巻之六 〈二五〉 医治の心得:乞食非人といえども、求むる者がいる時は薬を与え候

享保年鑑、御医師望月三英が河原者の市川団十郎が重病になったのを治療した。
ききめがあったと人々が沙汰するのを、橘収仙院が御脈を診(み)奉る者があるまじき事となじった。
三英が申すには、「医治の事においては、乞食非人といえども、求むる者がいる時は薬を与え候心得のよし」。
後で、御聴きに入り、「もっとものよし」との仰せがあったとのこと。
近頃は、官医は貴人の治療のみするように心得る者が多い。
これらの事を知る人も稀になってしまった。

巻之六〈ニ七〉 酒井讃岐守忠勝の毎月御忌に当たる日の話し

酒井讃岐守忠勝は、謀をしようとした臣下の者達を捨てたまいし後、毎月御忌に当たる日に一室を掃除して、沐浴をして身を清め、麻の上下を着て、自ら様々な物を備えた。
その入口を閉じて人が来るのを許さなかった。
ある時、誤って、一人がその間へ走り入った。
讃州は祀り供えた物の前にひれ伏していた。
そして振り返り、「しい、しい」と言って手で制した姿は誠に御前に(その人々が)ある様子であった。
家来中、密かに語り合い、みなその至誠に感じ入ったとのことだった。

続 巻之十七 〈一〉 座頭

座頭が両国橋に行きかかった。
杖が、犬に当たった。犬は驚いて、鳴いて走った。
座頭も驚いた!
また歩いて数歩!また、また、
また杖が、、、犬に当たってしまった!
犬は鳴いた!驚いた!走った!
「これは長き犬よの!」と座頭は云ったとさ。
〈一〉
ばか貝売りが「ば〜か〜、ば〜か〜」と云って売り歩く。
ある戸口から「ば〜か〜、ば〜か〜」と呼ぶ声がする。
売り手は振り向いて「ばかとはお前か!!」

巻之六 〈二六〉 血判をする時の教え

誠嶽君〈誠信、肥前の守〉、清(静山公の隠遁前の名前、本名)に謂われたことは。
「我は御代替わりの誓詞を両度まで老職の邸にて為た。
その時、座席に小刀を用意してあるが、その小刀で指を刺すと、出血が気持ちよくなく、血判はあざやかにならない。
だから大きな針をよく磨いて、懐に忍ばす。こうして、その事をやるのだぞ。
また予め膏薬を懐にして、事あればこれをつけるとよい」と給われるので、清も当御代替わりの誓出血の時は、教えの様に針を以て指を刺したが、快く血が出た。
血判の表も恥ずかしくなかった。
その席を退いて血流が止まらなければ、そく教えを以て用意した膏薬を傷口につけたら、血は止まる。
その教えは、かたじけなきことであった。

巻之四十一 〈ニ〉 新吉原町の郊外の御制札

新吉原町の郊外に、古来からの御制札が建てられた。
次の様に。
花柳を漂う客は何も考えず見過ごす。
が、知る者は少ないのだろうな。

◎前々から御禁制の様に、江戸町中端々ににいたるまで、遊女の類を隠しておかないこと。もし違反の輩がいれば、その所の名主、五人組、地主まて、曲事(不正な事)なる者である。五月日

◎医師の外何者も乗り物一切用いてはならず。付けたし、槍、長刀は門内かたく停止するべきものである。五月日


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巻之五 〈三六〉 三十一文字の歌章の箏曲、歌の基本

わしは久しく思う事がある。
古は歌は『うたう』ことであったが、今はウタ(本文は歌の左側だけを以て)は『よみい出たる』ばかりで、『うたう』ことがない。
流行りのうたは別にその詞があって、とくにかりそめにも、花前月下などウタをよむとき、その詞を弦詠(琴などに合わせて)しようとした。
その頃名の売れた山田豊一を謀り、山田にわしの為に三十一文字の歌章の箏曲を作らせた。
その後、家老長村内蔵助が帰村する時にも、また長村伊勢守が堺の奉行となり任地にゆく時も、わしは餞別の歌をよんで、竹に(書いて)侍妾に弦詠すれば、伊勢も長村もこと更に感悦して興味深くしてくれた。
長村を餞する時には
鶯の谷より出て峰たかき
       霞にうつる春の初こえ
(と歌った)
伊勢を餞する時には
住の江の松と久しきやがてまた
       岸による波かへりけん日も
(と歌った)
つまりいつか世の中でも、風雅を好む者はこの箏曲を用いるだろう。
林氏はこの事を面白い思いつきだと、度々激賞した。
後に基本を知らぬ様になった時の為に、記し置けと勧めるままにここに記す。

続 巻之十七 〈一〉 親が子どもへ教え

親が子どもを教え戒めている。
「よく思いたまえ。親を求め様としても千金でも買えないのだ」としばしば云っている。
子どもはひれ伏して謹聴している。
親はなおこれをいうと、子どもは少し頭をあげた「ごもっともに承りました。しかし売りに出して、三百でも買い手はありますでしょうか」。

続 巻之十七 〈一〉 耳が聞こえなくなった年寄りの小言

ある年寄が年老いて耳も聞こえなくなってしまった。
常に子孫に小言を云っている。
子どもを顧みて物語る「今どきの者はどうも不精でいかん。わしらが若い時は」とかようにはなしと云う時、飼い置いた鶏が側で時を作った(鳴いた)。
老人は云う「あれを聞きたまえ。人ばかりではなし。
鶏さへ、今どきは羽ばたきばかりして鳴きはせぬ」。

続 巻之十七 〈一〉 笛屋

わしが十二三の頃、湯島の女坂下に笛屋の新見世が出来た。
雉笛、鳩笛は云うに及ばず、カッコウ笛、頬白、目白の類、大小の鳥のこえ。
虫はキリギリス、ヒグラシ、松虫等、その声音を笛に移さないことはない。
実に珍奇の仕出しである。
その頃ある者が寄り合い、この笛屋の咄をしていた。
「見たかや、見てないかや」などと話している。
その時一人が早く知っている事を云おうとせき込んだ。
「あの笛屋にない物はないね〜。花の鶯、水の蛙はもちろん、百足笛にゲジゲジ笛までもあるんだよね〜」。

巻之六十ニ 〈一六〉 書『柔咄(ヤワラバナシ)』、八角(角力)

『柔咄(ヤワラバナシ)』と云う書を見て曰く。
〈上略〉享保の始めまでは、相撲両人土俵の中に中腰で立ち会いて、行司団扇を引きと取り組むことになる。
要はその団扇の引き方に依怙贔屓もあるより、この八角〈相撲の名。
この八角とは、鏡山の後に出て、鏡山は関口流の柔術を学び、相撲に工夫練達した者である〉気の練と云う事を工夫し、両人とも下にいて、互いに心の相遭ところで、取結ぶ事になる。
されば綾川、七ツ森、源し山田の類も、八角に学び、一時に名があった。
木村庄之助も八角に学び、行司の法を良くしたと。
だから今の角力はみな、鏡山、巻瓦、八角流にして、古の相撲のとり方はあらじと、父翁がはなされた。
わしが若年の頃見た時は、前角力などは、みな立ちかかりて取っていたが、近頃はみな下にいて取りかかっている。
この下にいて取るより、(昔の腰を上げた取り口は)角力に対する心を汚くする。
幾度も幾度も、まだまだと云って立ち会わない者が多い。
特に近頃小野川のすくいは、谷風との取り組みでいつもいつでも、隙取りで、最も見苦しい。
その取り組みの清きは、宮城野丈助である。
向かうより、かかれば待てと云わず、直に立ち会う。
その弟子の錦之助もしからば、その立ち会いを宮城野流と云いし。
たとえ取り口に損があっても、毎度負けになることもあるけれど、その心は清くこそあるのだ。
これを見ると、角力の世界さえ百年に及ばず違ってきている。
『柔咄』は文化九年に収録した物である。

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