巻之62 〔9〕清衛と云う鳥の話

 昔、唐山に精衛と云う鳥があった。
その母親が災難に遭って海に沈んでしまった。
精衛は、そのことを怨んだ。
この世に海があったから母を失ったのだ。
「海がなければこのようなことは起きなかったのに」。
己もまた深い海で没してしまった。

 その魂はまた鳥になった。
常に群れる鳥である。
海上を飛行し、土砂を含んで海を埋めようと思っていた。

 今その書を引きたいが、忘れた。
ここをわしはいつも愛でている。
すべて人は君に仕え、国に報いたしという志があっても、この事が成り立たないのを知ってやめるのはこの精衛にも劣るだろう。

 この事が成らないと知っても身が尽きるまで遂げようとするのが想いを立てることといえるだろう。

 精衛(せいえい)の、土砂で大海を埋めようと謀るのは、とても遂げられぬ事だが、母が海にて命を落とした事を怨む志は、億万年もやまぬその想いにわしは心惹かれるのだ。

 『山海経』に、発鳩の山鳥があったが死する。
首は美しく、口ばしは白く、足は赤い。
名を精衛という。
いつも西山の木や石を銜(くわ)えていき、これを東海に沈める(李白の詩にも、区区たる精衛鳥、木をくわえて空を飛び哀しげになく。自らを嘆くという)。
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巻之46 〔22〕  和漢の人、射を学ぶには

 明(1368~1644)の末頃、高頴、字を叔英と云う者が記した『射学正宗』〔わが邦では徂徠国読して、今刊行する〕の中に藁砧と云うものが見える。これは正しくはまきわらである。 

 藁は『荀子』の注に、「藁を以て席と為し、貧しい人の居るなり」と見える。
『易林』に「蝗(いなご)がわが稲を齧(かじ)る。駆けて去るべからず。
実は隠れて有ることはない。
但し空藁を見る」とあるが、わらである。

 砧は『字典』で「農家は草を石でうつ」と見えるが、その形はつまびらかにされないが、その文から観ると、何れもさきぶらにしていて、執り手が有るものと見える。

するとその形は、わが(国の)まきわらに似ている。
すると和漢の人が射を習うには、まきわらを射て学ぶことと同じ。
それにしても国々で形が異なるのは有るんだな。

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続篇 巻之86 〔3〕  近衛基照公と若君

 近衛基照公の冬の季節に和歌の御会があったときのこと。
折節外の障子が開かれていてのを、その坐におわす若君は人を召して曰(のたまう)には、「寒気が烈しい。障子を閉めよ」と。
会が畢(おわ)って、公は人を使わして、「先ほどの言葉こそ心得がない」と仰る。
若君は、「何ごとでございますか」と公の御心を問われた。

 その御答えとして、「『寒くて障子を閉めよ』とならば、ただ『障子を閉めよ』だけで言足りるではないか。
『寒ければ障子を閉めよ』と言葉遣いの多いことこそ口惜しい。
和哥の三十一文字で、多少の妙用ある趣旨は解せないよ」。

 「慎んで敷嶋の道の心掛け疎くならぬように」と、御教戒なされたという。

巻之34 〔2〕  水脈のはなし

 わしの幼年の頃は、江都に掘り抜き井と云うものは少なかった。
本庄の東に宰府天神を移した社地の亀井と云う所の井は亀形の口から水を吐き出す。

 また近所の萩寺と云う所の井、三囲社頭の井、その余処々の別荘、花戸酒店の庭井も、みな沸いて流れているものが多い。

 つまり、わしの中年の前から掘り抜きと云うことが起こり、今では都下では一般的である。
東西にない処はない。

 わしの隠荘にも一井を穿つのに、初めは水のかさ地と等しかった。
それから年月を経て、ここ3,4年は盛夏になると日照りが続くと、本井はそうでもないが、呼井が水を通じないので、みな竭(つ)きてしまっている。 
これは本井の水の勢いが減じているからである。

 因みによそに聞くと、今に至ってはどの方角も水の勢いが減じているという。
井の匠の話では、方々で多くの掘り抜きが続いたために、地下の水量が劣えてこのような事態になってしまったのではないかと。

 さもなければ前に云った本庄の亀井以下の井は近頃、水の出は勿論の事、水は下がってしまって、井の中にわずかにあるばかりである。
阪(ばん)氏〔連哥師〕は新たに宅を卜(うらな)って、庭の中に井を穿つと、水が湧きだした。
その下に小流があるということだ。
これは別の水脈を掘り当てたのだろう。

三篇 巻之20 〔9〕  烏帽子を着して起こったこと

今は御番衆、または諸家の平士、あるいは能役者等が着する烏帽子を 世間では納豆烏帽子というが、古来から折烏帽子と云われ、こちらは本当の名である。そのように諸書に見られる。
さてある人がいうには、この納豆の呼び方は。
慈照院公方義政の頃、南禅寺から檀家へ贈る納豆を入れる曲物の器のその形が烏帽子に似ていたので、世俗では、納豆入れのような烏帽子と云ったので、しばらくは縮めて云って「いたのだという。
如何にもそうあることだろう。この事は、伊勢安斎の集説にもないと思う。

 この事で思い出すのは、総じてこの折烏帽子には、京極折、観世など折り方があるが、京極折は素(モト)京極氏の家流という。

 わしが若い頃、年頭御礼に出仕したが、表高家は無官位なので、折烏帽子に素襖で登城した〔年頭大広間の坐順は、上に御譜代帝鑑衆、次に外様柳衆、この下に表高家の輩が着坐した〕。
すると京極某と云う表高家が、己の家の流といって京極折の烏帽子を着て出て行った。
これに大目付は見咎めて、異様の烏帽子になると、通常のに着替えさせた。

 着て出て行った京極氏も、もちろん不適切だが、咎めた大目付も、もちろん文盲で、是非を言い難い。
引き分け相撲になった。

続篇 巻之98 〔2〕 黒田氏の祖考察

 わしの親族の黒田氏は、かの丹治姓である。
然るにかの居城中(上総)の山上に丹生明神を祭り、江都の邸の中にもこの社を建てて、その祖神として崇祭していると。

 然るに、聞く人によっては受け入れらない者がいると。
その言い方のあらましは、丹生とは、都の辺りに貴布禰と同躰の神で、本社は大和国丹生山下市村に在る。
その魂(カミ)は、伊弉諾尊が、軻遇突智(ヒノカグツチ)を斬り三段(ミキタ)にして、その1つ高龗(タカオカミ)と云う。 
その垂迹(すいじゃく、仏や菩薩が民衆を救うため、仮の姿をとって現れる事)とか云う。
この様にこれを丹治姓の祖にすることはいわれなきに似ている。

 また既に考える様に、『姓氏禄』によると、丹治真人は宣化の皇子から出たとなれば、黒田の祖神は宣化帝を祭るべきだろうに。この様に丹生、丹治に似た為かと思うと、憎言(ワルクチ)かは知らないが、ある人が語るには、黒田の中興直邦と云う人は、徳廟の時にかの御取立てで、初めは寺社奉行を勤めた。
後は閣老までに至った人であった。

 この未だ寺社奉行の時に、高野山の公事にその訴訟をよく判いた功を、野山の学侶殊更に荷恩したという。
今は親族の様に、また黄円を合力することも他にはないほどである。

 これは野山学侶の伝える所であると。
そうであるから高野にも、丹生高野といって、両社はかの山の鎮護なので〔高野の蔵版『野山名霊集』に見える。この書は他にはない〕、この時から丹生明神を黒田氏にも勧請があったのだろう。

然るに子孫に至っては、その勘弁もなく、猥りに丹治の姓と丹生の号と相似しているので、その祖神などと云っていたのか。

 已(すで)に左兵衛入道は某に語るには、「わが祖の丹生明神」などと言っていると。
なるほど系を引くと祖にも逮(およ)ぶべきか。
かの憎言(わるくち)と云ったが、憎言らしくは思われない。
(また『姓氏禄』に、丹比宿禰は火明命かた出ると云う。
『古史系図』によれば、火明命は、天照大神の御子天之忍穂耳命の御子で、その子天香山命である。『図』に曰く。
丹比(タデヒノ)連、襷(タスキ)多治比(ノ)宿禰、蝮壬部首(タデヒニフノオビト)、丹比周敷(タデヒスフノ)連等之祖であると。
するとこの系も、宣化の御流とは派違えり)。

巻之70 〔19〕 千塩楓(チシオモミヂ)

 先年、北村宗匠の物語に、世に『千塩楓』い云って、春の芽だしの紅色なるものがある。
この樹は春のもみぢと『源語』の中に見えると云うのをある日、聞きに人をやったら、『源語』は覚え間違いで『勢語』であった。

 昔、男が大和にいる女を見て、 夜ばいて逢ったという。そして程経て宮仕える人だったので、帰って来る道で、弥生(3月)ばかりにかえでの、もみぢのとても面白いのを折って、女のもとに途(ミチ)から文を渡した。

 君がためたをれる枝は春ながら
      かくこそ秋のもみぢしにけり

といってよこすと、返事は京に着いてから持ってきた。

 いつのまにうつろう色の付ぬらん
      君がさとには春なかるらし

 北村がいった。
これは先達の説ではない。
口外しては憚られると思うと。
だがこの説は古来未だ発してないので、千塩楓の考證されたし。

巻之80  〔16〕 小倉侯忠信の故事のはなし

 ある人が云った。
隈本侯(細川氏)の旅行の駕籠は延べ鉄包みである。
不慮の用心であると。ただし実は否かは定かではないが。
わが肥州(静山公の御子息)の行旅に従う傭興夫が、かの侯の駕籠を舁る時に殊に重く見えたと云う。

 すると前節に符うようである。
また一説に先年殿中で狂った板倉の子孫を仇とするならば、それゆえに延べ鉄包みになったのだろう。
この説、笑える。幽、三以来、意味があってこのようにされたのだろう。

 また観世新九郎は語るには、小倉侯(小笠原氏)の旅行の駕籠は、左右の戸がみな縠張(モジハリ)である。
新九は迎送して親しく見た。
その故を尋ねたら、かの祖は大阪の役で神祖(家康公)に従ったので、戦場で数ヶ所の創(きず)を被った。
創が癒えてから、あと発熱して堪えがたくなっても、信州の寒い国から往来するので遂に家風となった。
それで今もその制を用いているのだという。

 因みに『藩翰譜』をみると、侯の祖源忠真は秀政の次男、大御所の御外曽孫である。
年18歳、いまだ大学助と云う時に、父と同じに大阪に向かい、5月7日の合戦の敵と戦って、あまた重傷を負い、首を数多斬った。
それで並びなき高名を得た。
また父信濃守は領する信州松本の城から、寛永9年(1632)に豊州小倉の城に移り、後また嶋原にて戦功があった。

 寛文7年(1667)冬卒したと。
年は72だった。

 すれば新九が語ったのは、この事で、小倉侯の祖、侍従右近将官監忠真からの故事である。

巻之96 〔20〕  米沢侯の家風に心打たれる

林子曰く。
人の応対ぶりは大事なるものである。

 聊(いささか)のことにもその程に協(かな)い、体(てい)を得るのは見るたびに聞くものである。
近頃米沢侯(上杉弾正大弼斉定)の招きに赴いたとき、談話の次いでに、この4月13日御大礼登城の咄が出た。
侯の言に、家督以来参視交替の都合で、これまで1度も堂上方を殿延で見たことはなかったが、この度初めて装束出仕の様子を見た。
その容止閑雅、周旋度に対して、行儀の整った所に感じ入ったと。
吾輩の冠帯は、野人の沐猴(もっこう、猿が冠を被って人真似をしている)のようで、冠すると云われたことが思い出されて、恥ずかしいと申されたのは殊勝に聞いたものであった。

 米沢の家は、3世以前鷹山と号され世にすぐれた人であったので、その後2代引き続き、その法を守りその風を継いで家声を墜させない。

 今も善政美事共に多い。
われは常に列侯の家を往来する中、実に推服するのはこの侯の家風だ。
いいたいことが沢山あるので、いつかまた記そう。

巻之96 〔19〕   大事な資料を残すこと、閲すること

 『遠碧軒記』に云う。
「天野山摩尼院に楠の軍書20巻があるのをある人の指図で、大猷院殿の御時、南光坊をたのんだ。
修理再興を訴訟にして寺僧は江戸へ下った。
この20冊を寺中の摩尼院へもらわれた。

 しかし再興はととのわず、この本も南光坊にとられたか、または上ったかあらましがわからない。
江戸へ遣わす際に本田飛騨殿は一通りうつさせてこの寺につけられた。

 飛騨殿はここを信仰され色々の施物もある。
この本もやたらと出すなと申されたので外へは出さず。

 本多飛騨の子は、作左衛門と云って水戸の刑部殿の婿になるはず。
今は〔延宝5年(1677)〕16,7歳の人である」

 とするならこれも今に至っては151年も前のことである。
この楠子の書20巻はどのようなものなのか。
本物も写しも所在が知られていれば、尋ねれば手にすることが出来たのだろうが。

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