三篇 巻之ニ十三 〈一一〉 平戸考

平戸考
わしの城地は島中にあって、世に平戸と呼ぶ。けれどもその地名の由来を知らない。ましてやその地にいる者さえわからないので、人が知らないのも然りである。だから、これを云うには、城地は島の北の方にあって、その地を平戸とするなら、島の総名は知る者はないだろう。
また上古に平戸と名ざすことはなかった。ならば、古に如何にと云うならば、単に平とのみこの島の名だった。
この平と云う古は『和名抄』に載るところ、肥前国十一群の中、松浦郡に、庇羅(ヒラ)、大沼(オオヌ)、値加(チカ)、生佐(イキサ)、久利(クリ)と云うのを上げる。即これぞ平である。庇羅と云うも平と云うもみな仮名にして同じ。
『三代実録』に貞観十八年の三月、参議太宰の権帥在原行平はニ事をうけた。その一事は〈中略〉、そのニ事は、肥前国松浦郡、庇羅値嘉〈値嘉も、今わしの領村。その説を下に記す〉の両郷に更にニ郡を建てて、上近下近に値嘉島を置くよう。今件のニ郷ははるかに遠いが、戸口は豊かでにぎやかである。また土産の出所は、奇異で物が多い。これに加えて地は海中にあり、境は異俗に隣する。
大唐新羅から来る者、本朝に入る唐の使い等は、この島を経て入らないわけではない。
また去年ある人民等が申して云うには。唐人等は必ず件の島に先に至り、多くの香薬を採ってそれを貨物に加える。その物を見せこの間、人民に令せず(ここ今一つ不明)。

これ等を以て見よ。古は庇羅の郷も、辺鄙な一所であると聞こえる。また宣長が『古事記伝』には、『三代実録』を引いて云うには。庇羅値嘉。『和名抄』にはなお松浦郡の郷名に載っている。定めてこの島は、今の五島平戸などの島々の総称である。そのゆえは、この島は歴史にも見えて、『三代実録』の趣きが大きくある島と聞こえる。在所もよく叶い、『風土記』に数大くあるのもよく叶ったりである。
五島平戸は、肥前国の西北方の海から西方へ遥かに連なる多くの島々がある。今も松浦郡につく。
(細注)後に平戸と云うのは、かの庇羅郷(ヒラノゴウ)より出た名に違いない。『三代実録』の文によると、庇羅はこの島にある郷である。
この値嘉を五島と云うのはよく心得た〈わしは、この弁を後で云おう〉。けれどもみな平戸とだけ云って、〈ト〉と云う弁は少しもない。また庇羅はこの島にある郷だと云っても『実録』の文は庇羅値嘉は、松浦郡の両郷とあって、郷の名である。だからこの様に云うなら、庇羅の郷の中に、また庇羅の郷があると云うも、宣長に似合わぬ陳腐なことである。
○この〈ト〉と云うのは、今は濁音に呼ぶが、これは平と云うので、度〈ド〉と濁るが、その正しきは渡〈ト〉と清〈スン〉で称すべきだろう。
如何にとなると、庇羅の島は肥前の陸地と接しているのは勿論だけど、わしの居城の辺りはますます近く、その南北は次第に闊距(大きな距離)で相離れ、唯城下の地勢相迫るを以て、朝暮来去の潮の流れは甚だ急で、ほとんど激流に勢いである。〈里俗はこの潮の勢いを名付けて四十八潮と云う。ただし潮行は一定でないが、変流は定まっていない。これはわしの居城の後ろの険しさに頼む所以である。詳しくは後の地図を見ておくれ〉。所謂この間は迫門(セド)なるものである。ゆえに平は庇羅にして、戸は庇羅島と肥前の陸地との門(ト)である。これはわしが城地の処ではなく、この様に呼ぶべき地である。

他その証を云うならば、世に名高い阿波国の鳴門。歌に
世の中のを渡りくらべて今ぞしる
  あはのなる^と^は浪風もなし
〈『和漢三才図会』に見える。読み人を云わず〉
これは、淡路国と阿波国との迫門(セド)である。また『歌枕』に〈紀伊〉、
かぢさがりゆらの^と^渡る柴船に 
  漕をくれたるなげきをぞする顕仲
この由良の^と^も、門(ト)にして『赤水興図』によると、淡路に由良というものがある。紀伊と相対してここは迫門(セド)である。阿波の鳴門と西東にあり〈世に紀州由良というのは、由良港(ユラノミナト)で、迫門とは別の処、紀の海口である〉。これ等にも思いを致したい。
それで単にいうなら、庇羅島(ヒラノシマ)と肥前の地との門(ト)にして、「ヒラノト」である。また本地へわたる、庇羅より渡る、これも渡(ト)というべきだろう。が、これは不自然。`ト`は濁音にならない。清音でありながら、今濁音になるのは、言便(ゴンビン)で濁るのである。
因みに、その地勢を知らない為に、過ぎし文化八年辛未冬、官命があって九州を測量した地図がある。ここに出してみる。その地図の全体を見て、よく知ってほしい。

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◎また前に云っていた松浦値嘉島は、庇羅と両郷としたことで、今も大なる島である。
けれどもその地は分断して続かない。
その島々を読んで、わしの居城の方にあるのを宇久、次を小値賀と云う。
それから次いで、中通、若松、奈留、久賀、福江と云う。
その形中小大と交じり連なる。
だが、宇久小値賀は前に離れ、その余りの中通以下は後(シリ)に連なる。
これは所謂五島で数によって称する。
問う。ならば、前の二島〈宇久、小値賀〉はどうして五島に加えるのだろう。
答える。『肥前国風土記』に云う。
値嘉島は郡の西南の海中にあり。
昔の者は同天皇〈同天皇とは前に纏向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)と云う景口帝なり〉巡幸の時、志式島の行宮に在して、西の海をよくご覧になった。
海の中に島がある。煙気が多く立ち上っている。

陪従安曇連百足を勅して、遣わしてこれを察(み)せしむる。
島は八十余りあり。
中に就くニ島は、島ごとに人あり。
第一の島名は小近。
土蜘蛛大耳がいる。
第二の島名は、大近。土蜘蛛垂耳がいる。
のこりの島は、並びに人おらず。
ここに百足は、大耳等を捕えて奏聞す。
天皇勅をして、みせしめ(言偏に朱)殺そうとした時、大耳等頭を叩いて聞きし曰く〈中略〉。
ここに於いて、天皇恩赦を垂れて放し、更に勅して云わく。
この島は遠しと云えども、猶近いように見える。近の島と云うべし。
よって、値嘉の島と云う〈中略〉。
或いは一百余りの近島がある。
或いは八十余りの島がある。
西に船の泊まる停(とまり)がニ処あり。
遣唐使、この停を発してより、美弥良久(みみらく)の済に至り、ここより船を発して、西を指してわたる。
〜ここまで肥前国風土記より。
また考えを巡らすと、大小とも値嘉の島なのは、呼称は別にして上古景行帝の頃は、大小(オヲ)の音を分けるまま、小島を小近(ヲチカ)と呼び、大島を大近(オチカ)と呼んで、その地を知るのを〈景行帝より、十三代四代の帝、顕宗、仁賢の両帝は、履中帝の御孫、御兄弟として坐するが、御兄仁賢帝の御名、億計(オケ)と申し奉り、御弟顕宗帝の御名を、弘計(ヲケ)と申し奉るも、御同名に非ざるは、呼び声の違い故である。
これ等を證とすべき。真淵が『語意孝』にも、これを詳しく述べた〉、数百年を歴たる中、いつしか今の小値賀の地のみ、旧名を残して、大近の地は、その呼称さえ絶えて、地勢によって、今は五島とのみ称しているのは、里俗を嘲るのみでなく、文雅の諸人、或いは国君さえも述べないのは、どうしてだろうか。

◎『風土記』の文に、遣唐使は、美弥良久の済に至り、これより発船して、西を指してこれに度(わた)ると見えるのは、美弥良久という処は今審にしないけれども、大近の島端から西を指し度ると云うと、漢土は今の浙江の辺である。
朝鮮対州は、共に大近の北方である。
『風土記』の文の唐使海路の便を見てほしい。
また今の浙江は、唐の代の明州で、『古今集』の旅、仲丸の歌〈天の原ふるさけみれば春日なるみかさの山に出し月かも〉の後注に、この歌は昔仲麻呂を唐に学びに遣わしたのを、あまたの年を経て、得(ェ)還り参(モウ)でに来たのをこの邦(クニ)よりまた使が下り至るにかこつけて、参でに来た明州の海辺で、かの国の人は馬の鼻向けをした。夜になって月がとても面白く出るのを観て、必ず歌を詠もうと語り伝うる、と見えたのはこの大近の対向によくかなったことだった。
これを思え。


◎また『風土記』の文に、天皇〈景行帝〉巡幸の時、志式島の行宮(アンキュウ)に在しと云うもの、今『風土記』の板本があると頭注がある。
曰く。志式島の事は詳くはないと。
わしは思う。平戸の島端は、北は居城の地、南端は〈この南北の距離は十里余り〉。
すなわち志自岐の社がある。また西海をみそなわすに、海中に島があって煙気が多く履う、云々。
小近大近と。今かの社地より西を臨めば、小値賀の島がある。
五島も同じ。また、志式、今は志自岐と書くが、『延喜式』神名帳、肥前国の式社四座の中、志々伎神社〈名神大〉は、正しくこの神である。
それで『延喜』には志々伎、今は志自岐、『風土記』は志式、みな同音である。
ただ『風土記』に島と云う物は庇羅島の南端であり、巡幸の時、北辺より島中を経られず、南肥後の方よりそこに至られたので、志式は素より島中にあるので、南端からみて称するなら、志式島と云うのは、相応しい。
よく思いを致すよう。
また云う。今かの志自岐の里俗、及び社家に伝わるのは、昔景行帝がこの処に到りたまわれたと古来伝説に言てある。
明らかにますます符号するのだ。
因みにわしは云う。
志々伎は古の文字、今は志自貴岐と書く。
だから古は志々と清音だったのが、終に言便に従い、志自と濁ったままを書かせている。
それで思う。平戸島の半ばより南方に、獅子村根獅子村等がある。
それより南の島先は志々伎神社とする。
だから、伎は崎のことで、獅子の崎となるのだ。
ただし獅子の文字は、全く後世の物で、古に志々と呼んでいたが、未だ考えが得られず。
これは庇等値嘉の事ではあるけれど、図を観て知って欲しい。
その首(はじめ)の宇久島は、五島侯の領地、次の小値賀島はわしの領地で次第に混雑する。みなその祖先に故あっての如し。
こと、下に述べたい。
またそれ以下の島にニ万領と称して、五島氏とわしと相互に、五分一ニ分一などと呼んで、農の租税、或いは漁猟の運上を両村に分かつことになった。
他には有ると聞いていない。
たとえば里中に小祠がある。
この朽損を修理するに、かの主よりは祠屋の半ば、わしの手よりは、その半などと云って、かの五分一、ニ分一の割に為るのである。
珍しい事なので、ここに付録した。

◎また宇久島は今五島侯の領分で、その島第一である。
小値賀島はわしの領として、第二にある。
これより、五つの島は連なりて五島侯の領分とする。
この次第交わる故を尋ねると、祖先覚翁殿のとき、その女を五島侯の先囲(かこむ)に嫁いで、男を生む。名は守定。
守定、幼きときに内乱に遭い、母と共に平戸に逃ぐる。時に覚翁殿は既に卒るをもち、子は高齢殿に寄った。
後その力により守定は本領に復(かえ)り、その母もまたかの家に帰る。
また里俗が伝える。
わが祖先公の女、五島氏の先君に嫁す。
このとき宇久の島を粧田として五島氏に贈った。
今宇久にある物は、この為だと。ただし前と一事。
因みに云う。今五島侯は、清和源氏と称するが、全くその初めは、わしの家祖先公の六子、宇久(うくの)源六と名乗られた末である。事『新修家譜』に詳しい。
ならば、嵯峨源氏の一族である。
この地理の事にはこだわらないけれども、宇久小値賀見合いの為に、ここに及ぶ。
わが居城(スミドコロ)は、あまさがる鄙(ヒナ)のとほき国の島なれど、平戸てふ名は、古より久しく伝へぬ。
しかはあれど、何(イカ)にして斯(カク)は名づくるも、今にしては人しらず。
因(ヨ)て、われその国の島に主(アルジ)として、斯なん人と同じからんもいかにと、昔のさまを前に書しるし、また値嘉の島てふ名も、遠き古に聞こえたれば、これをもともに、わけしるし侍りぬ。
あづまより千里へだてし庇羅の迫門(ト)の
   我が住むかたはちか(値嘉)の五島(イツシマ)
     (本文ママ)
珍敷考指上侯。得と御一覧御評被仰下度奉翼侯。頓首。
        二月十九日
清細なる考證感心仕候。
        二十一  衡
(忠行日。以下他日の御礼)
一、御領地云々めづらしき事を承り申候。
あの類の御草稿は一時遊戯と違ひ、実に考證も可相成之事どもにて感心仕候。
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続篇 巻之七十 〈一六〉 能装束

能見物のとき、脇師高安彦太郎が云った。
その家に太閤秀吉公より賜った能装束があるという。
また今家紋とする三巴は、神君より拝領した狩衣、紺地に巴の紋ちらしを金でほどこしている。
また、はなすに今春大夫の分家に、今春八右衛門と云う人がいる。
八右衛門から分かれて大蔵庄左衛門と云う。
この家に唐の楊貴妃の宝冠が伝わっていると。
だから能の楊貴妃の天冠かと聞くと、唐時に貴妃が着したものと云う。
すると希世の宝物ではないか!
だが、今は質物に入っていると!何れにあることか!穿鑿(せんさく、根掘り葉掘りうかがう)はすまいぞ!

巻之五十ニ 〈一三〉 喜多院の鐸(レイ)

ある人が語る。
仙波の喜多院は境内に十六坊ある。
それで寺内で鐸(レイ)を振るまじき!との立て札があった。
こういう訳で寺内の者は皆々心得ているけれども、回国の行者などは知らないので、寺内に於いて仏前の拝礼などに鐸を振れば、寺坊か門前の民家で必ず発火して禍をなす。
この故に寺内ではこれを禁じていると云う。
如何なる故にこうなるのか。

巻之五十三 〈ニ〉 喜多院で鐸と蛇

前に五十ニ巻に、喜多院で鐸(レイ)を振るのを禁じていることを書いた。
要するにまた異聞があるのは、天海僧正住職のとき、如何なる故に、前庭に蛇が出たことがあって、必ず食を与えられていた。
それで、鐸を降って(寺坊を)呼ぶときは蛇がやって来た。
そうして、歳霜を歴て、蛇はしだいしだいに大きくなり、出るときは護摩壇に及んだ。
それで、加持修法等のとき、鐸を振らないようにしたのだ。
こうして禁じと為した次第。
こうして観ると、火の禍があると云う者はおかしいし、蛇の為に禁じるのはあっていいものか。

巻之五十 〈五〉 蟹と海参(なまこ)、栗と大角豆(ささげ)

蟹が海参(なまこ)に聞いた。
「きみは尻が頭のなの?頭が尻なの?」。海参も言った。「あんたさんは、往くが還るか還るが往くか?」。
また栗🌰が大角豆(ささげ)に聞いた。
「汝は、花豆類と等しくて、一人実は長いのだね」。
大角豆が応えた。
「お前さん、花は長くて、実が円いの如しだね。また色情の悟りの道は川柳の句にあるよ」。
曰く。
「おみ足をきつくさするが返事なり」。 喝

◎何とも何とも

巻之五十 〈六〉 庭園の山茶

わしの庭園の山茶、年々開花が多くなっている。
この春は、花が落ちて枝に一物(本文ママ)があって花のようである。
取って観ると花ではない。それで図を描いた(写真)。
またこの辺りの太田世張と云う本草家に見せたら、こう言った。
「俗に木病と云うもので、山茶、イセツバキ、むくの木、菊などにあるものです。
奇異な物です。
松の十かえりの花なども同類です」。

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巻之四十九 〈一三〉 壱岐、対馬のこと

領分壱岐は、孤島といえども流石に一国であって、産物も多い。
モグラはかつて無し。
長く続く畝もその害を免れ、花卉を庭園に植え、及び手入れする者はその妨害がない。
わしは常に戯れ言をする。
嘗て黄門光圀卿、文蛤白小を常陸の磯浜、潮来湖に放ち、長年滋息して、民はその利益を頼るほどだった。
昆布は唯松前に出るのを、その石を松前から取って、大津浜に置かれる等の事までされたとのこと。
これとは反するが、もし何者かがモグラを壱岐に放てば、その子は繁茂して一国の災いになるだろう。
また虎を六十州の土地に放すなら、これも本邦の永き災いになる。
この様なことをやる人は無限地獄に墜ちて、永く悪業の苦を受けるだろうと笑うと、またこれと反することがあった。
対馬にはタヌキがいない。
昔年、宗家の臣に某と云う人がいて、狸の害を断つと誓った。生涯辛苦して、遂に一国の狸の種物を尽くした。
その人が常に云ってた事は、狸も天地間の動物の一種である。
その種を尽くすのは不善である。
我は必ず子孫は無かろうと云ったのが、果たしてその子孫今は絶えたという。
対馬の老臣大森繁右衛門が話したと、林が話してくれた。

続篇 巻之十四 〈五〉 御仕置き場

近頃の事である。
ある御屋形の御簾の中で、隅田川遊覧の帰途堺町を通行していたのが、予め内通していたのだろう、歌舞伎の木戸〈所謂鼠木戸である〉がみな取り外され、外から舞台がよく見渡せる所で、助六の狂言で幕を開くのだがね。
舞台の所作がよく見えるので、御簾中の御輿は不浄所の例えになるからと高くさし挙ぐると、舞台の様子は見えず、ただ軒に掛けた看板のみを観給い、御供の面々だけは狂言がよく見えたのだと云う〈後で聞くと、この日は供の輩は帰邸の後罪を問われ三人切腹。
在所へ放逸させられ、あるいは職務を解かれたるなどおびただしいことであった。
珍事変である〉。
これで思い出すのは。
わしは先年東上して江戸に着く前日、品川に泊まった。
八ツ頃(午後2時頃)鈴ヶ森を通ろうとした時に、供方より申すには、路端に御仕置き物があるので、如何いたしましょうかと尋ねるのだ。
わしは応えて云った。
その御仕置きは何なのか。
答えるには、梟首でございます。
わしは、では気にせず通るがよいと下知した。
その前を急ぎ行くのに、これも不浄所の法だと、駕をさし挙げた。
獄門台は高く構えているものなので、駕の窓と梟首が並ぶと、首は近く見えた〈如何なる受刑者か、首が十ばかり並んでいた。台も三間ばかりの長さであった〉。
陸尺(ろくしゃく、籠や御輿を担ぐ者共)どもはいらぬ作法をして、見たくもないものをわざと見せたのだ。
この二つの乗っていた駕を挙げられた事の背景は各々に異なる。
が、駕を陸尺によって挙げられる経験は一般的な事なのだろうか。

続篇 巻之九十ニ 〈一〇〉鷲に捕えられた話

印宗和尚が語った。
天保壬辰の夏だった。
薩摩領で小給の士の十四になる子が、父の使いとして、書簡を持って、朝五ツ頃に近辺に行ったが、ある坂を越していくと、大きな鷲が空から飛び降り、この子を掴み飛び去った。
倅は驚いたが、空中の事なのでどうしようもなかった
眼下に村里が見えていたが、やがて見えなくなり、やがてはるか海の上を飛んでいった。
怖かったが、為すこともなく、両手を懐に入れて、運命に任せていた。
片手をそっと出して見ると、自由になるので、鷲を刺そうと思ったら、丁度鷲は大きな木の梢で羽を休めていた。
倅は(腰に指した)脇差に手をかけようと周りをよく見たら、殊に高い梢なので、鷲を殺したら、己は墜ちて微塵になると思い、しばらく猶予する間に、鷲はまた飛び行く。
やや間があって、倅が下を臨むと、程近きに平地があった。
頃合いを見て、脇差を抜いて、胸の辺りを後ろざまに突いた。
鷲は弱ると思われたので、ニ三回刺すと、鷲は死んで地に落ちた。
ここは山中なので、ニ町ほど降りたが、方角がはっきりしない。
ふと思いついて立ち戻り、かの鷲の首と方羽を切り落として担いで麓目指して行くと、木こりに出会った。
木こりは「何処の人だね」と聞くので、倅は「城下へ行きたいので、案内してくれ」と頼んだ。
木こりは「城下とはいずれのことぞ」と云うので、「城下を知らんのか」と倅が云うと「全く知らんな」と応えた。
倅は腹立てて「鹿児島のことよ」と云うと、「鹿児島とは何れのとこだあ」と云う。
倅は心づいて、「薩摩鹿児島であるが、あんたさん、ここに居ながら、わからぬのか」と云った。
木こりはあきれて、「薩摩はここから何百理と離れておるぞ」と云った。
倅は「さればここは何処か」と問う。
木こりは「ここは木曽の山中なり。
如何にして、この様にわからぬ事を云うか」と云った。
「わしは薩摩の者である。鷲に捕われ、」とかくかくと倅は話した。
証にかの首と羽を出したら、木こりは疑わず、麓に連れていった。
庄屋にこの由を訴えた。
陣屋にいくと、人々は驚き、医者を呼んで診せると少しも替わりはない。
それより件の成り行きを問うと、薩州で鷲に掴まれたのは朝五ツ(八時)過ぎで、木曽の山中で鷲の手を離れたのは夕七ツ(十六時)過ぎだった。
(捕らえられてから)時が経っているが、空腹を感じないようだった。
帰すには、数百里の処なので、まずは江戸の薩州屋敷に送り届けた。
老候はこれを聴き給いて、殊に賞感されたと云う。
計ると信濃から薩摩へは、殆ど四百里になる。
この様な遥かな距離を、僅かに五時で至るのも、鷲の猛きか、その人の暗勇か。
奇事が耳に入ったものよ。
また先年のこと。
江州膳所でも、馬に乗った少年を鷲が掴み空中に飛び行った。
捕らわれながら少年は、下を見ると、湖上を飛行するので為ん方もない中、両刀邪魔になるので、刀を抜いて湖に投じた。
脇差は指していた。
すると陸地の方へ飛行した。
鷲も羽が疲れたのだろう。
掴んだ足をゆるめたので、少年は浜辺らしき処に墜ちた。
鷲はその辺りの巖上に飛び降り、羽を休めていた様だ。
少年も幸いに傷一つなく、起き上がり鷲を切ろうと思った。
が、逆に鷲に攻撃を受けると思い、伏したまま動かなかった
。鷲は動かない少年を見て、飛び移り、その面皮を掴み食おうとした。
が、少年は脇差で切りつけたので、鷲は斃(たお)れた。少年は辛くも命拾いをして、辺りの人に尋ねた。
「ここは何れの処であろうか」と聞くと、「若狭の海辺である」と。
これらは(西国の)近国の話だが、何れ二十余里も行けるものではない。
大鳥の人を捕え方は同一方法である。
この二つの事件を考えると、鷲は、(二人の)帯の後ろを掴んでいる。
薩児、江少年は、みなここをしとめられた。

続編 巻之八十六 〈五〉 蝦夷菊や蝦夷人の話

松前志州は旧来の馴染みであったが、家の浮沈により四十余年付き合いが疎くなり、この閏月にかの宅を訪れた。
西東隔土の話になり、わしは云った。
その領国(松前藩)で産出する蝦夷菊は愛すべきものである。
帰国の後、必ず各種を送って欲しいと云うと、志州が云った。
いや、その菊はわしの領地産ではないのだと。
先年当地から持ち帰り、植え始めたが、今ようやく育つようになったのだと。
わしは愕然となった。
そうして、芸花家が南京、薩摩、蝦夷などの名を托して珍重する者、この類が多いのだ。
また問うた。
その中の牧人(モクシ)と云って、馬に乗る自在な者を既に文政七年の頃、私邸に招き見物し目を驚かせた。
蝦夷もまたよい乗り手であり、随分牧人に劣らないとのこと。
馬具は何を使っているのか。
志州が答えるには、(蝦夷人には)馬具はなく、裸背である。
鞍を用いれば、荷鞍なので(荷物様の鞍しかないようだ)、なかなか常の馬具をの用いる事を知らない。
また馬を馳せるには、平地は勿論、山坂等嶮しく難あるといえども少しも避けず、直下しても恐れず、鉄砲もまた馬上で放ち鳥獣をうつ。
わしはこれを聞いて思った。
蝦夷人は、弓練の事は人みな知っているが、かの土の事を記録した書物にも専ら書いてある。
それにしても、鉄砲に於いては未だその資料を見出していない。また馬乗の事も見ていない。珍説と云えないか。
またわしは云った。蝦夷人がこの様ならば、きっと義気盛んなのだろう。
志州はこう云った。義気に於いては少しも無い。去年東蝦夷のウラヤコタンで、異国船が大砲を放した時、鉛子(タマ)の大きさ二寸余りの物が陸地へ転(マロビ)来た。
蝦夷人はそれを見て、みな逃げ去った。
なかなか義気の心のなき俗であると。
これもまた考え方の相違だろう。
わしはまたかの俗の真容を問うた。
すると近臣に命じて、路上にその肖像を描かせた。
それはここに移した絵の通り(写真)。
また、寛政の手入れの時、三ヶ寺建立があった。
その中に浄土宗の寺があった。その事も聞いたが、なかなか(宗教の)教化は進まない。
和尚は受け持つと地を巡行するばかりで、金を溜めるばかりである。
念仏も蝦夷人は唱えるが、常に忘れてしまい唱えない。
酒を与えれば、その時は唱えると。
一向法流が行われることはならず。

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