続篇 巻之四 〈6〉 狡猾な猿

小臣が話す。
平戸の市中に少数の猿がいたという。
何れから来るのか誰も知らなかった。
家々を徘徊しては食べ物を欲しがった。
人はそのあさましさを憐れみ、果実を投げ与えた。

猿は徐々に人を判別していった。
ある日何者かが与えた一銭を持ってきて店頭に置いて、自分で小餅と換えて、去っていった。人みな感笑した。

ある日また一銭を持ってきて、餅と換えて食ったが、甘(うま)くなかったのだろう、半分食って餅を放って、かの銭を取り去っていった。人はまた笑った。


※甘いは、『うまい』の意味も含んでいたのでしょうか。今より味覚は大まかだったのでは、と思いますが。
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三篇 巻之ニ十九 〈3〉 一聯(いちれん)の珍名

蕉軒(儒学者林述斎、明和5、1768〜天保,12,1841)曰く。
日頃松江侯〈雲州、松平出羽守、松平齊恒、寛政3,1791〜文政5、1822だと思われる〉が参勤して、土産として国製の紙に海鮮を添えて贈る。
その使いの名氏。佐佐佐佐(サッササスケ)。
珍しい字称である。
羽州(松平出羽守)が云う。
これは苗字からして起こった名であろう。
能(よく)も思い重ねた物語である。
今の羽州は、林門である。
静(静山、自分)は、それで云った。
「この四字一聯(いちれん、詩の一節)の名は、わしの少年の頃から聞き覚えている。
ならば、この者一代の名ではないだろうな」.

巻之八十八 〈14〉 歴史から隠れる偉人、慈悲上人

わしは、妓舞(鼓を打ち舞うこと、ここでは神に奉納する舞かと)の事から屋代氏所蔵『江島(えのしま)縁起』を借りた。
第五軸の詞書に、建永元年慈悲上人開基と云っている。
この上人の事を尋ねると『本朝高僧伝』等にも見ない。
隣地の萩野生は古昔を記憶する者なので問うと、「古書に所見がない人でございますね」と答えた。
だから何人で何国の生まれかわからない。
されども『和漢三才図会』は云うのだ。
下宮本尊弁財天〈弘法作〉建永元年(1206年、土御門帝)源頼朝建立、慈悲上人開基、諱(いみな)良真。
また云うには。碑石有り、高さ五尺許(ばかり)。
相伝、慈悲上人は宋に入り、慶仁禅師に見(まみ)え、この碑石によると帰朝したと。
ならば、この上人も入宋する程の人ならば、国書に遺跡がないのも訝しい。
水府(水戸)の『鎌倉志』には、下宮は、建永元年に慈悲上人諱良真の開基にて、本尊弁才天、如意輪観音、慈悲上人の像〈ある人曰く。上人の像は、肖像にて如意を持つと〉、慶仁禅師の像、実朝の像を安置したとある。
また碑石の条には、相伝この石は、土御門帝の御宇、慈悲上人宋国に至り、慶仁禅師に見(まみえ)て、この碑石に伝えて帰朝した。

篆額は、小篆文にて、大日本江島霊建寺之記と三行にあると。
『三才図会(絵を主体の中国の書)』はこの志に由るのか。それと
云うのも、本にあるかの地の所伝から出るなら、虚談ではないだろう。

また宋の慶仁禅師と云う人も『仏祖統記』等には所見がないのだ。
萩野に問うが、「古書に見ない人ですね」と云う。

ならばこれ等のことは却って偽りで古賢の名を託したというより、書に所見がないというのは、正しく後世に名が伝わらない和漢の逸人(隠人、世間をのがれて俗事と関わらない人)であるといえよう。

巻之五十 〈2〉 渡り鳥が稲を銜んで来る

行智(江戸時代後期の山伏、梵学学者、宝永7.1778〜天保12.1841)が屋代太郎(屋代弘賢、江戸幕府御家人、宝暦8.1758〜天保12.1841)から得たと稲穂を持ってきた。
その図は写真参照。
これは奥州会津のあたりに鶴が銜(ふく、くわえるの意味)んで来ると云う。
米粒はことに長い。
何と云う稲で何れの国の産なのだろうか。

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わしの領国壱岐にも、鶴がわたって来るときは、間々朝鮮人参を銜んで来ることがあって人がこれを拾う。


※渡り鳥が、何か銜えて来るのは、初めて知りました。銜えるを銜(ふく)むという使い方も初めてでした。

続篇 巻之九十三 〈10〉 叱る事が出来ない奏者番(城中の武家の礼式を管理する番役)

九鬼長州(初代守隆、1573〜1632)は、柳間(大広間席)の表大名だったが、今は入って奏者番である。
わしが、在職中の旧知だったので、時にはかの邸を尋ねて会っていた。

ある日の談話中に、かの天徳寺(話の流れかんら山口県防府市の曹洞宗天徳寺か)披露のことを言いだすと、長州は云った。
「それは何某で(既に)執り行われましたよ。
総じて奏者番は、不念不調法ですので指扣(さしひかえるを転じて、非難する)を申し上げることは誰とても無いわけないですよ。
つまり脇坂淡州(安ただ〈草冠に重〉)は寛政の頃(寛政2年、1790)より奏者番を勤め、一度引退復職しましたか復職しました。
まあ今に至るまで一度もいい損じ(武家の無礼な礼式を叱る)はないのです」と。

これもまた人の及ばない所であり、稀なことだと思う。


※気が回らない事を叱らない。
不調法を叱るのが奏者番の仕事だろうに。目くじらたてるより、落語になりそうですねー。

巻之ニ十七 〈11〉 真間のゆう廟御成の際の御歌

ある人の物語に、下総の真間(千葉県市川市真間、万葉集に出てくる真間の手児奈の面影のある街です)の弘法寺什物(ジュクモツ、秘蔵の宝物)の中に一軸があった。
真間の古歌を書き集めたものであるという。
その奥にゆう廟院(家康公と思われる)の御歌と載っていた。

 箕笠もとりあへぬ夕方に
    しとどにぬるるままの継橋


※真間の継ぎ橋 かつて市川市真間にあった橋。
日本百名橋番外に選定された。
川の水はなくなったという。
いかにも真率な御詠である。
定めてこの辺りを御成の際、白雨(ゆふだち)に逢われ玉(たま)いしことがあって、一時の御即時であろう。

巻之ニ十一 〈27〉 他国から連れ帰った鳥、二種

わしは毎年肥筑間を行き来する。
それで佐嘉(さが)から神崎(かんざき)の間に珍しい鳥がいる。
これより外の地ではまず見られない。
そのくちばしは尖り、頭は小さく、尾も首も長く共に黒く、翼と背に白色がある。
鳩よりは余程大きく、鴉(カラス)より小さい。
全体は鴉に似ている。
俗にいう肥前ガラスである。
これは他国にいないゆえの名である。
或いはかちガラスという。
これは群行と鳴き声によって名付けられた。

昔佐嘉の領主が朝鮮で捕獲して領地に放ち、後自然に増えていった。
これは土俗の伝聞である。
ある人曰く。「これは漢土の鵲である。我が邦国でカササギと名付けたのは、黒白斑(まだら)になっているので、からすさぎと云う」と聞いた。

百人一首家持卿の歌に鵲のことを云う講説の秘訓になるという〈『校舎余録』〉。
またわしの領地にも多久島(現在、度島)と云う二里に足らない島の城地の近くに、これに異種の雉がいる。
土人は、高麗雉と呼ぶ。
これも祖先宗静公〈式部卿法印、松浦鎮信、松浦26代、天文18.1549〜慶長19.1614〉が朝鮮の帰りにかの島に放たれたものと云う。
因んでその様に呼ぶ。
この雉も領分の中、余所にはなく、唯かの島にのみいる。
また他に於いても稀に飼うものを見ると、基本を聞くと、みなかの島産と伝息したものであるという。

巻之三十ニ 〈2〉 男女別湯は、文化国の証

江都(えど)の町中にある湯屋。
わしが若い時まで稀に男湯と女湯に分けることもあったが、多くは入り込みと云って混浴していた。

それで聞いたところによると、暗所または夜中は姦淫がよくあったという。
その為、寛政御改正の時に改まり、男湯と女湯に分けて別々に入浴すること、下々の者が入る巷の湯屋に至るまで都下は全てこの制が行き届いたと見える。

かの寛政御政の中にも緩んだこともあるけれども、この湯屋のことに関しては今に違わぬ善政の御採択である。
また中川飛州が選んだ『清俗記聞』に、かの国に当時坊間の湯屋のありさまが見られる。
その風呂家に聯額(れんがく、対句を分けて左右の柱にかけたもの。中国の風習)を設けていた。
聯には、

楊梅結毒休来浴 
   (梅毒患者は来ること、入浴を休む事)
酒酔年老没入堂
    (酒に酔った老人は入浴するなかれ)

さすが文明国の風格である。
またその湯屋に婦女は見えない。
何という制だろうか。

また文化中(文化9年)、薩摩の士の船(永寿丸)が漂流して広東に至った時に、帰船する前に蘇州の 乍浦(ながらうら)で洗湯に行った。
唐人と共に入湯したが、婦人が入ることはなかったと記された。

さすればその制が存在しているとみた。

巻之三十 〈21〉 燕の巣、さまざまな形

燕の巣にはさまざまにある。
江都(えど)は鴨居または梁などに、状差しの様な形に泥土で作る。
また小板を棚にして置いておくと、そこに巣食う。
諸国でもよく聞く話だ。
その内、珍しいものは、備後の鞆の浦で見た。
そこに大きな神祠がある。
その軒の裏、垂木或いははつか梁等にところどころ巣がある。
その形は壺の様である。
入口は向かいの方または上の方にあるものもある。
その状態はジガバチの巣に類する。
垂木にある者(本文ママ)は、その形は乳房の様である。
下方に口がある。最珍しい。
また筑前の民家にあったものは、方板五寸計りになるが、四隅に縄をつけて屋中に吊って置くもの。
その上に巣食う形は、龜(かめ)の様である。
また藁づとの小さな六七寸になるものを吊って設ける。
これにも中に巣食う。
この様な土風によって、別の異形になるのも珍しい。
また聞く。備中吉備津宮の燕は、巣も壺の様に、祠の軒裏に多いという。
また同国足守辺(足守藩。岡山市北区足守、陣屋町がある)の人が云った。
燕にヒウゴと云う一種があると。
それならばかの異形のヒウゴの巣であるか〈『余録』〉。

巻之一 〈5 〉 忍びがはたらけないお城の造り

何れの時か、武田勝頼は神祖(家康公)を密かに害し奉ろうと忍びを遣い御坐所の床下に入り刺すようにと命じた。
その者が戻ってきた。
勝頼は「どうだったか」と問うと忍びが云うには「床下まで入ったけれども、床が低くて刀を使うことが出来ませんでした。それで何も出来ず帰りました」と答えたという。

一日、述斎林氏に話すとこう云った。
「神祖は駿府城へ移り玉わろうという際に、造りを命じられるとき、床の高さは女子の上り下りが自由になる程にするようにと云われた。すると間者は床下で、はたらきが出来ないだろうから」という上意があったのだと云う。

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