続篇 巻之四十六 〈九〉 人の口は紛紛(土屋候の怪我)

当月初め上野詣での際、東漸院にして院代〈教観坊〉が語ったことには。
去る朔日寺社奉行土屋候(土浦藩第九代藩主)が閣老青山野州の宅で、門に入ろうとして籠から出た。折しも両番の中か、これも門にて下馬して内に入いろういうとき、馬は後足をはねていた。折り悪く、土屋候は籠より出るときで、馬の足が候の面部に当たったのだ。甚だ苦痛であり、眼が開かない。鼻血が止まらない。
ようやく玄関に入られたが、折ふし同役の脇坂候が居合わせ、その計らいにより、裡(うら)もから帰られたとのこと。
この様なので、院主東漸院も坊中申し合わせて、その夕べに早速土屋候の邸へ見回(みまい)に参ったという。
わしは云った。却って俗家を知らない為に、さても不慮なることではないかと。
この後、和州(大和国)の方に行ったとき、このことを話題にした。元より不慮なることだが、某が幼子を治療する印牧元順が来るが、これは土屋候懇意の者から聞いたからこそ、さほどのことではなくなるのだ。
目の下に少し痣ができているが、もはや一両日には出勤されるだろうとのこと。
わしは思うのだ。世の中の取り沙汰は、針小棒大だ。このことにも当てはまるだろう。
それより十日経ちいよいよ出勤されたと聞く。またこの両番とか聞くは、石川左金吾と称する寄合衆〈三千石〉であると。その人も驚いて、日々候邸に見回に行ったということだ。
また取り沙汰には、土屋候はその日の供頭の役義を取り上げ、供の士も戸じめにして七日目に免罪したと。
これも主人(土屋候)の意思はそれほどでなくても、同役の中書はことを難しく書いてあるので、やむを得ずこれに付随われたもの。
人の口は紛紛(入り乱れるものよ)。
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続篇 巻之三十一 〈一〉 開運大黒天

一両年前、隣人の某が大黒天の尊像と云って示した。
摺り版の画影である。
曰く。「この像は当田安亜相卿がこの度御昇進の御喜びに、徳廟(何代の亡き将軍か不明)御自画があったのを亜相卿が手写しなされた模刻のものである。
かの御家臣某より口上を添えられ、あたしに贈り与えられたんですよ」。
包み紙に題して云うには。
出世大黒天、中の御画影は①の如し。
②の包み紙の背書きに云う。出世長寿大黒天は、この御影を受ける人の心願成就を候らば、一枚は表具して永年敬し、一枚は板行にして二千枚摺り、一人に二枚ずつ千人にあたえること」。
しかるに今年また施版の絵像を示す人がいた。包み紙に題して云う。
開運大黒天、中の御影は③の如し。
包み紙の背書きに云う。
「開運出世大黒天、この御影を受ける人、心願成就したら、一枚を表装して、一枚を上木して千枚摺り、一人に二枚宛あたえること」。
この出板した人は、表御祐筆組頭森伝右衛門である。先に田安亜相卿より賜ったと云う。
傍記号の小異があるのは施者の心得である。
この人は、寛政の前世に名があって、持明院殿筆法を伝えた右衛門尹祥と称するその孫であると云う。
組頭にはこの春昇進したとのこと。思うにその喜びに印布したところであろう。

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続篇 巻之七 〈ニ一〉 小笠原島

前編第五巻に、伊豆付小笠原島のことにふれた。
この島を見出した小笠原三九郎は今は尾藩の士であるが、この年〈丁亥〉冬、候の名代として出府した。
その子は市橋候の娘を娶ったので、わしも遠縁になり、行智を介してわしに相見を請うた。
わしも対面しようとしたが、そのうち御暇を蒙り、そく夜に出立した。この人は名を長盈。
今回語った訳は。
小笠原島は小島数十ある。
その内、大きいものが六ある。広い三十里ばかりになるは大島である。
次には二十里ばかりになるのもある。
その六島の名を父島、母島、兄島、弟島、姉島、妹島と名づけたと。
前編に云ってたことと違う。

続篇 巻之七 〈ニ二〉 伊豆の沖の無人島

ある人が云った。
このごろ伊豆の沖の無人島に漂流して数年経つ人が帰った後に語ったことを親しく聞けたと云う話の中に、かの無人島は東五六十里ばかりもないという。
その辺りを乗り出して見廻ると、一の島を見つけた。
人も住めるさまで、遥かに臨む見ると日本の人物なので、舟で近づいて見ると、島人も指で招く。
陸に上がって問うと、「この島の名をメッポウ島のと云うが、近頃この島に移り住んだが、日本へ年貢を納めることもなく、稲は年々良く実るので食に乏しくなく、畠も出来る。木綿麻も種から育て衣服に事欠くこともなく、魚鳥はもちろん、草木おおければ、住まいも心任せに処々に造って妻子を養っている」。
「何れの年に、いつの頃から此処に住んでいるのか」と聞いたが、「最近の頃で常州銚子の辺りの某の村から、一夜の間に一村の者と示し合わせて舟を出して来た」と答えたよし。
島の主という訳ではないが、銚子の辺りの某の村に行って、その地の者に知らせようとだけ云った。
さて帰ってその事を語るに、近頃〈ニ十年ばかりも前に起こったとその村の者は云った〉。
銚子海辺の民家、一村の男女一夜の内に行方知らずになったことがあった。
それに違いないて云った者があった〈その処、村名も深く尋ねるほどの知人もなく、それ以上を問わなかった。
メッポウ島というもその輩が名づけ呼んだ名だろうと聞こえてくる〉。

続篇 巻之三十一 〈二〉 ぜにがめ

わしの幼児(息子、肥州)が、亀の卵を持ってきた。
見ると白色で鳩の卵の様だった。
四五日して殻を割って亀が生まれた。
大きさは銭の様だった。
その腹の甲に三四寸の臍帯(ヘソノオ)がある。
色白で細い縄の様。日を経て落ちた。
虫介類も卵の中に胞(エナ)があって産後に臍帯があるのが奇である。
『本草啓蒙』にある。水亀は春に陸に出て、沙土を掘ること六寸ばかり。
卵をその中に生じて土をかける。
八月中旬に至り孵化する。
大きさ銭の様。
これをぜにがめと云う。
薬用の亀甲は腹版である」と見える。
幼児が得たのも、八月中旬のことである。臍帯は腹版甲文の際より生じている。
林が云った。
佐野肥州〈大目付〉の庭に小池があって、年々に亀雛(本文ママ、亀の子ども)を生じる。
その卵をなして土をかぶせてから孵化に至る日数は、必ず七十二日である。
しばしば試みるが違わずと云うこと。七十二の数は、あたかも真理に叶う。肥州は知らずに試みて、暗にその数に合致する。
もっとも奇である。

続篇 巻之五十八 〈六〉 御石火矢台(大砲)

長崎港は異舶が入津する処で、山岸三囲、ただ一方が通じる。
その岸に砲場を七処に置き、大砲を設けた。
御石火矢台という。場に地形の高低はあるけれども、その設備は一つである。
この場は、昔年わが天祥院忠志の旨を申し上げ給い、官の許しを承りこれを設け始めたのだ。
また今年天保辛卯には、紅毛の貢物を保護して長崎の小通詞今村四郎という者が出府した。
わが荘に識る者があるので訪れた。その間の話に曰く。
長崎の御台場、近頃福岡、佐賀の両侯より修繕を加えられるという事、石垣を高く築き上げられて、見分けは立派に見えるが、この頃入津の蛮長(カピタン)が語るには、砲台高壮といえども、もし砲を発しても届かないし、船舶には当たらずみな上を超えるだろう。
古い昔の砲台のごときは、ことごとく船舶を的にしながら失鉛(アダヤ)である。
清(わし)は思うに、天祥公は武器の備えに長しながら、かつ官家に忠義なること、今に至って益々その遺念の在る所を知る。
残念なことには、筑前の両侯は見分けを専らにして実用に及ばず。
あまつさえ蛮奴の笑いを招く。嘆かわしい。

続篇 巻之五十六 〈一〉 古い鏃(やじり)

先年松屋与清が、ある人か富士の裾野で得た古い鏃(やじり)だとわしに贈ってくれた。
写真参考。
このものは、世で云われる頼朝卿が行ったかの地で牧狩りのときに、兵士が射捨てた遺物であろう。
これを見れば、古人の弓の力は今より優れると思った方がよい。
『将軍譜』をよく調べてみると、卿が富士野で狩ったのは、建久四年夏のことで、今に至って六百三十八霜。
古物が存在したことは、よいことであった。
またわしの平戸の蔵には、富士の裾野で得た古い鏃がある。
全く当時の物である。これは平根て、まあ大きな鏃である〈文政庚寅〉。

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続篇 巻之七十七 〈三〉 うみうそ

平戸のある画工が描いた一図を示す。
写真の図は天保三辰正月の初、平戸城のきたの釜田浦横島と云う処で捕らえた。
海獣である。
生魚を食べて死魚は食べない。
けれども飢えていると、死魚も食べる。人はその名を知らない。
ある人が云うには。
水豹だろう。漁師はこれを売って、金四両に替えたと。
後、ある本草家に質をして、その意を得たという。
詳しくは以下の通り。
このケモノ、その顔面は鹿に似ていてどう猛ではない。
色は灰黒色である。毛は長くない。つみげ(動物の毛の長さをそろえて、袋などに作る)は、柔らかい。
ひれ肉に毛がある。
大筋は五条あって、人の手の様に屈曲する。その五筋の先に小爪がある。
陸を歩む時、このひれを手の様にしてよく走る。
その尾ひれ、また足の様にして走る。
その尾ひれもまた前ひれの様に五筋あって、左右に分かれて付いている。その中央に小さな尾がある。
生魚を取って食べるは、海中に死魚がないということ。
だから生魚を好む。

漢名 海獺(ウミウソ)    和名うみをそ

このうみをそと云うものに二種ある。
気褐色のものを『とど』と云う。
佐州(佐渡)はとどの島が最多い。
灰黒色のものを『あしか』と云う。
相州(相模)はあしかの島が多い。
二種共によく眠ることを好む。
国によって黃褐色のものをも、あしかと云う処がある。
その大きいものは、一丈(3㍍)位に至るものがいる。
その肉は煎って油をしぼる。油が多い。また味噌漬けにして炙って食べる。
『本草』にある。
大獺、海獺と云うも同じものである。

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続篇 巻之七 〈一五〉 耶蘇継承の者

十月の初め、ある人と相会したときの話に、昨年か今年か、大阪に耶蘇の法を修むる者があり、遂に縛に就いたと。
わしは云った。耶蘇の法と云うものを如何にして知ったのか。
曰く。その女子が久しいこと病床にいる。医薬は功なく、祈祷は験(しるし)なし。殆ど死に及ぼうとしていた。父母は娘を深く愛していた。
時に町家に一人いた。
咒(まじない)法をよくすると。
これに就いていゆることが出来た。
この町人は、耶蘇継承の者で、病家に伝えて、信崇の徒を少しずつ倍にしたという。
わしは云った。秘承とはいかに。
答えるには。そのはじめを尋ねるのに、大阪落城の残徒が町家に隠れていてずっと伝えるところだと云う。
またその徒は少しずつ倍に増えていると云う
何者がかかるのかと聞くと、曰く。
大抵二三十人を超えただろう。その中男子は三四で余りはみな女子であると。
わしは云った。大禁を犯せば、定めて厳刑に処されるだろう。
答える。もちろん磔罪になるだろう。わしはまた云った。この徒磔罪に処するより固(もと)より、願う所にして、その宗の旨である。
答える。いかにもそうです。
某に語る者が云うには、吟味のときに奉行が云われる。
早々に改宗するように。
この非法は、御国禁を犯す罪は恐ろしいことだと叱ると、かの女子の答えに、それより死をもって神に仕える。
なんの非法刑罪をもって法を改めようとしても、なかなか畏怖の色がないという。
わしはまた問うた。奉ずる所の神はいかなる者か。
答える。全く異様の者ではなかった。
一つは世にいう於福(オカメ、三平二満)と云う娼婦の仮面に何か衣類を着せて、一つは老体の偶人(にんぎょう)であると。
吟味の人疑いはかの遇人の体を破りその中を視たが、内にも怪しい物はなかったと。
何をか主として念ずるのか。この外にも語ることはあるが、忘れた。
この話のもとはかの地の町奉行、この都に来た者が語ったと云う。
それならば虚妄のことにはあらじ。

続篇 巻之五十六 〈七〉 間宮林蔵

官の小吏の中に、間宮林蔵と云う者がいた。
わしはひと目会いたく思って尋ねていたが、これまで会えなかった。
その人は先に蝦夷地に事があるときに、蝦夷の極に至り、満州の境を超えて、清人にも接語したと聞いた。
ある人に聞いたが、林蔵は常陸の人で先年蝦夷御用の時に、松前奉行支配下役に召抱えられ、勤め上げたが、かの地故の様に松前氏に御返ししては、御普請役となって、御勘定所に隷して、その後は天文地理の書を読んだ。
固(もと)より、妻子もなく、家には甲冑一領、着換え一領、他には当用の武具と兵書などがあって、軽賤の者には稀な志がある者である。
また御勘定奉行の密旨を承って、所々の御用を勤めているので、在宅することも少なく、ただ一人の傭婆(ヤトイババ)があって留守をする。
今年は〈庚寅〉長崎奉行に属して従行していたが、備前国鞆の津に至った時に、時疫(流行病)をうけて危篤に及んでしまった。
この時受け持っていた書き物はことごとく焼き捨て、翌日奉行へ直対を請い、官長から承っていた密旨の證文を手渡しで返した。
そして帰舍してたちまち死んだと。
そうして、その男は、馬革で屍を包み、還り、葬ったと云うにも、こちらが恥ずかしくなった。
悲しい思いで聴いたものよ。
頃は八月のことだったか、検使として御普請役二人は出立して信州に赴いたという。
ある人が云った。
この者僕の所に往来してから年は久しくなってしまった。
永日に渡りあきらかに詳しく申し候わん。

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百合の若

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