三篇 巻之11 〈4〉 『ヤハタ』の森について

聞いた話である。
上総下総の国境の道傍に小森がある。
『ヤハタの森』と呼ぶ。
その裏を看ると向こうへ見通すほどの狭い林である。
以前より、この裏に入る者は1人としてまた出ることはなかった。
人は怪場として、やはた知らずと云った。
その旨は、人は未だこの林の中を知る者はいないと云う意味である。

また聞いた。
かつて水戸光圀卿がこの辺を(お付きの者に)行き過ぎようと、この林の中に入ろうとの給う。
左右の者は堅く拒んだ。
卿は「何ごとかあるのか」と1人入り、出給わるまでに良(やや)久しいことであった。
従行の人はみな色を失った。
然るに、卿はやや有ってい出た。
その顔容はいつもと違う。かつ曰く。
「実に怪しき処であった」と他に言いはなかった。
こうして、後久しくしての給うには、

「かつて『ヤハタ』に入ったときは、その中に白(白交、本文)髪の狐の翁が居たが、曰く。『何たる故にこの処に来ます。昔よりここに到る者は生きて帰ることはありませぬ』。また辺りを見せられたが、枯れ骨が累積しておった。(狐は)指して曰く。『君も還ることはよしとしないが、賢明さを世に聞こゆ。今留まらぬよう。速く出給われよ。復再び来給うな』と云って別れたものよ。この余りに畏怖があってな、(このことは)人に語るには及ばず」と人にの給われた。

ある人また曰く。
「この処は八幡殿義家の陣跡と云い伝わっている」と。
これは『ヤハタ』と称する説だろうか。また果たして真なのか。
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巻之49 〈28〉 京都六波羅蜜寺の清盛公像

京都の六波羅蜜寺に、平相国僧形の像があると聞いた。
それで永昌寺の僧端的が上京するので、見て来るようにと託した。
明くる年に帰って云うには、正しく木像があった。
「その形を写し上(たてまつ)りたく、潜(ひそか)に画者を伴い往きました。かの役の僧の輩は、扉を開けはいたしますが、(拝見は)写真(写真は、1839年にフランスから、1843年にはオランダ船が長崎に写真技術を持ち込まれた)に於いて許されたので、空しく還ってきたのです」。

するとその体は如何にと問うと、
「坐像で長さ2尺7、8寸。右手に経巻を持ち、左手は如意を持っていました。像の眼は経巻を見ている様でした。年月を歴(へ)、塵染みしていて漆の様です。袈裟があるようには見えません。眼は玉を嵌(は)めてありました。破風造りの厨子に安置してあり、その前に遍がありました。平相国清盛公の6字が書いてありました。この六波羅蜜寺の本尊は観音にて、今17番の札所と云います。また本堂の処は古平相国の宅跡でした」と云って伝えてくれた。

因みに『山城志』を閲覧すると、(そこに)云う。
この寺は鴨河の東五条に在り。
天暦五年釈の光勝が創建した。
『元亨釈書』を見るに。また六波羅の第址は、河東五条六条の間に在り。
平の正盛が相伝えて、相国清盛公に至る。
平族は多くここに居れり。疆(境)域広を加うと云う。
これに拠れば相国の宅址は今の波羅蜜寺とは別の処である。
また『集古十種』を見ると、この像を図した。
的がことの様である。
すると的の言い方は暗記の誤りか。
袈裟は図にもまたなかった。

※清盛公坐像の図はありませんでした。

水雲問答(60)  大経綸(だいけいりん)

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(60)  大経綸(だいけいりん)

雲:
 材学究門戸を争(あらそひ)候は申までもなし。王侯大人、政に臨でも門戸の気味合ままこれ有る哉に存候。寛を専(もっぱら)と致し候人は厳を知らず。厳家も亦然り。大小万事一様に致したがり申候は、俗人の情に候。故に大経綸は迚(とて)も出来申さず候。夫(それ)故に大任に当り申候人は、諸事万事残らず我胸中に引受け、才は才にて引立て遣はし、徳は徳にて引立て、勇は勇にて引立て遣はし候はねば、大事業は成がたく候。我一己の智にては、一方の事は出来申ても、八方の事はなし得申さず候。一方に当る才智の人は随分出申すべき、八方に当りて大経綸を致し候者は間気と存申候。韓(かん)魏(ぎ)公経綸を以て人に許さず候は、深意味と存候。

(訳) 材=才
 学問や才能を磨き追い求める人達はいつも門戸(学閥)を作って争うことは言うまでもありません。王侯大人(おうこうたいじん=王侯将相 おうこうしょうそう・・・高貴な身分は、才能や努力などできまり、家柄や血統ではないということ)でも、政(まつりごと)を行う場合にも派閥があることはよくある事です。寛容を主に行うと、人は厳しさを知りません。また逆に厳しくすることを主とすれば、寛容が忘れがちになります。大小の事や物事万事について一律に型にはめて行おうとするのが、俗人の情です。よってこれでは、大経綸(国の秩序を整え治めること)はとてもできません。それゆえ、大任を行う場合においては、一切合切をすべて自分の胸中に引き受けて、才のある者には才を、徳のある者には徳を、また勇気のある者にはその勇気を引き立てて十分に能力を発揮させるようにしなければ(適材適所)、大事業は成し遂げられません。自分ひとりの智力だけでは、一方向の事はできても、八方のことは到底出来るものではありません。一つの事を行う才智を持った人材は大勢います。ただ、八方全てにわたってうまく物事をこなせる人間は殆んど降りません。
韓魏公(かんぎこう:韓琦かんき)は、学問もあり、人材を愛して使ったとされていますが、この韓琦でさえ、「人材を愛して用いてきたが、完全な人物はなかなかいない。だからある所に秀でた人物を使うことで満足しなければならない。しかし本当はどこに使っても安心して任せられる人物がほしいものだ。といったその言葉は、非常に深い意味があります。


水:
 この御論大経綸の深意を尽されて、八音を合せて楽は成り、五味を合せて味は成り申候。何事も一様に致候ほど小き者は之無く候。今の世にてこの意を解し、其の作用候は、彼の海畔(かいはん)の一老翁の外には有るまじくと存候。

(訳)
 このご意見は、大経綸(国の秩序を整え、治めること)の深い意味を尽されており大変結構です。音楽は八音(金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木)がちょうどうまく調和して奏でられ、料理の味も五味(甘・辛・苦・酸・鹹(かん))がうまく合わさって丁度良い味になります。何事も一様・一律に片つけてしまう者ほどつまらないちっぽけな人間はないでしょう。今の世の中で、この意見を理解し、それを実行できるのは、かの海畔の一老翁(松浦静山公のこと)置いて他には居らぬと思います。

注:ここに甲子夜話の作者「松浦静山公」がでてきます。
  やはり当時この2人とも親交があり、静山公は、人物として、とても信頼されていたことがわかります。

巻之7 〈24〉 再び猫おどりの話

猫のをどりの事は前に云った。

また聞いた。
光照夫人(わしの伯母、稲垣侯の奥方)が角筈(つのわず)村に住み仕えていて今は鳥越邸に仕える婦人が語った話。
夫人が飼っていた黒毛の老猫は、ある夜かの婦人の枕頭で、をどるときに(婦人は)衾を引きかついで臥していたが、(猫が)後ろ足で立ってをどる足音がよく聞こえたという。

またこの猫は常に障子の類は自らよく開いた。

これ諸人の知る所だけれども、如何にして開くかと云うことも知る者はなしか。

巻之7 〈21〉 遜(へりくだ)り

佐嘉〈肥前〉弘道館の学生〈松平肥前守〉が隈本〈肥後〉時習館〈細川越中守の学館〉に往くときの話。

弘道館の学生曰く。
「貴殿の邦で、越中ふんどしは、寡君褌と云うや」と問うた。

時習館の学生は即答えた。
「汝の邦では、定めてひぜんがさを弊邑瘡と云うのだろう」。

いかにも便乗な佳対である。


※『寡君』も『弊邑』も自分の側をへりくだった言い方。

巻之7 〈22〉 石1つ

わしの邸に来る石工が、ある日芸樹(樹芸 草木を植えること)のことに与して、大城に入ることがあった。

還って人に語るのを聞いた。

大城御天守台の石垣は殊に大きな石である。

中の四隅の石は、石1つの大きさ9尺余になると云う。

大城の壮観、思いを馳せてみよう。

巻之7 〈23〉 佞有りか

南部、津軽の両氏は、年久しく義絶の家である。
この頃聞いた話である。

両家の吉凶に当たると、津軽氏から必ず告げて必ず賀す。

しかし南部では、拒んで受けず。
使者が有ると言を収めずに返すと云う。

真実か否か。
もし真実ならば、津軽氏の所為は佞(ネイ 心がねじけている)有りか。

水雲問答(61) 英豪の所為と君子

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答(61) 英豪の所為と君子

雲:
喜怒哀楽は人情候へども、その時に随ひて動(うごき)申候は小量と存候。英豪は悲愴(ひそう)惨愁(さんしゅう)の中に処して、かつてことともせず、又富貴に居(をる)にも嘗(かつ)て驕忲(きょうたい)の態(てい)なし。我が分を楽(たのしみ)てことをなし申候まま、禍を福となし、敗に因りて勝を握(にぎる)の手段あり。英豪は無事にこまり申す者に候。悪事にてもあれば、それに因て一大事をなし出し申候者に候。素して行うは貧賎(ひんせん)、富貴、夷狄(いてき)、艱難(かんなん)も自得仕候こそ、君子たる故と存候。

(訳)
 喜怒哀楽は(自然な)人情ですが、その喜怒哀楽の時に随って、ただ行動するのでは器量が小さいといえましょう。一方、英雄豪傑といわれる者は、悲壮な、また惨めな出来事の中にあっても動揺することなく、また富貴の地位にいても少しも傲(おご)り驕(たかぶ)る態度がなく、持って生まれた自分の分(器量を)楽しんで事を行いますので、禍を転じて福となし、失敗してもそれによって逆に勝利をつかむ手段を心得ております。ところが、この英雄豪傑というものは、世の中が太平無事の時には、何もすることがなく困るといった者で、何か悪いことでも起これば、それによって大仕事をする者といえましょう。
それに対して君子は「その地位に素して行い(地位に合せた行いをする):『中庸』」、貧しければ貧しいなりに、金持ちなら金持ちなりに、病人なら病人なりに、夷狄(いてき)、艱難(かんなん)などどのような境遇でも、それに応じて自身が納得した生き方をします。これが君子といえる所以だと思います。


水:
 英豪の所為、大に人意を快(こころよく)すと雖(いえど)も、弊も亦(ま)た多し。帰宿の処は君子は、易(い)に居て命(めい)を俟(ま)つの外之れ無く、故に聖人の千語万語、英豪のする所を以て教(をしへ)とせず、其の意甚だ深し。然(しか)れども聖経賢伝を死看(しかん)して活看(かつかん)せざる者は、気息奄々(えんえん)死人の如き君子となり候。弊も云うべく候。これらの工夫、畢竟(ひっきょう)其人にあるのみと存候。

(訳)
 英雄豪傑の仕業は大いに人の心を痛快にしますが、弊害もまた多いものです。究極のところ(『中庸』に)「君子は、平易なところに居て、天命をまつ以外にない」とあるように、ゆえに聖人のすべての言葉、英雄豪傑のように特例をもって教えとはしませんが、その意(こころ)は大変深いところがあります。しかしながら、聖賢の経書や伝記を古臭いものとして勉強しない者は、息絶え絶えの死人のような君子になってしまいます。そういうのは弊害とも言えます。これらの工夫(心がけ)は、畢竟(ひっきょう:究極、とどのつまり)のところその人自身の問題であります。

巻之61 〈1〉 春のはしめの口占

当年〈乙酉〉の春のはしめの口占に、

春毎にかしらの雪はそれながら
    君のめぐみぞ猶つもりける

この後林氏の文通に、御先手頭役を勤める春日八十郎と云う人は、今年生年80に満つる〈官年は80有余だという〉。
この正月元日妾腹に女子を得て、年頭御札◯、退出の後に、参政衆へ届書を呈した。

己の名を八十(やそ)と云い、齢も80となれば、その女子に名付けて八十(やそ)と云うと南(なん)。

いかちも矍鑠(かくしゃく)たる老人で珍しいことだと。
因みに林子がわしにいうは、「御老侯にも50余より60余にかけて多くの榴房(りゅうぼう、榴はざくろ)福がございました。定めて80に成られる頃までは螽斯(しゅうし、螽はイナゴ、キリギリス等)振々たるものですね」。

春日はこのことを冊首に記され、他年の證とし給えとの言なれば、げにも春のはじめは芽出度祝うことと、その事を注記して、この筆端とする
〈今年も妾2人妊した。1人は富田某、1人は森某〉。

巻之60 〈19〉 クルス

巻之2に、中川氏の紋を『クルス』と云うことを載せる。

この『クルス』は蛮語十字のことでもと『クルイス』と云うが『クルス』転じて『ケレスト』また転じて『キリスト』、また転じて『キリシタ』。
これわが邦に吉利支丹と云うものである。

中川氏の先、瀬兵衛(中川清秀、1542〜1583 安土・桃山時代の武将)の頃の南蛮寺は即この宗である。

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