巻之一 〈1〉 仏祖寺の十ニ天の像

神祖(家康公)の御鴻勲偉蹟(大きな御偉業)はいうまでもない。
瑣議末事(瑣末な議論や物事)までも、御手が届くのも不可思議だと申すことも多い。

またその中に毎事变化不測で、人意の表に出〈いづ〉ること多い。
甚だしいのは、御好事と申し上げたい程の事もある。

その一つに、備中国仏祖寺に弘法大師唐国将来の十ニ天の像がある。
木版にその像を彫ったものと云う。

仏祖寺の有り様を聞くと、かの十ニ枚の版を長持ちに納めて、それに葵の御紋がある。
これを仏殿の正面に置く。
別に本尊と云うものはなくて、その長持ちに荘厳供養する。

これは十ニ天の板木に御朱印を下され、後の取り扱い方まで、仰せ付けられたと聞こえる。

※ この備中国仏祖寺は現在の岡山県里庄町にある古刹、三部山霊山寺のこと。
霊山寺は、高野山真言宗 備中霊場七十八番です。
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水雲問答(29) 執政に権は必要

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(29) 執政に権は必要

雲:
 執政は、権なきはあしく候。固(も)と天下の鈞衡(きんこう)を掌(つかさど)り申任ゆえ、威権なくて叶はざることに候。
権と申て私を做(なし)申し候ことにては之れ無く候。

(訳)
 執政において権力が無いのは悪です。これは天下の均衡をつかさどるのに必要なことです。相手を従わせる権力(威権)がなければ執政は叶いません。権とは申うせ、これには私心を申すことではありません。

水:
 宰輔(さいほ)は権無かるべからず。権なくては国家を鎮圧するに足りず。若(も)し私心を以て権を立てば、即ち人、其の権を恐れず。矣(い:文章の終わりの語)

(訳)
 宰輔(さいほ:政治を行う者)には権力が無くてはなりません。権がなければ国家を安定して保つことはできません。もし、私心がその権にあれば、すなわち人はその権に対して恐れなくなります。

巻之二十一 〈18〉 伽ばなしの行方

清正の臣森本義太夫の子を宇右衛門という。
義太夫の浪人の後、宇右衛門は我が天祥公の時しばしば伽に出てはなし等を聞かれる事になった。

この人、かつて明国に渡り、それより天竺に住み、流沙河を渡る時鰕(エビ)を見たがことに大きく数尺であったと云う。
それから檀特山(だんとくせん)に登り、祇園精舎をも覧て、この伽藍のさまは自ら図にして持ち帰った
〈今その子孫はわしの内にいる。正しくこれをを伝えている。たが今は模写である〉。

また跋渉(ばっしょう、方々を歩き廻る)の中、小人国に着くとーちょうど小人が一石を運んで橋にしようと架けていたのを、宇右衛門は見て、石を水にわたして橋を完成させた。

小人等は大いに喜び、報酬として多くの果物を与えた。

これも今に伝えているが、年を経た為か、今の話では梅干しの様なものになっている〈初めは沢山だったが、人にも与えて僅かニ三と今はなっている〉。

近頃、ある人の曰く。
これ等が行き着いた処は、まことの天竺ではなく、他邦だと。
流沙河もその本処は砂漠で水がない。
だから我が邦で常に聞くに従って、これを流沙河と名付けたものである。

また山舎の様なものもみな違う所だろう。
かの国にこの類はなお多くある。

また小人国南北の処々にあって、この小人は何方のものだろうか。

如何にも外域、遥か遠く過ぎる地に到るのは疑うものはないが、その頃は世界四代洲の説も未だ開けぬので、もやもやしている。

※ 流沙河(りゅうさが)は「西遊記」で沙悟浄(さごじょう)が住んでいたといわれる河。

巻之十ニ 〈1〉 日光御参詣に掛かる経費

日光御参詣は経費が掛かる。
官吏の某は先朝御参宮の御入用の記録を懐にした。
わしは借りてこれを写した。

安栄五申年四月、日光御参詣、御供人数、御入用金、御扶持方
一、金十八万両      御入用金
一、金四万三千両     被下金
一、十万三千扶持     御賄御扶持方
一、ニ十三万八百三十人  人足  
一、三十万五千疋     馬数
一、三百五十三万四百四十人扶持 御供上下御扶持方
一、雑兵六十二万三千九百人

水雲問答(30) 無用の用

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(30) 無用の用

雲:
 此間仰下され候無用之用の累、成程荘周の名言に候。事に物に心掛け、工夫を仕候。近来考へ申候に、天下の事、有用無用もと相持(あいもち)にて、尽(ことごと)く棄つべからず。所謂(いわゆる)棄物棄才なき道理に候。風月詩酒の類も、工夫に付けて多益を得申候こと、夥(おびただ)しきやに存候。鯨を刺すに、利刀は彼の動(うごき)に従つてぬけ、鉛刀は動に従つて深く入ると承り及び申候て、始めて感悟仕候。大事を做(な)す者は有ると有られぬ者を引込み、時宜に従つて取出し使ひ申候ことと存候。如何如何(いかんいかん)。

(訳)
 この間仰せ下さった「無用の用」の話は、なるほど中国の思想家「荘周」の名言です。いろいろな物事を心掛けて、工夫をしていると、天下の事で、有用無用にかかわらずどんなものでも棄てるものがありません。いわゆる「棄物棄才なき道理」です。風月で詩を詠み、酒を愛するといったようなことも、工夫の仕方によっては多くの益を得ることができます。それも少しのことでなくおびただしいものです。鯨(くじら)を刺すのに研ぎすぎた刀を使えば、鯨の動きによって抜けてしまいます。ところがなまくらな刀は鯨が動くと益々深く入っていきます。このことを最初に聞いた時は感動しました。大事をなす者は有りとあらゆる者を引き込み、時宜(じぎ)に従って取り出して使う(活用する)ことだと思います。如何でしょうか。

水:
 此の大手段なきときは、大経綸は成りがたかるべくと存候。牛溲・馬勃(ぎゅうしゅうばぼつ)・敗鼓(はいこ)の皮までも貯へたるが良医に候。鶏鳴狗吠(けいめいくばい)の客・門下にあれば、其の用を成候時必ず之れ有り候。然(しか)れどもあるとあられぬ者を引込候にも、少しく弁別なき時は人に誤らるるの患その所より発し申候と存候。

(訳)
 この大手段が時は、「大経論(だいけいりん)」は成り立ちません(けちけちした方法では、大きな問題の解決は出来ません)。 牛溲・馬勃(ぎゅうしゅうばぼつ:牛の小便や馬のくそ:役にたたないつまらないもの)・敗鼓(はいこ:破れた太鼓)の皮までも貯えて薬とするのが良医でしょう。鶏鳴狗吠(けいめいくばい:鶏の鳴きまねをしたり、犬の吠えるまねをすような)客(居候)や門下に置いておけば、何かの時に役立つことがきっとあるでしょう。しかし、ありとあらゆる者を引き込んで使うには、その見分ける能力が無ければ時には間違いを起こし、禍となるようなことにならないとも限りません。

水雲問答(31) 原泉溝澮(こうかい)

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(31) 原泉溝澮(こうかい)

雲:
 小子道中にて雨に逢(あい)、雲霧の厚きは雨必ず強く、薄きは必ず微(かすか)なるをみて感ずることあり。基本厚きは必末(すえ)遠し。故君子の学を為すも、博く胸中に蓄積することを務むべし。其物に応て用ゆるとも端倪(たんげい)すべからず。浅露なるときは障支多かるべし。治国の術亦(また)然り。広く衆謀(しゅうぼう)を集めて而(しこう)後作用甚大なり。

(訳)
 私が道中で雨にあうとき、雲や霧が厚い(濃い)時は雨が必ず強くなり、薄いときは雨は微かにしか降りません。これを見て感じるのですが、基本として事案も暗雲が濃い時は先が遠いとおもいます。ゆえに君子が学をなすのも、日々、博く知識、学問を自分の胸の中に蓄積するように務めなくてはなりません。知識を物に応用して用いる時も初めから終わりまで安易に推し量るべきではありません。浅露の時は支障が多くありましょう。治国の方法もまた同じです。広く皆の意見を集めてから行うことは、作用が膨大になります。

水:
 これは『孟子』の原泉溝澮(こうかい)に喩(たと)へたると同一般の意にして、正面の道理なるばかり、何も発明の所を見ず。

(訳)
 この質問は、「孟子」が言った「原泉溝澮(こうかい)の喩え」と同じ内容であり、わかりきった正面の道理でしかありません。何も新しい発見の箇所は見えません。

(コメント)
 この孟子の「原泉溝澮(こうかい)の喩え」とは、『孟子』離婁(りろう)章句下にある話で、
弟子の徐子が孟子にこう質問しました。
 「仲尼(チュウジ:孔子)は、しばしば水について、『水なるかな、水なるかな』と言ったといいますが、水にどんな取り柄があるというのでしょうか。」
すると孟子は次のように言いました。
 「原泉(水源のある水)は、こんこんと湧き出でて、昼も夜も休みなく流れて、溝澮(こうかい:田圃の大きな溝、小さな溝)を満たせば次に進み、全てを満たしていく。およそ本源のあるものは、このようなもので尽きることがない。孔子はただこのことについて感心したのだ。」と
という話しがあります。

水雲問答(32) 光明正大

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(32) 光明正大

 雲:
 凡そ人は光明正大の四字を自修の符とすべし。悪をなし出す、多くは陰柔幽暗(ゆうあん)の処に於てす。陽光明々の地にしては必ず羞恥(しゅうち)の心を生ず。飲酒放縦の楽(たのしみ)も昼間に行はれずして、夜陰に行るるが如し。故に大義を作(な)さんと為(す)る者は、光明正大に身を押出して、我ながら媚弱(びじゃく)の業なし出(いだ)されぬやうにして、一箇の術略を以て処世の妙を顕(あらはさ)ば、古人の如く事をなし得べし。

(訳)
 およそ人は光明正大の四字を修学の御札とするべきでしょう。悪をはたらくのは、多くの場合陰の暗いところで行うでしょう。陽があたって明るい場所では羞恥の心が生じます。飲酒したり勝手なことをする楽しみもまた昼間には行われず、夜陰に行われると同じです。そのため、大義を行おうとする者は、光明正大に身を前面に押し出して、自分からいじけたところを出さぬようにして、一種の方法(手段)をもってやっていけば、古人のように事をなすことができるでしょう。


水:
此の論是(ぜ)なり。ただ立言に病(へい)あり。一ケの術略を以て処世の妙を顕すなど、聞(きこ)へ難きことなり。媚弱の業など何の事とも聞へず。総(すべ)てこれは皆真文にもなく俗文にもなき故、語と意の不都合にて、人を感ずる所なし。やはり答問書などの如く、俗文にしたる方、命意徹底すべし。

(訳)
 この論はもっともです。ただ、言葉の表現に不味いところがあります。「一ケの術略を以て処世の妙を顕す」というのは、すこし聞きがたいことです。媚弱の業などという事もよくわかりません。これらはすべて、漢文体(真文)にもなく、口語体(俗文)にもそのような表現はありませんので、語と意味が符合せず、人も感じません。やはり答問書などのように俗文(口語体)にした方が、命意が伝わるでしょう。

続篇 巻之八十六 〈9〉 星

壬辰(天保3、1832年と思われる)12月望(もち、満月)、初更(しょこう、五更の第一、現在の午後7〜9畤)にふと障子をひらいて視ると、空がよく晴れて円月(満月)が東の方角に明るい。

その光に抑えられて、天に星1つない。よく視ると西の方角に星が1つ白光を醸し出して燿々としてる。
その左下四、五尺と見える所に星が1つある。
光はやや劣っているといえども、月光に消されることはない。

わしはあやしく思った。

それで翌日早くに、司天館の安達のもとに、「昨夜の空は如何なるものか」と使いを出して問うた。

曰く。
「このニ星は、五星(水、金、火、木、土)の2つで上なるは木星、いわゆる歳星、下なるは金星、いわゆる太白でございます。
すなわち、今の様に西の方角に現れ運ぶのを退行と云い、東の方角に見えるのを順行と名付けます。
因みに今は木金のニ星は退行の時で、火土水の三星は、地下にあって、却って昼は天上にございます。
この木金が地下に入ると、火土水星は夜に光を天中に顕すのでしょう。
五星が各周天をめぐるのに大いに遅速に影響があるのでしょう。
だから人が視る時に時々同じでなく、定まることはないのでしょう」。

また曰く。
「この節この様にあれば、来歳極月(12月)にまた今回と同じであるともいえませんね。何十年の後、また今年の空と同じ様になるでしょう。今は予見が難しいですが」。

また曰く。
「かのニ星は、当月五、六日の頃にともに去るのはなく、月の輪の中間にあるとみられます」。

わしの内の者が見たのは、わしが見るよりも前で、ニ星の間はより近かったと云う。

水雲問答(33) 君子剛柔の論

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(33) 君子剛柔の論

雲:
 君子は剛を以て世に立つ。小人は柔を以て世を渉(わた)る。小人剛を用ゆれば敗る。君子柔に隠れて世を渉(わた)らんとするときは、必ず讒険(ざんけん)の為に陥(おとしいれ)らるること、古今歴々たり。剛は剛を以て徹底せんこと可なり。少く禍を避るの心有るべからず。然りと雖も言葉を慎むべきなり。

(訳)
 君子は剛(自分の強い信念)をもって世にたちます。一方小人は柔(あたりさわりのないように妥協しながら)世を渡ります。もし小人が剛でいこうとすると必ず失敗します。君子が小人のような柔で(妥協しながら)世を渡ろうとすれば、必ず讒言(ざんげん)や陰謀などのために、陥(おとしい)れられてしまうでしょう。これは古今の歴史を見ても明らかです。
そのため、君子は堂々とした態度(剛)で、信念を曲げずに徹底して行うことが大切です。少しの禍をも避けようとする心があってはなりません。そうはいっても言葉は慎むべきです。


水:
 君子剛柔の論、尤も当れり。君子柔を以て破るるなど、尤も微妙の真実論、多く聞かざる所なり。敬服々々。これらの論惜(おしむ)らくは一場の説話となりて、雲烟(えん)消滅、此後かな文の答問書の如くして、その往復冊子になすようになさば、下げ札も亦一時のことになく、骨折(おり)て脱破すべし。高明以て如何と為す。

(訳)
 君子剛柔のご意見、ごもっともです。君子が柔(曖昧な妥協)をもって行うと失敗するというのは、最も微妙な真実論であり、あまり聞かないものです。敬服いたしました。これらの論(意見)は、惜しい事に、そのとき、その場だけの説話となってしまい、雲煙(けむり)のように消えてしまいます。そのため、これをかな書きの答問書のようにして、これらの往復書簡冊子にしてまとめたら、下げ札をなどが取れてなくなってしまえば苦労したのがむだになりますので、一冊に纏めるのが良いとおもいますが如何でしょうか。

(コメント)
 このやり取りが結果として現在残った「水雲問答集」となり世に残ったのでしょう。
甲子夜話もそうですが、そこに残されたこの水雲問答もここでその経緯が明らかにされています。

巻之九 〈7〉 いなば小僧  その1

わしが20歳のころだったか。
いなば小僧と呼ぶ盗人がいた。
穴をくり抜く事に長け、うまく人を惑わす。
商家も候邸も入れない所はないという。

だが捕えられない。
これは姿を知らず見えない為。
ある時ついに捕まり刑を受けた。

その拷問、白状する中で、「これまで多くの処に入り物を盗みやしたが、1度も怖くはありやせん。ある時、松平内蔵頭(くらのか、一心斎のこと)邸に入りやした」。

「その寝所に行って、物音で目を醒まされ、何者か!と言われたので、あたしゃ逃げようとしましたよ。そしたら、飛び起き、枕元の鉄鞭を携えて出られる。あれは恐ろしかった。庭に出たのが見つかって、己!何者ぞ!と逃さじとばかり迫られて」。

「夜中ですからね、庭中を逃げ回っていると、急な事ですから築山の木に登りました。闇の中、木の下までは追って来られましたが、これは気づかれませんでした。一打にしようと見逃して、木の下を2、3回って家に入られやした。いや、危ないとこを助かり、その場は戻りやした」と云ったと。

候の在職期間、上野の防火を勤められた時に、出火と耳に入り、単身騎にて行かれた。

その時、筋違御門の辺りか、他の防火の人が集まり列を作る中を容赦なく通ろうとなさると、列の者が「何者か!ここを通るとは!」と咎めた。
そうして左右より候に取り付くと、『松平内蔵頭である!』と云いながら、鉄鞭を振って左右に打ち倒し、馳られた。

これを見て、敢えて止める者はなく、その場を行かれたと云う。

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