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平戸松浦史料博物館(2) 松浦静山公について

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(松浦静山公坐像)

9代平戸藩主(松浦家34代)松浦静山(まつら・せいざん)坐像
静山の最晩年の肖像(三勇像)より作成したもの。
松浦静山(1760-1841)ハ、学芸大名ともいわれ、その知識・学術への興味は多岐にわたった。
20歳のときには、平戸城内に楽歳堂(らくさいどう)という現在の図書館博物館的な機能をもつ文庫を創設した。
62歳になり、友人で幕府の儒学者よりすすめられて、随筆「甲子夜話」の記述をはじめ、死去するまで継続した。

(感想)
平戸の歴史は思った以上にスケールが大きかったです。対馬も。
元々松浦氏は外様にも関わらず将軍様のお気に入りになるし。

静山公には17男16姫がおられますが、姫の一人が皇室の女官になり、明治天皇がお孫様。
静山公は天皇のひいお祖父ちゃんなんです。

巻之ニ 〈37〉 人の心を読む僧が震え上がった件

人の心を読む僧が震え上がった件
昔、人の心中を読むことが出来て、思う所を話す僧がいた。
誰も皆見抜かれて返すことばがなかった。

この時、素行先生(山鹿甚五左衛門)が若き日のこと、ある人が「この坊さんに会ってくれ」と持ちかけた。
先生は「会わない」と言うも、会うことになった。
「やむを得ないなあ」と遂に会うが、肝心の僧の様子がいつもと違う。
「今日は(先生の)心中を話すのを御免あれ」と言っている。
先生が「是非承りたい」と言うのに、言わない。
見ている者たちは大いに訝り、先生に尋ねた。「どうしたら、坊さんは言うのでしょうね」。

先生は「私の心に決した物があってこそ、知るは理の当然である。
もしわが胸中を一言でも口外すれば、抜き打ちにするぞとわしは思い切っているのだからな。
さあ、言い出す前に逃げかえるがよかろう」と言ったのだと。

(注)
 山鹿流兵法としてよく知られている 山鹿素行の逸話である。
素行が赤穂に蟄居となったときに。兵法を赤穂藩に伝えたともいわれるが正確にはわからない。
素行は平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬が松浦家に召し抱えられ、後に家老となった。

巻之一 〈32〉 加藤清正と隈本城

甲子夜話 巻之一 〈32〉
加藤清正は石垣上手で知られている。
今隈本城(本文ママ)の石垣はもとから高い。
その(石垣の)下より走り上がると、ニ三間は自由に走って上がれる。
が、それより上に上がろうとすると頭の上にのぞきかかって、空が見えなくなる。
伝えによると、清正が自ら築いたという。
これは隈本に住む者の話である。

巻之一 〈29〉 雁金打という弓

紀州の雁金打という弓は、雁の形の焼き印を二つ押す。
紀州藩の官制で、市中の売り場に出る事はない。
以前は多く世の中に出たが、最近では売出しを禁じられ、出る事は稀である。
この弓は打ち出す処から筏にして(運び)水上げをする時に、粘着力の強く離れないものを良しとする。
また蒸し暑さによって弱ることがないものを良しとするという。

巻之一 〈30〉 老女衆の願い

老女衆の願いを老職衆に回した上様
徳廟(今は亡き上様、どの御代かわからぬが)は御政務に御心を尽くされておられると聞く中にこの様な事があった。
大奥の老女の縁で入った人が上様に内願を申し上げた。
「善い様に聞くつもりだが、女の事だから時には迫って申し上げる時もあるだろう。
その時には、この様な我らの身分の者も自由にならぬ事もあるものだ。
老職の意見も聞かなければ」と上様は申される。
「さらば老職に聞かれてもかまいません」と申し上げる。
「少しもかわまないか」と上様が言われる。
そこでまた「もし老職共が異議を申しますならば、如何なさいますか」と申し上げている。
「その時は、老職に聞く」とのこと。
その後、老職が召出され、上様が「この度、老女どもが何々の事を内願いたした。
だから、この様に答えて置いた。けれども、件(くだん)の事はそうであってはならない。
その方ども、厳正に説得するのだ。承知はいたさぬ」と仰せである。
果たして老女衆から件の云々に及んだ時に、老職の答えは、「それはそうあってはならない」という。
老女衆が押し返して申すには「内々の言上に及びまして、上様にもその様なお考えであられましたら、老職へ聞きとうございます」と言っている。
老職衆が答えるには、「たとえ上様のお考えでなくとも、この事はそうであってはならない」と強いて申している。
とうとう老女衆も「それでは仕方がない。
またまたこの事を言い上ぐったりすると、老職が申す旨は重き事と言われる」と言われた。
遂にその事は蒸し返される事はなかった。

※老女達が上様に内願したかった事は何なんでしょうね。
そうしてまで、聞き入れたくない将軍と老職の考えは。。。

巻之二 〈24〉 手桶の湯(上野と芝)

ある人が年始の参拝に上野に詣でに出かけた。
夕方で烈しい風が吹き寒気も強くて、手水所の石鉢には氷が張り、中央にわずかな水が見えるだけである。
そばに蓋、手桶に杓を添えて出してある。
その蓋を開けると湯気が立ち上り、人々は快く手を洗い、口をそそいで拝している。

その翌日芝に詣でると、時は正午を指すが、その日も(昨日と)同じ様に甚だ寒い。
ここも手水鉢の外に手桶を出してあるが、御老中方へという紙札が付いている。
すると余人は手を洗うべくもない、氷を打ち砕いて石鉢で手を回す洗いながら、手桶の中を見ると、朝に湯を入れながら皆氷っていた。
上野は夕方まで幾度か湯を入れ替え、特に衆人の為に公にいたす心配りが厚いことであった。
芝は昼の頃に氷が張っていたが、湯を替える心が付かないか。
その上に老中の人に限って湯を設けるというのは、狭い心ではないか。

全ては両山の風習に高下があること。
諸事この様だと語るのは、なるほどだと思われる。

巻之一 〈46〉 加藤清正一番鑓

加藤清正がその子の某(名を忘れた)に語ったという。
言うにはー。
「わしが秀吉公に従ってはじめて一番鑓をしたとき(何処だったか忘れた。賤ヶ岳であったか)、坂に登って向かうと敵がいた。
それと行きあって戦が始まった。
その時の胸中は、何かに向かっているのか暗闇の様に一向にわからない。
その時、目を閉じて念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで鑓を入れると、何か手応えがしたとわかると敵を突き止めた。
それからだんだんと敵味方を見分けたのだ。
後で聞くと、その時の一番鑓になった」
と言ったという。

(コメント)
加藤清正は、事実上の織田信長の後継者を決めるための「賤ヶ岳の戦い」で、先頭を切って敵陣を突破し、豊臣方から柴田方へ寝返った山路正国を討ち取り、特に功績の大きかった7人の内のひとりとして「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになったといわれている。
一番鑓(やり)は、戦国時代の戦では武勇の誉れ高き事であった。
しかし、加藤清正には3人の男子がおりましたが、上の2人を幼くしてなくしていたので、清正の死により、家督を継いだのは三男の加藤忠広でした。しかもまだ11歳という若さでした。
そのため家臣を上手くまとめられず、しかも長男の光広が面白半分に、大名たちの名前と花押入りの謀反の書状を作ってしまい、これが幕府にしれ、お家取り潰しとなってしまいました。お家が復活したのはそれから21年後の1632年です。ただ、所領は出羽国の1万石でした。光広は事件の翌年亡くなっています。
この甲子夜話では「某(名を忘れた)」と書いていますが、恐らくあえて名前を書かかなかったのでしょう。

巻之二 〈27〉 立ち位置を理解すること

中村弥三郎(富士見御宝蔵番。和哥(本文は歌から欠をとっている)をよくする)が語るにはー。
某〈名忘れ〉は江都(えど)で名のある狂哥(本文は欠なし)人で、その道の宗匠である。
ある時、狂哥(欠なし)集を選んで、これを京師(みやこ)に上らせて、冷泉某殿(名忘れ)に点を乞うた。
けれどもその後一向に沙汰がない。
だからまた手寄(たより)を求めてその左右を聞くと、かの歌集が返された。
某は喜んで開き観るに、一首も点がない。
これは如何にと再び視るがない。
とうとう本の末に一首の歌を見つけた。
某がよく視ると、冷泉殿の手跡である。
敷島の道を横切るかま鼬
  てんになるべき言の葉もなし(本文ママ)
狂哥(欠なし)師はこれを読んで、流石は歌道の御家と恥入った。

※歌から欠を取った字(哥)は、本家本元からは今ひとつの者に使う言葉なのでしょうか。
冷泉殿にはちゃんと歌という字を使い、線引きがあるように思いました。

(Note)
一流とは言えない者には歌から欠を取った字を当てていて、冷泉殿には歌という字が使われていました。
その字で区別されているのでしょうか。

中国語では「哥」は兄など年上の男性を指す言葉だそうですが、日本では普通に「歌」と同じように使っていたと書かれていました。

巻之二 〈26〉 節分の奇風習

先年のことである。
お城でわしは九鬼和泉守〈降国〉に問うた。

「世間で聞きましたが、貴家にては節分の夜は、ご主人が闇室に坐していると、鬼形の賓客が来て対坐するそうですが。
その時、小石を水に入れて、吸い物を出すとサクサクと音がするとのこと。
人の目には見えないそうですね。この様なことがあるのですか」。

答えるに「拙家では、かつて件のことはありません。
節分の夜は主人が恵方に向かい坐につくと、歳男が豆を持ち出して、尋常の様に打つのです。
但し、世間と異なるのは、その唱を『鬼は内、福は内、富は内』と言うのです。
これは上の間に坐す主人の所で言って、豆を主人に打ちつけるのです。
次の間を打つには、『鬼は内、福は内、鬼は内』と唱えます。
この他、年越しの門戸にさすヒイラギ、鰯の頭は我が家では用いません」。

これも又、一奇である。

(コメント)
これは、摂津国三田藩の領主は九鬼家で、殿様の名字に“鬼”の文字が入っているためです。
「鬼は外!」といえば殿様を外に追い出すことになってしまうから、「鬼は内!」になったのでしょう。
静山公は噂になっていた話を、三田藩十代藩主・九鬼隆国に直接確認して、この文章となった。

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