水雲問答(38) 赤心を人の腹中に置き、内冑(うちかぶと)を見せてかかれ

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(38) 赤心を人の腹中に置き、内冑(うちかぶと)を見せてかかれ

雲:
 凡そ人は余りと疑ひ申候ては、ことを做(なし)得申さず。疑ふべき者を疑ひ、あとは豁然(かつぜん)たるべく候。尤も疑と云(いふ)もの、もと量の狭(せまき)より起り申候。夫(それ)に我が心中を人の存知候ことを厭(いとひ)申は、俗人の情に候。それ故隔意計(ばかり)出来、事を敗り申候。大事を了する者は、赤心を人の腹中に置(おき)、内冑(うちかぶと)を見せて懸かり申すべきことと存候。

(訳)
 およそ人はあまりに疑いすぎては事を成し遂げることができません。もちろん疑わしいところは疑っても、あとは豁然(かつぜん:からり広いこと)としてしているべきです。もっとも疑いというものは、度量が狭いから起こります。それに自分の心中(胸中)を人に知られたくないというのは、俗人の情です。そのため、人とのあいだに意志の隔たりができて、事が失敗するのです。大事をなそうとする者は、赤心(まごころ、誠意)を持って人に接し、自分の冑(かぶと)の内を相手に見せてかからることが大切であると思います。

水:
 人を疑ひて容(いる)ること能はざること、我心事を人の知らやうに掩(おお)ひ隠すを、深遠なることのやうに心得るは、皆小人の小智より出(いず)ること云うに及ばず候。大丈夫の心事、常々青天白日の如くして、事に臨むに及んでは、赤心を人の腹中に置(おき)て、人を使ふことを我が手足を使ふ如くするこそ豪傑の処為ならめ。学々焉々。

(訳)
 人を疑って許すことができないこと、また自分の心の内をひとに知られぬように隠して、いかにもそれが深遠なことのように思い込むのは、皆、小人のつまらぬ考えから出ているということは言うまでもないことです。
堂々とした大丈夫の心中は、いつも晴れた青空に太陽が輝いているように、大事にあたっては赤心(まごころ、誠意)を相手の腹中に置いて、人を自分の手足のように使ってこそ豪傑の仕業と申せましょう。これを学びたいものです。
(焉:えん・・・文末におき一般的には読まない)

巻之七十四 〈8〉 地震占

昨年屋代(弘賢、国学者。1758~1841)が手に得たと、行智の1枚の紙を見せてくれた。
地震の占いだとあう。つまり、

 日 風 疾 雨 日 風 疾 雨 日 風
 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 子
 疾 雨
 丑 寅

卯以下は日夜の刻である。
日は日和り、風は風吹くである。
疾は湿になるし、天気は曇る。
雨は字の如し。
これに依れば、世俗に
九はやまひ五七の雨に四つ日でり
      六つ八つなれば風と知るべし
というものがここに出ているにちがいない。

三篇 巻之六十ニ 〈3〉 白面舎の九州往き

ある人が云った。
今狸友とあだ名の者がいる。
自ら白面舎と号して、生業は咄で、いわゆる咄家である。

また狸友と呼ぶゆえは、咄の間にその衣をひらき、腹を露わしてはベンベンとして張り、ほとんどその膝を覆う。

席に臨めば、その妻が三線を弄す。
狸友すなわちその音節に合わせて、口小鼓の声(本文ママ)を為す。
腹を打てば、その音は大鼓の様に最似ている。
そのわざは絶妙である。

この人は江都(本文ママ)産まれで、もと卑賤ではあったが、咄を作るに及びかなりの学才の語りを為す。
これより退いて九州に住むという。わしは問うた。
「この芸を持しながら、かつ生国を去るのは、如何ん」。

人は答える。
「全く食に飽きていて、居を安んじる図りであります」。

わしはすなわち黙した。

続篇 巻之四十一 〈5〉 曽呂利、蔵に袋かけを願う

数機屋橋内に永井氏を訪ねた。
主人は庭前の4、5間ばかりの庫を指差して言った。

「糀町の岩城升屋と云う商家に、あれ位の庫程の土蔵がありましてな。度々の火災に遭っても消失する事はありませぬ。その故を尋ねると、常に大きな皮袋を用意して火災と見るとその皮を庫に覆い水を注ぐのですよ。これで消失しないそうです」。

これに就いて思い出した。
今その出典を忘れたが、記憶したままにここに記す。

豊臣太閤はかつて曽呂利新左衛門の滑稽さを愛して普段から身近におかれていた。

ある時太閤曰く。
「わしは汝の才を愛す。依って汝の欲しい物を与えたい。すなわちそれを取らそう」。

曽呂利は答えた。
「かつて望む思いはございませんでした。されども台命には背きません。願わくは紙袋1つに容るる物を賜りございます」。

太閤曰く。
「小さき願いよの。紙袋を持って来るがよかろう。その容るる物を与えよう」。

曽呂利は喜んでその場を退いた。それから曽呂利は10日程出仕しなかった。

太閤はあやしく思い、人を使わし様子をうかがった。
帰って曰く。「曽呂利は袋を接(つ)ぐ事に懸命になっておりました。それで出仕を廃めます」と。

そこで公は人を遣わしてその事を問わせた。
答えはこうだった。「紙袋でございます」。使者曰く。「何の為に袋は巨大なるか」。
曽呂利は答えた。「この袋で御米倉に被せ、御倉の積んである粟を賜わりとうございます」。

使者は公の元へ返って告げた。
公は笑って曰く。「紙袋1つといえばまことにその通りじゃ。されども倉1つの粟は与え難いのう」と大いに笑われたとぞ。

続篇 巻之四十一 〈8〉 寄木

蕉堂曰く。
日頃松波亀太郎のもとで、寄木を見た〈松波氏は御小姓組番士で蕉堂の末娘の婿である〉。
その木は、心(しん)に吉五郎と云う5字が正しく明らかに分かる。

割れ目より窺うと、黒い処は薄さ1歩ばかりもあるようだ。

如何にも偶然と程よくその中を割ると、2つに分かれて一方は左文字である。またその字の通りの木の理は、節の様に成っている。
珍しい。

これは去年〈己丑〉、小日向袋町に住む小普請士の三橋末松と云う人の宅地にある楓の樹を、伐って薪にして採り出せると云う〈三橋氏は松波氏の婿と云う〉。

昔月光院殿降誕なさった時に、その家で薪を割るのに、天下一と云う文字が現れたと伝わる事。
妄誕(あるはずがない)と言えるだろうが、この木の字を観れば、有るまじき事とも言えず。

水雲問答(39) 聖賢と英豪

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(39) 聖賢と英豪

雲:
 天下の大政を秉(と)る者は自任致し申候て掛り申さねば成り申さず候。我が力足らざるを知てことを引き、勝手に致し候もよきことながら、大政を秉るに臨(のぞみ)ては、我が出来ぬ迄も、押付け申候才力なくて叶(かな)はざることに存候。器量一杯に做(な)し申候て叶はざる時は、身退くより外之れ無く候間、自任致し申すべくと存候。

(訳)
 天下の大政を執る者は、俺がやるといった自分の力量に自信を持って臨むようでなければ、やり遂げることはできません。
自分の力不足を知ってさっさと仕事から手を引き、勝手気ままに暮らすのも良いですが、大政を執るという場合に臨んでは、自分では出来ないと思った事も引き受けてやり遂げてしまうという才力がなければなりません。
自分の器量いっぱいやりとげて、万一うまく行かぬときに、身を引く(辞任する)までのことです。

水:
 己を量るの論は前郵に論(ろんじ)候やと覚(おぼえ)申候が、今般の高説は平易の道理にて之れ無く候へども、有為の人、亦此志なかるべからざる所にして、面白く承(たてまつり)申候。然(しかれ)ども是等は万世の訓とすべからず候。其人を得て論ず当た(べ)きの説に候。是、聖賢と英豪との別に候。英豪の見は時として用ゆべからず。聖賢の語は何づくに往(ゆく)として用ゆべからざるは無き所の段階に候。

(訳)
 己の力量を測って事に当たるという論については前の手紙で論じたと覚えておりますが、このたびのご高説は、わかりやすい平易な誰にでもわかるという道理ではなく、志の高い人の議論です。またこの志しが無ければ言えない所であり、面白くうかがいました。しかし、これらのことは、だれにでも当てはまるという訓(おしえ)とはなりません。これが聖賢と英豪の別れるところです。英豪の意見は時として用いることが出来ません。しかし聖賢の語はどの時代、場所などに係わらず用いられないことはありません(使われるものです)。

水雲問答(40) 権は早く握りて早く脱す

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(40) 権は早く握りて早く脱す

雲:
 権の一字、大臣たるものとらで叶はぬ者に候。得るとも、とかく禍の出来勝手の処に候。老子の、客となりて主とならずなど、処世の妙を吐露仕候なれども、時に寄り左様計(ばかり)も申し難く、早く握(にぎり)て早く脱し申候こと、第一と存候。公平にして権を握る禍、何に由りて生ぜんやと存候。

(訳)
 権の一字を考えますと、大臣というもの、いやそれ以外でも指導的立場にある者はみな権力を掌握しなければなりません。
しかしながら権力というものは、とかく禍いが生じやすいものです。「老子」の、「(何事によらず)客となりて主とならず」などと処世の妙を吐露仕していますが、時によっては、そのようにばかり申せませんので、権(力)というものは早く握って早く脱却することが第一と存じます。(権力を私しないで)公平にして権を握れば禍など起こりましょうや。


水:
 是は大に発明の高輪に候。老子の説より教となり申すべく候。

(訳)
 これはあなたが考えつかれたすばらしいご議論です。老子の説よりもっと教えとなるでしょう。

三篇 巻之六十四 〈7〉 鎮信公と金子氏

わしの厩の仲間(ちゅうげん)に金子氏の者がいる。
わしの馬の口付をしてしばしば途話にも及んでいる。
その男の祖は、法印公(松浦鎮信、1549~1614平戸松浦26代当主、平戸初代藩主)の時に、対朝鮮の軍にも従い往った者である。
この者は公の戦場に従い、毎に御馬に添って立っていた。
すでに戦に臨んで、公は御馬を馳せようとなさると、御轡(くつわ)をつかんで放さない。
公は怒り、「離せ、離せ」と仰っても離さない。
「まだまだ」と云って動かない。
公はますます怒り、御采配で頭を撃たれた。
それでもはなさない。
要はその機会に至るのを見て、「今(サァ)」と叫んで御馬を放った。公は即座に敵を突き、即ち勝たれた。
またこれに限らず、先陣の戦で公の意図に協(かな)わなければ、「鳴鳴(アーアー)」と高い声を出して、御幣の柄を咬まれる事が度々あったと。
因みに御幣の柄は竹で出来ているが、御歯の痕がことに多く着いていたと云う。
今その物は伝わっていない。恨めしい。

またこの金子は先陣にあって、公は夜に入れば毎に屯営を巡られた。
この時の金子は毎に御馬に随いた。
公自ら松明を持って御馬を進められた。
時が移ると松明の燃えさきは闇い。
その時はいつも金子の頭で、燃えさきを僕(うち)払い、光を出された。
その若さにより金子の頭は火の為にかたまって、ほとんど焦土の様だったと。
主従の勇剛に想いを馳せてみたい。

◎上の事をある日宗耕に語ると、はたして神祖(鎮信公)にも御拳で御鞍の前輪を叩かれるのは御癖で、御先手または諸軍の中、御意の様にならない時は、声高に御指揮があって、御拳で御鞍を撃たれた。
それ故に、御手指(ゆび)の節がコブの様で、伸び縮みが出来づらかったと。
また崩御の御時は、御病故か、御指が伸びて曲がらなかったと云うのですね。

三篇 巻之六十四 〈8〉 川柳句

世には様々な事がある。
以前に西城炎上の後、わしの荘の近くに弁天小路と云う所の旗下人某が川柳句を口占(くちずさ)む。

鮗(コノシロ)を灼いて親父が味噌をつけ

鮗は子之城である。

人は密かにこれを伝えて、漸世に聞こえる。
人は唱誦する。
またこの口占する人は、性質が愚かであり、文才があるとは聞こえてこない。

だからこの様な秀を吐くとは何ぞと、人はまたこれを訝りながらもたたえている。

これはいいのだが、この事が天上に響くのか、その頭より内に意味があって、小普請入りの上、居宅召し上げになって、今はかの弁天の宅は、余人松前氏の宅となった。

上の川柳句は、川流の淵瀬であるという。
これは別ごとになるが、また柳の一句。

始め小六後は御大緑

巻之ニ十六 〈1〉 御腰物ためし

徳廟(家康公)の御時に新しい刀をしばしば命じて試されていた。

試したまま刀を出す様との御旨で、骨を通した刃の様子、膏(脂やラード)が着いた鉄の色までも微細に御覧になった。

御傍に侍る輩は汚らわしき事の様にいうものもあったが、「武に穢れと云うものはない」と仰せられたとのこと。

以前は御腰物ためしに奉行が行くと、着服を改めて登城したものだった。

だが今ではためしを(徳廟が)見届けた時のままだと云うので、(着服を改めず)すぐに登城する事になったという。

今70余歳で御作事奉行を勤める臼井筑前守が、初めて御腰物奉行を勤めた時に、その局中老輩の説にて聞いたと語ったと。
林が語った。

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