巻之11〔22〕  茶道、不昧流

 松平不昧(ふまい)は(雲州侯出羽守治卿。引退しての名)茶に名高い人だとよ。
ある時、芝辺の茶店で憩われたとき、その釜を見られたんだと。
そして「これぞ真の蘆屋釜よ」と曰れたんだね。

 店主は大いに喜び、他日そのその釜の箱を作って、不昧の邸に持ってきて、「蘆屋釜と銘を書いて賜りたく存じます」と請願したと。

 不昧は拒まず留め置くおくこと数日経った。
店主はまた来て、「書いてくださいよ~」と促した。
不昧曰く「わしは書きたいと何度も思ってるんだけどね、心がすすまなくてね。で、まだ書いてないんだよ」。

 店主はまた来たけれども、未だ出来ないということで、遂には銘書はならなかったというんだね。

 またこの茶店には、不昧が蘆屋と鑑定された釜は如何なるものかと、日々賢愚老少が多くやって来たんだと。
それでこの店はこの為に多く銭を得たんだと云う。

 実は不昧の戯れでね、真の蘆屋ではなかったものを、そういわれたというわけ。
箱書き付けしては、これは失蘆になるからね、そうしなかった。

 その茶店はこの為に利を得たけれどもね。
この侯の高名なこと、推して知るべし。

 今は不昧流といって世に一流の茶道が立つほどになったんだとよ。

巻之44 〔12〕  両国橋の渡り始め記録

 すでに12巻、14巻(お稽古ではまだ)に、橋の渡り初めには長寿の者が先ず渡ると云うのは、俗の伝えの誤れる由を云っている。
然るに昨冬(文政6年、1823)、両国橋の改造があって、橋開きのときは、長寿の人が渡り初めた。

 聞くとこの橋に限って、例えはこの様にと。
 そもそも日本橋も古い橋だが、両国橋のかかる川をはじめてわたるとき、このようになされたというその例を引いてみよう。

 12月20日(前日である)改造見分けの人々。
 町奉行 榊原主計頭
 御勘定奉行 曾我豊後守
 御目付 大草主膳 新見伊賀守
 御勘定吟味役 服部伊織 御徒士目付1人
 御小人目付1人 町与力2人 同心4人

 12月21日(当日である)出役の人々。
 御普請掛り 榊原主計頭 大草主膳
 同掛り 町与力2人 同心4人

 この人々が橋を渡って引き取った後、老人東西の隣町、町役中同道して、東から西へ渡り、また東へ還って終わり。それから往来の人を通した。

 長寿の人 麻上下着     長右衛門 未 91 
 妻    総模様かいどり着 須喜   同 80
 上名主岡崎十左衛支配、本八町堀1丁目
 家主万助店のもの
 これからその孫ひこは、平服で長右衛門あとについて渡ったと云う。
 長右衛門子 久三郎 未  60  妻美逎 同 45
 長右衛門孫 卯兵衛 同  31  妻佐和 同 29
 長右衛門ひこ巳之助 同   3  以上3人は深川仲町住宅
 この3歳の小児は母が背負って渡ったと云う。

巻之47 〔25〕  お産の手当と墾田

 奥州の民間では生まれたばかりの子の口をふさぐこともあるんだとよ。
これが取り上げ婆の産所でのことだと。

 そんな事もあるもんで楽翁ははじめて白川へ入ってね、殊にこれを禁じる様に国中に命令を廻した。
民間に妊身の婦人がある時は届けさせて、医者1人と産婆1人を遣ってこれまでの事を改める。
お産のときもまた医者、産婆を遣して取り上げさせる。
但しその手当として1口に金1円2方宛(づつ)を与えたとのこと。

 侯の国事はこの様に心を用いられる。
因みに白川の人別は増えてね、後は新田等も多く開けて、この墾田には、国中の士の3男、4男の輩も、かの地の農となったというのだ。

 尤もこれはとり沙汰であったろうが。

 ※今回の話は、奥州は飢饉等の為に、作物が実らない、食を得る事ができない等の時代背景があった故の口減らしがあった事を先ず記しておきたいと思います(お稽古の書き手)。

・墾田(こんでん):日本の律令時代において新しく開かれた田地をいう。
 当初、墾田は一定期間は私有が認められたのちに収公されることとなっていたが、743年(天平15)の墾田永年私財法により、墾田の永年にわたる私有が認められるようになり、墾田開発の活発化という結果をもたらした。(Wiki.より)

続篇 巻之28 〔5〕  父の遺した言葉

 葺屋町市村座に兄弟俳優がいた。
1を某と呼び、1を夢助と云った。

 大火のとき2人とも早く逃げ出した。

 その父は家財を取り片付けようと火にまかれ、出る事が出来なくなった。
遂に髪は焼け肉は焦げ、骨が露わになってしまった。

それでも万苦して炎の中を脱してゆき、遠く深川に至った。

自身が番所に入って言うのは、「わたしは、夢助 の 父 です。。。葺屋町 よ り ここに 来 ま (した)」。

 すでにこのように身爛頭焦、心身悩乱、将に死に至ろうとしていた。

 願わくはこの状態を我が子に伝えて下さいと云い終わって即、絶した。
いかにも剛き老父である。

続篇 巻之92 〔5〕  太白の暈(金星にかかるかさ)

 癸巳(みずのとみ)正月21日の初更頃、左右の人々が急にわしを招くのだ。
すると太白に暈がかかっていた。
「御覧ください」と云う。

 わしは時に侍婢に舞妓を習わせていたので、「おまえさんたち、よく観て記して置きなさいよ」と云った。
また事があって、記し置くいたものを呈した。
それにはこの様に書いてあった。

 『この夜そよ風が吹いたが天は晴れやかにならず。所々薄雲があって、衆星もその為に明らかならず。つまり金星は独りで暈をなして、その輪は8,9寸の余る。その状態の月にはかさの様ではなくて、菩薩の円光とも云える形である。折節、濛運(濛運国師)の断間に星が現れることもあるが、暈をなすのは金星の1つの耳だと。因みに翌早に人を司天館に遣って、足立某に問うてもろうた。云った。「これは変異ではない。元来光の盛んな星なので、濛気がこれを覆せば、炫輝はその気を推す。ゆえ光芒が生じる」、と。』

 これは暈ではないけれども、星の暈とも云えるので、聞くままをここに記した。

巻之52 〔7〕   古を守るという事は嘆息するものなり

 某が話す。
  ある人の元に出入りの大工がため息をついて話すと聞いた。

  吉原町焼失後の造作。
都下のよろしき大工どもが争って銘々作事するという。
昔は河原者の住む賤しき生業の家作りはすまじと、相応に富んだ工人は皆避けていた。

  かねて郭の中に出入りする工人ばかりその構造をやっていた。

  が今は如何なるよき工人も挊(かせぎし、この字にはもてあそぶの意味を含む)次第にしているという。
利を貪る為のみならず、何屋は誰ぞが作ったというのを見せる事になっている。
工人の風俗もこの様に崩れ壊れてしまったといえないか。

  また戯場の造構も古今の別もその通りである。
偶々工人の老実なる者、古法を守るのは、見る陰もなきまでに貧しく成りぬという。

巻之27 〔7〕  十かえりの花考察

 過日浴恩園の中で生えたと、老侯の自筆で十かえりの花と記した、この図を肥州(静山公の御子息)に贈られた。
肥州はわしに転示したものを写した。

  わしは思うに、これは普通の松の花とは異なる。
たまにこの花が着くこともあるだろう。
因みて、十かえりの花と古人も別称して珍しがって鑑賞していたのでは。

  勅撰集中の歌詞にこれを云うが、その状態はわからない。

  『八重垣』に云う。
十かえりの花は松によめる。
松は1000年に1度花咲という。

 また説。100年に1度,1000年に十たび花咲と云う。

  『和訓栞』に載せていると云々。
今もまれにあるものである。
その花は紺色で、みどりの先に咲くという。
通常の花は年毎に咲く。松黄ともいえる。

  『栞』のいう事も花をよく見たとはいえない。

  するとこの浴恩園のものこそ真とすべきではないか。

 その状態は、『栞』が云うこととは異なる。
『本草』には松黄こことのみ見える。

69967_n.jpg

巻之35 〔24〕   矢所は日に向けてはならぬ

 古人は日に向かって弓を引かなかった。
今は狩りに出て、獲物を見ては東西に構わず、畏敬なしの至りである。

 『保元物語』に、下野守義朝は白河殿に寄ろうと、二条を東へ出発した。
安芸守清盛も同じように続けて寄るが、明けて11日東塞りになるので、朝日に向かって弓引こうという恐れがあると、三条へ打ち下った。
河原を掛け渡して、東の堤に北へ向かって歩ませた。

 また『盛衰記』に、那須 与一が屋島の軍に扇を射ろうとしたときに、扇の紙には日を出していた恐れがある。

 要の程と志して兵どもは放った。 

 思う矢所は違うことがなかった。〔『余禄』〕。

続篇 巻之61 〔10〕  雷による死の検分はいかに

 今年辛卯(かのとう)4月9日に、明日は肥州(静山公御子息)が川崎駅をたち品川へ着くだろうと聞いた。
年々の吉例なので迎えようと、荘を出て品川に赴いた。

 前夜から雨が甚だしく休む間もない。
殊にその日は風をまであって、烈しい。
随行の人の雨衣を皆突き抜け、肌までびっしょりである。

 この日の四ツ半頃(午前11時頃)と思われるときに、雷鳴の一声(ひとこえ)がした。
夕方品川に到って人に聞くと、今朝の雷は、芝新網町にて多く聞かれたという。
その場所は日雇い頭の家で、おりふし出入り屋鋪から人が来て戸口に立っていたが、雷の一声で震死したという。

 1人腰掛けで休んで居た者もまた息絶えた。
それより雷は楼上(2階)にのぼり、楼中の人に当たったのもあって、雷は遂に屋根を穿ち出て、去っていった。

 これはわしの通行の時に当たったら危ないところだった。運よく通れたものだ。

 翌日帰途の赤羽で土地の者に聞くと、「朝、雷に圧死された話はありませんよ」と答える。
それから足を進めて、増上寺門前の茶店で憩いながら、(雷による死を)聞くと、この朝の雷で2人が震死した話は事実であるという。

 このとき官による検屍を請(う)けたが、震死は検使するに及ばない。
勝手にみて下さいとの沙汰だった。

巻之69 〔29〕  竜人の水で腹下し

 先年領国壱州新城村に、60歳ばかりなる諸平という農夫がいた。
年17のとき同国国分新城の村堺の小流三田の川を夜渡ったと云う。
川の水を飲んだが、しきりに腹が痛む。
吐くこと数度、その後髪の毛は云うに及ばず、総身の毛がことごとく抜けたという。
頭の頂は俗に云う薬缶頭と云うものになってしまった。

 不思議なので、妻子は占かたを聞いてきて、こう云った。
「竜人の浴水ば吞んだけん、その罰ば被ったて云わすとさ。」

また里の老人が言うには、「蟒蛇(うわばみ)の噴いた沫ば飲んだけん、その毒に当たったとぞ」。

 この事諸書には、記されていないが、さもありなん。
竜人の浴水は云うに足らずだった。

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
845位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
157位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR