2020/09/15
続編 巻之十ニ 〈ニ〉 小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁
最近没した小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁〈退老後の名前〉は、名人と云われた打ち手で、紫調(将軍に許され名人に与えられる紫色の調諸)を御免蒙った者である。その頃、幸清次郎も同じく上手と云われ、この者も紫調を御免蒙った者であるが、両人は仲が悪く、日頃の談話はいうまでもなし。
御用のときも互いに一言も交わらぬ程であった。
ところが、ある日休翁が清次郎宅の門前を過ぎて、鼓音を聞いて、いきなり中に入り、清次郎に対面した。
「拙者参りたるは別に用はないのだが。今鼓音を聞くと、はなはだ衰えている。もしや死期が近いのかと思い、参ったのよ」。
それで、いつもの健強な音が悦ばしいと云えば、清次郎曰く。
「今朝、指の逆むけを引き切り、とても痛み困っている。いつしかそれが音に現れていたのだな」。休翁は「よしよし、それならば安心いたした」と云った。
上手を先立てては済まないと思い対面したが、もはや気遣うことないと即出て行った。
いつもの交際はまた元に戻ったという。