水雲問答(1) はじめに

甲子夜話 巻39 <1>

まだ若き上州安中の藩主である板倉綽山(雲)は、若いながら学識も豊かで、勉強熱心な学者風の藩主であった。
その板倉綽山(雲)が師と仰いで意見を求めたのが、林述斎(水)で、江戸幕府の大学頭に抜擢され、その後の江戸末期に活躍する多くの賢人を育てる礎を築いた儒学者である。

年齢は師・林述斎(水)の方が17歳ほど上だ。
また、この問答やりとり書簡に興味を持ったのが、松浦静山公で、年は林述斎よりさらに8歳ほど上である。

板倉綽山(雲)は幕府の大学頭である林述斎を師と仰ぎ、論語や易などいろいろな書物を読み、孔子、孟子や古代中国などの人々の考え方などを学び取り、中国、日本の戦国の時代に活躍したの英雄たちの行動を研究し、国を治める方法について書簡で質問を繰り返しています。これに答えて林述斎は実際に学ぶべき真の理を説いて教えています。
また、書簡がある程度溜まったところで、それを纏めることを提案しております。
しかし、ある程度学問が上達しこれからというときに病に倒れて亡くなってしまいました。約35歳くらいでした。

しかし、この問答に目をつけたのが松浦静山公です。
静山公はやはり、林述斎とは学問を仰ぐ師でもあり、何かと相談をしていたようです。そして、自分は孔子や孟子などの聖賢にはなれなくとも、自分が死んだ後に何か役に立つもの(証となるもの)を残したいと、述斎と相談して、この甲子夜話を書き始めたのです。そしてこの中に、手に入れたこの問答集を挿入したのです。

この「水雲問答」の内容は、当時の江戸幕府の藩制の中に限らず、今の政治の世界にも大変役に立つ興味深い内容に溢れています。
今の政治にも見落とされている点が多く書かれていますので、きっと何かのお役に立つと思います。

  雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
  水:墨水漁翁・林 述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖


これから、この水雲問答を筆者の拙い訳を加えて順番に紹介していきます。
内容的には同じようなことが所々に出てきますので、全部を終えてから整理できれば手を加えたいと思います。

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巻之ニ十七 〈16〉 奇石神亀石

享和壬戌(享和2年、1802年)の夏に故多紀安長法眼〈名元簡、号桂山、宝暦5.1755〜文化7.1810年、江戸時代の医師〉が、一箱を持たせてくれた。
蓋に奇石とあって、また仙台の方言ナンダモンダと記してある。

中を見ると、堅い質感で、火打ち石に類するだろう。
文があって、鉄の様だ。
真に珍しい物なので、その形を写した。

江州が著した『雪根志』の巻末に二十一種の珍蔵奇品を挙げる内にこの物が見られた。
この石を視る者は百歳の寿を保つと云うらしい。

ちなみにわし及び子女に遍くその物を見せて、延年を祝すらしい。
また紙札が一枚あった。

記して曰く。
神亀石は、南山の神亀万年を重ねて石と成る。
見る人百歳をことぶきと云う。

わしやその石を視た者は『ナンダモンダ』である。

その形は亀甲に似ているので、神亀の名を冒す(おか)す事にはならないだろう。

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水雲問答(2) 経国の術と権略

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

甲子夜話 巻39 <1>

 安中侯板倉伊与守は年少傑出の資なりき。勤学も頗(すこぶ)る刻苦せしが、不幸にして疾を得て早世しぬ。頃(このごろ)その遺せる一冊を獲て懐旧に堪(たへ)ず、且一時の問答と雖ども実学の工夫を助くべし。因て予が『叢薈冊子』の中に攙入(ざんにゅう)す。白雲山人は侯の匿名なり。墨水漁翁は林子の匿名。


水雲問答(2) 経国の術と権略

雲:
 経国の術は、権略も時として無くばかなはざることに存候。余り純粋に過ぎ候ては、人心服さぬこともこれ有る様に存ぜられ候。去りとても権略ばかりにても正を失ひ申すべく候間、権略を以て正に帰する工夫、今日の上にては肝要かと存候。

(訳)
国をおさめるには、権略(その場に応じた策略)も時としては必要でしょう。
余り純粋に過ぎると、人心が服さないこともあるように思われます。
とは言っても、権略ばかりでは正を失ってしまい、本来の意図することを見失ってしまいます。
そのため権略をもって正に帰する工夫が、今日の上(幕府)には大切だと思います。


水:
 権は人事の欠くべからざることにして、経と対言仕(つかまつり)候。
秤の分銅をあちらこちらと、丁ど軽重に叶ひ候処にすゑ候より字義をとり候ことにて、固(もと)より正しきことに候。
仰せ聞けられ候所は、謀士の権変にして、道の権には非ず候。程子の権を説き候こと、『近思録』にも抄出これ有り、とくと御玩味候様存(ぞんじ)候。

(訳)
権(力)は人事において欠くことのできないもので、経(営)とは対の言葉です。
漢字の権という字は天秤(はかり)の分銅のことで、これをあちらこちらと動かして丁度良い所にあわせるということ(字義)から生れた言葉ですから、もとより正しいことです。
しかし、貴方のおっしゃっている権略は、謀士(策士)の権変であって、道の権ではありません。
程子(ていし:中国の儒学者、程伊川)が権を説いた書(程伊川が朱長文に答えた書)があり、『近思録』にも抄出(抜き書き)がされておりますので、とくと御玩味(熟読)されたらよろしいかと思われます。

 
<ポイント>
 ここに、権の持つ意味をよく理解して、人はいかにあるべきかをよく心得て権略をなすことがきわめて大切だと説いています。
権は天秤の分銅であり、政治も圧力団体の陳情などに惑わされず、自分の分銅が常にぴたっと止まる心の位置を守っていれば間違える事はないというのです。


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裁判所や弁護士バッチにも使われている天秤の図はよく目にするものですが、この「権」の持つ本来の意味(天秤の分銅)を理解したいものです。



巻之ニ十三 〈2〉 武将の和歌三連

文禄三年、豊臣秀吉公母堂三回忌で高野に登嶺した。
公卿雲客武家はつき従った。

          秀吉
 なき人の形見の髪を手にふれて
       つつむに余る涙かなしも

秀吉は亡くなった。六十三だった。辞世の歌。

 露と落(おち)露ときえぬる我身かな   
        難波のことも夢の世の中

頼朝は泰衡征伐として鎌倉を出発して、白河の関に着いた。
諸将を顧みて能因(法師、永延2.988〜康平年.1058)が「古風な事を思い出さないだろうか」と言って、皆答えなかった。
梶原景季は馬をひかえて、矢立の筆をとって、

 秋風に草木の露をはらは(わ)せて
         君がこゆれば関守もなし

頼朝は感激して、五百余町の田を賜ったという。

紀州高野山に熊谷寺がある。
この寺に蓮照法師(直実 永治元年.1141〜建永2.1207)自作の木像とともに自詠の歌がある。

 いにしへ(え)の鎧にまさる紙衣
      風のいる矢もとほ(お)ざりけり

以上『市井雑談集』に見られる〈『校書余録』〉。

巻之ニ十三 〈1〉 廉貞な人足の身に起こったこと

海賊橋(開運橋、楓川と日本橋川の合流点にあった)の牧野侯に仕える人足の話だと云う。

草履を売りに出て、帰りに藁を携えて御番所の辺りを通りかかると、駕籠かきに声をかけられた。
「空かごでは御番所まで通行が出来ないのでしばらく乗ってくれよ」。
人足は頼まれるままに空かごに乗ったが、かごの中を見ると向こうに何やらふくさの包みが、駕籠の竹にはさんである。
訝しく思い、探って見ると包みの中は金子の形をしている。
しかも百両もあるかと思われたので、懐に入れた。

駕籠を降りる時に、駕籠かきに「この前に誰を乗せたか」と聞いた。
「磐町あたりの御旗本さまだったが、ことの外かなり酔って乗られた。
が、ようやく御宅に行ったが、先でも正体がおわかりにならず、妻女下女が出て来られて、やっと事がおさまったのよ」と云った。

人足はこれを聞いて邸に帰り、翌日部屋頭に暇をもらって、かの磐町の某の宅を尋ねて行った。
ようやく尋ねて行き、その家に申し入れるに「何とぞここの御主人に御逢い申したい」と云った。
家ではこの男を不審に思い、「主人は逢わぬ。家頼(けらい)に申すよう」と答えた。

人足は直に会うことを請うので、とうとう庭に通し主人に会うことが出来た。
人足は「昨日は何れの方にゆかれましたか。いつ頃お帰りになりましたか」と聞いた。主人は訝りながら本当のことを云った。
また(人足は)「駕籠に乗られましたね」と聞くと主人は「然り」と答えた。

人足はまた「何か落とし物をされませんでしたか。包みはの色はどんな色でしたか」と問うた。
主人は「なるほど。確かに落とし物をした」と云えば、人足は懐から落とし物を出して確認した。

主人は驚いて「それだ、それだ」と云うと人足は「金子は如何ほど入っていましたか」と聞く。
主人が数を云えば人足は開いて数を改めた。主人の云う通り八十余両あった。

人足は「さらば間違いはございません」と云いながら、昨日からの事を話した。
主人は大いに驚いて、深く感激した。
「わしは小普請の世話役でこの金は小普請中より取り立たもの。こうして失って、弁償するにはこの貧乏の宅では手立てなく、、、然るにこの身落ちぶれようという時に、そなたはの助けにて別状なしとなった。
報謝として金五両を与えたい。受け取ってくれ」と云った。

人足が云うには、「それならばこの八十両のものをはるばる持って来たかいなしだ。もし五両でもね、取ると思うなら、素より全くお返しはしませんよ」と受け取らない。

主人も為方(せんかた)なく、勝手に通して酒飯などを振る舞った。
これより人足は邸に帰ったが、ニ、三日してその門に何人かが来て、門番にかの人足の名をいって呼び出し、門外で鯛二枚と酒樽を出して何やら申し述べて、金子三両を投与して帰った。

誰がやったのかわからないが、その後人足部屋は何か賑やかで騒がしいので、下目付は怪しく思い行って見た。
似合わない肴などの料理、酒も沢山ある様子でいよいよ不審に思い、その贅沢を尋ねると次第がわかった。

上役に申し達したら、役人にもその人足の行いを奇特として、このより取り上げられ双刀をさす身柄になったと云う。

下賤にもこのような廉貞な者がある、という話。

水雲問答(3) 治国の術と人心

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(3) 治国の術と人心

雲:
 治国の術は人心を服し候こと急務と存候。人心服さねば良法美意も行はれ申さず。
施し寛に非ざれば人心服し申さぬなり。人心服し候肝要の御論伺ひたく候。
英明の主、とかく人心服さぬ者と。いかがのことに候や伺ひたく候。

(訳)
治国の術は人心を服させることが急務と思います。
人心が服さなければいくら良い法を作って、美しい気持で政治をやっても、それがきちんと行われません。
そのため人民に施すことやまた寛大に対処しなければ人心は服しません。
どうすれば人心が服するようになるのか、肝要のお考えをお伺いいたしたい。
また、世に優れた英明の主に、とかく人心が服さぬ者が多いといわれておりますが、これはどうしてなのかお伺いいたしたく思います。

水:
 施に過ぐることは濫賞(らんしょう)の幣あり。寛に過ぐるときは又縦弛(しょうし)の幣これ有り候。是れ等を以て人心を得候は、最も末なる者に候。我が徳義おのづから人を蒸化候処之れ有り候へば、人心は服し候者と存候。英明の主に人の服し申さぬは、権略にかたより候より、人祖(そ)の為(す)る所を詐欺かと思ひ候ゆゑに候。蕩然(とうぜん)たる徳意・内にみちて外に顕はるる時、あるもの誰か服せずして有るべきや。施もすさまじきには非ず。人君の吝(りん)なるは至っての失徳に候。寛も捨つべからず。苛酷納瑣(のうさ)の君は下堪へ難きものに候。

(訳)
人民に施(ほどこ)しが過ぎますと、賞をみだりに乱発する弊害となり、また寛容に過ぎますと、規律が弛(ゆる)むという弊害があります。
そのため、施しや寛容などをもって人心を得ようとするのは、最も末なる者です。
自分に備わった徳義がおのずから人を蒸化(心服)させるところがあれば、自然に人心は服するものです。
英明の主に人が服さないのは、頭が良いのでどうも手段・手法などの権略に片寄ってしまいがちです。そのため、人々はそのする所が人々を騙す詐欺ではないかと疑いをいだき、信用しません。
自分に備わった大きなスケールを伴った徳が満ちて、それが外にも現れた人物には、誰もが服するものです。
施しも度が過ぎるのはダメですが、ある程度は必要で、人君(君主)がケチであると徳を失います。
また寛容も必要ですが、あまり小さなことまで立ち入ってしまいます下々の者は堪えられないものです。


(コメント)
 当時の体制化での人心を服させる方法であり、今の政治とは少し比べられないところがありますが、施しや寛容もケチだと思われない程度には必要だけれど、あまり重箱の隅をつつくような小さなことまではしてはだめだという。
また、あまり頭の切れる上司などは、警戒されて部下から真に慕われているものが少ないようです。
ここでのポイントは、徳がその人の外に自然と現れるときに、人は従うということでしょうか。

続篇 巻之十四 〈5〉 御不浄を避ける為の工夫が裏目に出た話といらぬ作法で見たくないものを見せられた話

近頃のこと。
ある御屋形が御簾の中、隅田川遊覧のお帰りに堺町を通行された。
定めで、予め内通される事になっていた。歌舞伎の木戸(いわゆる鼠木戸)を皆取りはずすと、外から舞台がよく見え渡り、助六の狂言で幕を開くとなる。

舞台の所作がよく見えるので、御簾中の御輿を不浄所の例えで高くさし挙げた。
すると舞台の様子はうかがえず、ただ軒に掛けられた看板のみをご覧になった。

御供の面々ばかりよく狂言を見たと云う〈後から聞けば、この日の供の輩は邸に帰った後、ことごとく罪を獲て三人が切腹した。
在所へ放遂されたり、職務を免されたりとおびただしく、珍しい事変になった〉。

この話から連なって思い出す事がある。
先年、東に上がった時のこと。

江都(本文ママ)に着く前に品川泊まりなので、八ッ頃、鈴ヶ森を通ろうとする時に、供方が申すには、「道ばたに御仕置きのものがございます。
いかが為せばよろしいでしょうか」。
わし曰く「その御仕置きは何なのか」。答えて云うには「梟首でございます」。
わしはすぐに「頓着せず、通ってくれ」と下知した。

するとその前を急ぎ行くと、これも不浄所の法と云って、駕をさし挙げたのだ!!

獄門台は高く構えるものゆえ、駕の窓の所、あたかも梟首と並んでいる首が近くに見えるではないか〈いかなる刑を受けた者達か、十ばかり並んでいた。
台も三間ばかりの長さだった〉

💢陸尺(ろくしゃく)ども、いらん作法だてをして見たくもないものをわしに見せたのだ💢💢

その品は異なるが、両事一般と云うべきだろう。

(注) 本件は 「御仕置き場」と題して一度投稿しています。
 少し訂正してここに採録しました。

水雲問答(4) 武の備え

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(4) 武の備え

<雲>季世に至りて武の備(そなへ)怠らざる仕法は何(い)かが仕(つかまつ)るべきや。甚(はなはだ)むづかしきやに存(そんじ)候。

(訳)
 戦乱の世から時代が経ち、末の世になりますと、武の備えを怠らないようにする方法はどうあるべきでしょうか。
この方法はかなり難しいと思います。

<水>太平に武を備(そなふ)るは何(いか)にも難(むづかしき)ことに候。愚意には真理を暫くおき、まず形より入り候(そうろう)方が近道と存(ぞんじ)候。まず武具の用意をあつくして、何(い)つにても間に合ひ候ように仕(つかまつる)。
そのわけは火事羽織を物好にて製し候時は、火事を待(まち)て出たき心に成候が人情に候。武具備れば、ひと働き致したく思ふも自然の情と存候。
さて武伎も今様通りにては参らず候。弓鉄は生物猟を専(もっぱら)とし、馬は遠馬、打毬(ポロ)などよろしく、刀槍は五間七間の稽古場にて息のきれそ候類(たぐい)、何の用にも立ち申さぬ候。
広芝原などにて革刀の長仕合、入身(いりみ)など息合(いきあい)を丈夫に致し候こと専要と存じ候。是等(これら)より漸々(ようよう)と実理に導き候外(ほか)は、治世武備の実用ととのひ申すまじくと存候。

(訳)
 太平の世に武を備えるのは、いかにも難しきことと思います。これに対する私の真理の回答はしばらくおき、まず形より入る方が近道と考えます。
まず武具の用意を十分にして、何時でも間に合うようにすることです。 そのわけは火事羽織を物好きで製作しますと、火事が起こったときに活躍するのを待つような心になるのが人情でしょう。 このように武具が備わると、ひと働きしたくなるのも自然の情と思われます。(形が整えば、気持も一働きしたいと思うようになるものです。)
ただ、武伎(武術)については、今までのままで良いとは言えないでしょう。
弓鉄は生き物の猟(狩)をするのに専用とし、馬は遠馬(とおのり)や打毬(だきゅう、ポロ:馬術競技)などをするのに使うのが良く、また刀槍は五間七間(9m×13mの広さ)の稽古場では息がきれそうな類(たぐ)いであり、何の用にも立ちません。
広い芝原などで、革刀の長試合をして、入り身(相手の攻撃を外す身の処し方)など息合(気合)の鍛錬をすることをすることが大切です。
このことなどから、漸々(ようよう)と実理に導くこと以外は、今の様な治世において武備の実用を整える必要はないと思います。

(コメント)
入り身は現在「合気道」などでよく使われる言葉です。稽古場で息を切らせて稽古するだけでは、あまり訓練にならないと考えているようです。外に出て、実戦で試合相手との呼吸などを計ることが必要だといっています。

巻之十六 〈13〉 水戸西山公、一枚の紙も大切になさる

水戸の西山公はいつも字を書かれる時、透き切れ(薄切れ)の紙があれば字を傍へ寄せて、書かれるという。

見ていた侍や臣等は、「透き切れの紙は棄てさせたまえ」と云えば、
「すると我が棄てるとこの紙一枚は何の用も立たないではないか。如何ほ多い物でも人の用になるのは支障がないはずだ。一枚の紙でも天の物を冒殄(ぼうてん、ことごとく蔑ろにする)するのだ」とのたまわれた。

またふだん人に物を賜う時は、何にしても露おしみ給うことなかれ、と。

巻之ニ十三 〈4〉 安芸の寺のディウスの画像

寛政己酉(元年、1789年)にわしが東勤めをしていた時、安芸の怒田本郷駅に宿をとった。
ここは寂静という親鸞宗の寺があった。
わしの医師はここに宿をとった。

その住僧が語ってくれた。
『寛永(14年、1637年)に肥前天草一起騒乱(本文ママ)の時に一僧がいましてね。いづくとも無くここに来て説法講談をしました。聴者は日に日に多く集まりました』。

『その僧はついに耶蘇の法をすすめて、信ずる者が多く出たので、領主はかの僧を捕らえ、東武へ送りました。かの僧はディウスの画像は今の本郷禅宗の寺にあると云うのですね』。

この事を語った僧も見たという。
その像は阿弥陀の様にして威霊があったという。
奇聞である。

天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこの様な事があるとは世人は知らない事だ〈『校書余録』〉。

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