続篇 巻之84 〔11〕  世に解せないことも多いが、基本わしは世に疎いから

世に解せないことも多いが、基本わしは世に疎いから

 「今年10月11月の間、天行の邪気が甚だしくて、老いも若きもみなそれに患に罹って回復する者なし。
但々病の軽重は人々によって違う。
多くは咳となって小児の感じやすいものは衂血(はなぢ)を発せることもある。
わしは医にその説はあるが、また解せない所あるがと問うた。
林子曰く。官家でも出仕の面々が長髪を免され、供人は減少、または長髪等苦しきなき由を令(ふれ)られた。

 途中で行列(葬列)を立って往来するのを見ると、徒士から始まった駕脇手廻り等までみな長髪で、喪家の人の往来歟(か)と訝しくなどと、人々は笑っている。
またその後、殿中廻りが済むと〔これは、正午に老中は席々を巡行すること〕、病を押して詰め合う者は、勝手次第退出するようにと令られた。
珍しい程のことである」。

 わしはこれにつき思うに、10余年にも及ぶ。
猫の疫が流行して、野猫、畜猫、みなこれに罹った。
あるいは故無くて忽ち潰し、または屋上にいるものが俄かに墜落して死す。
これは全くその邪に遭ったものである。
この時人は疾病は無い。

 ある人曰く。
1年鼬(いたち)の疾病があって、これも猫と同じかと。
天地間の気は計られぬものである。
林曰く。
牛馬疫のことは諸書でも見た。
小白曰く。
この度ほか邪の流行につき御令等のことは、先年わしが勤めていたときも、これと同じこと両度まであった。
林子も覚えているはずである。
するとこれを珍しいとも云い難い。
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巻之30 〔1〕  如才

 日光山には山中療病院と云う御毉(くすし)があった。

年始に御宮供御の屠蘇を奉り、月々の17日、その外何かおも立てる時は、御宮の石の間に侯じたと云う。 

如在(いますがごとく)の御取り扱い方で、このように設けられたもの、か。

巻之30 〔2〕  名馬亘り

 徳廟の御代に。
亘りと云う名馬あったことはは既に記されている。

 この頃また聞く。
遠く御成りの時に亘りにめさるようと仰るので、御馬役の者は、「亘りはかんが強いので野辺にはご無用でございます」と申し上げるが、苦しからずとめされるが、果たして逸走してしまった。
野辺のことなので御供も追いつかなかった。

 御かげを見失って衆みな色を損した。
このような中で、はるかの向うから戻る御様子が見えるので、人々の顔は喜びに満ちた。
思い思いにそばに駆け寄る。

 時に上意あるときはいかにも善い馬である。
以来野辺には必ずこの馬を出させよとの御諚である。
この後はいつも亘りにめされたとのこと。聞き奉るも御英偶の御ことである。

巻之30 〔3〕  番頭の引き際

 樽屋は江都町三年寄りと称する巨家の一家である。
与左衛門は文化(1804~1818年)の頃官の御金を多く引き負い、数万に及んだことが露顕した。

 時に与左衛門を諫めて自尽(自殺)させた。
時に与左衛門は机に憑(よ)りかかり書き物をしていたが、番頭の言い事はまだすべてではなく、宅前に町奉行所から吏を呼んだ。
与左衛門に御用があるので早く出るようにと云うのを聞いて、番頭は与左衛門の後ろへ廻り、自刃を抜き脇に突き立て、腹を後ろから引き廻して自殺の体になった。

 検死などあったが、自ら罪を知って自死したことになる。
引負1件はほどほどに治って、樽屋の家の退転になならないと云う。
この番頭は町人には稀な武士のような奇特の者だった。

巻之30 〔4〕  蚊に悩む

 わしの江東の隠居は蚊が特別に多い。
夏は晨(あさ)夜にはこれの為に看書執筆も出来ない。
かつて『唐国史補』に云う。

 「江東に蚊母鳥がいる。またこれを吐鳥蚊という。夏は即ち夜鳴いて、蚊を葦叢(あしむら)の間に吐く。湖州尤も甚だしい。南中にまた蚊子樹がある。じつは枇杷に類する。熟したら即ち自ら裂けて、蚊は勢いよく出て、空殻となるという」。

これ等の処はさぞ難儀だろう。
世界には色々の風土があるものである。

三篇 巻之66 〔15〕 高嶋文鳳という女史

 高嶋文鳳という女史はわしのもとにも出入りする。
林家の門人で、頗(すこぶる)学才がある。
書に詳しく、詩を賦(ふ、詩歌をつくること)し、また教義を講じると。

 大城の大奥、貴妃の内に招かれて、教義を講じると聞く。
この婦は、破瓜の頃から男子の情欲を嫌い、潔然と孤立して自若である。

 またその生来を尋ねると、武鑑にも、御酒所高嶋弥兵衛と見えて、その家の女(むすめ)である。
その家ははじめ、神君参州に御座あるころより随(したが)われて、今に至り都下に宅地を賜い、旧来の故で酒造株の外、別に千石の酒造を免ぜられ、今なお別造と称して、無名の酒である。

 わしもしばしば人に贈られるこの酒を試すに、淡であるが厲(はげし)く、褒めたたえるべきだろう。
人またその由来を知り、鳳と識ることがあれば、必ずこの酒を請うて飲なされ。
神君免醸の所である。

三篇 巻之75 〔8〕  潮来の名物藤架(ふじだな)

 都下に云い触らす潮来曲〔いたこぶし〕は、常陸の国行方の郡潮来村の游女が歌う曲〔ふし〕である。
また聞く。
ここの藤花は、とても長くてよく垂れると。
1両年前に、かの地に識人が居て、小枝を求めて園中の池の畔に植えていた。
梢は長じて今春の花は盛んだった。
紫の条は垂れてよく揺れていた。
未だ甚だ長じてないといえども、年歴を想うと蘂’(しべ)の尺はなお察するものがある。

 また嘗て、外で潮来の婦人に逢った。
年は大体50余りか、わしは問うた。
「汝の里(ところ)藤は如何かな」。
婦曰く。「8尺(1尺は約30㌢)ほど垂れております」と。

 またある人が云う。
「かの地の村の店があると、多く藤架を構えて、その花下に床(ばんこ)を置いて、人が来れば酒肴を出して花底に集まり飲んでいる」と。
わしは思う。
彼処は游里がある所だから、その辺の野店も飲む席を設けるのだろう。

 近頃『鹿嶋名所図絵』の書が出た。
幸いに潮来のことを挙げている。
が、この藤花の説はなく、また絵図にも里の店の藤架のさまを載せていない。
なお識る者について問わない。

 後また、かの地に往った石匠に聞けば、渠(かれ、今の彼)は、わしの居の軒を指さして、「藤架はあの高さに構えていますが、花が地面1尺ばかりの所まで垂れれば、出入りには花が垂れたのを左右に分けて開いて出入り致します。戸に掛けた縄簾のようになるでしょう。但し藤のある所は一家だけでして、他の家にはありませんね」と。
ならば前に聞いたものとは異なるが、藤花が6,7尺になるのはあり得るのか。

 (また『鹿島志』は鹿島神社の図に、宮社の側(ほと)りに、藤架がある。
記に曰く。
御藤は瑞垣の辺に生い栄えて、伸びてひろがっている。
花の盛りの頃負おいは、立ち止まって愛でぬ者はいない。
『詞林采華抄』に、およそわが国は、藤根国と申すそうな。
この則は、鹿嶋明神では金輪際より生え出た御坐石を柱にして、藤の根で、日本の国を繋いでいると申す故である。云々。 

○また、潮来村は、鹿嶋から西2里と見えるので、常習この辺は藤の佳い種を産するかや。)

巻之80 〔15〕(前の14からの続き)  頼朝卿の小ゆるぎ橋

 同時の話に伊豆国に小ゆるぎの橋といってその昔頼朝卿がかけられた橋が、今にそのまま板が朽ちずにある。
この処海へ出る川口で川幅3間(1間=1.818㍍)もあるべく、この山川に渡した橋材は楠の1枚版である。

 この地へは駿州沼津城下から海上10里ばかりもあって、陸路は30里程にも及ぶか。
だが至って嶮(けわ)しい路の難しさ、牛馬の往来も出来ない。

 また小ゆるぎの橋からわずかに1町ばかりもあって、海中に1小嶋がある。
名は印宗は忘れたと云っている。
この嶋は総て岩壁で大きさ2町縦横である。
殊に奇なのは、嶋の山頂は平坦で樹木が生え農圃もある。

 また嶋の腹は三方へ通じて洞である。
舟の往来は自由である。
また山頂へ通じる穴があって引き窓のようである。
因みに明かりを引いて洞の中は暗黒ではない。
だから土人は舟に乗って洞の中に入り、よく海苔を採って生産している。
印宗も舟でこの洞の中をぬけて、かの小ゆるぎの橋に至った。
つまり舟で洞の中に行くとき洞の上に人の話し声もするので、不審に思って舟子に尋ねると、前に記した農圃で農夫の声だと。
印宗はここに至る時は道陸よりだが、還り路は舟で沼津に至ると。

 時は正月の末になり、はじめて富嶽を真北に観て、南海よりをして沼津に達したと。

 この小ゆるぎの橋は、『和漢三才図会』に見ない。
『歌枕寐覚』にも載せていない。
ならば名所でもないのか。
また 『三才図会』伊予国に由流伎橋があった。
『歌枕』にもこの名所を出し、『懐中抄』の歌を引く。
すると若しくは源頼朝卿の、祖予州の故事に因んでこのように名付けられたか。

三篇 巻之71 〔17〕  大御所さま、御不例につき

 旧冬(辛丑)から、大御所公は久々に御不例(貴人の御病気)に坐されたが、御掛念申し上げる御容体でもない。
つまり、この正月15日に、昌成(連哥師)のもとに文音の返辞に、

 大御所様御不快につき、御祈祷の御連歌仰せにつきたりなどと、云い御答えになった。

 「ならばこのような御祈祷の連歌と云うことは、吾輩には不審である。如何なる訳か」。

続篇 巻之61 〔6〕  夢の裏を語る

 ある人が語ったことは、
 近頃ある官毉の何院と称する者が、酒を甚だしく飲み家に帰り休んで居たときに、「御不例(貴人の病の呼び方)につき出るように」と召された。
それで早速出仕して御脉(お脈)を診て、大した御容体でもないので、やや御薬を改めた。
そして家に帰り、その部屋に入るなり、安心の為か忽ち酔いを発して、前後不覚になって床に臥した。

 それから後大奥に入られたが、女員の中から、「その院は、昨夜は御前で不束(ふつつか)なことになったとの由。御容体の窺いは大切な御ことなので、以来の御戒(おいましめ)もあるべきでしょう」と申し上げた。
御諚(おおせ)には、「なるほど、昨夜の某は脉診があったが、それほどの体とも心付かなかった。その上このような戒などは表向きのこと。内向きに言い扱うことではないとの上意である」。

 聞く者はみな感歎して、徳廟の御遺風だと賞したという。これは夢裏に夢を語るの談のみのこと。

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