続編 巻之十ニ 〈ニ〉 小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁

最近没した小鼓師観世新九郎〈豊綿〉の祖父休翁〈退老後の名前〉は、名人と云われた打ち手で、紫調(将軍に許され名人に与えられる紫色の調諸)を御免蒙った者である。
その頃、幸清次郎も同じく上手と云われ、この者も紫調を御免蒙った者であるが、両人は仲が悪く、日頃の談話はいうまでもなし。
御用のときも互いに一言も交わらぬ程であった。
ところが、ある日休翁が清次郎宅の門前を過ぎて、鼓音を聞いて、いきなり中に入り、清次郎に対面した。
「拙者参りたるは別に用はないのだが。今鼓音を聞くと、はなはだ衰えている。もしや死期が近いのかと思い、参ったのよ」。
それで、いつもの健強な音が悦ばしいと云えば、清次郎曰く。
「今朝、指の逆むけを引き切り、とても痛み困っている。いつしかそれが音に現れていたのだな」。休翁は「よしよし、それならば安心いたした」と云った。
上手を先立てては済まないと思い対面したが、もはや気遣うことないと即出て行った。
いつもの交際はまた元に戻ったという。

続編 巻之十ニ 〈三〉 観世左近、 柿のよく熟するを見て

観世左近〈今の大夫、左衛門の祖父か。不可院〉が御用があって、喜多七大夫〈今の湖游か〉の宅へ行った。
話が終わり居間に行く時に、庭木の柿の実を七大夫は指差して「あの柿はよく熟して見えるなあ。物も熟したら落ちやすくなると云うが。左近、ならば、よく云う様に落ちた後は臍〈ヘタ、下手と音が通じ、かけている〉ばかりに成るものよ。
だから打咲て、過ぎていくのだなあ」。

続編 巻之十ニ 〈四〉 宝生大夫の先代、九郎の話

今の宝生大夫の先代、九郎は元禄の頃の人で、この坐は上掛(かみがかり)であった。
が、その頃上意は、喜多の門人に仰せ付けられたと云う。
それゆえ今に至り、謡の文句も上掛りがならないことが多く、下掛の謡とはよく合うことが多いとのこと。
今、かの家(宝生)では、このことを秘して云わずとのこと。
これは西丸御小姓組番頭大岡土佐守〈中奥御小姓だったとき〉が、今の大夫弥五郎より聞いた話。

続編 巻之十ニ 〈五〉 山姥の謡

山姥の謡は、世間では一休和尚の作らしい。
蜷川氏の家伝は、曲〈クセ〉の中に、「仏あれば衆生あり。
衆生あれば山姥もあり」と云うまでは蜷川大和守親元の作で、「柳は緑、花はくれないの色々」と云い切りまでが一休の作だとのこと。

三篇 巻之ニ十九 〈一〉 肥前国風土記の話

『肥前国風土記』から
大家島。昔、景行帝の御宇、巡幸の時にこの村に土蜘蛛がいた。
名を大身という。
皇命を拒んで、降服(まつろ)うことを肯ず。
天皇、勅命して殺して滅ぼした。
それから、白水郎(あま)ども、この島に就いて、宅を造り居んだ。
だから大家の島という。
島の南に巌がある。鍾乳(いしのち)と木蘭(もくらに)とある。
廻縁(めぐり)の海には、鮑、螺(にし)、鯛、雑魚、及び海藻、海松と多い。
この島は今は大島と呼んで、城下から海上三里の北にある。
なるほど『風土記』に載る様に巌がある。けれど島南にはない。
三つある巌の内、二つは東方にあって南に向く。一つは西方にあって西を向くと。
島の人に聞けば、巌の入り口は凡そ三間もある様で、高さは一丈とも云えるだろう。
深さは知れないが、波が打ち入る響きから察すると、十間余りにも及ぶだろう。
西方の巌も、深さはおおよそ前記の様で。
この余に小巌は処々にあると。
この余に、西方の巌前に、障子巌と呼ぶ石がある。
海中から立って、高さ三四丈ほど、横十間に及ぶ。その下、潮が通じる孔(みち)があって南北に満ちては退(ひ)く。
また島の北に裏海(いりうみ)がある。
入ると一里余り、されども北向きに波が荒く、泊船はやり難い。
この遥か対するは朝鮮国である。
このニ処は『風土記』にも載せていない。
また今領内の輩もかの島の海巌を知らない。還りて数歳の昔をこれに載せた。

※丈=10尺=3.03㍍

巻之十二 〈ニ五〉 狐つき

ある者に狐がついた。
医薬は勿論、僧巫(そうふ)の祈祷でも離れなかった。
為ん方なくある博徒がいて、狐を落とそうではないかと云う。
それで、頼んだ。
博徒は、鮪の肉をすり身にして当の者の総身に塗り、屋柱に縛り付けた。
畜犬を連れて来ると、犬は喜んで満身を舐めた。
その者は大いに恐怖を感じ震え叫んだ。
やがて狐も落ちたとのこと。

巻之十六 〈二〇〉 馬の乗り降りを一方に極めず左右

西洋人著した馬の調教の書物があった。
騎法もさまざまある中に、乗り降りを一方に極めず左右よりするとのこと。
いかにも実用的である。
今の様に一方より騎ることに癖がつくと、事に臨んでは不都合になることもあるに違いない。

三篇 巻之十七 〈九〉 沖の神島、地の神島(コウジマ)

わしの領分小値賀は、隔土(ハナレドコロ)で肥前の大島である。南辺の僻地なので、領主もあまり行かない。何れの先代にか、かの地巡視された折〈この小値賀には、神島(コウジマ)といって両所に神祠がある。人は沖の神島、地の神島と云う〉乗船が神島の前を通るとき、鳥居の上に白髪の老人が現れた。公はご神体であると、随行者に示して拝むよう令(しむ)るが、みな視えずと答えた。ただ用心某が視ることが出来た。正しいご神体ではなく、何者なのだろうかと云っている。
また巨綱島氏が伝える。かの地へ渡るは、雄香院殿のみである。この時も老沖縄が現れ、公は拝敬されたが、人に伝えると視えずと云ったという。
だからこの二つの事は、雄公の時にお姿が現れたと云うのか。また現れた方は別の方と云うのか。いずれにしても、その神の身体を顕されたのだ、不思議なことぞ。
また地の神島に、法印殿が朝鮮国からご帰陣の後奉納されたお刀がある。封人も容易には見難い。島の押役(オサエヤク)は、これを拭う時に拝見するが、革柄で鉄の緑頭のお構(コシラエ)になるので、中刃(ナカゴ)はいかにも上作とわかる。
人が評するには、公の御陣中に常に身につけておられる物を格別に奉献されたと聞こえた。
またある人が云う。沖の神島には、年々大歳の夜に海中に火が現れ、島の神前へ到り全て波間に没す。人は竜王の奉燈と呼んだ。
また云うには。平戸は古の庇羅の島である。南北に十里余り〈五十町程〉、南端は志々伎神社がある。平戸城は北方の海辺である。また極北に山がある。山上に白岳祠〈小石祠〉がある。この神もまた霊がある。商舶および余船に至るまで、平戸を望んで来る者は、時があって夜霧が四方塞いでも、指所を弁ずるなかれ。この時、船中に於いて、かの山祠を祈念すれば、必ず山頭に火光を見分けることが出来る。
船は即これを認めて行けば、すなわち平戸に達する。
全く神の霊火と伝わる。!

三篇 巻之六十 〈九〉 陽苗字の者

長崎の通辞に陽苗字の者がいる。
今にいる。その先は欧陽氏名は玄明、書をよくしていた。
わしもその筆跡を保管していたが、度々の火災で半分消失した。
また水府の脇師大原造酒之助の祖も王氏であった。
明より我が邦に来て、水戸義公に慈愛されたのだった。
近頃聞いたところによると、大原の前は王文○(火編に罒幸)の弟で、○(左に同)字継熈、号雨春堂。
右欧陽玄明と、大原の先某とは、同じ年に同じ船で我が邦に到ったとのこと。
年は清聖祖が康熈三年と云う。
ならば、我が朝寛文四年甲辰にして、厳廟の治世十五年である。

巻之一 〈一五〉 旱(ひでり)と雨乞い

わしの封内のことである。
一年旱(ひでり)があり苗が育たない。
それで社人に命じて雨乞いをしたが験なし。
僧も同じであった。
この時に下の社家の中に、坂本但馬〈名忘れ〉と云う者がいた。
この様に雨乞い祭はあるが、験なきは本意でない。
願わくば某に命ぜられよと云われた。
すぐにその請われた所に任せた。
坂本はすぐに舟に乗って、広瀬という所に至り、己一人留まった。
乗った舟も伴う人も帰し終わり、その所に神案を構えた。
その前の石上に安坐し〈この広瀬は、平戸の城下から近い海中。
朝鮮に向かう海で、その処は小さい瀬になっている。
潮が満ちるときはその瀬は隠れ、干けば現れる。
洋海に臨むといつも浪高く寄せて来て、風があれば雪を積み霧が覆う様である〉。
もとより覚悟してきたと見えて、安坐する膝の上に大きな石を積み重ねて浮き上がらぬ様仕掛けをして祓い詞を連誦する。
諸人が陸地より臨んでいると、やや間があって潮が満ち来たり、次第に坂本の坐にうち寄せ、ようやく膝より腹、胸に至った。
人々は如何に!と見る間にはや顎に至った。今にも頭が潜れてしまうのかと見る。
固唾を飲む。と、その時、天が俄にかき曇り、大雨盆を傾けた。
誠心の感覚は不思議なるものである。

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