巻之九 一四 角力の志し

壬午三月、葺屋町の劇場に角力人が入り見物していたが。
ところが何か口論になり、角力人達廿一人が劇場の人と喧嘩し、欄干を引き折り、散々に打ちまわるので、見物人は麻を乱す様に逃げ出し、またそのために怪我をする者が続出した。
調べによると、角力人六人が町奉行所に自ら名乗り出た。
その党類も皆牢に入り、程なくして裁許がすんだ。首謀者は百たたきの上江戸払い、十三人は五十叩きの上町払いと聞く。
角力どもが牢で話した事には、一般の人々が叩きを受ける時は苦痛のために泣き叫ぶと獄吏は、手心を加えてくれるらしいが、俺たちは力士である。
いかに鞭を蒙っても醜態を微塵も見せない様にしようではないか、と誓った。
打たれても、一人も号泣する者なく刑を受けた。
その中で、皮膚が裂け、血を流す者はいたけれども、約束を守り、力士の体面は保った。
流石、角力の志しは一般の人々とは違うと人はほめた。
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巻之九 ニニ 横綱谷風

先年、谷風梶之助という大関がいた。
横綱を免されて、寛政の上覧試合にも出るような大変な力持ちの大男である。
ある時、何か弟子の事で立腹しその者を連れて、殺す!と怒っている。
楼上にいるが、多くの弟子がかわるがわる楼に出てきて詫びを云うが承知しない。
後は関わる者は誰にしても、殺す!といよいよ怒りが増して、寄付く者がいなくなる。
一人才覚のある弟子が、谷風の十七歳の妾に「あの様に怒られては何ともしがたい。
何とか機嫌を直して楼から下ろしてもらえないだろうか」と頼んだ。
妾は心得て楼に上がり、谷風の手を執り、「弟子達は一同にお詫びを申してますよ」と云った。
「下におりてくださいな」と手を引き云われると、谷風は「おう、おう」と応じながら下りた。
少女に牽かれて、その場を済ませたわけだが。
後で、弟子達は、この様な稀な角力の力持ちも、幼い婦人一人に敵対することが出来ぬものと、皆々、少女の才覚に伏した格好となった。

続編 巻之25 〔13〕 日光の飛銚子、天狗の品

千石和州は伏見奉行で、この地に没した。
この人が日光奉行の時に真に接したいう逸話がある。
日光の山上に何とかと云う祠があった。
神前に葵のご紋がついた木銚子があった。
参詣の人の宿願があると、この器に酒を入れて置く。
また一里くらい隔てて、何とかと云う処にも祠が一箇所あった。
つまり、宿願の者の願いがかなえられるときは、この祠の木銚子が自ら一里先の祠に移り中に在るのだと。
土地の者によると、これは飛銚子というのだと。
道者(仏道修行者)の輩も信仰拝詣する者が絶えないという。
これは天狗の品であるからではないかと、云った。奇異なことである。

巻之七十 一ニ 盗賊いなば小僧

いなば小僧という盗賊。
ある日、奥の宴席で妾采女達が集まって話していた。
聞いていると、いなば小僧が話題に上がっていた。
捕らえられた小僧は、牢に入っていたときに、松浦様の鳥越の屋敷に夜中、盗みに入ったと話したという。
屋根の上から中を窺い見ていると、奥方が一人見台に書物を置いて、見入っておられる。
そのご様子は、いかにも良い家柄の奥様である。
これまで所々の家に入りましたが、よその奥様で殿様が国元でお留守のときに不埒なご様子のお宅が多いものでして。
流石伊豆様の娘御だと思いながら、奥の間に忍び入り、数々ある三味線を探っていると、良い物だと思う品も見当たらずにいると、ふと側の三味線の糸に指が触れ鳴ってしまった。
これには、あっしも驚いたが、人も目覚めてしまった。
だからすぐさま忍び出た。
この話はその時に誰かが聞いて(何処かへ)伝えたようだ。
盗賊が云うことだが、亮鏡院(奥方)の志操人品を暗室の中に人が(入って)見ていたとは!わしもこれまで聞いてはいたが、今初めて喜んだ。(ここでは盗賊があちこち入るのを聞いたが、留守中の奥方の様子を聞いて静山さまは喜ばれたと思うのですが)
糸が鳴った三絃は、春雨後と名付けて先代より伝わる品である。
そのことは、「丙丁○(火編にまま)余」に詳く書いた。
この盗賊のことは、わしが二十歳の頃で、亮鏡院は十七歳の頃である。

公鑑曰。此一条真に銘心せり。走も少時拝顔せしこと、今更不堪感○(火編に倉)次第なり。
(ここの部分はこのままが良いと思いました。)

巻之九十 一ニ 武家としての心得、隠老の身でも寒きときも劣らない

蕉堂(林述齋)曰く。
十一月朔日、若君様の御髪置お祝い式(七五三、三歳で行う)があった。
その五日はお祝いの申楽が催され、緖有志に饗が振舞われた。
よく六日は奉謝として老臣の邸宅を人々が拝廻した。
某もその中にいて帯同していると、大番頭の中の一人と書院番頭の一人が途中行合い、互いの乗る輿の戸を引いて会釈した。
見ると手炉に蒲団を掛けたものに手を入れていたが、にわかに手を出して会釈している。
両人はまだ中年である。
今冬は季節の動きが遅く、暖かく感じられ寒さを覚えない。
とくにその時は未の刻(午後2時)を下って薄曇りで風もなく、春陰の光景であったのだが。
これは何と形容すればよいのか。
いわんや武役専一の人達のこの様な振る舞いは興醒めであきれたものである。
近頃は何かあると人が軟弱に成り果てていると嘆かわしく思える。
某は今年六十だけど、まだ衣をゆったりと着ないし、炬燵に当たらない。
湯で手洗いをしないし、駕籠の簾を下ろさない。
また駕籠の中に火器を入れないし、家では障子を閉めることはない。
だからといって、寒を好むわけではない。
常にこうあらねば、物の役に立たないと思うからこそ。
さても世には不甲斐ない性質の人があるものよと、しみじみ一人ため息をつく。
蕉は儒家、わしは武家。
かつわしの齢は既に蕉を頼りに付従う七八。
しかるに今は隠老の身となっても、蕉氏のおかげで劣ることなくいられるのだ。
要するに蕉氏の嘆きは尤もなこと、千万かたじけないのである。

続編 巻之22 〔13〕 「胡蝶」という能

宝生座に「胡蝶」という能があり、外流ではない。
その次第はワキ僧一人。
塗り笠に行脚の出で立ちで、吉野の奥から都を見たいと、京に上る。
一条大宮で荒れた家の庭に見事に今を盛りに咲く梅花をながめていたら、女が自分は梅花に縁がない蝶であると泪で嘆く。
僧にお経を唱えてもらい成仏したいと語る。
女は(僧の)夢にあらわれると夕べの空に消えていく。
僧の夢に現れた夕の女、蝶は梅の花に出逢った歓びを舞い、春の夜が明けゆく雲に羽うちかわし、霞にまぎれていく。

巻之四十八 ニ五 入れ眼

入れ歯は耳にするが、入れ眼があるという。
先年ある歌鼓がそのことを語った。
それを尋ねたら、ある家の奥方が病を得て、片目を失った。
婦人なので深く悩み、眼科に治療を頼んだが、医者から見ても回復はならぬと云った。
奥方はますますもだえ苦しみ、強いて手術を乞うた。
医者は、ならば入れ眼をすることにして、それは出来た。
やり方は、まぶたの間に仏工の用いる玉眼を入れるという。
傍の者さへ真の眼と思った。
かの奥方は大変悦んで、それが玉眼であることは黙っていたので、知る人はいなかった。
ある日その家で宴があって客が多く座っているとき、蜂が屋内に飛んできた。
みなは逃げたのだが、蜂は奥方の眼の辺りを飛んだ。にも関わらず、眼の瞬きがなかった。
この時、人はみなそれが入れ眼なのを知ったのだと。
笑うべき話である。

巻之九 ニ四 駱駝(らくだ)

この三月両国橋を渡ろうとしたら路傍に見世物の看板が出ていた。
駱駝(ラクダ)の容貌をしている。
また板刻にしてその状態を印刷して売っている。曰く。
亜刺比亜(アラビア)国中、墨加(メカ)之産で丈九尺五寸(2.85 ㍍)、長さ一丈五尺(4.5㍍)、足は三つに折れる。
わしが、人を通して質問したことに対し答えた。
「これは去年長崎に渡来した駱駝の風にしていて、本物はやがて御当地にやって来るから」と言っている。
よって、明日人を遣わして見せるのに、作り物ではあるが、その状態を図にして帰った。
  図を見ると恐らく本物を模して作ったものではない。
「漢書」西域伝の師古の註に言う所は背の上の肉鞍は土を封じたように高く盛り上がっている。
俗に牛封じと呼ぶ。
ある者曰く。駝状の馬に似て、頭は羊に似る。長くて程よく垂れた耳、身体は蒼褐黃紫の数色である。
この駝形には肉鞍が高い風でもなく、その形も板刻の言う所と合わない。
前に駝の事を言ったが、それはちゃんと(駱駝の特徴を)表している。


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続編 巻之22 〔15〕 豹

この(己丑)正月、平戸からの便りによると、平戸嶋田助浦では、対馬人が生きた虎をつれて来たのを城の外門に呼んで見たという。
図も描かせたという。
図。この虎の来歴を聞き書きした。
一。文政九年戌の秋の頃、朝鮮国慶尚道かや山という山で、野焼きの火があやまって焼ける中に、虎が乳児ニ疋連れて、火を嫌ってあわてふためき廻るのを猟師四、五人でうちとめた。
その子ら二疋を捕まえたが、その国においても虎(図をみるとまるで豹のようだが)を生け捕りは珍しく、対馬に知らせると、町人らが買い取り、上方、江戸筋、各地で見せ物として持ち回りたいと願った。
対馬から公儀に伺いが成立した。
まず九州筋からだと苦しくなかろうと、昨秋、筑州、肥州、長崎辺りを周った。
加島へ向かうとき、一疋の子が餌に当たり死んだため、対馬へ立ち寄り、なおまた当月四日に対馬を出帆した。
壱岐の勝本てはしばらく滞留して、十一日、平戸田助浦に着用船した。
これから小倉へ向かう心づもりのよう。薩摩、大隅、日向筋はまだ廻るとは申さず。また伺い
相済次第で上方筋へ参り申すとのこと。
一. 豹の毛色に見えるが、飼い主がいうには虎とのみ云う。
あるいは虎豹の間の悪虎と云うものらしい(この飼い主の言い方は愚である。また虎豹の間に開く悪虎があるとは、俗説である)。

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一。背の渡り2尺七、八寸(81〜84㌢)ばかり。
首一尺(30㌢)あまり、尾ニ尺七、八寸(81〜84㌢)ばかり。
高さニ尺ニ、三寸(66〜69㌢)ばかりある。
大きな虎の一体は、体のわたり一間半ばかりあればよい。
これはまだ三歳でとくに籠の中で育てるので、長さを大きくせざるを得ない。
一。子を得るときは、猫ほどの大きさなので膝の上で飼い育てるとよい。
一。声は、ヲヲンウウンとだけ鳴いて、犬のうめきに似ている。
時に高い声を出し、物凄く、真似が出来ないほど(虎は詩文に多い。豹の鳴き声など書きつけたものはなし)
一。餌は鳥獣を専ら食う。脂身の少ない魚類を食うが、腹に当たるとよくない。
他の獣、猫は似ている為かくい殺しはするが、しっかり食わず。
犬は好物である。穀類は全く食わず。鶏の餌ぶくろなど穀類あるが、残して食わず。
野菜、芋、大根類も食わず。普段は一日に鶏の三羽ばかり食すると飽かないのか、先ず足りているようだ。
飽くまで食すると、至って静かに眠る。また食が足りないと、うろうろ廻り、食をあさる。
一。餌を与えるとき、鶏は毛を抜き、三つに切り分ける。
獣もこの様に、切って食わせる。
生で与えると、己れの毛をそり食するが、籠の中を汚すので、料理(切り分けて)して与える。
鳥獣の骨を噛み砕くことは、例えるなら人が煎餅を噛むようにして、歯にも当たらぬ感じである。

一。雌雄の区別は不明。よく観察をすることを嫌うので、男のようだが、飼い主も確かではない。
一。世の人は虎は雄だから、豹は雌ではないかと言っている。
飼い主は虎にも雌雄があるし、豹にも雌雄があると言っている(飼い主の言葉である。前説は違う。そのまま受け取らぬ様に、虎は雄、豹は雌と云う説)。
一。蝿蚊🦟ともに近寄らぬ。
一。両便とも場所が決まっている。正しくしている。
一。 築州で大守が見たところ、竹のやらい(竹を組み合わせた囲い)を結って、その中に虎の子を二疋放し、餌を生のまま与えられると、ニ疋は餌を争い取る有り様で、たけく鋭く目を覚ます。
一疋の虎が餌に手を付け、魁をすると、一疋は退き、やらいの隅におり、神妙に心を清くした様子は、こと獣の中でもすぐれている。
一。眼は丸く、形が変わる事はない。
一。飛び上がるのに、四、五間もあればよい。一。
今、一疋が加島で死んだのは、黄色に黒い星があって、中に穴がないとの事。
この度、つれて来たのは、黒い輪の模様の中に穴がある。
一。朝鮮の人の言葉に反応すると飼い主が言っている。
一。籠の高さは三尺余り、長さ一間余り、横三尺ばかり。
一。この度周防船に乗って行くとの事。
飼い主は五人ともみな対馬の人である。
文政十一年子十ニ月、対馬より町人らは、虎の子一疋を籠に入れてつれて来るのは、よく問い(話をよく)聞いて、虚実を弁じず、言うままにこれを記した。
    十ニがった十五日
追加
ある人が言うには。この獣が筑前に至るとき、かの城下にて、見物人の中に芸妓がいた。
籠に近寄り中を覗き、虎は手を出して、この婦人の髷を掴んだ。
婦人は怖れて、頭を引いたが虎は引かなかった。
とうとう頭髪はみな切れて激しくになってしまった。危ない事ではあるが、また可笑しいことである。


巻之七十七 五 富士の裾野での鏃(やじり)

柔術起倒流の師白亭が大鏃(おおやじり)を集めているという。
近頃富士の裾野の樵が山中に入って木を伐っていると木の奥から鏃が出たのだと。
木の在所は人は滅多に入らない処で、頼朝さまが囲い狩をなさった時に射られ入り込んだのだろう。
遺鏃は、樵が持っていたものを三嶋駅の人が伝え聞きして、貰い受けたもの。
白亭は噂を聞きつけ、三嶋の人に頼んで貰ったと。
これは図にした(写真)。
鏃は実に大きな物で、古人の弓の力量がしのばれる。
ここでいう近頃とは、五六年前である(古人と比較すれば)近いことである(寛政八年丙辰三月記す)。


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