続篇 巻之八十ニ 〈三〉 草津温泉

上州草津には温泉があって、人も行くと聞いたが、さぞ寂しい片田舎だろうと思った。壬辰の夏に端的和尚は養病のため赴いた。
帰後の話を聞くと、隠れ里さながらであり、中々繁盛していたという。
場所は浅間嶽の北方にあり、人家千件を超えていた。里は高山を四方に囲み、山陥すり鉢の状態で、すまいを建てていた。
されど極寒大雪の地なので、十月を過ぎると人はすまいを去っていく。ただ、一家だけが留守する家があったそうだ。
この様な有り様だが、夏時分は時々雨が降り、一日の中で再々降る。降り方は、ざあざあとひとしきり降って、たちまち晴れる。だから一年にして雨が多いと伝わると、来客は著しく減る。
それですまう者は、日和まつりを執り行う。すると雨は必ず止み、晴れ色を呈する。晴れ祭りは、修験と覚しき者が一人、法螺を吹いて先に立ち、何が誦文を唱える。それから戸毎に老若小児を選ばす、一人ずつ裸体にして雨に打たれる。みな同じく誦文を和して、先達に付いて里中の薬師堂に至る。
こうして数件の戸別だと、後には人が増えていき、数十人になり、誦文の声が山間に震える。
わしは思うのだが、ここはこの様な山の底なので、山の気の為に雨を降らすと、人の勢いが増す。山の気は人陽に押されて、陰雨がたちまち晴れてくるのだ。
これは林氏が西へ旅した際、厳島の高山が人が立ち入るのを禁ずる境に上がり、山の気を侵すので、晴れた空模様が変わり大雨を降らすこと表裏である。
林氏は前にも厳島のことを取り上げたが、段的にまた云った。
かの土人が食物を売りに来るのに、みな予め煎って持ってくるのだと。だから直に食用にするとよい。六七月の蕨もある。また豆腐芋等を売る者は、その名をよびながら、「オ芋サマ、豆腐サマ」と叫んでいる。尊称にて咲う。
かの地に於いて、その場の図を彫刻を施しておいた。ここに模付た。

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続篇 巻之十六 〈一一〉 片爪の小蟹

小蟹片爪のものあり(参照・写真)
下の写真を参照。
肥州(静山公のご子息)戊子西征の書簡に、備後国尾道から福地へ越える路がある。
この辺りの塩場(シオハマ)は砂土の中に著しく小蟹がいる。
〈この塩場は潮満ちれば海に、潮去れば砂土となる〉。
その爪は一つは大きく、一つは小さい。
一蟹に一穴、他と混ざることはない。
人の足音の響きがあれば、たちまち穴に入る。珍しいと図を贈ってきた。
五月廿四日。
また云う。この蟹が出る穴を測ると一ニ寸。
走り入るのにかつて自他と違うことはない。
蟹の大きさ図の如し。
この図は大きなるものである。
またやや小さくて多くいる。
穴に入るときはみな大爪の方から入る。
また稀には左爪が大きなものがいる。総て淡灰色と云う。
『本草啓蒙』な云う。
播州ユウダチガニは、海浜潮水が引いたあとの砂上に穴が多い。
蟹はその傍らに居る。
人の声を聞くと速やかに走り穴に潜れる。
甲羅は方(四角)で、上広く、下狭く、色は黒い。一螯(ハサミ)は大きく、色は白く、後の一螯は小さい。
小螯は食をとり、大螯は物を防ぐ。
穴に隠れるとき、小の方から入る。左が大きく、右小さいものがある。
また右が大きく左が小さいものがある。
雌雄の別であろうか。大きいものの甲羅の大きさはニ三寸。
上のものは、肥州が見たものと同じである。
播州、尾州は近いからこそである。
だが、爪の大小や穴に入るのは同じでない。
『啓蒙』また云う。
「備前クソガニは、形は石蟹に似ていて、一寸ばかり。甲羅は、方(四角)でやや横に広く、やや凹で中に一条の凸がある。赤黒色。その螯は甚だ赤く、左が大きく、右は小さい」。
これもまた近場にいる。
けれど同じものでなく、同種のものである。
『本草集解』曰く。
「一螯は大きく、一螯は小さいものは擁剣(剣をかかえるの意味)と名する。一つは桀歩(荒々しく歩くの意味)と名する。常に大きい方の螯で闘う。小さい螯は食に使う」。
この蟹は小さいものだが、似ているものがある。

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続篇 巻之八十六 〈八〉 樅(モミ)の巨木

彦太郎が語った。
霜月初旬のことだったか上野消失跡に御位牌所仮殿を造るとき、その処に樅(モミ)の巨木があったのが、さわりになるから切りのけた。その切り口は径り二間もあったという。
これにかかった御普請方の彦太が懇意にしている人が云うには、この木を伐るとき、伐り目(切り口)から赤い血のようなものが出たのだと。
伐り終わると、また切り口から気が盛んに立ち昇ったが、それから夜な夜な電光のように空に見え、また役夫が日々怪我をして止まない。
御別当の夢に人が現れて、この巨木を伐ったので怒っていると連夜訴えている。
これに就いては、臨時の護摩修行があって、その怪は鎮められた。
また夢のお告げに、かの樅の代わりに新しく樹を植え継げば、その怒りを停めようというので、新樹の樅二本をその傍らに植えられたと云う。

続篇 巻之四十一 〈七〉 雹(ひょう)のこと

閏三月廿九日、午後過ぎより晴天やや曇り、南風がにわかに西風に変わり、西北の際の雲色は極めて黒く、まさに雨が降ろうとしていた。
人々は尋常でないと見ていたら、疾風暴雨で、雷鳴が繰り返され、雹は雨と混じり合って降った。
一ニ時して止んだ。
この雹のことを聞くと、人の口は各々違うことを云う。
まずわしの辺りはみな通常の霰(あられ)のようであった。
中に大きいものは無患子(むくろじ、羽子板の羽根の下部の黒いもの)のようで、これよりやや大きいものも混じっていた。
また曰く。
この日、上野に行く者がいた。雨に合い、中堂に入って凌いだか、その話を聞くと、大きさ蜜柑のようなものが多かったと。
この勢いは、中堂回廊などの瓦に当たり、瓦は砕けて落ちたものもあったと。
また聞く。
上野坂本へ行った人が見たものは、炭団大のほどだった(炭団は直径三寸五歩)。
上野宮様の御家士某が来て語るには、某宅に降った雹は、煙草盆にある火入れ程だが、小さい中に廿四五塊も混じって降った。これは所々打ち破り、修復をするほどだった。
また宮様の御庭に降った雹は、大きさは通常の茶碗ほどで、間々その雹に青い苔が着いたものもあった。
人が評するには、これは中禅寺湖などの氷を竜巻に破砕されて降ったものではないか。
小石川にいる商人が云うには、その店の辺りに降ったのは、余りに大きく思えたので量ったら重さは七十八十目(目は匁、一目は3.75㌘)なるかと。ここの辺りは古家が多く、破損した。
またその辺りで、折ふし小荷物運びが通りかかった。
如何したのか、この雹に馬が激しく倒され、馬夫(まご)は荷物を解いて馬を起こそうとしたが、馬夫もまた雹に打たれ甚だ困っていたと。
また板橋宿辺りに降ったのは、重さ百七八十目になった。
だからこれに打たれ、怪我をした者もあったと。
また前に出た商人の話。
この雹は、その所々でまちまちであったと聞こえて、四月朔日に品川へ行ったときに、このほどの雹は何かと問うた。
この辺りは、大雨に一ニ粒ばかりの最(いと)小さいものが混じわって降るのみで、雹というほどでもなかった。
けれども田舎の辺りは風がことに強く、家居もこの為に吹き壊されたものがあったと答えた。
されば遠近方角で違いもあるのだ。
察するに日光山の辺りは、山上の氷を吹き砕き、風下の所々に降り落としたということだ。

三篇 巻之十七 〈一〉 エンビ、スッコンコウなど蝦の呼び名について

難波の蘆(アシ)は伊勢の浜荻(ハマヲギ)で一物異名である。
大村は肥前国でわしの隣邑である。
ここの里俗で、小児の輩は、手のついた小籠を『エンビ』と云う。
または『スッコンコウ』とも呼ぶ。
つまり全く同じ物である。
その元を尋ねると、はじめは川中の小鰕(コエビ)を捕る籠である。
今『エンビ』と云うのは、鰕を訛ったいい方。
また『スッコンコウ』は、漉来(スクイコウ)である。
原(モト)は、この器で鰕を漉い来う(スクイコウ)と云ったのを小児の輩は『エンビ』と片言し、或いは省いて『スッコン』とも言うのを、言を引いて『スッコンコウ』と畳呼びしたのだろう。
事物は末より見ると、まあ、こんなことだろう。

続篇 巻之三 〈一五〉 高松侯の臣の沼田逸平次と云う者

高松侯の臣に沼田逸平次と云う者がいた。
馬乗り役を勤めながら、傍ら好事の人である。
古昔の図書若干を蔵して、己の著書もまたある。
近年侯邸の厩より火を出して消失させたときに、初め火が起こった折、馬添えの者は狼狽して為すことを失した。
沼田はその子某と共に進んで炎の中に入り、侯父子が乗る馬に道具をみな調え、焔々を脱出した。
侯父子を騎馬させて、邸を立ち退かした。
それで侯は危難をまぬがれた。
沼田は思うには。 
この様な急な出火では、保管所の物一つも焚を免れることはなかったろう。
途中より戻って火を視ると、刀箱は煙に包まれ、火は既に遍いていた。
木鉄みな燃えて、その間に掛け軸らしきものがあった。
即座に思い出すのは、この侯家は常に敬い蔵する神祖の御画の真によるかと。
すなわち、火中より引き出したものに、焼き痕がないのだ。
開いて見ると、尊容厳然として故(もと)の如くだった。
人はみな驚かぬ者はなかったということだ。

続篇 巻之三 〈一六〉 城不見(しろみず)の地名由来

箱根の関のこなたにしろみず坂と云う坂が、ある。
小田原城が見える所を城不見(しろみず)と云うわけは、豊臣太閤の北条攻めのときに、ここまで来て城を見ずに止まり給われた。
近くの侍は、「何故城を見給わぬ」と不審がった。
「いやいや、城を見たら大砲がある恐れがあって、見ぬのだ」と申されたという。
このため、その地の字となったとか。

続篇 巻之十六 〈四〉 菜っ葉医の術

江戸の近在に一医者がいた。切り傷を療するのに、疵の浅い深いに拘わらず、きめ細かな粉薬を疵口にふりかけ、菜の葉を上に貼る。よく癒えるのが奇である。方を秘密にして人に伝えない。俗な呼び方で菜っ葉医者と称する。
わしはある時医臣の才能の立つ者に問うた。上の様に、疵口を洗わず縫わないやり方はあるのか。答えるには。某の家伝に、軍中における刀傷を療するに、粉末薬をつけ、疵口に生草の葉を貼る方がある。全く菜の葉のみではない。これは疵口の熱や乾きを止めるのみである。
後、かの菜っ葉医者の薬一貼を買って、見てみると家伝粉末の色を彷彿としていた。すなわちこのやり方を制しようとしたが、在勤の邸中はこの薬を採用することが都合がよいと。
あくる年の夏に平戸に帰り、家のやり方をきいてみると、薬の色は甚だ似ており、効果があるのも同じである。ならば菜っ葉医者と同じやり方ではないか。
しかし切り傷を治すには、後々傷痕が残らないようにして欲しいものだ。
件の粉末薬は、ただ速やかに治るのみで、疵痕には無頓着である。
だから、貴人や婦人には用いるのはよくない。軍中の様な所は、一手(一人の医者)で数人を治療し、ただ速に癒えることが求められる。ゆえにいつもは秘して(このやり方で)施すことはない。
菜っ葉医の術は速功を旨としているから、疵痕にはこだわらない者なのかな。

続篇 巻之九十ニ 〈三〉 舟の字

自然居士の謡の曲(クセ)に、
「然れば、舟の船の字は君とすすむと書(カキ)たり」とある。
右の傍(ツクリ)の公は、君の字であることでの論じはないけれども、左偏の舟を、すすむと読むこと如何にかと問えば、ある人が答えた。
前の字の古語、「止・舟(上下に書く)」と書いて、進(ススム)であり、先(ススム)であると註する。
また篆体の船の字があれば、「すすむと書(カキ)たり」と云うとのこと。
わしはこれを聞いて、この謡を作った人が、字学にも通じていると、感じ入ったことよ。

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続篇 巻之ハ十六 〈二〉 軍中は病は、気鬱から生じる

朝鮮攻めの渡海のうえ、軍人は水土になれないためか、多く病を受けた。
従軍の医師は、正気散を用いたけれども治らなかった。
時に清正の医師が、香蘇散を用いるとその陣はみな験を得た。
それで、他陣もこれを聞いて、その法を用いて、癒るを得た。
医師にそのわけを問うと、軍中は病は、気鬱から生じると。
それで、これを用いるのだと。
人はみなその意に服従したと云う。

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