三篇 巻之十六 〈一〇〉 寒に入るは、如何にして知るか

落とし噺であるが。
世に寒に入ると云うが、寒に入るは、如何にして知るか?答える。
よく心を澄まして聞けば、カンカンと鳴る。これは寒に入るときである。
質問者は、如何にも、と思った。
また夏に土用に入るときは、如何に?答える者は迷惑し、なるほど寒はカンカンと鳴り、されば土用は、ドンドンと鳴り入るのだろうと答えたという。
わしもこれに関して聞いたことがある。
前話は空言、作り話である、と云った。
にもかかわらす、事実もあるのだ。
領邑肥前の地方に、佐々と云う所の南海では、毎年夏土用に入る日より、海上が自ら鳴き声を出して、その音はドンドンと聞こえる、と。
近頃、その声(本文ママ)を親しく(海鳴りを)聞く者が語った。
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続篇 巻之十 〈五〉 「明石の浦はいかに」

一日瞽者が『平家』をかたるのを聞き、鱸(スズキ)と云う句の中に
ある時忠盛は備前の国より上られて、鳥羽院は「明石の浦はいかに」と仰せられると、忠盛はかしこまって、
 有明の月もあかしの浦は風に
      波ばかりこそよるとみえしが
と申されると、院は大いに御感動され、やがてこの歌は『金葉集』に入れられるだろうと云われた。
『金葉集』を見ると、月のあかかりける比(ころ)、明石にまかりて月を見てのぼりたりけるに、都の人々、月はいかにと尋ねければ、
            平 忠盛朝臣
 ありあけの月も明石のうらかぜに
       なみばかりこそよると見えしか
季節を吟じる標注に、ありあけの月も明石では、波ばかり寄(よる)とそえて、夜とは見えなくて、ただひるの様にあかかりし(明るし)という心であろう。

この歌は『平家物語』にも書かれた。

続篇 巻之九十五 〈三〉 尾張殿領の号令

張殿の領は号令が行き届いていると、我が身内の者が通行して語るにはー。

総じて士以上の人は、町家に往き飲食等を堅く禁じられている。

もしこれを犯す者がいれば厳科に処すと。

み城下の商屋を見ると、屋毎に前の戸から裏口まで見通しよく、少しの隠れたり障害物がない。

その上目付風の者が時々市中を廻り違法を糺(ただ)す。その目付は塗笠を冒ると云う。

宮駅(東海道の駅場)は名古屋より三里ほど、この間町家が連なる。

その町家の中には、飲食店、茶店は一軒もない。

人がもし休みを取ろうとすれば、草鞋などを売る家に入り憩う。

宮駅には売女風の者も目に入るが、令は同じことになるとのこと。

また農家には床を設けて畳を敷くことを禁じて、地上に筵(むしろ)を敷き、家内みなこれに坐臥する。

小大(本文ママ)みな同じである。

続篇 巻之八十ニ 〈一二〉 『武家事紀』『耶蘇天誅記』

武家事紀』に、志津ヶ嶽合戦〈秀吉、勝家との戦いである〉のときに、坂口上の要害に高山右近、海山の要害に中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。

天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえた。

折節、清秀は馬のすそを冷やして、髪もまど結っていない。その中に高山が来て云うには、「柴田の軍勢は、ただ今押し寄った模様。然らば海山の要害は甚だ浅間である。高山の坂口の要害の一所につぼみ然るべきだろう」と云った。

清秀はすぐにすそを致しかけた馬に裸背で、うち乗り、海山の要害四方を巡検した。帰って云うには、未だ屏の手も合わないので、これを勢いよくはしり、坂口にいたらないのは然るべきでない。

その上面々の受け取りは。高山は坂口に、清秀は海山で最必死になるようにとのことで、高山を返した。

その内に政盛の先手が四方より押し入り、根小屋を焼いた。清秀は兵を卒して突き出ていき、戦死した。高山は坂口の要害を出て、大元(本部)に退いた。秀吉は、清秀の死を忠義の死と感じ入ったようだ。

わしはこの頃の合戦は殊に不案内なので、云い分は食い違うだろうが、以上の文を検分してみたい。中川は義勇、高山は潔くない。高山氏がかつて南蛮宗であったことは前にも触れたが、家紋に今でいう十字架を用いていた。

これはさて置き、高山が専ら南蛮宗であることは、諸書に伺える。南蛮宗は自らの死を嫌い、人手によって死することを旨とする。

関ケ原の後、石田、高山、小西の成果を見ればわかるだろう。中川、高山は共に南蛮宗だが、中川は義勇、高山は然らず。

清秀は、かの宗法に違える所であるが、忠勇の執る所にて、上天感応して今に逮んで歴々たる諸侯の中にある者はもっともなるか。

また高山の成り行きは『武家事紀』にある。「高山右近は、南坊を号され、後前田利家に仕えた。南蛮耶蘇の邪法を堅く守り、慶長十九年三月に内藤飛騨守と同じ船で、南蛮国に到った亅。

この年は台廟将軍と成られ給いた後、大阪が落城する前年なのだ。

『耶蘇天誅記』に云う。慶長十九年〈申寅〉九月廿四日、摂津国高槻の城主高山右近友祥は兼ねて切支丹宗旨に拘泥し、親類縁者種々異見を加えるが許容せず、終に台名に戻り、今日南蛮国のうちジャガタラへ追放された。

内藤飛騨守もかの宗門を信じて、上意に背いた間、同じ罪に処せられマカオへ追放された。また長崎辺りの伴天連徒党の輩からも百余人、一同に長崎の湊より船に乗せ、今日マカオへ追放とのこと。

〈これについて、一話が残る。

長崎は初め専ら南蛮人の商いの港であり、今の阿蘭陀人の商館は以前は南蛮人が建築した。今の出島も、その時の有り様を伝えよと云う。

またその頃来津した南蛮の中に少年がいて、こう云ったという。『僕は日本人だよ』。けれど衣服はすみずみまで南蛮製であり、言葉もみな南蛮辞である。

だからそれを信じる人はいなかった。南蛮少年はある時、護り刀と我が国の文字の書を出した。人はこれを視ると、高山右近がかの国へ渡った後、我が国に遺した幼児がいて、乳母が窃(ひそ)かに長崎へ伴い、かの国人に託した。そうしてそこで成長した幼児が故郷に再び帰ってきたのだということ。

この頃は禁令もゆるくなったか。

少年は長崎に留まり、蛮医(外科)を学び術を得た。これを暮らしの糧とした。

名前は栗崎道意と称する。これよりこの治療が広まり、今の南蛮流と呼ぶ外科述は、この道意の流れであると云う。

今、西城の御医栗崎道枢と称する等、もしかしたら医孫なるか〉。

続篇 巻之八十ニ 〈一三〉 赤穂義士夜討ちの前年の話し

前に記した、南蛮へ追放した高山右近の子の栗崎道意の孫も長崎に住んでいたが、元禄中にある夜中この親のもとに人が来た。怪我人が数輩。治療を給わりたいと云う。

折ふし親は出ていて、十歳ばかりの孫が迎えの者について赴いた。西浜町長久橋の上に附した怪我人を見ると、一人ならず深手の者がいる。いちいち切傷治療の法を用い(治療を終えて)帰った。親も帰っていて、その由を物語れば、始末の一つ一つに行き届いているので、親も賞美し、余人も十歳の手並みには珍しいとほめた。

この怪我人が出た訳はこんなことであるー。

その頃御代官高木氏の本家彦右衛門は、御用物方を勤めて富潤い、家僕も多く仕い、ますます豪奢に及んだ。

ある日その新生児を産神へ参詣させる中、佐賀の家臣鍋島某の家来が用事があって、主の住所、深堀より市中に出たが、これと行き合った。雨後のこと、彦右の僕へ泥土を跳ねてしまった。

僕等は、無礼であるぞ!と云うので、鍋島の家来は過ちを謝するが、聞き入れず遂に打ち、投げるに事が及んでしまった。

(鍋島の)家来は忍んで帰った。が、深堀から その輩廿余人を党して、舟路に回り夜中、高木の宅西浜町に到り、押し入り、家内くまなく切害(殺害)した。

その近所の橋に引き取る中、手負いの者の治療を乞うたというのだ。

これよりその党はみな深堀へ帰り、この意趣を述べ終わるとことごとく腹切りて死した。今は深堀の寺内にこの数輩の墳墓が並び立ち、江戸泉岳寺にある義士の墓に似ているとのこと。

また云い伝えるー。

この年は赤穂義士夜討ちの前年であり、義士の輩はこの事を伝聞して、胸中密かに復讐の事を促したのではないか。長崎の所伝、この様だと云う。

巻之一 〈九〉 干菜山十連寺の謂れ

神祖(家康公)が武州川越辺へ御放鷹の時に、小庵に立ち寄られた。

住僧が出て迎え奉った。

野僧の質朴さ、御意に叶い、御話の御相手となってすこぶる御喜びの色である。

ややあって僧が申し上げるには、庵が貧しくもとより名もないと。

願わくは寺号山号を賜りたしと言上すると、神祖はその辺りを見渡したまいた。

軒に干菜を縄に貫いてその数は十かけているをよく御覧になって、「干菜山十連寺」と称せよ、と仰せになった。

寺領の御朱印をさえ賜れた。

それで今に至りて、この寺は相続され、その号を崇称する。

まことにかしこくもその御気性の快活なこと、欽仰し奉る。

 

巻之一 〈一一〉 盗人の志

浜島庄兵衛は、享保の頃日本左衛門と呼ばれた大盗人である。盗みを始めた動機は、不義であり富める者の財物は、盗んでも咎なき理なので、苦しくないと心に掟して、その人その家を量って盗みをしたという。

次第に場数をふんで、盗みの術も上がりいかなる所へも入れぬことはなくなった。

それより欲深になりその上義不義の見分けをする暇なく、都合よければ、所を定めず、盗みに入り、一人も人をあやめることはなかった。年月が経ち官より重大なるお尋ね者となった。

ある日、庄兵衛は京都の町奉行所に麻の上下を着て両刀を帯して、「お尋ね者の日本左衛門にて候」と玄関まで現れた。居合わせた同心与力はたち騒ぎ、門を閉じ人を集めたりとひしめいた。

庄兵衛が云うには「自ら名乗り訴え出たので、逃げも隠れもいたさぬ候。御心静かに召捕られるべし」。縄掛け吟味に及ぶと、次第を一切白状して、これまで忍び行った所凡そ幾十件、金銀にして幾千、雑物で得たもの若干と詳らかにした。

その後如何なる心から、自ら訴えたか聞くと、こう答えた。「天の網に罹ったら、とても隠れられぬと知り、訴え出候」。ならば、天の網とはの問いに、「御尋者も品を候えども親殺し主殺しの他、人相書きにて御尋のことそのわず。それで近頃は何某こそ大泥棒よと、所々に我が人相書きが出て御探しを辻つじで見候。これを天の網と心得申し候。もはや逃れられぬと思い定め候えば、人に見出されるよりは、自ら訴えようと思い定め、この如くに候」と申したという。

盗人といえど、日本左衛門と呼ばれる程の志はあるんだなぁ。

巻之一 〈一ニ〉 天川儀兵衛の話し(赤穂浪士復讐)

我が師皆川氏が話されたことー。

浄瑠璃本に書かれた天川儀兵衛は、その実尼崎屋儀兵衛と云って、大阪の商人で浅野内匠頭の用達である。

大石内蔵助復讐の前、着込みの鎖帷子を数多く作ることを預かっていたが、町人の武具用意と云う風聞があって、官の疑いがかかり、呼び出しがあり吟味があっても決して言わなかった。

拷問すれど言わない。終にその背をさいて鉛を流し入れられたが白状しなかった。

あまりにきびしい拷問に死にかけたことは、幾度もあった。

けれども白状しないので、久しく牢にいたが、江戸にて復讐があったと牢中で聞いた。

儀兵衛が改めて申すには追々御吟味のことを白状したしとなった。

すなわち呼び出して申し口を聞くと、その身は浅野家数代が出入りしていたので、厚恩を蒙る者であった。

かの家が断絶した後で大石は格別に目をかけて、一大事を某に申し含んで、江戸では人目があるからと、この地で密かに鎖帷子を作っていたということ。

全く公儀への野心ではない。はや復讐成就してからは、如何様にもお仕置き願い奉ると云った。

これを聞いて奉行はじめその場に居合わせた人々は、涙を流さない者はなかったという。

そうしてゆるされて獄を出て、家に帰った。

殊に長寿で九十ばかりで没したという。

時に人は、往時を語り、「これを見られよ」と肌を脱いで、背に鉛の残ったものが、一星、ニ星ずつ肉が出ていた。

観る者は身の毛もよだつようだったそうだ。

巻之一 〈一七〉 寄合石川兵庫の母三也子(みやこ)のこと

三也子(みやこ)と云うは、寄合石川兵庫〈四千石〉の生母である。

わしは久しく相知っていたが、貞操温順な性質で和歌を好んだ。

年七十余りに身失せぬ。

その後久しくして石川氏を訪ねて語り、この人の事に及んだ。

石川が云うには、三也は常に桜の花を愛した。

年老いて後、身のよしある寺院に、亡くなり葬る地を卜し、桜の樹を植えてあらかじめ墓標にした。

花時には常にその下に行き、愛でた。

その詠は以下の通り。

  春毎に咲くべき花をたのみつつ

       とはれむ種をけふぞうへける

わしはその志しの優れるを聞いて、益々追悼に堪えず。

よってしるして後に伝える。

巻之一 〈一八〉 大阪の御城の天守にあった金扇の御馬印を守った話し

大阪の御城の天守の第一重には、神祖(家康公)が関ケ原御勝利の時の金扇の御馬印を籠め置き給うた。これを鎮護の思し召された。

何年(年号不審)の頃、その中段より火が出て燃え上がった。

諸人は臨み見て驚き騒いだが、為すべきもなし。

この時に在番の大番衆中川帯刀は御天守に走り登り、御馬印を自ら抱き、御天守から飛下りた。

数丈の石垣をすべり落ちていくと、その身は擦り傷により傷口が悲惨なれど、御馬印はいささかも損壊しなかった。

その事を番頭より陳く聞き、その子某を跡式に仰せつけられた時に、並高を加増して、千石賜れたという。

今某氏の祖先である。

治平の時に当たり、戦国の討ち死に比す御奉公である。

その志のけなげなることは、百載の後に至りて生色あるぞと云える。

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