巻之六 〈37〉 婦人の衣装(帽子)流行りすたりに思うこと

わしが若年の頃までは、何れな奥の女が外出するに、総じて帽子を戴いていた。
相互に縁のある家の夫人は年始その他の往来にも、侍女が付き従う者はみなこれを冒(かぶ)っていた。
晴れた時も当然だった。
その頃は今と違い、所々の奥方は芝居場にも構いなく行くので、その供として従う者は、みな帽子をして桟敷に並んで座る体(てい)だった。
また郊外の野遊びのときも同じだった。
俳諧の発句に、

奥方と見えて帽子の野がけ哉(本文ママ)

という句があった。
その時のありさまを知ってほしい。
これは武家のみならず、町人も立派な輩は、晴れの時に帽子を用いた。
それゆえ、今帯解き(七歳の少女が子ども用の帯を解いて婦人用の帯を締める)の祝儀でも、霜月(11月)に少女が社詣でをする時、必ず帽子を冒る。
これだけ世に遺って、武家の女中も貴家と誰も用いず。
もちろん、小侯、御旗本衆の婦女も絶えてその体を見ない。
最どうしようもないものは、十年前より手巾(手ぬぐいの類)を冒って往来するのだ。
商家、農婦などはさもあるべき。
士人の婦女も往々その体を見る。
殊に甚だしいのは、何れかに宮仕えの女が宿下がりと覚しき体の者で、総模様の衣服を着て天晴(立派だが皮肉が込められているか)な屋敷の女中の容体であるが、頭に木綿の手巾を冒っていた。
洋装する人が冠を戴き、烏帽子を着て裸体である者がいたら、どんなに人々は笑うか。
浅ましい風俗ではないか。
だからわしは、かの帽子を冒る妾婢を連れて歩きたくないと思うが、世間に対して異なることを好むと人から見えないだろうか。
また古癖好みとならんか。
是非なくその事を遂げる世の中に成ってしまった。

巻之六 〈38〉 浅野氏、志厚き家法

芸侯浅野氏は、もと豊臣家の臣といえども国家の厚眷をもって大封となられたという。
敬上報国の道において、他家よりも分けて心を尽くす家訓とのこと。
献上物件でもちゃばは洗うこともならないと、壺に盛るとき自身で匙をとり盛る。
その時は前夕より齋戒して礼服を着け、おも立ちたる有司並び居る所で為すという。
また西条柿もその事は同じと、自ら見張り居り、事を執るものは匣(はこ)に詰める。
匣の目張りをするまで自身で見届けると云う。
城下に神君の御宮がある。
月参りのとき、大抵の病があっても、強いて浴澡剃頭して、必ず拝することを法にしているという。
その他おのずから下に及んで、藩臣の主を奉ずる志の厚きも、他家よりは勝る。
元禄中末家赤穂侯の遺臣、復讐の事は世に喧伝するに至るのも、自然その家法の薫染に出ると云う。

(コメント)
歴史的には関ケ原の戦いで功績のあった浅野長政が和歌山城に入りますが、ここを息子に譲って隠居になります。
しかし家康から空いていた茨城の真壁(5万石)を隠居料としてもらって入り、この地で亡くなります。
墓も真壁の伝正寺にあると思います。
そして息子に譲った和歌山の浅野家が広島(安芸)に移ったのです。
真壁の浅野家はその後真壁に陣屋を残して笠間に移りました。
しかし笠間は山の上に城があり、山城では不便で街中に家臣が集まれる建物を建てます。
これが城を建てたとして、1国1城令に違反したとして赤穂に移されたと言われています。
そして赤穂浪士の事件が起こる。
赤穂浪士には笠間や真壁出身の人も多かったようです。

巻之六 〈41〉 辻切り

神祖(家康公)が駿府在城の内、江戸では御旗本の若者等はしきりに辻切りをして、人民は嘆くに及んでいると聞こえてきた。

「この事をいかが計わせられようか」と密議があったので、板倉周防守は自ら御使い蒙(こうむ)ると「速やかにやめさせるべきである」と乞われ、その旨に任せられた。

防州は江戸に着いて、「御用があるので、一同と登城するよう」との旨を御旗本中に伝えた。

いずれも登城された時、所々辻切りの風聞を専らお耳に入れた。

「それ(辻切り)を召捕る事の者がないのは、武辺(武芸に関する様々な事)が薄くなっていっている事である」と思し召された。

いずれも心掛けたので、辻切りの者は召捕れる様と仰せのよし申し伝えられると、そのまま辻切りは止んだという。


※家康公が出て来るので、背景から板倉重宗(天正14〜明暦2. 1586〜1657)と思われる。下総関宿藩の初代藩主。秀忠の時に周防守に叙任された。

(コメント)
板倉周防守重宗のことを初めて知りました。少し調べてみました。すごい人ですね。

この話は2代将軍に秀忠がついた1605年に、重宗が周防(すおう)守に任じられていますのでその後ですね。
京都所司代になったのは1620年で、京都をはじめ西日本の治安の総元締めになっています。
人望が厚く、今の法務大臣など見習うべきことが多そうです。

甲子夜話の背景から考えると板倉周防守の京都の屋敷が現在の乃木神社となっているようですので、京都から江戸に行き、江戸での辻斬り騒動をうまく沈めたという話と読みました。

関宿(せきやど)は利根川を使った水運の要の場所ですが、関宿藩主になるのは少し後なのでまだ重宗は京都にいた時の話だと思います。
またWiki.に家康が1602年に辻斬り禁止を命令し厳罰化を図ったと書かれていましたが、家康が将軍から身を引いて駿府に引っ込んでからまた江戸では辻斬りが増えて困っていたということではないかと思います。(by S.K.)

巻之七 〈15〉 藤堂高虎、至高の忠義

上野にある神祖御宮は寒松院の隣にある。
この院はすなわち藤堂高虎の〈寒松院は高虎の法号〉の埋葬地である。
この故は神祖御世の中、高虎は忠勤していたから。
後神祖の御病が重くあらせられた時に、高虎は御床の下に候ず。
時に神祖が言われた。「はや今生に別れたらば再び逢うことはないだろう」。
高虎が答え奉るには「臣(自分)はまた地下に於いてまみえし奉る事は難事ではございませぬ」。
神祖は再び曰く。
「なるほど。但し汝とは宗旨が違う。恐らくは同所に往生いたさぬ」。
高虎曰く。
「尊慮を煩わされませぬよう」。
即御次に退き、改宗して天海僧正の弟子となった。
また御前に出て、その事を申し上げた。
神祖は殊に喜ばれた。
高虎が卒るにおよび遺命して上野に葬らせた。
これは地下に於いて、永く御側に侍する御約束を奉ぜた所だという。
(この様に)聞き及んだが、(人から聞いた事でも)涙を催させるである。

(コメント)
城つくりの名人とも称された藤堂高虎という人物や家康との関係などを理解しないと解釈も難しいです。
神祖は家康のことで、神祖御宮は「家康の御宮」であり(上野)東照宮のこと。
上野東照宮のHPに記載されている内容に、
「 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。」とあります。

巻之七 〈17〉 箱根山関所での笠

松平楽翁(定信)が顕職(高官の職)の時に、公用で京に上っていた。
その道中箱根山を越すときは、歩行(かち)で笠をつけながら御関所を通られる。

御関所の番士は、何れも白洲(白砂の庭園)に平伏せして、番頭が一人頭を挙げて声をかけてきた。
「御定法にございます。御笠をとらせるように」と云っている。

楽翁はすぐに笠をぬがれ、通行して、小休の処から人を返して、かの番頭に申し遺されるるには、「先刻笠を着したのは、我らの不念(不注意)であった。

御定法を守ること感じ入った」との挨拶である。

この事、道中の所々に言い伝えて、その貴権を誇らず、御定法に背かぬ姿にますます感仰(仰いで君恩に感ずる)されたと云う。


※ 松平楽翁〜定信。 江戸中期の老中。 陸奥国白河藩第3代藩主。 1787〜93に寛政の改革を行った。


(コメント)
箱根関所には関所の入り口に、1711年に木札(御制札場)が立てられた。
そこには次の5項目の取り調べ内容が書かれていた。
一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。
ニ、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。
三、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合する検査を行う。
四、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。
五、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。

続篇 巻之九十ニ 〈4〉 かげま

ある宴席で、ふと衒艶郎(かげま)のことを話し出したことがあるのでと、一僧がその座にいて云う。

かの異名を筍と称する。わしがその由を問うと、「生長すれば食えず」と答える。

また傍の一人がいう。「ならば少年の時を陰郎(かげま)といい、年長(としたけ)らば化郎(ばけま)と呼ぶなあ」。

これはその人の臨時の戯言だよなあ。


※かげまとは、まだ舞台に出られない修行中の少年歌舞伎役者。


(コメント)
「衒艶郎=陰郎=陰間=かげま」は、上に書いたように最初は舞台にまだ出られない少年歌舞伎役者などを指す言葉でした。
しかし、江戸時代中期頃から、「かげま茶屋」などと呼ばれる茶屋が多くできてきます。
ここは若い10代の少年が男色(なんしょく)を売る場所とされていました。
上野に近い湯島などでこの茶屋が流行ったそうです。
客層には女色を禁じられていた僧侶たちが多くいたとも言われています。
また上方(関西)では「若衆茶屋」などと呼び方が違ったそうです。
ただし、江戸幕府の天保の改革により、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止となりました。

三篇 巻之十四 〈1〉 狸を化かして、また化かされた

騙し騙され、、、でもよ〜く考えてな

平戸の人が語った。
ある人が、某の元へ行こうと山路を通って、傍の樹の下で狸が一匹ぐっすり眠っていた。

ある人は狸を欺こうと思い、声を上げて「小僧!小僧!早う起きよ!わしは持ち物があっから、持ってくれんか!」。
狸は驚いて目覚めて思った。

「これって、オイラが狸に化けたのをおじさん知らないのかな」。
それで持ち物を背負い、付いて行った。

ある人が、出立してから久しくて、某の家は近かった。
ある人は、小僧を小径に留めて、某の屋に入り、かの山径で狸を騙している事を語り、「決して咲(わら)うことなかれ」と念を押していた。

小僧の元へ戻り、某の屋に連れ入った。
家人みな、目配せをして全く笑うことはない。
狸はいよいよ気をよくして、その身体が獣であることにおよびもつかない。
周りも人の如く接している。
主人は客に酒を出す。狸もこれを飲む。
季節は夏であったので、ひやむぎを味わった。
客は「うまい、うまい」と言いながら食った。
小僧にも振る舞われた。小僧が食べようとすると!!!
皿の汁に獣の姿が映っているではないか!!!

狸ははじめて、騙されていたことを知り、戸外に逃げた!逃げた!逃げた!
客も屋の者みな拍車喝采して咲った。

客はこの話題を肴にして甚だ酔い、夜更けに帰宅した。
途中妻が戸外に出て待っていた。
「夏の夜は殊に暑いわねえ。さぞや汗かいただろ。さあ、湯を沸かしたから浴しなさいよ」。
夫は「よく気のつく嬶だねえ」と、湯に入った。
ああ、何て爽快な!

そこへ、隣人がやって来て云った。
「おい、何で小便壺に入ってんだ?、」。
その男、気づけば隣人の言うように、やっている。
あら〜。妻と思えば、あれは狸だったか。

狸は、妻に化けて讎(あだ)に報いたんだね。
わしは、この様に評価する。校人(周代的馬官の長)が子産(政治家)を欺いて、君子は欺くにその方を以てすると云うが、そのはじめに料理を食わせるとき、子産ははやくも知っていて、寛徳その所を得たという話を出したのを、校人は悟らず、道理のない説を発したか。

山狸もまた、冷麺の影に驚いたのが正解であろう。
だから、妻に化けたのは偽りといえよう。

読者よ、熟慮を望む。

続篇 巻之七十七 〈12〉 いたいけなる山雀、瓢箪に舎(やど)る

狂言の小舞の歌(欠なしのうた)に、いたいけ(いじらしい)したる者あり。
はりこの顔なぬりちご、しゆくし(宿紙〜1度文字を書いた紙をすき直した紙)や結びに、笹結び、山科結びに、風車、瓢箪に舎(やど)る山雀、くるみにふける友鳥、とらまだらの狗(いぬ)ころ、起きあがり小法師、振鼓、手まりやをどる、八小弓』
この中、わかり難い物があるが、それはさておき、瓢箪に舎る山雀と云うことにわきは思い合わせることがある。

先年、城にいたときに、領分の辺邑の早岐(はいき、現在佐世保市早岐町)と云う所を巡見したが、この里は陶器を作る者が住み、陶工の頭は今村某という。

住所は山家なので幽深であるが、家屋も手広く、庭も好く造り為して奇観である。築山は自然の山で芝生は愛すべき。
諸木も所々にある中、梅の古樹の一株が横だわり、枝もあらわになって、瓢箪に緒をつけて下げている。

わしは、不思議に思い、主人を呼んで、「あの遠くに下げた瓢箪は何なのか」と尋ねた。
「あれはこの様に置いて置きますと、山雀が来て、かの中に住むのでございます」。

わしはまた「さらば、自分から来るのか」と云うと、「勿論、迎えるのではなく、住処といたしました」と云う。
されば、昔の俗にはこの様な事も有るだろう。
なるほど、いじらしい者(本文ママ)の中に加えても、然るべき風情である。


※早岐の近くに、佐世保市三川内町があり、ここは三川内焼の窯がある。
三川内焼は、元々は平戸焼だった。
佐世保市の針尾島の網代陶石と肥後天草陶石で焼いた白磁に藍色の絵付け。
いわゆる唐子の模様が有名。
縁には高麗の高の字を模様にしている。
豊臣秀吉が朝鮮の役後に朝鮮の陶工を連れ帰った。
慶長3年(1598年)、巨関という陶工が帰化して、今村姓を名乗るようになった。
平戸島中野村の中野焼が三川内焼になった。

巻之五十七 〈14〉 財を守る知恵

ある人が語る。
この秋の末から盗賊がすこぶる多い。
ある所で侍が行きがかった後ろから、賊が来て飛びかかった。
頚椎を抱えて、粉唐辛子を両目にすり込むのだ。
侍は痛みに耐えられず両手で目を庇ったところに、また一人が走り寄り、両刀を抜き取り、帯を奪い、衣服、懐中の物まで残らず剥ぎ取り、裸体にして賊は逃げ去った。

また一所。
鰻魚店に少女が来て、蒲焼きを買って喰い、価直(本文ママ、価値つまり代金)を払い、出た。
座った所に日傘を遺し置いたので、店の男は追い掛けて渡そうとしたが、はや行き去り、姿が見えなかった。
ならば取りに来るだろうと傘を(店に)置いていた。
ところが、夜入り口を閉めようとすると、婦女の声で「昼ほど置き忘れた日傘を返してくださいな」と云うので、何気なく戸を開けると、屈強の悪少年が五六輩、一同に白刃を振りながら入り、恐嚇して財を盗み去った。

また一所。
水油(髪につける油、椿油、菜種油)店で、町の召使いと見える前髪のある子どもが、油次を提げて若干の油を買いたいと云う。
それで油を渡すと、「銭を忘れてしまったので、後で取りに来ます」と云う。
その深夜に外から「昼の油次を受け取りにきました」と声がする。
店主は心得たもので、「夜更けに渡すことは出来ないねぇ。明日、朝に来なさいよ」と答えるた。
すると別な声がする。「今夜用いる油がないのです。今欲しいのです」と云っている。
店主はますます怪しく思い、「宵から夜半まで油がなくともいられるだろう。今はいるのはないはずだよ」と云い捨てた。
そっと二階へ上がり、外を伺うと、戸外には大男が四五人集まっているではないか。
ではと、金盥(かなだらい)を叩き音を立てると、近隣みな集まってくる。
その様に賊は(驚いて)退散したと云う。

近頃の盗みはこの様に知術を使い、人を欺く習わしとなったのだ。
これまた風俗が一変したことよ。

続篇 巻之八十四 〈4〉 昔も今も。深き観方を教えらる

いつの春のはじめにか、某が刻行して年玉にしたものがある。
今ここによく観ようではないかと出して、収めた。
沢庵の歌、感賞は浅からず(以下歌は本文ママ)。

少智菩提防

ふもとなる一木の色を しりがほに
        かくも見とげぬ みよしのの花

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