続篇 巻之八十ニ 〈4〉 いなば小僧 その2

前編巻之九に、いなば小僧と呼ぶ盗人の事を云った。
このいなばとは、淀の稲葉氏領邑の出身だからという。

またわしは嘗て、もと番頭だった故仙石和州〈和州は淀候から仙石氏へ養子となってその家を継いだ〉と懇意の間柄だったが、かの家中の少女を和州が請けて小姓に置いた。

これが語るのは、この盗人は、幼年2、3歳ばかりの頃、三月ひな祭りの棚に取り付き、立って、下の棚にある煎豆が入った重箱を右手でつかみ取り、左手で取った痕がわからぬ様にして元に戻したという。

その時、居合わせた者共は「怜悧な小児だな」と云っていた。

後に話をすり合わせていくと、『栴檀(センダン)は二葉から香ばしい』と云うが、反(ウラ)の事であったと。
果たして大盗人となったのだと。

人みなため息をついた。

水雲問答(34) 大事、跡あるべからず

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(34) 大事、跡あるべからず

雲:
 大事をなし出すもの、必ず跡あるべからず。跡あるときは、禍必ず生ず。跡なき工夫いかん。功名を喜ぶの心なくしてなし得べし。

(訳)
 大事をなすものは、なにも形跡があってはなりません。跡があれば禍が必ず生じます。跡を残さぬ工夫はどうしたらよいか。それは巧名を喜ぶ心をなくして無心でやるしかないでしょう。

水:
 是も亦是なり。功名を喜ぶの心なきは、問学上の工夫を積(つま)ざれば出来まじ。周公の事業さへ男児分涯のこととする程の量にて、始て跡なきやうに成るべし。然らざれば跡なきの工夫、黄老(こうろう)清浄(しょうじょう)の道の如くなりて、真の道とはなるまじ。細思商量(さいししょうりょう)。

(訳)
 これもまた是(ただしいこと)です。功名を喜ぶ心を持たないというのは、学問上の工夫をよほど積まないとできません。周公(長い安定した王国「周」を建国した人物)の事業さえ、男一匹としての為すべき度量があって始めて、跡がないようになるのでしょう。跡がないようにすることだけに偏って工夫すると、いわゆる「黄老清浄の道」(中国の戦国時代末期から漢の初期に流行った、何もしない方が却って治まるという黄老道)のようになって、真の道ではなくなります。細かく考えて検討ください。

水雲問答(35) 始ありて終なき

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(35) 始ありて終なき

雲:
 凡その事を処置致し候に、終を量り申すべきこと肝要と存申候。左様候者(そうらはば)大過は之れ無きことと存申候。恐れながら神祖の御事業、小大ともにこの処能々(よくよく)御工夫在為したまい候ことと存じ奉り候。夫故(よれゆえ)の万世に垂れて、御法崩れ申さず候。豊公杯(など)一時の英主に候得ども、一時を鼓舞する迄にて、この工夫疎(うと)く存候。況(いわん)や凡人は事々物々に心附(こころつけ)申すべきことに存申候。

(訳)
 およそ事を実行するときに、その終わりを考えて行うことが肝要と存じます。このように考えますと、大きな問題はないと思われます。恐れながら神祖(家康公)のなされた事業は、大小さまざまな事によくよくこの御工夫がされております。それゆえ、諸国全般に法を執行しても、その法が崩れないのです。豊公(秀吉公)などは、一時の英雄でありますが、一時において華やかに鼓舞いたしましただけで、この終わりに対する工夫が疎(うと)いためと思われます。ましてや凡人は、その時々の事や物に執着してしまうことになりましょう。

水:
 始ありて終なきは、何事によらず慎むべきの専要に候は申(もうす)に及ばず、高論少しも間然(かんぜん)すべき之無く候。されど初心輩に此のことのみ勤めさせ候はば、一事ごと縮みて、手を下すべきの所無き様にも心得ること有るべきにや。縝密(しんみつ)の者には対症の薬石(やくせき)なるまじく、材幹ありて妄(みだ)りに事を為すことを好むものには、頂上の砭針(へんしん)なるべし。是等にも限らず、教誡(きょうかい)も其人により変通なくて協(かな)はざること多きやに存候。

(訳)
 始めがあって終わりがないということは、何事においても慎まなければ成らないのはいうまでもありません。ご意見は欠点などありません。けれども初心者の連中にこの事だけを行わせますと事ある毎に縮みこまってしまい、手を下すことが無くなってしまうようにも思われます。縝密(しんみつ:慎み深い)な者は、病気に対しての薬石(病気に対する薬や治療法)の様にもならず、材幹(さいかん=才幹:物事を成し遂げる知恵や能力)があって、やたらと事を行うことが好きな者には、急所を突いた教訓(戒め)となるでしょう。これらにもかかわらず、教誡(きょうかい:教え戒めること)もその人によって変化に対応していくことができず叶わないことが多いと思います。

(コメント)
頂上の砭針:砭針(へんしん:お灸の針)で、頂上は頭の上なので、頭の頂上にさすお灸の針・・・人の急所をついて強く戒めることをさし、ここでは急所を突いた戒め(教訓)の意。「頂門の一針」と同義語

巻之十九 〈17〉 足利将軍13代の像

この頃ある僧に聞いた。

相国寺の中の等持院に足利将軍13代(義輝、1546~1565)の像があって当時の物だった。

十余年前、院から火を出した(文化5年、1808年)。人々は狼狽して、その像を池に投げ入れた。

火は鎮まり、水中から取り上げてみると、その像は塑像(そぞう、土で作った仏像)だった為、みなみな損壊していて姿形が残らずと。
実に惜しい。

巻之十九 〈19〉 才能

世に名高い人は、才能も優れた所がある。
服部南郭(はっとりなんかく、江戸中期の儒者、1683~1759)に酒宴の席で、伎楽の小曲によい歌詞をのぞんだところ、唐詩を訳して示すと、満坐は拍手して感賞したと云う。

 路のほとりの青柳を、あれ春風が吹わいな、
 わしが心のやるせなさ、
 思ふとの子に知らせたや

これは、唐詩の『陌頭楊柳枝、已被春風吹、妾心正断絶、君思何得知』の訳である。
また妓女扇を出して染筆を乞うと、大江千里月、小野小町花と書いて与えたと〈一説には、下句を春道列樹山と云う言い方もある。どちらが是なのか〉。

また俳人の其角(宝井其角、1661~1707)も宴席で、その頃の名のある書家と同坐して、様々な物を書き、終わりに金屏風を出して書と句を乞うた。
「酒を過ぎてはや腕も疲れたので、ゆるされし」と云うのを、「是非!是非!」と云えば、「それならば」と『此の所小便無用』と書きつけた。

乞うた者は甚だしく不興に見えたが、傍から色々おだてて、密かに其角に「改めて書いてくだされ」と云うと、其角はその場で筆をとり、その下に『花の山』と3文字を加えると、「さすが其角よ、一句よ」と満堂感嘆して興ぜたと。

また狩野栄川院〈典信 みちのぶ、1730~1790〉は、一侯家で席画(会合で注文を受け即座に絵を描くこと)の折に、白木箱に納めた百人一首歌留多を持ち出して、「箱に何なりとも一筆」と所望があったので、すなわちゆりの花を色を着けて描いたという。
百合と云うにおいて考えつくのは、はたらいたことである〈林話す〉

水雲問答(36) 勤(つと)むるは善

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(36) 勤(つと)むるは善

雲:
 人生は勤むるに成(なり)て、怠るに敗るることは申すまでも之れ無く候へども、勤むるは善きと知りながら、怠り易き者に之有り候。且(かつ)識(し)ればいつにても出来る迚(とて)、勤に怠り申す類毎々(つねづね)有り候。天下一日万機に候まま、日新の徳ならで叶なわざることに候。小人の志を得申候も、多くは此処(ここ)より出申候。力(つとむれば)能く貧に勝つと申す古語、面白きやに存じ申候。 聊(いささか)のことながら大事に存候。

(訳)
 人生は勤むる(努力する)ものが成功し、怠ける者が敗れるというのは申すまでもありません。しかし勤める(勤勉に努力する)のが善であると知りながら、人は怠りやすいものです。また、そんなことは知っているからいつでも出来ると思い、努力を怠ることがよくあります。しかし天下のことはたった一日でいろいろなことがおこり、何時何が起るかわかりません。日新(日に新たに)の心がけでなければ叶わないものでしょう。小人(つまらない者)でも志しを得るのは、ここから出ます。努力をすれば貧に勝という古語は大変良い(面白い)言葉と思います。些細なことのようですが大変大事なことと思います。

(コメント)
・日新の徳・・・「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たにして又日に新たなり」(大学)
・力(つとむれば)能く貧に勝つ・・・「力むれば能く貧に勝ち、慎めば能く害に勝ち、謹ねば能く禍に勝ち、戒むれば能く災に勝つ」(説苑:ぜいえん)

水:
 いつも出来る迚(とて)為(せ)ぬは、学人の通幣に多き者に候。小人栖々(せいせい)として勤め、それが為に苦しめられ候こと、昔も今も同様に候。鶏鳴而起、孳々(じじ)として善を為すは切近のこと候へども、余り手近過て知れたることよ迚、空く光陰を送り候こと、我人ともに警(いまし)むべきの第一たるは勿論に候。貴人、尚更勤(つとめ)ぬ者に候。此くの如きご工夫面白く存候。

(訳)
 いつも出来るからといって行わないのは、学問をする人のよくある悪いくせです。小人(世間一般の人)がこせこせと勤め(努力し)て、その事によって苦しんでいることは、昔も今も変りません。鶏鳴而起(鶏が鳴く声を聞いて起きる)、孳々(じじ:努力し励む)として善を為すということは誰にでも切実なことですが、あまり手近か過ぎて、わかりきったことだとして、うかうかと時を過ごしてしまいます。これは私も含めお互いに注意をしなければならない(いましめるべき)第一です。またこれは地位が上の人ほど努力しません。このような工夫のご意見は面白く(良いと)思います。

(コメント)
・鶏鳴而起、孳々(じじ)として善を為す:これは孟子の言葉です。
 孟子曰、
 雞鳴而起、孳孳為善者、舜之徒也。
 雞鳴而起、孳孳為利者、蹠之徒也。
 欲知舜與蹠之分、無他。利與善之閒也。

(鷄が鳴くと起き、勤勉に善をなす者は聖人(舜)の徒である。
 鷄が鳴くと起き、せっせと利益の為に行動する者は蹠(せき:足の裏=盗人)徒である。
 この舜と蹠との違いを知ろうと思えば、ほかでもない、目的が利害であるか、善であるかを知ればよい。)

巻之十九 〈20〉 月を詠む、あれこれ

また話す。
仲槃〈長村鑑、字仲槃〉は詩歌風の趣をよくわかっている漢である。

月夜にわが宅へ来た。
対坐して月を見ながら語る時に、わしは言った。

「詩歌と同じ事というが、月の趣を尽くすのは、詩よりも歌の方が優れている事は多いと思う。
だから古人が詠む月の歌数百首を採録して帖にして、月夜に当っては、時に出して吟詠して楽しんできた」と云った。

仲槃は感じ入いったと讃えてくれたが、その折に「いかさま杜詩の『斫尽月中桂、清光応倍多』と賦せる(詩を作る)より、『久方の月の桂も秋来れば紅葉するばや照増るらん』というよみ方は遥かに勝っておりますね」と云うのは、実によくその趣を了解した答えである。

今またこの様に話し合う人も少しと、林子も悲嘆する。
時にまた話す、近藤孟卿〈吉左衛門と称して奥御右筆組頭〉も俗人であるが、歌を好み、折々は続いて出るうたにも見るべきものもある。

ある時わしは云った。
「月の唐詩に、『水国輝華別、詩人比象難』と云う句を挙げて、いかさま山の手と水辺で、月の光り輝くは大いに違うものだ。
如何様に晴れ極まっても、水辺は山の手ほどには澄み渡らぬものなるを、よく言いおおせたり」と云った。

孟卿は速やかに解して、俊成卿は、

住わびて身を隠すべき山里に
    あまり隅なき夜は月哉

と詠んだのは、山月の清朗甚しさを、よくあらわしていると答えたのは、一時のことながら心に留まって、年を経ても忘れずにいると物語ったのだ。

巻之十九 〈21〉 烏丸卿の弟子の歌

また曰く

烏丸光広卿(江戸時代前記の公卿、歌人、能書家。1579~1638)の弟子が、8月14日夜の歌といって、

 あすの月をこよひの庭に出て見よ
      命もしらず曇もやせん

とあるのを光広卿は、

 名にしおふ月はこよひにめでて見よ
    身は浮雲のさだめなき世に

この様に詠むようにと云われたという。
歌も詩も、この心得のみの事である。
よくよく咀嚼したいもの。

巻之十九 〈22〉 矍鑠(かくしゃく)と生きるお殿さまたち

また林曰く。
今より3代前の秋元但馬守は御役を勤めて1度引いて、また再び勤めた人である。
妾の年齢が25歳に満ちると手当てして縁付けする。
少より老に至るまで幾人もその様に扱ってきたという。

その意図は、人情はたとえ夫妻に於いても、そのはじめの容色に愛する所があれば、終まで長久なる者である。
30歳も越えて容顔も衰(おとろふ)れば、自ら(女性自身の自分に対する)の愛情が薄くなっていく。

人の生涯に係ることなので、早く縁付けするがよいと言われたという。
実に仁人の用心と言えるだろう。

またこれも今より3代前の鳥居丹波守もまた重ねて勤めた人である。
中年に夫人が病で亡くなった後、継室も無く常日頃は表住居で、妾を長屋に置いていた。

公私閑暇の時に、その長屋へ行き、厨下から酒食を運ばせ、弦歌酔飽して帰られる事が折々あるばかりだった。そうして一生を送られた。

色に溺れず、女人にまみえる筈も無く、かつその身の摂生にもなる一種の趣向でこそあるだろう。

それ故にか、齢高きまで矍鑠の様子は、目の当たりにした。
何れ重い任務をも勤めらる人の大衆に優れた所は、何かに就て有るものである。

水雲問答(37) 快活に事をなす


雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(37) 快活に事をなす

雲:
 凡そ事を做(な)すに、快活に致し度候。譬(たと)へば千金の賞を与るにも、嗇(おしむ)の心あるときは人恩に感ぜず、一毛を抜て与るも、誠意なれば人感服す。同じ品にても、此方の致し方にて人の心に徹底せぬことあり。。譬(たと)へば倹素の令を下さんと為るに、俗人とかくに蹙眉(しゅくび)して事を做(な)す、故に敗(やぶる)こと多し。豁然(かつぜん)として做(な)さば、人服すこと疑なし。人を使うも、活かして使い、殺して使い申候とは雲泥の相違に候。此所深意思あり。恐れながら徳廟の上意に、人は困りたるときうつ向く者は役に立たず、困りたる迚(と)て仰(あ)を向く者が役に立つと。信(まこ)とに恭感仕候。

(訳)
 およそ事を行う時は快活にいたしたいと思います。たとえば、千金の賞を与えても、どこかケチケチした心で与えても人はその恩を感じませんが、一本の毛を抜いて与えるとしても、そこに誠意があれば人は感服します。同じ品でもこちら側のやり方で人の心に徹底しないことがあります。たとえば、質素倹約の令を下すときに俗人はとかく眉をしかめて(けちけちして)令を下すものですから、成功しないことが多くあります。これを豁然(かつぜん:心の迷いが無く開けている様子)として行えば、人は必ず従うでしょう。人を使うのも活かして使うのか、殺して使うのかでは雲泥の相違があります。このところは大変大切なところです。恐れながら徳廟(将軍吉宗公)の上意に、「人は困った時に下を向いてしまう者は役に立たず、逆に困ったときに上を仰ぐ者は役に立つ」と言われていますが、まったくもって恭感させられるご意見です。

水:
 是は我精神の備(そなえ)と不備との差別に候。快活にするとても、人を服さしめん迚(と)、手段しては人は服さぬ者に候。一盃の満たる精神を打ち出して、人の服不服も頓着なしに為ると、やがて人心服し候者に候。蹙額(しゅくがく)して事を為(なす)は、自から何(い)かが有らんと危ふ意故に候。自から危ぶむことの成就するは稀なる者に候。古(いにし)へは行ひ難きことを行ひおほせ、今人は行ひ易きことを行ひおほせ申さず。精神計(ばかり)にもなく、識の足らぬ所も手伝候。識ある上に精神満ていの者は、何(いか)なる大事をも成しおほせ申すべき。享保の尊喩は百折不撓(ひゃくせつふとう)の所に候はば、かの精神の盛(さかり)よりならでは出来申さず候。識ありても柔弱なる人は何の用にも立ち申さぬ所、又ここの所に候。

(訳)
 これは自分の精神が備わっている(出来ている)か不備(出来ていない)かの差であり、快活にしても、それが人を服させようとする思い(手段)であれば、人は服さぬでしょう。心いっぱいの精神を打ち出して、人が服するか、服さざるかなどに頓着せずに行えば、やがて人は服するでしょう。額にしわを寄せて事を行えば、自分からそれが出来るかできないかを危ぶんでいる事になりますからうまく成就することは稀でしょう。昔の人は行いがたき事を成し遂げておりますが、今の人は容易なことでも成し遂げません。これは精神ばかりでなく、識(見識)が足りないところも手伝っているでしょう。識があって、その上精神がいっぱいに充実した者は、どんなことにも大事を成し遂げることができるでしょう。享保の尊喩(将軍吉宗公の教訓)は、百折不撓(ひゃくせつふとう:何度失敗しても絶対諦めない)の精神であり、このような精神が旺盛でなければ出来ません。識があっても柔弱(軟弱)な人は何の役にも立ちませんと言うのは、ここにあります。

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