続篇 巻之61 〔7〕  通詞に起こった

 今年(辛卯)長崎から紅毛の貢ぎ物を護して出府した小通詞(通訳)今村猶四郎、年は50,わが荘に知るべ(知り合い)の者があったので来て言う。
「某(それがし)は1両年前に養子を迎えました。今17の年の者でございます。某常に戒められるのは、通詞というものは俊才で蛮学に通達することを好まれます。ただ通訳をよくして、御規定の旨を弁ずれば事足りるのです。既に高橋騒ぎのとき、罪を問われ諸家へ御預かりとなった、馬場為八、吉雄忠二、稲部作十などの輩は、みな蛮人の旨を得た学俊の者でしたが、却ってその死が疑わしいのです。それならば職業をこそ保護して、必ずしも俊才でなくとも良いのではないかと」。

 聞く者はもっともだと嘆いた。
また2,30年まえに、通詞名村恵助なる者がは、御禁制なる蛮国通路の旨に背いたので、長崎に於いて磔罪に行われたとのこと。

続編 巻之61 〔8〕  戦と面

 能に長霊癋見(ちょうりょうべしみ)と云う仮面がある。
悪相な面である。
ある日、金剛大夫の方に見物に往き熊坂の能をみたとき、脇の高安彦太郎が桟敷に来て咄すには、「上杉謙信陣中ではいつもこの面を携えて、戦場では冒して出ていたそうそうですよ〔思うに面頬の代わりにしていたのだろう〕。その面は太夫に伝えました。今日用いるのはその模作ですって」。

 尤も異聞とすべき。
軍陣は威貌を尊ぶならば、この面を用いて敵を屈伏させる為でなくてはいけない。
これは蘭陵王の昔の倣いだろう。

 杜氏『通典』に、大面が北斉に於いてい出る。
蘭陵王長恭は、才武がありまた美貌であった。
常に仮面を著して敵に対していった。

 嘗て周の師を金の墉(よう)城下に撃ったが、勇ましく三軍に勝った。
斉はこれを壮(さかん)舞で撃ち、刺す等の戦を表現したのだった。
これを蘭陵王の陣に入る曲と謂う。

 『楽府雑録』に、戯に代わりの面がある。
北斉自ら始まる。神武の弟は担勇があった。
闘戦をよくした。その容貌は威厳がなく、陣に入る毎に、即ち面具を着けた。
後は百戦百勝した〔以上二条『楽曲考』より鈔出〕。

巻之61 (5) 三嶋小女郎と云う魚

 林子の文通に駿府御城内勤番の人から云って来ると、云々を記し、また魚頭のきったのがあった。
(1枚目の写真)。
俗に三嶋小女郎と云う魚は、形が河豚に似ていて、味は平で無毒魚である。
写真の魚の中にも2枚目のように明らかに菊の花葉のようなものは、「未だ見たことはありません」と魚人は云ったそうだ。
またその形の粗は、このように満身に紋がある。
魚の中でも奇品だと。

 魚店で半ぺん、蒲鉾にする魚である。
漢名はまだ詳細ならず。
はぜの大きな形で、河豚のように滑らかな皮ではない。
ほうぼうなどのような皮膚と云う。

 甲州の竹には菱の紋がある。
もと信玄の領地ゆえと云う。
梶原山の篠は葉が切れている。
昔馬の喰うたゆえだと云う。

 するとこの魚は今川の故地ゆえ、このような菊の紋があると云い伝わると。

842_n.jpg

434_n.jpg

巻之61 〔12〕  鬼室集斯の墓

 曰く。
人は諸国を巡歴する者で、その言葉に近江の蒲生西宮と云う所で見たのは、原野の叢中に六角の石塔がある。
彫って曰く。
 朱鳥元年(686年)〔この下に何とかある。
語れるはこのようだとある〕鬼室集斯(きしつしゅうし、7世紀の百済の貴族。
日本に亡命した)墓。

 朱鳥は天武帝の年号、今に至って1040年。
鬼室とは何ひとなのか。
若しくは異邦の帰化した者か。

巻之52 〔8〕 成嶋東岳

  蕉軒が話した。

  8月末のころ成嶋東岳(成嶋司直 なるしまもとなお、江戸時代の儒者、1778~1862年)が、王子詣して雨に逢い、わしの谷中村荘の六閑堂に休憩したときの口号。

  雨そそぐ池の荷葉(はちすは)浪こへて 
     秋風涼し木がくれの宿

 時にとり面白く聞いたことよ。

巻之61 〔13〕  御成りの間に喧嘩

 この正月21日、増上寺に詣る途中、堺町の戯場の前を過ぎた。
これから御寺にいたり、宿坊に入ると食器を持って先に遺た家臣が云うには「某が堺町を通るとき、戯場の前で士1人と家鋪の手廻り3,4人と口論して喧嘩になりました。時に手廻りは、士の両刀を鞘ながら抜き取って逃げました。士は跡に残りましたが、人目恥ずかしくてこれも次いで逃げ去りました」と。
思うにこれは外見のことである。世間の人情胸中このような者は多いだろう。

 また帰途にこのことを探らせた。
すると喧嘩の上搏合(はくごう、叩き撃ち合う)した。
1人の手廻りは士の前から刀の柄をとって引き、1人は後ろから鞘を引いたので、刀と鞘を2人で取り、1人は士の羽織と脇差を奪おうとして、士は羽織と脇差を抱いて裏の家の小路に逃げ込んだ。

 手廻りは後から、「腰抜け士、爰(ここ)に来たれ、来たれ!」と悪口したが、士は見えなくなっていたので、手廻りは刀を持って往くと、自身番から見咎め取り返したと。
定めて自身番から、士の奪われた刀は返されると察するなど、所謂双方は内済になったと。
相手の手廻りは何れも黒羽織を着ていたと聞く。
当日三川嶋に御成があるので、定めて場所詰めの人の供の者だったと。

 *御成り~貴人、天下人、将軍の外出。

巻之43  (1)  琉球人の船行頭

 第38巻に、琉球の使いが東都へ参向のことを録した。

そのとき薩公は陸路から豊前の大里に至り、琉球人は海路を経て赤間関に赴く。
その道はわしの城北の迫戸(せと)を過ぎる。
それで外郭に出て船行を臨んだ。
 
 その図。

320_n.jpg

338_n.jpg

275_n.jpg

050_n.jpg

030_n.jpg

199_n.jpg

637_n.jpg

024_n.jpg

322_n.jpg

851_n.jpg

続篇 巻之34 (7)  念珠の図

 先年、ある人が念珠の図を示した。記して云うには。

 「正蔵院の数珠です。もともとは上宮王の遺物でした。あるいは随土の将来に係る」。

 正蔵院は南都にある。
上宮王は聖徳太子である。
随の元年より、今を距たること1249年。
最も古いもの。

7237_n.jpg

続篇 巻之34 〔9〕  自然の妙態に心服する

 今の観世大夫は、未だ老年に至るぬ男だが、所々で上手とか達人の取沙汰を聞く。

 今年10月5日、御誕生や御祝儀の御能のとき蟻通(ありどおし 能の演目の1つ)をつとめたが、その時のようすを見た者が云うには、楽屋で飲酒したと見えて、酔う事が甚だしかった。
はじめは謡もしどろに聞こえたが、例の様をことごとく略して、殊に瓢逸(世事を気にせず、明るく世間ばなれをした趣)のありさまだった。
以前からこの能はこのような気格はないので、見物人や御簾の内でも、上の方も御感じ方は浅からず、と。

 この脇は宝生新之丞が、これも平凡さを離れ、あれは夫かと云う所でもいつもの様子よりもに優美に見えて、例の宝生の形とは格別にかわり、別段に一向仕手の方を見やる趣もなかった。
自然の妙態をあらわしたとのこと。

 これは奥向きの人の話だが、また別に観世坐の日吉十郎に問うと、両人仕手脇の体(てい)、相違もなくこのようなことになったと。
これは目の当たりで見たとの答え。
またこの能を見た者は、かの伎の輩もみな心服しない者はなかったと云う。

続篇 巻之34 (8)  静の舞を舞う女の話

 前編43巻,90巻に示した、静の後の話。

 これまでに淡路には美しい女がいると世に聞こえてきた。
それは昔からよく聞く話である。
これは最近の話とのこと。

 「浜村某の女子は容色があった。ある日にわかに発狂して我は静なりと言った。そして走り出した。傍らの人が話しかけた。汝が、静女の霊ならば、昔の白拍子を舞ってくださらぬか、と。女は即ち扇を開いて、舞った。

 その神妙さ、目を輝かせて舞った。

やや久しく舞ったところで伏して眠った。
すると2度と神憑りは起こらなかった。
それからというものどんなに舞ってと人に勧められても舞うことはなかった」と。

 以上かの慧門のところの話だと、行智が云った。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1143位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR