水雲問答(5) 人を知りて委任

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(5) 人を知りて委任

雲:
 徳義の幣は述情に陥り、英明の幣は叢脞(そうざ)に成申候。人君は人を知りて委任して、名実を綜覈(そうかく)して、督責して励すより外、治世の治術は之れ有るまじくと存候。

(訳)
 徳義(人として守るべき道徳上の義務、ここでは過ぎた施し)の弊害は、これに片寄ると情に溺れてだらしがなくなってしまうことであり、これにたいし英明(頭のよい)の弊害はいろいろ事細かくうるさくなってしまうことです。上に立つ人君は、よく人を知って、その人に委任し、名実(名と実体)を照らし合わせて、よく督責(厳しく吟味)して励ますより外に治世の術はないと思います。

水:
 名実綜覈(そうかく)、人を知て委任するの論、誠に余蘊(ようん)なく覚え珍重に存候。

(訳)
 名実をよく照らし合わせ、人を知って、その人に委任するという論は、誠に不足が無く結構な意見であります。


(コメント)
上に立った人は、一人で何でもできると思わずに、部下やその他の人材の名実をよく吟味して、理解し、その上で、その人に委任することは大切ですね。水雲問答(5) 人を知りて委任
これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。



巻之ニ十ニ 〈19〉 浮田秀家女についた妖狐

『雑談集』にある話。

浮田中納言秀家は備前一ヶ国の大主である。
ゆえあってひとり娘に妖狐がついた。
種々の術を尽くせど出ていかない。

それで秀家も心気鬱になり、出仕もやめざるを得なかった。
秀吉はこれを聞き召され、かの娘を城へ召して、狐に速やかに退散する様命じた。

狐は退くという時にこの様に云った。

「私はくるまざきのの罪に逢うとも退くものかと思いました。が秀吉さまの命に伐くならば、諸大名に令して、西国及び四国の狐までを狩り平らげよとの御心中を察しましたので、今退きます。私の為に多くの狐の命を亡くす事は、如何ともしがたい。だから涙泣きをしつつ立ち去ります」。

翌日、秀家は謝礼として登城して、その始末を言った。
秀吉は頷いて微笑んだという事(『余録』)。

水雲問答(6) 人材(一才一能)

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(6) 人材(一才一能)

<雲>人材の賢なるものは委任して宜しくそうらえども、その他の才ある者、あるいは進め,あるいは退けて、駕御(がぎょ:馬を乗りこなす)鼓舞するの術ありて人を用いざれば、中興(復興)することは能わざることと存候。時によりて張湯(ちょうとう:長安の役人)、桑弘羊(そうこうよう:武帝に貢献した人物)も用いずして叶わぬことも有るべからずに存候。

(訳)
人材も賢なるもの(見識と度量を兼備した者)には委任してもよろしいが、その他の才能だけある者に対しては、時としては任用し、ある場合には使わないというように、それら人をうまく制御するように用いなければ、衰えた国運を再興(いわゆる中興)することは出来ないでしょう。 それでも、時と場合によっては張湯(ちょうとう:長安の役人)、桑弘羊(そうこうよう:武帝に貢献した人物)のような曲者でも、用いなければならないことがあるのでしょうか。

<水>一才一能もとより棄(すつ)べからず。駕御その道をする時は、張桑(張湯も桑弘羊も)用ゆべき勿論に候。然れども我は駕馭仕(かぎょし)おほせたりと存候て、いつか欺誑(ぎきょう)を受け候こと昔より少なからず候間、小人の才ある者を用候は、我手覚なくては、妄(みだ)りには許しがたく候。

(訳)
 一才一能(一つでも優れた能力のある)の人材も、時によっては必要ですから見棄てることはできません。
馬を乗りこなすように人を制御できる時は、張湯や桑弘羊のような者でも使わなければならないことはもちろんありましょう。
しかし、自分は思うように人を使うことが出来ると思っていても、いつの間にか欺誑(ぎきょう:まんまとハメられていた)ということは、昔からよくあることですから、小人のような能力の者を用いるには、よほど腕に覚えないと、好き勝手に行うことは危険となりましょう。

(コメント)
 論語には「君子は和して動ぜず、小人は動じて和せず」という言葉があります。
ここで言っている「君子=徳の高い人」「小人=だめな一般人」くらいの意味かと思います。
また、「和して動ぜず=人と調和して仲良くできるが、何にでも賛成することはない」
「動じて和せず=何にでも賛同してしまうが、調和できない」との意味でしょうか。

ここでは国を統治する上に立つ者は、
小人をどう乗りこなして(操縦して)使っていくかが難しいが、必要だ
といっているのだと思います。

巻之九十六 〈17〉 浮田秀家女についた妖狐談続き

巻之ニ十ニに浮田秀家の娘に狐がついて離れ去らないのを秀吉公の命でたちまち去った話があった。
また同じ冊の後ろの段に、芸州宮嶋には狐の害がないと云っている。

この頃、太閤の令と云うものを行智に聞いた。
先年、それを見て暗記したと云うのだ。すると浮田の事はこれであろうかと思った。

『その方が支配する野干(やかん、野獣)は、秀吉の召使いの女房に取り付いた為に悩ませておる。
何のつもりがあってその仇をなすのか。
その子細は無きものとして、早々に(取り付いた者の体から)引き取られたし。
もし引く時期が延びるとすれば、日本国中に狐狩りを申し付ける。
猶(なお)、委細は吉田神社に(ことごとく)口状申し含む。  
       
              秀吉          
月  日
      稲荷大明神殿え』。

※ 江戸時代の人々は動物や霊体動物、妖怪等に対して人間と近い存在という概念を持っていたのだろうかと甲子夜話を読みながら思うのです。

巻之三十七 〈11〉 あした草(アシタバ)

あした草は、今日種を蒔くと明日は芽を出す。
八丈島にある。
蕪(カブラ)、大根と同じ様られる女護島(日本に伝わる海上に女性のみで暮らすに作り、日常食す。

これを食すと、疱瘡わ免れる。
匂いは芹の様で、葉は前胡(ゼンコ、生薬の種類)に似て三つ葉に分かれる。

八丈島は世に知られる女護島(日本に伝わる海上に女性のみで暮らす伝説上の島)であると。
『本綱』付録にあった。

扶桑は女国の東にあり、アシタバを産出していると。

また八丈島は伊豆国に属する。
『北条五代記』に委(まか)す。

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水雲問答(7) 唐中興の宰相(さいしょう)

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(7) 唐中興の宰相(さいしょう)

雲 
 歴代の宰相のうち、唐の李鄴(りぎょう)侯の事業、誠実にして知略あり。進退の正を得たる所(ところ)甚(はなはだ)欣慕(ごんぼ)仕(つかまつり)候。
 季世の宰相は鄴侯(ぎょうこう)の如くになくば禍を得申し候て、しかも国家の軍を敗(やぶり)申し候ことと存じ候。『鄴侯家伝』と申す書は今は有り候や伺(うかがい)候。

(訳)
 中国の歴代の宰相のうち、唐の李鄴(りぎょう)侯のやられた業績は、誠に誠実で知略があります。進退のタイミングを得たところは、まことに嬉しく慕うところです。季世(これからの世)の宰相(さいしょう)は、鄴侯(ぎょうこう)のようでなければ禍が生じ、しかも国家の軍を敗退させていたでしょう。『鄴侯家伝』という書は今ありますでしょうか。

水 
 鄴公の論は同意に候。この人は一つとして誹(そし)るべきなし。ただ陸宣公と時を同じくして、ついに宣公を用いざること疑いの一つにそうろう。古人の論もこれに有りやに覚えそうろう。されば今も昔も同じことにて、そのときの模様、のちの評と遥かに違いたることも多かるべし。やむを得ざる次第もこれに有るや。『家伝』は亡き書と聞こえ申しそうろう

(訳)
 鄴公(李鄴侯)の論は同意です。この人は一つも非難するべき点がありません。ただ、陸宣公(りくせんこう・・・陸贄:りくし)と時代は同じであるが、唐はついにこの宣公を用いることが無かったのは問題の一つであろう。ただ、昔の人のことであるから、そのときの情勢などを後に評するのは違うことも多いと思う。やむを得なかったこともあったのであろう。
「家伝」については蔵書には無いと聞いている。

(解説)
 この唐時代の書物は、日本にはあまり伝わっていないようで、なかなか理解するのが難しい。
概略を調べると、中国は7世紀始め、隋の国家が乱れると、李淵(李氏)が挙兵して隋をほろぼし、煬帝を太上皇に祭り上げたが、煬帝が殺されたため、李淵は自ら即位して618年に唐が建国された。その後国内の反対勢力などを李淵の次子の李世民が滅ぼして勢力を握り、626年にクーデターを起こして長男で皇太子の李建成を殺害して実権を握った。李世民が唐の第2代の皇帝・太宗(たいそう)となり実質的な唐の繁栄が始まった。この李世民は広い人材登用で官制の制度をつくり卓越した人物といわれている。
しかし、唐は一度690年に王朝が廃され、その後705年に復活したが、この頃(中唐時代)はかなり力を落としていた。
その時代に出てきたのが、やはり李氏の李鄴(りぎょう):李泌(りひつ)(722‐789年)である。
李泌は陰に隠れた人物であまり表立って紹介されることは少ないようだが、ここではかなり李泌を買っているようだ。
李泌は生涯を通じて4度朝廷からはずされ、野に隠れていたところを4度朝廷に呼び戻されて、その都度重要なポストについている。人物評としては軍事、政略の両面に優れた才能を持ち、とくに身分などにはこだわらず、私利私欲がなかったといわれている。
そのような時に、節度使、安禄山らが起した「安史の乱(755~763)」により唐の玄宗皇帝は一時長安から逃れ、滅亡寸前に追いやられた。玄宗に代わって即位した粛宗が10年も官職から遠ざかっていた李泌を探しだして賓客として迎え入れた。
当時唐の粛宗も吐蕃(とばん:チベット)族との対立もあり、ウイグル族とも仲も悪かったが、李泌は最後の2年間、宰相となり、このウイグルとの和平にごぎつけ、このウイグル族の助けにより唐の滅亡を防ぐことが出来たといわれている。
鄴侯家伝(ぎょうこうかでん)は、唐の役人李繁(リー・シェン、京兆府(現西安)人。 唐の政治家)が無差別殺人の罪で、投獄され、獄中で死ぬ間際(829年)に書いた書物といわれている。(恐らく唐の李氏の家伝を纏めた書であろう。)

巻之四十七 〈29〉 あした草続き

巻之三十七に、あした草の事を云った。

去年八丈島を掌(つかさど)る同心によって、その種を得た。
当年の春に蒔き、明日は生えると待ったが、十日経っても生えない。

人々も不審に思う中、ある日〈卯月の頃〉永代橋の辺りを過ぎて、八丈の問屋とあるのを見たので、かの草の云々を問うた。

するとこの草は、八丈島ではその如し(蒔いて次の日に発芽する)だが、他の邦に移してまく、これまで生えた事はないと答えた。

尚試みる事にしよう。

巻之四十九 〈40〉 天狗と若い尼

嵯峨天竜寺の中の瑞応院から六月に印宗和尚が文をよこした。

天竜寺の領内の山本村に尼の庵があるという。遠離庵と云うそうだ。
その庵に十九になる初発心(初めて菩提心を求め仏門に入る)の尼がいた。

この三月十四日日暮れ時より尼四五人連れ立って後山に蕨を採りに行き、帰り道は各々庵に向かった。
すると新尼が一人帰らなかった。

人不審され狐狸に惑わされたか、災難に遭ったかと、庵の尼達は祈祷宿願したか、次の日も戻らなかった。
その十七日の夕暮れ頃、隣の清滝村の樵が薪採りに行き、深い谷あいで少尼が谷川で衣を洗っていた。
ぼんやりした様子だった。

樵は「この様な山奥にどうやって来られたか」と聞くと尼は「私は愛宕山に籠っているものとです」と云った。
樵はあきれならがらも声がけをして、清滝村まで連れ帰った。尼は「庵の尼です」と云うので、その夜駕に乗せて戻した。
この尼はふだん無口な質だが、何か大言して罵った。それで侠気の藤七を呼び、尼と対峙させた。

尼は「帰る、帰る。飯を食いたい」と云った。用意すると、山盛りの飯を三椀平らげた。そして気を失った。

その後はいつもの様に平静になった。
一時(いっとき、今の2時間ほど)程経ったところで「何があったのか」と聞いた。

云うには、蕨を採っていたら、年四十ばかりの杖をついた僧が、「こちらへ来い」と声をかけてきた。
何となく貴い人だと思い近づいた。
僧は「この杖を持ってみよ」と云うので、持つと「目を瞑りなされ」と言われた通りにした。

しばらく経つと、遠くへ来たと思った。
そこには金殿宝閣があって、「ここは禁狸(みだりにその中に入る事を禁ずる)ぞ」と申し聞かせ、団子の様な物を「食うべし」と与えられた。

口に入れると、美味く今でも口の中にその甘みが残り忘れられない、少しも空腹にならないと云う。
また僧は、「汝は貞実(節操がある正しき者)なので、愛宕へ行って籠れば良い尼になるだろう。追々諸方を見物させてやろう。讃岐の金毘羅へも参詣させよう」と心よく申されたと云った。

庵に戻った次の日もまた「僧が御入りです」と云うが、余人の目には見えなかった。それで、これは天狗の所為といい定めて、新尼を親里へ戻して、庵から出てもらった。

ある人が云うにはー。
これまで天狗は女人には取り行かぬものだったが、世も末、天狗も女人を愛する様になったのか。

巻之十六 〈11〉 細川光尚の嫡男幼くして跡を継ぐ 厳廟の思し召し

厳廟(家綱)の頃の話。

肥後熊本侯細川光尚、慶安二(1649)年十二月病が篤くあられ、嫡男六丸はわずか七歳にしかならないので、光尚は終に臨で、子が幼いから、我が領する肥後全国を公に返し入れたいと申し置き属紘(亡くなった)された。

明る三年四月遺領はこと故なく六丸に賜った。
その時家老長岡式部、同勘解由を大城に召して仰下されたのは、光尚が齢盛りにして没したことを悼み思召された。

肥後は西海の要地で殊に国も広い。
六丸はいまだ幼弱なので、他に遷されるところだが、曾祖忠興より世々中貞(よく仕え節操を守ること)あつく仕え奉り、また光尚の臨終のもう仕方が奇特であったので、その儘に賜った。

家人等心を同じくして力を合わせて六丸を育て上げるように、と。
また小倉侯小笠原忠政に、隣国の間柄でもあるので、折々肥後に行き、かの家人等と事をはからうようにと仰せ下された。

また御使いをも下されて、国政をも問うようにと、数々添えて仰せごとがあったという。

この六丸十一歳で殿上元服御諱字を賜い、叙任四位侍従になり越中守綱利と云う。
後に少将に陛(のぼ)り、七十ニ歳で没された。

抑々(そもそも)光尚が、子が幼いので領国を返し奉りたいと請いたのだが、また幼息に大国を襲(つが)し給い、国事迄も御心添えられたことも、誠に君臣上下揃い合うという美談になったのだ〈林話す〉。

水雲問答(8) 周易

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(8) 周易

<雲>
 『周易』は熱読し仕り候所、大(おおい)に処世の妙これに有りやに存候。
『易』を知らざれば季世には処し難しと存候。

(訳)
 『周易』(紀元前の中国周王朝時代の書物に書かれた占い術から時代を経て、儒教の経典にもなった易経)を熟読しておりましたが、この書は実に処世術に必要なことがたくさんあると思います。
この『易』(儒教的な解釈)を知らなければ、季世(これからの世)は処しがたいと思います。


<水>
 『易』は季世の書とは申し難し。盛世季運いずれの時とても、天人の道『易』にはづれ候ことはこれ無しに候。先づ「程伝」にて天と人との同一道理をとくと考え給ふべし。

以上のご質問、あらかた答え申し上げ候。大分とおん尋ね方、力相見へ、はなはだ珍重仕(つかまつり)候。読書空言の為ならずして、実践の方に深く習い候の徴(しるし)相見へ申し候。折角ご勉励の程、お祝いいたし候。
謹言。 二十日夜雨、燈火にて書す。<以上、戊辰(ぼしん:1808年)の秋、予が都下にいる時の問答>

(訳)
 「易」についてはこれからの世の処世の書とまでは言えないでしょう。
盛世季運(国が盛んな時代や未来の運)いずれの時といえども、天人の道『易』から外れることは無いでしょう。
まず易の解釈としては、 宋代に程頤 (ていい)が書いた「(易)程伝」《易経の注釈書》を読んで、天と人との同一道理をよくお考え下さい。

以上のご質問、あらかた答えいたしました。貴殿の問いは、勉学の力がついてきているのが見え、大層結構なことと思われます。読書が空言(空論)のためでなく、実践の方向に深く向かっている徴(しるし)が見えてきました。苦労されて勉学に励まれておられることを、お祝いいたしましょう。

 謹言(謹んで申し上げる)。 二十日夜雨、燈火にて書す。
<以上、戊辰(ぼしん:1808年)の秋、予が都下にいる時の問答>

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