わしは、妓舞(鼓を打ち舞うこと、ここでは神に奉納する舞かと)の事から屋代氏所蔵『江島(えのしま)縁起』を借りた。
第五軸の詞書に、建永元年慈悲上人開基と云っている。
この上人の事を尋ねると『本朝高僧伝』等にも見ない。
隣地の萩野生は古昔を記憶する者なので問うと、「古書に所見がない人でございますね」と答えた。
だから何人で何国の生まれかわからない。
されども『和漢三才図会』は云うのだ。
下宮本尊弁財天〈弘法作〉建永元年(1206年、土御門帝)源頼朝建立、慈悲上人開基、諱(いみな)良真。
また云うには。碑石有り、高さ五尺許(ばかり)。
相伝、慈悲上人は宋に入り、慶仁禅師に見(まみ)え、この碑石によると帰朝したと。
ならば、この上人も入宋する程の人ならば、国書に遺跡がないのも訝しい。
水府(水戸)の『鎌倉志』には、下宮は、建永元年に慈悲上人諱良真の開基にて、本尊弁才天、如意輪観音、慈悲上人の像〈ある人曰く。上人の像は、肖像にて如意を持つと〉、慶仁禅師の像、実朝の像を安置したとある。
また碑石の条には、相伝この石は、土御門帝の御宇、慈悲上人宋国に至り、慶仁禅師に見(まみえ)て、この碑石に伝えて帰朝した。
篆額は、小篆文にて、大日本江島霊建寺之記と三行にあると。
『三才図会(絵を主体の中国の書)』はこの志に由るのか。それと
云うのも、本にあるかの地の所伝から出るなら、虚談ではないだろう。
また宋の慶仁禅師と云う人も『仏祖統記』等には所見がないのだ。
萩野に問うが、「古書に見ない人ですね」と云う。
ならばこれ等のことは却って偽りで古賢の名を託したというより、書に所見がないというのは、正しく後世に名が伝わらない和漢の逸人(隠人、世間をのがれて俗事と関わらない人)であるといえよう。