三篇 巻之68 〔9〕  虬(ミヅチ)

 庚子(かのえね)の8月、塙次書を送った。
その中に虬が天に上がることに触れていた。
また目撃図を添える(写真)。
視るとわしが前に記した近所の竜巻と同じである。

 けれどこれは7月22日という。
前記は12日である。11日違う。
思うに別の処で竜巻が起こったのだろう。
その他、時刻方角は異ならない。

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 その図(写真参照)     東橋逸士芳洲織

 店舗11(1840年)年庚子の秋7月22日、晴れて熱く無風、未の刻(午後1時~3時)前の辰卯の方角(少し南に寄った東)に大柱のような黒雲が昇る状となったが、このようなことであった。

 黒雲の中より虬は尾を垂れて丑子の方角に翩(ひるがえ)り翻(ひるがえ)ると、にわかに大潟雨降になった。
またにわかに本当の晴天となった。
傍観者は多しと云う。
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三篇 巻之68 〔10〕

 これも前の人より贈られた。
採に足らないが、当年の気候を知る一事になれば。仔のようなこと。

 (九州)肥後公之藩より、芳洲公子附まで、書がくる。

  別啓。
あなた様の御気持ちを頂きました。
御国でもそうあるように、近来たびたび地震が起こっています。
昨日などは4度揺れました。
中でも1.2度は余程強うございました。
八代の方、田浦の方の者は、特に強い様子でございました。

 いずれ薩州霧島でもこの荒れた由、評判になりましょう。
何卒大事にならぬよう祈るばかりでございます。

 かつ筑前の冷水峠の近辺では山水に打ち崩し、往来も留まる由、承っております。
〔下略〕 6月22日

 筑前の冷水峠は、わしの領邑の往来にも過ぎる道である。
さして険しい処はなく、山水の被害はあってはならぬ地である。

 如何の変であろうか。
霧島は硫気が盛んになるだろう。

巻之62 〔12〕  人さまざま

 ある宴の席で聞いたこと。

美作(みまさか)の一諸侯が観世の弟子なので、その宅に行き、しばしば能を見ている。

 わしもかの宅であうこともあるが、この人は他侯の筵席で、今春、喜多の輩が舞謡をなすときは、必ず坐を避けて居なくなる。

 観世の所作のときのみ視るという。

嗚呼(ため息)人の愚かな癖なること。
このように甚だしさに至る者もいる。
嘆かわしい。

第87巻 〔4〕 蛇と宝

丙戌(ひのえいぬ)6月25日、小石川三百坂に蛇が沢山集まって重なり合い、桶の様になっていた。
往来の人々は足を止めて見入っている。
その辺りに住む小十人(江戸幕府の警備軍人の役職)高橋百助の14 歳になる小吉という子どもが言うには、この様に蛇が重なる中には必ず宝があるとのこと。

さあ、取ろうと袖をまくり上げ、右手を蛇桶の中に入れると、肘は見えなくなりながら少しの間探して、ついに銭1つを見つけた。
見ると、(それは)篆文が刻まれた元祐通貨銭である。
蛇は散り散りに姿を消していた。
何ということだろうか。

追記するが、田舎ではままあることだという。

第十巻 三一 蚊

観世新九郎が言うには、蚊は小虫だが怜悧だと。
夏夜に鼓を打つとき、しらべ(楽器)を握る手に止まらず、打つ手にとまって血を吸う。
握り手にとまると打つ手にうたれるかも知れないから。
新九郎はその職業で長年経験してきているが、これはずっと変わらないことだ。

巻之30 〔24 〕 女子の旅装

 わしは少年の頃から東武に行き帰りする道中の多くの人の旅行に遭った。
その装いに小々の個性はあるが、まずは似ていた。

 備中で薩州の息女が江戸に上るのに遭った。
調度の長櫃がいくつも持って行き、飾りをつけたものもある。
そのさまは竹を立てて、上は横に結ぶ。
糸を張り、小さい鼓またはくくり猿などを下げている。
竹の末3処には紅白の紙をたちかけにして、長く垂れているのは神弊のようである。

 あるいは紅の吹貫(吹流し、幟)、小旗などがついているものもある。
とても華やかで女子の旅装と見える物である〔『東行筆記』〕。

巻之30 〔35〕  お灸

 かつて田沼氏の執政のとき、その家老井上伊織は殊更にときめいていた。
その1つを挙げると阪大学と云う輪王寺宮の家司が、貨幣融通のことで伊織の宅に行き、謁見を請うた。
が取り次ぎが云うには「主人は出勤前で灸治療をしています。
だから今朝は会うのは難しいです」と答えた。

 大学は「急ぎの用でございます。
如何ようでも会っていただけませんか。
推して目通りを仕りとうございます」と云った。

 「さらば通られよ」と云うので入ると、伊織は出勤前なので継上下を着けて、物に腰をかけ足三里に灸をしていた。

 灸をする人を見ると、御船手頭向井将監だった。
また羽織を持って灸の灰を払っている人を見れば、御勘定奉行松本伊豆守である。

 大学はとても驚きその場を去った。
これは後に大学から直に聞いたことである。
この頃の世態は、聞いても驚くばかりである。

巻之30 〔36〕 鵜、鷺

『東行記』に備前国かが戸と云う処を行けば、長堤がある。
高くして左右に芝生が生え、その上を往来する。右は吉井川である。
川幅広く、底も深い。

 その左を見ると、渡しの丘に神の祠がある。
四面に松が生えて、みな喬木である。
その木の末端に鵜、鷺が棲んで鳴き声がにぎやか。
路の祠を去って数町余り歩いてもその声がよく聞こえてくる。

 またニ禽は共に巣を成して、子を育てるさまは殊に珍しい。
鷺、鵜の白黒が混じって棲むさまは微笑ましい。
されど共に水禽なので、漢土の鳥鼠洞穴よりは類を同すると云えるだろう。

 この鳥の糞は条幹に被り白色雪景に似ている。
さしもの大木みなこの為に枝葉剥落して枯れ木のようである。

 またこの神の祠は、長船明神(おさふねみょうじん)と云って鍛冶の神と伝わる。
後に『煙霞綺談』を見るとこのように云う。

 備前国長船は、古代から刀剣の鍛冶上手があって、今もその子孫断絶なし。
工人は鉄槌を用いない。
槌に用いる石は自然にあって、昔から山中に入って、大様一年中、用いるだけの量の石を拾って来るという。

第七十 ニ八 学館の印

昔のことが折々に心に浮かんでくる。
国を治めていたころ、江戸屋敷に学館を立てて、子弟に教育を施し武技を日課にしていた。
また生徒の為に書物をいくばくか置いた。
が、丙寅の災い(文化の大火、文化3年3月4日の大火と思われる)にあってしまった。
また就封(しゅうほう〜領地の家督を受けること、場所は平戸と思われる)の始めの頃、学校を興したが、年月代替わりを得て、光輝くわけでもないが、廃止にならずずっと続いている。
これら尚、子孫に続いていくことを心から願っている。
今幸いに江戸の学館の印は灰になることなく残り、封地の学校の印も永く伝わることをここに記す。
予の志は印文に込めていると思ってほしい。

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巻之90 〔1〕  徳廟(家康公)の御時

 徳廟の御時に、御次にある奥の衆が何か雑談する中、尾張殿、紀伊殿、水戸殿などが云い合うのを、いかにしてかその後ろに出させられて聞きしめされた。

 御意には様と云っても済むようになったという。

 小咄だが、徳廟の御こと想像くだされ。
上加藤豫洲入道文麗が語った〔豫洲はこの御代御小姓を勤めた人である〕。

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