に三嶋小女郎という魚は、形が河豚に似ていて、味は平たく(深みがないことか?)、無毒の魚である。
一枚目(写真)の魚の中にも二枚目の様に菊の花葉状態かどうかは漁師はまだ見たことがないからわからないと云ったとのこと。
かくのごとく、満身紋がある。
魚中の奇品だと。
魚店では、半ペン、蒲鉾などにするのだと。
漢名はわからない。
はぜの大きさ形で、河豚の様に滑らかな皮膚ではない(※ショウサイフグは滑らかだが、滑らかでない河豚も存在してる)。ホウボウの様な皮膚だという。
甲州の竹には菱の紋がある。
元は信玄の領地だからという。
梶原山の篠は歯切れている。
昔、馬が喰ったからという。
ならば、この魚は今川の故地だから、かく菊の紋があるといい伝えるのだと。


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巻之六十ニ 一七 昔流行した謎解き

ここ八九年前に街中で大いに流行ったが後はやんでしまった。
むしろ又流行ることがあればと、記しておきたい。
きせる(たばこ入れ)とかけて独り呑みの酒ととく
   その意はついだり のんだり
火のないこたつとかけて片輪な娘と解く
    その意は手の出し手がない
しゅろぼうき(みごぼうき)とかけて大食傷と解く
     その意は立ってはく すわってはく
比丘尼にかんざしとかけて独り呑みの酒と解く
      その意はさす所がない
奥方とおわしたの戦いとかけて、なぞなぞなあにと解く
     その意は菜切り包丁と長刀

巻之十ニ 九 鷹狩りと人相見

徳廟(今は亡き将軍、どの御代か不明だが)が葛西の辺で御鷹を放たれた時のこと(御鷹狩)、ある農家に立ち寄られたという。
その家の農夫はかねてより人相見として近郷に知られていた。
徳廟はその時御鷹の所で御足を泥汚れをたまわれ、洗わせる為に、従いたまわる者が、人や水を参らせよと云った。
農夫は早速出て来てお側に寄って、御足に水を濯ぎながら、仰いで御顔を見奉り、「ところでおまえはこの上なくよい御人相をしている」と云った。
(将軍は)大いに笑わせたまわり、「かの上手な人相見かな。褒めてやれ」と左右の家来にいわるた。
御賞美の物を下さる事になったという。

巻之十ニ 八 落首(平安から江戸期の風刺歌)

林氏(幕府の儒教学者林述齋)が云う。
明暦大火の後、武家をはじめ町方までにもおびただしく下された金である。
大城(江戸城)延焼の時にこの様にと云うが、当時国力が盛んであることが想像すると、時の執事も人があってこそと見えていた。
したがってその時の落首(平安から江戸期の風刺歌)、
しば(文に口、ケチの意)き雅楽(うた)心尽しの豊後どの
江戸にはづんど伊豆ばよかろふ
雅楽は酒井忠清、豊後は阿部忠秋、伊豆は松平信綱である。
このとき下の人望忠秋にかえして、忠清信綱は人が思いより良からぬ事に見えた。
この落首はある大家の旧記に載っている。
拙く俗的だが、当年を回想するとよいだろう。
歴史の童謡ことわざやの類にして、捨てるにおしい。

巻之十七 一 世俗の落咄

わしの若い頃、世俗の落咄は特に短いものが好まれた。
今は冗長になっている。
是非世の習いの一変を見るはずだ。
だから記憶しているものを挙げておこう。
一、 雷風が日月と一緒に旅に出て、共に宿に入った。
翌朝、雷風は未明に起きて、日月が居ないと尋ねた。
女中曰く。「日さん月さんはとっくに払いをすませ、暁に出ましたよ」。
雷風感心して曰く。
「はて月日の立つのは早きものじゃ」。

巻之四十七 十七 麻疹が流行りと文(文家と武門の違い)

近年気候が不順で両三年は諸国は風水旱魃が起こっている。
人身にも影響があって、流行病があれこれ起こっている。
また昨冬は晴れが続き雨雪がなくこの春もずっと晴れが続いていた。
ところが二月末より長雨になり、花時も降り続きで過ぎた。そのためか、春寒が甚だしく、穀雨の時期には人々は厳冬の服を着ている。
その上、麻疹が流行り家ごとに染まっている。
この頃また風邪が一般に流行し、感冒せぬ者はいない。
林翁(幕府儒教学者林述齋)への手紙のついでに「もしやこの流行疾病にかかってはいないかい」と問うた。
その返事の端にこう書いてよこした。
老朽し柳は人になびかねば 世の春風もよきて(よけて)吹くらし
この翁は屈強の身体をしていて、このたわむれは一首の通りである。
が、麻疹は別である。
わしの内の家来老若みなかかってしまった。
わしと他に三人がかかっていない。
わしの年齢は翁より十も上である。
この頃は風邪の流行りで剣技の相手がいない。
日々は弓矢の百、二百筋を射している。けれども、和歌の一首も詠ぜず、不風流なのは、文家と武門の違いである。

巻之七十 一五 女の髪筋でよれる綱には大きな象もよく繋がる(徒然草)

「徒然草」にそもそも女の髪筋でよれる綱には大きな象もよく繋がるという。
なるほど、既に第九巻に記した、横綱をゆるされた大力の大関谷風が十七になる妾に牽かれた様に(何かでへそを曲げて高い所に登り降りてこなくなった。
若衆が呼びかけてもダメで十七の妾に手を惹かれて降りてきた)、その後雷電という丈七尺で大剛力の大関がある時歌奴の為にほうを打たれ、あいたたと云って目を瞑ったと。
傍の人は笑えないと。
又はある時は少女にたわむれて、この婦に胸を打たれ、後ろへ倒れたと玉垣勘三郎(年寄り)が語った。
もっともな事である。「徒然草」に云える事は、自らを警(いまし)むべく慎むべきはこの惑(煩悩)なりと思い合わせた。

続 巻之十七 一 ケチな野郎

ある人が、出口の戸が離れて閉めようと金槌を隣人に借りようとしたが、貸してくれなかった。
その人は怒り、「なんだい、なんだい、ケチな野郎だな。
仕方ねえな。オレのを使うか!」。

巻之十一 ニ四 櫓から日傘を出される事(矢留の傘)

能役者喜多七大夫の祖は、右京と云って太閤秀吉の近習士であった。
七大夫の家の伝によると、大阪落城の時右京も城内にいたが、大野修理は早く傘を櫓から出して振るようにと云う。
右京はそれに従って天守に上り、日傘を出して振ると、雲霞の様に集まる寄り手がみるみる減っていった。
又城中の婦女雑役の者太達は、城より出る格好になり、右京も故郷筑前に落ち帰ったと云う。
ただしこれは表向きの話である。
実は落城の時、関東の御内旨によって秀頼は薩摩に落ちてゆかれるのに、右京も従って行ったと云う。
この櫓から日傘を出される事を矢留の傘と云って、ならわしなのだと云う。
だがどうした訳が詳しくはわからない。
これを七大夫の父、湖遊が語ったそうな。

巻之三十七 七 ブトの痒みへの効能

ブト(関東ではブヨ)に刺されると、血が出てたまらなく痒い。
大きく腫れて悩む者が出てくる。
これを治すには何はともあれ生薬三種の葉をもんでその汁を塗ると即効く。
閣老故松平豆州が伝えるところ。
わしも度々試みるが、常に効き目を感じる。
また骨鮫痛(鮫料理の骨を喉に引っ掛けて)には、その魚の骨を頂上(頭)に置けば、苦を脱することが妙である。
これはわしが少年の頃、ある人が伝える法である。
後試しにその肉を置くと同じ効き目があった。
また他の魚の肉を置くのもまた効き目がある。
ある日、わしは茶を飲んで、茶がらを喉にひっかけて苦しくなった事がある。こ
の時も茶がらを頂きに置いたところ、即痛みが止んだ。
また一人の婦人が、蕎麦切りを食べてその竹の器のトゲを喉にひっかけた。
これも前のやり方を習い、蕎麦を頂きに置くと、トゲは脱して痛みが止んだ。
これは同理だけれども、前の条とは異なるものである。

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